7話 吸血鬼 〜元淫魔の歌い人〜
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ここ最近、マリウスの一日はヨルにたたき起こされることから始まる。
「起きろ起きろ起きろ起きろっ」
馬乗りにされ、頬を何度も叩かれる。
「……るさい」
「うるさいじゃない、このねぼすけ」
ヨルはマリウスに怒鳴りつけると、彼の上から降りて服を投げつけてくる。
「何度も言うが……私は本来夜形だ。それを昼間行動しているだけで、偉いとか思わないのか?」
「ぜんぜん」
ヨルは言うと自身も着替えを始める。二人は同じ部屋を使っていた。ヨル曰く「不用意に一人にすると、お前は何をしでかすか分からない」だそうだ。そのおかげで、滅多なことでは食事が出来なくなっている。腹が減ったといえば、仕方ないと言って鶏の血を持ってきたこともある。
人間で言えば、そこら中にご馳走があるにもかかわらず、本来口にしないようなあくの強い雑草を食えといわれるようなものである。
それぐらいならもうしばらく我慢してと、早一週間がたつ。
「マリウス。メシ食いに行くぞ」
「……私もまともな食事を取りたい」
「しかたねぇなぁ。じゃあ、適当に見繕ってもらうから、それまで我慢しろ」
マリウスは怪しいと思いつつもその言葉を信じることにして、着替えを手に立ち上がる。
──ああ、家で寝たい。
かつてヨルに破壊された我が家。我が部屋。我がベッドが懐かしい。
使い慣れた枕もあったのだが、ヨルの力で部屋にあるものはほぼ全滅だった。枕が変わると眠れないわけではないのだが、ないとどうにも不安になった。
「……はぁ」
物に対する執着など持ち合わせていないと思っていたのだが、時折懐かしくなる。このベッドはただ柔らかいだけでなかなか身体に馴染まない。夜に連れ回されて安物のベッドを使い続けてきたせいだろうか?
「はぁ」
「……お前、そんなに疲れてるのか?」
「すべてはお前とタケシのせいだ」
「ああ……タケシか。お前と顔を合わせるたびに興奮してるからだろ」
タケシと顔をあわせるたびに、恋するに似た狂おしいまでの衝動が生まれる。殺したくて殺したくて殺したくて。とにかく殺したくてたまらないのだ。
彼の初恋とて、これほどの思いはなかった。
この世で最も強いのは憎しみだ。愛よりも、友情よりも、嫌悪よりも。憎しみ。
「ああ、思い出しただけで腹が立つっ」
「お前、ほんとタケシのことになると短気だなぁ。いい加減慣れろ」
ヨルの言葉にマリウスは唇を噛む。正論だった。あれはマリウスではどうにもならないのだ。まさか竜王に逆らうわけにもいかない。
「ほら、さっさとしたく整える」
マリウスは渋々と顔を洗い着替える。その後に装備を整える。マリウスが持つのはレイピア一本だけである。たしなみとして習っていたが、楽しいと思ったことはなかった。元々、暴力は好きではなかったからだ。こちらに来て暴力にも寛容になるなど、少しどころではなく歪んだことは自覚していたが、暴力を好ましく思わないのは今でも同じなのだ(タケシに関わることは例外)。
「んじゃ行くか」
二人の朝はこうして始まる。
マリウスは自らを夜型だと言った。彼はこちらに来て以来、そういった生活をしていた。もちろん、それ以前は規則正しくはないものの極力夜に眠るよう心がけていた。寝不足でクマをメイクで隠すという行為は、当時のマリウスにとっては耐えがたがった。しかし今は気にする必要がなくなった。誰もマリウスを「見ない」し、誰も「寄って」来ない。寄って来ると言えば、可愛い子猫が一匹ぐらいだ。
「ヨル、マリウス君、おはよう」
薫の声が階段からした。彼女は後宮で寝泊りしているのだ。後宮への道は二通りある。地上にある絢爛豪華な廊下。もう一つは天廊だ。城の中枢へと繋がる橋のような高い位地にある廊下である。薫はそこをやってきたので、二階にいた。
「一緒に行こう」
