10、異界の血筋 〜白き竜〜
目の前に座る従妹は、窓枠に肘を立て物憂げに空を眺めていた。
原因は彼女の兄達の問題だ。
昔から彼女は兄達に懐いていた。二人で一人の兄達をうらやみ、自分もその中に入りたがっていた。しかし彼女は一人だ。一人でも大丈夫だと、彼らの父から認められていた。彼女は唯一、認められていた。それで兄達は彼女をうらやんだ。
一人前である彼女と、二人で一人の破霧と正宗。
彼女達はどこまでも交わることのない、平行線の存在。
遠い兄達のあり方は、彼女を小さくしていた。
今では、ずいぶんと大きくなったが。ある意味、彼女は兄を手に入れていたから。彼らの本体は、彼女の手の中にあるのだ。
それでも兄の中身は逃げていき、ろくでもないことをしようとしている。憂鬱にもなる。
「アヤ?」
「ん? 何?」
彼女は赤い瞳をハクに向けた。父親譲りの赤い瞳は、見つめていると引きずり込まれそうだ。彼女の赤い瞳は吸血族由来のもの。吸血鬼ではない他者を魅了し虜にし、自分の武器や盾として、ついでに相手の生気を血から食らうのが吸血族だ。彼女はその血が濃いため、他者を魅了する力が強い。それはハクであっても例外ではなく、呆けて目を合わせることは危険だ。
「アヤ、ヨル君が心配?」
「ヨルのことは心配していない。ただ……」
彼女は俯きため息をつく。はっきりとした性別を持たないこの相棒は、男の姿をすれば父によく似ている。おそらく一番似ているのは彼女だ。ハクは、彼らの血の元であるあの男が引く、もう一つの血──竜の血が濃い。おかげでこちらに来てからは、このように真っ白になってしまった。元々白かったのを、封じられていた可能性も高い。しかもここに来る前まではそうでもなかったのに、ここに来てからは、ハクまでアヤのように性別が不安定になっている。
おかげでヨルをからかうのには、ちょうどよい体質となったが、身体が女性になるというのは、思春期の少年にとってはショックは大きかった。
「おや、帰ってきた」
アヤは立ち上がり、窓から外を覗く。ハクもそれを感じて、その隙間から覗く。男の姿の彼女はさらに背が高く、なかなか見えにくい。
「お姫様が救出されたみたいだね」
「あらまあ、葵ったら、二人だけで帰ってきて」
葵はこちらの存在を認めると、マリウスの首根っこを掴んだ状態で、そのまま転移する。振り返れば、彼等のいた部屋に、マリウスが転がり、葵がふわふわと浮いていた。
彼にとって数少ない友人であるマリウスを奪還し、心なしか嬉しそうだった。
「ああぁぅ」
マリウスはしばらく混乱し、わけの分からぬ事を口にしていた。しばらく頭を抱えた後、彼は頭を何度も振って目尻に涙など溜めて呟く。
「ひ……ひどい目にあったっ」
マリウスはただでさえ白い顔を、さらに蒼白にさせ、ふぅふぅ息を吐く。葵は一体彼をどんな目に合わせたのだろうか。
「竜王様、囚われの姫君の救出作戦、完了いたしました」
「完了はいいけど、王子様を置いてきてどうするの」
「まあまあ、マリウスさんの身の安全が第一でしたので」
「それはそうだけどね」
あの二人がいくら叩いても、ヨルは壊れないだろう。その確信がある上、葵もそれを信じているため、叱りつけることが難しい。
「マリウス、平気か?」
「へ……陛下」
膝をついて息を整えているマリウスの前に、アヤが座り込んで声をかけた。マリウスの顔は、心なしか引きつっている。捕らわれてしまった己を恥じているに違いない。
「恐かっただろう。ミストはともかく、正宗は乱暴だからな」
何事に対してものんびりと構えるミストは歌の一つで大人しくなるだろうが、狼藉者の正宗は彼を丁寧には扱わなかっただろう。
「い、いえ、そのようなことは。危害は一度も加えられていません。むしろ葵に捕まってから肉体的に苦しい思いをしました」
「そんなっ……」
彼の言葉を聞いた葵は、空中でよよよと口にしながら横座りになる。そんなことを教えたつもりはないのに、日本独特のこのような表現をどこで覚えてくるのか、小さな謎である。
「私めはアナタのために、あの化け物達相手と命をかけて向き合いましたのに……。ああ、モテるお方は、乙女心すら理解シテくださらないのですねっ」
「乙女……って、お前は女だったのかっ!?」
マリウスはハクとアヤの顔を疑うが、半分は事実であるため、二人とも否定をしなかった。