日に日に野生化していく薫は、身軽に階段を一っ飛びした。難なく着地し、マリウスの周りにまとわり付く。
「マリウス君、元気ない?」
「朝に元気のある吸血鬼など見たいか? 朝日を普通に浴びると火傷する身体なんだぞ」
昼の光よりも朝日の方が辛い。理由は分からないが、今はそれが理由で朝は嫌いだった。昔は朝になると一日が始まるから嫌いだった。どちらにしても、今も昔も変わらず朝は嫌いだ。
「そうなの? 大丈夫?」
「ああ。防ぐ方法はいくらでもあるからな。万が一の時のため、日焼け止めを塗っている」
「日焼け止めなんだぁ……」
薫は妙な顔をして呟いた。
何とでも思えばいい。
マリウスは歩き出す。向かうのは魔王陛下のもと。彼女は大勢で食事を取るのを好み、いつもカーティス、春日、ハクと四人で食事をしている。時折赤将軍が帰ってくると、彼女もそれに加わるらしい。最近は側近だけではなく、愛人とみなされている美鈴とフェミナ。異例の出世をしたミシェルも加わった。そして現在、冥王の一門もそれに加わり、かなりの人数がこの食堂に集まる。
その食事がまたすごいのだ。料理人は五人。その料理はいつも素晴らしい。普通の食事に興味のないマリウスですら楽しみにするほどである。しかもワインの美味いこと。
「陛下がね、ミカン用意してくれるんだって」
「ミカン?」
マリウスは首をかしげた。オレンジの一種であることは分かる。日本語はまったく知らないが、分かってしまうのがこの世界だった。完全に訳されるものもあれば、このように字幕映画を見ているような違和感のある言葉を聞くときもある。この感覚は、体験したものにしか分からないだろう。
「小さくて甘くて少し酸味もあって美味しいんだよ。おこたに入って食べると美味しい、日本のミカン。ロマンだよね」
マリウスは理解しかねてヨルを見た。時々薫の事が分からない。
「猫はコタツ好きだもんなぁ」
「そういうのは関係ないよ。ヨルはコタツ好きじゃないの?」
「好きだけどさ。まだそんな時期じゃねぇし」
理解不能な会話を繰り広げる二人を眺めながらマリウスは遠い空を見た。
近いのに、なんて遠いのだろうか。
「ところでさぁ、ヨル。ご飯食べるとき、前から気になってたことあるんだけど、いいかな?」
「何だ」
ヨルは杖をいじりながら気軽に応えた。ヨルは暇になると杖で遊び出す。手元が寂しいからだろうが落ち着きがない。
「陛下と竜王様って、時々マリウス君睨んでるような気がするんだけど気のせい?」
マリウスの足が止まった。
それに関してはマリウスも薄々気付いていた。時折向けられる視線。決して殺意とかそういうものではないのだが、気のせいにしては毎日感じる気がしたのだ。もちろん、誰の視線かまでかは分かっていなかった。他人から見たからこそ分かるものだったのだろう。
「……わ、私は何かしたのか!?」
「知るか」
狼狽して詰め寄るマリウスを、ヨルは冷たく突き放す。大きくあくびをして伸びをしながら歩き出し、時折ごきごきと音を立てて首を曲げる。
憎らしい。いつもはドタバタしているくせに、こういうときに見せる呑気さが憎らしい。
「お前は私のことなどどうでもいいんだな。食事もさせないは、相談にも乗らないは、ろくでもない主だ」
「だから、俺が知るかっての。本人達に聞け」
「恐れ多くて聞けるかっ。青将軍様が誘拐されているんだぞ。そんなときに、そんな事を聞けというのか!?」
「気の小さな奴だな。まあ、春日のことでカリカリしてるのは確かだよなぁ」
ヨルは顔をしかめ、
「今はやめといたほうがいいかもな」
つまり、何もしないと。
──こいつに聞いた私が馬鹿だった。
相談するに相応しい人物を頭に思い浮かべる。
葵。
──だめだ。相談相手にすらならない。おちょくられるだけだ。
ためしもしないで却下し、次の人物を思い浮かべる。アヤと親しい美鈴。却下。あれは相談しても無駄だ。面識のあるミシェル。あれはアヤに出会って三ヶ月程度だ。ヨルの知らない理由を知っているとは思えない。そして浮かんだのは──
──やはりあの方しかいない。
本来ならば相手にしてもらおうと思うのもおこがましい相手なのだが、今は仮にも冥王直下の僕である。話しぐらい聞いてもらえるだろう。
朝食でしっかりとアヤ達の視線という事実を確認した後、マリウスはその部屋に赴いた。冥王という微妙ではあるがほとんどの者が逆らう事を許されない最終手段を連れているので、誰にも止められることなくここまでやって来た。ヨルも気になるらしく、嬉々として協力してくれた。
突然やって来た彼らを、その方は暖かくはないものの、おざなりにすることなく迎えた。何かに悩んでいるらしく、書類を見つめてペンの頭で机を叩く手は止めていないが、決して迷惑だという雰囲気はない。冥王がいるからというよりも、元々面倒見のいいよくできた人格者なのだ。そうでなければ、ほぼボランティアでこのような事をしているはずがない。
大淫魔カーティス。その呼び名に反して、彼はとても生真面目な男である。そのあたり、マリウスと通じるところがあり、マリウスは彼に憧れていた。
ここは書斎、というべきだろうか。カーティスとその秘書である涙の二つのデスクと、中身の見えない棚があるのみ。隣には応接があるようだが、そこまで迷惑をかけるわけには行かない。
「何の用だ? 単刀直入に言え」
誰からも美辞麗句を並べられる優れた容姿と能力を持つカーティスは、尊敬の眼差しを向けるマリウスに対して言った。
昔、何度か彼と話をしたことがあった。目をかけられているという自覚はあった。死ぬまでは。まさか生き返る前にこのように向き合うことになろうとは、当時思いもしていなかった。ただ、元に戻る事だけを考え、しかし女達が死なぬ程度に喰らっていたのだ。あと半年程度。そう思っていたころに、ヨルに捕獲されて今に至る。
「では失礼して。
私は、時折魔王様と竜王様に睨まれている気がするのですが、それはなぜなのでしょう。閣下ならば理由をご存知だと思い、恥を忍んで参りました」
「同じく本人に聞くと絡まれそうだし、こっちの方がおもしろそうだから便乗」
彼は書類から目を上げ、ペンを手を止めた。隣で資料を整理していた涙も手を休め眼鏡を押し上げた。
「心当たりはないのですか?」
涙が言った。黒目の大きな女性で、カーティスの中にある日本人の女性そのものだった。落ち着きのある、幼い顔立ちで大人びた雰囲気の少女だ。
「あればわざわざ相談などいたしません」
涙はカーティスをちらと見る。カーティスは再び書類へと目を落としていた。
「私からはなんともいえないのだが、告白するのを待っているのではないかと思う」
「こ……告白?」
「はぁ? 何を?」
愛でないことは確かである。忠誠心なら言うまでもなく伝わっているだろう。では何を告白しろと。
「お二人はな、音楽がお好きだ」
マリウスは眩暈を覚えた。
「ああ、二人とも音楽好きだな」
かつてのアヤの姿を思ってか、急にヨルは黄昏た。マリウスはそれどころではない。
「お……音楽」
「陛下の歌声は天使のように可憐で、竜王様の弾くピアノの調べは暖かく繊細でいらっしゃる」
天使、繊細。
マリウスは聞き覚えのある単語が頭の中に何度もリピートした。
変わり果てている自覚はあった。成長もあるが、金色だった髪が今では黒だ。緑の瞳も変わってしまった。表情すら激変していた。無理に笑うのをやめた。無理に笑わなくなると楽だった。笑わなければ、暗い顔をしていれば、誰も気付かなかった。誰も何も言わないので、誰も気付いていないだけだと思っていた。そして自分はそれほど有名ではなかったのだと。
「ご、ご存知で……」
「ああ。天使がずいぶんと荒んでしまったのは残念に思っていたが、陛下はそれでも影からこそこそとお前を拝みに行かれていた」
知らなかった。知るはずもない。なぜ、なぜ、
「なぜ影から!?」