「ああ、お父様、娘は当分お嫁に行けそうもありませんっ」
悪のりする葵の肩に、アヤがそっと手を置いた。
「大丈夫だ。お前は器量がいいから、すぐに他のいいオトコがみつかるだろう」
「ああ、魔王様。私のような不出来なオンナにまで、そのように優しいお言葉をかけて下さるナンテ……」
「当たり前だろう。お前は私の可愛い娘。お前の幸せを心から祈っている」
「ああ、オカアサマ。葵は幸せデス」
葵のノリの良さは、アヤ譲りなのだろう。オトコとして育てたつもりだったが、今ではどちらでも生きていけそうだ。
マリウスはそのノリについて行けずに、座り込んでぽかんとしていた。しかしやがて事態を思い出し立ち上がる。
「魔王様、冥王様の救出は?」
「別にほっとけば戻って…………」
アヤは言葉につまり、ううむとうなる。彼女もヨルについては十分理解している。
「私は間違って海に落ちるに賭けてもいいとおもっております」
「じゃあ、私は山で遭難に、今晩の夕飯のおかずを賭けマ〜ス」
そう。自力でここまで帰ってくるのは、今までの彼の技術から考えると無理そうだ。彼に足らないのは己を支配する力である。そう、コントロール。
彼はノーコン王である。
前に投げればいいのに、後ろに投げたり。
数メートル先にいる相手に投げればいいのに、ホームランボールのごとく場外に素手で投げてしまうような、はた迷惑で、加減知らずで、方向知らずな、力強いノーコンなのだ。
今の子供は手加減を知らないと言う者もいるがそうではない。あれはメディアが取り上げるからこそ目につくだけで、実際にはそう子供達に変化はないのだ。
変化があるのは親である。
彼を放任主義で育てた親に、責任がある。彼の手加減知らずは、幼い頃に彼を放置していた親が悪いのだ。人には見えなかった、闇色の瞳が鮮烈な印象を持つ彼の母親が。
アヤは彼の親を鬼だろうと誤解されても否定をしないが、彼女自身も違うと理解している。一般人が認識しているのは、自分たちの世界にいた鬼ぐらいであり、鬼と言えば皆が納得するから否定しないのだ。
しかし実際にはもっと別の存在。人に近いが人ではなく、それていて彼等の世界に住まう鬼でもない。元は人であった鬼もいるが、それとも違う。鬼は人を食らうが、彼女からはそのような気配はなかった。
もちろん、そうと言っても彼等の父親である『魔界の者』ともまた違う。
彼女はもっと、別の存在だった。天界の者でもないし、妖精界の者でもない。ハクはそれ以外の異世界を知らないので、彼がこうだと言える判断する材料を持っていない。
今思うと、もっと彼の母親に接触しておけばよかったのだ。友人が正体不明のままでは、双方に様々な問題が生じることもあるかもしれない。
「どこに落ちても生きて行けそうだけど、一番の可能性としては、正宗兄さんに送らせるとか、そういう非常識な行動の可能性が高いな」
アヤの意見に、葵とマリウスの二人は拍手喝采を送った。
彼の非常識さを考えると、それが一番近い答えになるだろう。
もちろん、このままほっておくつもりはない。
「行こうか、ハク」
「行くの?」
「ああ、ミストのところに」
言って彼女は部屋を出た。そして彼女が向かうのは──ミストの本体が眠る部屋。
一度破られかけた呪いを修復した形跡が未だに目に見えた。
それでも呪われた魔王は眠り続けている。寝顔は可愛らしくさえあるのだが、起きればひたすらぼーっとしているか、暴れているかのどちらかだ。
ぼーっとしているミストの方が、扱いやすくはある。
「どうするつもり?」
「ちょっと移動させるの」
なぜか少女姿になったアヤは、封印の要である水晶玉を横に押し、ミストの身体に触れる。
「封印を解くの?」
「まさか。そんなことしなくても、私なら移動させられるのよ」
アヤはイタズラを思いついた子供のように片目をつぶる。この場に他の誰かがいれば、不安に駆られるような、いかにも何かを企む目をしている。ハクですら額に汗が滲むのを感じるのだ。
大人しくしていたときから、彼女の本質はこれだった。
彼女を止められる者など誰もいない。彼女がそうと言えば、逆らえないのだ。
それは、あの二人の兄達にも言える。彼女のお願いを、無視できる者などいないし、彼女と目を合わせた瞬間に負けるのだ。
力よりも強い力は、他者を魅了する力。
ただ、彼女は己の我が儘を、イタズラ以外で通すことはないのが救いだ。
「何をするつもり?」
「何をするんだと思う?」
彼女はくすくすと笑いながら問い返す。女の顔をしているものだから、タチが悪い。彼女は眠るミストを操り立ち上がらせた。そしてそれで遊ぶように、その背後に回り込みにっと笑う。
「からかわないでよ」
「からかっていないわよ」
「うそだ」
「ほんと」
絶対に嘘だ。ぷくと頬をふくらませて、ふいと顔をそらす。あまり長く彼女と目を合わせていると、彼女の思うつぼだ。
「目をそらした」
「そらすよ普通」
「つまらない」
今度は彼女は唇をとがらせ、顔だけに不機嫌を描いた。
「僕を魅了してどうする気なんだよ」
「別にそんなことをするつもりはないけど? ナニが出来るわけでもないし」
「ナニってナニさ」
「兄妹では出来ないコトとか?」
彼女はくすくすと笑う。世間的には従妹の彼女は、魅了の力などなくても他者を魅了する蠱惑的な笑みを浮かべた。この世界に世間も何もないし、彼等以外は誰も知らない。
それでも、彼女は気にするし、変わらない。
「兄さん達、ぴっくりするかしら?」
「呆れるよ」
「でも、ソウ兄さんが出てくるよりはいいでしょ?」
「そうだね。兄さんが出てくるとろくでもないことになる。昔から」
彼が動くと、迷惑を被るのはハク自身だ。すぐにヒートアップして倒れてお持ち帰りしなければならない。それをするの、同母の弟であるハクだ。
今では少し動いただけで、器である彼の身体が壊れかねないほどの力を内に秘める彼は、連れ帰るという問題ではないダメージを負いかねないのだ。力が強すぎるというのも、考え物である。
「行こうか」
「そうだね。ヨル君も寂しがっているだろうから、行こうか」
二人は手をつなぐ。
気がつけば、いつもこうしていた。物心ついたときから。
こうしているのが当たり前で、これからもずっとそれが続くはずだ。
景色が変わり、広い部屋に出た。がらんとした、物がほとんどない部屋である。
人がいた気配はあるが、人はいない。床にヨルが土産に持っていった酒瓶があることから、ここにミスト達がいたのは確かなようである。
「間違えた」
アヤはちっと舌打ちする。ヨルの気配を辿ったのだろうが、一歩遅かったというところだろう。アヤは周囲を見回しながら、部屋を出る。
「いいところに住んでるじゃない?」
「アヤ、こういうのもイケるの?」
古びた、幽霊でも出てきそうな場所である。お世辞にも綺麗な屋敷とは言えない。掃除はしてあるようだが。
「ハクは綺麗な建物が好きよね。小さな頃から病院になれてるから?」
「さあ。慣れたのは、兄さんのせいだけど」
いくら院長の孫とはいえ、病気にでもならない限りは親の仕事場になど行くはずもない。何より、医者である彼の父親は、実の父親ではない。
それを一族の多くが知っている。当の子供達も知っている。
彼等に神の如く崇められ、魔王の息子として、彼等は戸籍上の父親にですら『敬われて』育った。彼はハクの母を未婚で子を生ませないためだけに、彼女と結婚し彼等の実父の隠れ蓑となっていた。
夫婦でありながら、両親はまるでお嬢様とそれに仕える使用人のようであった。
それが異常であることは、世間を見ていれば小さな子供にも理解できた。
アヤとは違い、彼は言わば妾腹の子だ。いや、アヤの母親とて、人間界においての本妻であっただけで、彼等の実父は数え切れないほどの女がいるらしい。力のある子を産ませるのが目的であり、彼等の実父。魔王と呼ばれるそれの女の中で、立場的にどうでもいいような女の生んだ子が、ハクとソウだ。
皮肉なことに、父親の力を一番色濃く継いだのは、ソウであった。力だけで、肉体は人に等しかったが、魔力は本物だ。
そのような出生にショックを受けた覚えはないし、どれほど跪かれても気にしたつもりはなかったが、いざ地位を持って跪かれると、以前はやはり異常だったのだとしみじみと実感した。
そのような非常識が横行して、グレもせず普通に育ったのは、いつも側にいた、この腹違いの妹の存在が大きい。
女性の姿をしているためその手はとても小さいが、ぐいぐいと引っ張るその力が頼もしい。
死体のようなミストの身体は目には見えないが、どこかに連れてきているのだろう。それでも見えない方が安心できる。アヤと違って側にいて安心できるようなタイプの人間ではないからだ。
「こっちかしらぁ?」