「ファンとして直接話しかけるのは迷惑なのではないかと言われていた気がする。陛下達も魔王である以前に、一人の少女、少年であったから無理もない。今もいつか歌うのではと時折監視しているらしい。ストーカーまがいというかストーカーをしていた気はするが、一時期声を聞かれることすら嫌がっている節のあるお前の姿を見て、健全なファンとしてはそっとしておいてやろうという結論を出したらしい」
困惑するマリウスの隣で、ヨルが涙に問いかける。
「何の話だ? こいつ歌手かなんかだったのか?」
「ええ。そうらしいですね。私は洋楽はあまり聴かないので分からないのですが、閣下もアルバムを持っていたらしいです」
マリウスは何かハンマーのようなもので頭を横殴りにされたかのような衝撃を受け、あまりにも恥ずかしさに開いていた窓から飛び出て身を隠した。
恥ずかしい。
バレていないと思っていたのに。
「ああ、やはり話すべきではなかったか」
遠くでそんな声を聞いた気がしたが、憧れのカーティスの言葉など耳に入らないほどマリウスは混乱していた。
「落ち着こう。落ち着け。ああ、ダメだ」
庭園の庭木の陰でうずくまって呟いていた。
知らぬが花とはこのことである。
自分が気付かなかっただけで、実は回りは全員知っていて自分を笑いものにしていたのではないか。そんな馬鹿な考えまで思い浮かんでしまう。少なくとも、気付いたのはほんの一握りだろう。
「ああ、私はなんて愚かなんだ」
うつむくと、目の前に白骨の手と頭が生えていた。
「ヘルメス、何かあったのですか?」
B級ホラーが相応しい容姿には似合わない、涼やかな少年の声が響いた。
かつてマリウスの従えていたスケルトンの一人で、マリウスの心を救ってくれた少年である。生き返った暁は、彼の復活に手を貸そうと思っていた。
ヘルメスとは、マリウスのファーストネームであり、芸名だった。マリウスとは家名だ。親が何を思ってこの名をつけたのかは分からないが、気に入っているのは確かだった。緑の瞳をしていたから、商業の神であり音楽の神とも言われているから。可能性はいくらでもあるが、それを抜きにしても好きだった。しかしその名はそれなりに有名だったので、彼の中で捨てた名だった。
「聞いてくれ、パーン。みんな、みんな私の事を知っていて……気付かなかった私は愚か者だ」
必死で隠していたのに、皆知っていた。彼は自分の知名度のせいで昔散々苦労し、それが原因でこちらに来たのだ。だから自分を守るため、心の安定を図るため、ずっとひた隠しにしてきた。
実はばればれだったと思うと、情けなくて恥ずかしくて、涙は出そうになるし落ち着かない。居ても立ってもいられない。
「みんな?」
「陛下と竜王様と閣下に観察されていたらしい」
「…………それは気の毒というか……恥ずかしいかもしれませんね」
「ああ、私も地面の下で傷が癒えるまで眠りたい!」
「止めませんが、あなたは食事の必要があるでょう?」
鼓動も止まり、息をする必要もない。だから土の中で眠ることも可能だが、食事の不便さを考えると、汚れてしまう土の中は不便である。何よりも、慣れないと起きたときにどちらが上か分からないらしい。
「ヘルメス、誰か来ます」
「ん」
マリウスは意識を研ぎ澄ます。生者の呼吸。若々しく、そして生気に溢れた野性味のある香り。
「マリウス君、みーっけ」
マリウスを発見して、薫がきゃっきゃと笑った。出会った頃に比べると、ずいぶんと明るくなった。ここに来て彼女が生来持つ明るさを取り戻した感じがする。アヤと話をしてから、何かが変わったのだ。抑圧がなくなり目標が出来た。そういう者は生き生きとして人として美しい。
「……マリウス君、泣いてたの? ひどいこと言われたの?」
彼女の心配は心からのものである。
「薫」
手招きすると、彼女はマリウスの前でしゃがみ込んだ。
「可愛いなお前は」
可愛い耳を撫でると、耳をぴくりぴくりと動かした。
「くすぐったい」
マリウスは耳を撫でるのをやめた。彼女の人としての耳を撫でる自分の姿を想像し、セクハラをしている気になってきた。
「マリウス君って、昔歌手だったの?」