アヤは疑問系でこちらかな、あちらかなこちらかなと言いながら、その足取りに一切の迷いはない。こういう感覚はアヤの方が遙かに優れているので、彼女にはミスト達の居場所が手に取るように分かるのかもしれない。
「ヨル君、どうしてるだろ」
「さあねぇ。苛められてるかも」
「逆に苛めてるかも」
「あり得る。しかも本人自覚なく」
「そうそう。自覚していたら、ヨル君らしくないんだよね」
アヤについてどんどん進む。アヤは廊下の突き当たりにある部屋を指さし、人差し指をピンと立てて、しぃと音を出すため息を吐く。すぼんだ唇からはき出される息が止まると、彼女はくすりと笑い唇を押さえていた指でハクの頬をつついた。
「気付いていないみたいよ」
「気付いていない? ミストがいるのに?」
「さあ。でも突入すれば分かるでしょ?」
アヤはそろりそろりとドアに近寄り、にやりと笑うと映画のように派手なアクションで蹴り開けた。ドアは蝶番が一つ取れ、ぶらんと垂れ下がり小さくうめいているようにきぃきぃと音を立てた。
「ぶはっ」
正宗が飲みかけていた液体を吹き出した。背後で突然ドアが蹴り開けられれば、誰でも驚き吹き出すだろう。
「んだよまったく! アヤ、てめぇか!」
正宗は口元を拭い、振り返って怒鳴る。
その彼の目の前には、いい夢でも見ていそうな心地よさげな表情で、すやすや眠るヨルと春日の姿。その顔には、正宗が吹き出した液体──おそらく酒は、その少年達の可憐な顔をぬらしていた。
寝姿の彼らは乙女のように可愛い。
「あーあ、ヨル君と春日が汚された」
「お前が突然乗り込んでくるからだろ! 予測はしてたけどな、もう少し静かにしろ!」
この静かにとは、突然竜巻のように現れたり、不気味な高笑いをしながら現れることも含まれている。つまりは、素直に直接なぜ来ない、という意味だ。
「ところで、どうして二人仲良く寝ているの?」
「ミストが移ろうとしたら、そのまま倒れてこうなった。春日はただ気絶しただけだろうが……」
正宗は椅子の上であぐらをかき、ふっとため息をついた。
自業自得とはまさにこれ。
「ソウ兄さんを呼び出そうとする程度で我慢しておけばよかったのに」
幸せに眠っているように見えるヨルは、その内でどのような攻防を繰り広げているのだろうか。
「暢気に茶なんてすすってる夢見てるわけじゃないわよね?」
「ミストと一緒に?」
と、そこまで考えて、土産にケーキを持っていく実行力を持つヨルと、基本はどこまでものんびりとしたミストの組み合わせ──。
「何しているんだか……」
アヤが二人の顔をシーツで拭き始めるが、二人はいっこうに起きる気配がない。
ただ寝起きが悪いだけか、何かしているのか、こうも幸せそうな寝顔では判断がつかない。呻いたり、苦悶に満ちた表情を浮かべてくれれば分かりやすいが、彼の寝顔はむしろお花畑をスキップする穢れなき少女のようである。
「こいつはいつもこんな寝顔なのか?」
「うん」
「なんてムカツクヤツなんだ」
「夢でぐらいでしか、望みが叶わないとか」
彼が好意を持つアヤは、あれである。無意識のうちに、そういう夢を望んでしまうのかも知れない。ただこの状況である。寝相が可愛いだけ、という可能性の方も高い。
「で、どうする気だ?」
正宗は当たり前のように、アヤへと問いかけた。彼はどうにかする細やかな技術がないのだ。
「どう……って」
アヤはヨルの寝姿を眺め、顔をしかめる。
「私がどうこうされているかも知れないところに、飛び込むのも……」
アヤはヨルに接触することにしぶる。さすがの彼女も、女であるということだ。
夢に入り込むのは、彼女の特技だ。彼女を元にして作った葵も、その力を持つ。その力を利用して、自分を支えるための『食料』を得ている。夢見て大きく動くその心を食べている。と、そこで思いつく。
「じゃあ、今から戻って葵連れてこようか」
「あら、それなら確実ね」
ハクの提案に、アヤが賛成する。葵は嫌がるであろうが、ここは親としての権限で、どこぞの伝説を見習い子を千尋の谷に突き落とすがごとく、行けと命じるに限る。
もちろん、グレないようにフォローをするのを忘れてはならない。子供は傷つきやすい生き物である。
「んじゃ、行ってくるね」
アヤが手を振り見送り、その後ろで正宗も手を振っている。
世間的にどういわれていようが、ケンカをしている最中であろうが、彼等は元々仲の良い兄妹であり、こういう光景もありなのだ。