「まあ……そんな時もあった」
歌が好きだった。始めは純粋にそうだったのだ。
「そんな時って……ヘルメス」
「ほえ、骸骨さんだ。わぁ、ホラー映画みたいすごい」
意外にも、薫はパーンを見て平然としていた。女の子はこういうものを見ると騒ぎ立てて怯えると思い込んでいたマリウスは驚いた。それに気をよくしたパーンは続ける
「マリウスの歌は天使の歌声と言われていたんですよ。『ヘルメス』って、知りませんか?」
「え……ああ、ブランド品みたいな名前の女の子みたいな声した男の子!」
と、そこまで言って彼女はマリウスを指差した。
「ゆ、ゆゆゆゆ、ゆうめいじん!?」
彼女は驚いき尻餅をついた。可愛い反応にマリウスは和んだ。皆こうならいいのだ。
「すごいすごーい。あのすごく綺麗な声の人だよね。歌って歌って」
純粋に言ってくれる彼女を見て、マリウスは目を逸らした。彼女がそう思っているのは事実だ。しかし、鳩尾の辺りをえぐられたような気分になる。
「歌えない」
「どうして?」
「私はもう見ての通りの歳だ。声変わりをして、あの頃のような高音が出せなくなった」
期待されればされるほど苦しい。天使と呼ばれるたびに苦しかった。
始めは好きだった。次に、両親を蔑んだ権威をかざした親戚連中が憎かった。母と出会った当時の父は無名の作曲家だった。周囲の反対をお仕切り結婚し、父の収入もそれなりになり、裕福とはいえないものの音楽に囲まれた幸せな生活を送っていた。だから好きな歌で彼らよりももっと上へ。そう思って練習して、マリウスは幼くして世界に認められた。そして、作曲家だった父の書いた曲で、世界で売れたのだ。
マリウスは名門の音楽家の出の母を持っていたために、あらぬ誤解を受けたりしたものだが、いつもあの家は関係ないと言っていた。信じてもらえなかったが、それでも実際に親戚連中が悔しがっていたのでせいせいしたものだ。
いつからか天使と呼ばれ、マリウスは自らの醜さも自覚していたので冗談ではないと思った。しかし両親を思い、何よりも歌い続けたかったので無垢を演じた。大人たちの醜い誘惑も撥ね退け、十四になった頃……歌えなくなった。
「低い音で歌えばいいのに」
「……いや、そういう問題では。いつもあの声の事を言われていた。私があちらの世界で合った女も私のファンで、歌えなくなった私を罵っていた気がする」
そのあと、どうなったのだろう。よく覚えていないが、気がつくとこちらにいた。髪が黒くなり、エメラルドのような瞳は黒ずんだ緑になっていた。まるで醜くなった自分を表しているようで気に入った。今では赤いが、生き返ればあの色に戻るのだろう。あの色は気に入っていた。
「マリウス君の今の声も素敵だと思うけど? だみ声じゃないし僕は好きだよ。
そーいうのは変な先入観を持ってるからダメなんだよ。そのファンの人も、マリウス君に変な先入観持ってたんだよ。僕にとってマリウス君はヘルメスじゃなくてマリウスだから、そんな先入観なんてないよ。それとも、もう歌は嫌いなの?」
「いいや」
好きだ。今でも好きだ。だから人のいないところで時々歌っていた。発声練習だって、ヨルに捕まるまでは度々していた。ただ、人に聞かせるのが怖くて、パーンにすら聞かせたことはなかった。
「聞きたい。僕のうち、そういうの聞いちゃだめだったから」
彼女の家が、厳しい家庭だったと言っていたのを思い出す。母の実家もそうだった。ロックなどはほとんど聴いたことがなかったと言っていた。
「……何がいい?」
「何でもいいよ」
マリウスは目を伏せ有名な練習曲を歌った。久々に人前で歌うので、自分の曲よりもこちらの方が気が楽だ。
マリウスの声は昔に比べれば低いが、ソプラノからアルトに落ちただけである。いや、成長して声が再び安定してここまで出るようになったというべきか。
外で歌うのは気持ちがいい。もっと声を出せればさらに気持ちいいのだろうが、今のマリウスにそこまでの勇気はない。
今は二人がいればそれでいい。