12話  魔王〜闇の女王〜



 アヤはすり寄ってくるヨルに頭突きを食らわせ引っぺがすと、ヨルが用意した椅子に座り彼の言葉を待つ。
 彼には初めて出会った時から奇妙な感覚を覚えていた。人であるのに、その内は人ではないような、何かが眠っているような。瞳を覗き込むと捕らわれてしまいそうな闇が、そこにあった。
 そして今の彼はまるで闇の化身だ。ここに来て姿が変わるのは、肉体を持たない者だけだ。肉体ごとこちらに来てしまった彼は、何の変化も見られないはずである。元々眠っていた姿を取り戻したアヤ達と、彼は違うのだから。
 てっきり目覚めかけた鬼の類だと思っていたのだが、そうでもないようでなかなか愉快な男だ。楽しませてくれる。
「ヨル君は私に何を望むの?」
 彼は漆黒の瞳でひたとアヤを見つめていた。いつもの脳天気に見える彼よりも、幾分深みがある。彼には一体どのような思惑があるのか、想像も付かない。
 男も女も、楽しくなければ側に置こうとは思わない。彼は実によくアヤを楽しませてくれる。
「俺をもらってくれっ!」
「……イラナイ」
 アヤは身を引きながら答えた。予想などしていない言葉だったが、こういう変化球は望んでいない。
「ひどいっ! 嫁に行くような気持ちで言ったのに!」
「そう言うことはハクに言いなさい」
「ハクじゃダメだ。あいつは俺を扱う才はない。俺が望むのは安定だ」
 彼はなかなか結論を言おうとしない。自分が何なのか。それさえ言えば話は早い。なのに彼は肝心なことを言わない。
 頑なに。
「君を私がもらったら、私にはどんなメリットがある?」
「絶大な力を」
 彼は迷い無く言い切った。
「自分の力に不満はないけど」
「じゃあ、別の──物ならどうだ?」
 ヨルはヨルらしくない含んだ笑みを浮かべた。
「お兄さん達がマリウスをさらってソウさんって人を呼び出そうとしたのも、俺の身体を乗っ取ろうとしたのも、全部ソウさんが複雑になってきているこの世界の重圧に耐えきれなくなってのことだろ? 俺が来たときにはもう少しマシだったのに、今じゃほんと弱っている」
 彼はどこまで知っているのだろうか。ヨルは元々馬鹿ではない。そして彼の封じられた知識と何かの認識が加わっただけなら、彼はヨルでしかあり得ない。ヨルがこちらに来てから知り得ることなど大したことはないはずだ。ヨルに出したヒントなど、たかが知れている。彼自身の情報があるに違いない。
 アヤはイスの上でふんぞり返り、ヨルの言葉を辛抱強く待つ。
「弱った原因は俺のせいかもしれないけどな」
 時期的に考えてその可能性はある。生き人であるヨルを引きずり込むのは、彼にとって大きな負担となっただろう。
 それでも、彼の言葉は初めからソウの存在を知っていた事を示している。いつもは何も知らない振りをして、心の奥底では見透かしていたとは。
「ねぇ、ヨル君。結論を言って。私に何を望むの? 私に何をくれるの?」
「俺。それと身体」
「ヨル君。自分の希望を言ってどうするの? 得するのはヨル君だけでしょ」
 いつから下ネタを言うような下品な少年になったのだろうか。普段は純情を装って、心の奥底ではいつもこうなのだろうか。だとしたら、幻滅を覚える。
「誰が俺の身体なんて言った? ソウさんが入っても壊れないような頑丈な入れ物だよ」
「どっ………………どういう……意味?」
 そんなものをぽんと用意できるなら苦労はない。出来ないから、彼はずっと動けずにいるのだ。
「そのままの意味だ。俺の条件を飲むなら、連れて行ける。飲めないなら俺はこのままでいなきゃならないから、お前を連れて行けない。単純だろ」
「どうして、君はそんなわけの分からない生態をしているんだ」
「生態って、いつもは記憶を封じてることか?」
 彼は笑いながら首をかしげる。可愛い顔はそのままで、憎たらしさが加わっている。
「記憶があると、危ないからだよ。俺自身の身が」
「どうして?」
「知らない相手に支配されるってのは、恐いもんだろ」
「支配……?」
 彼の言うことの意味が理解できない。
「どうする? 俺ならソウさんをどうにか出来るツテがある」
 彼の勧誘はある意味脅迫に近かった。理解できないし、はっきり言わない、良い結果だけを述べるでは、知らない相手なら悪徳商法と切って捨てている。
「いいよ。ソウがとりあえず死なないようになるのなら」
「やった!」
 その瞬間、ヨルは再びアヤへと抱きついてきた。下心も見えないし、あまりにも嬉しそうなので、彼の気が済むまでそうさせてやる。
「今から俺はお前の物だ」
「だからそのいい方は──」
 アヤの言葉が切れる。ヨルに触れる場所から、何かが溢れて伝わってくる。彼の身体が触れた場所から、黒いもやが立ち上る。
「な……」
「俺はお前がいれば何でも出来るよ。今すぐに起きられるし、ソウさんを迎えに行けるし、無理なく移動も出来る」
 彼は抱きしめる力を緩め、少しだけ離れてアヤの顔を覗き込んだ。
「どうしたい?」
 無邪気とも言える笑顔を浮かべる彼の額に、手刀を軽く叩き込んだ。
「私がどうしたいかなんて、自分で考えなさい」
 ヨルは一瞬きょとんとした後、笑いながら了解と答えた。


 ソウを迎えに行くと、彼は案の定テレビゲームをしていた。
「弱ってるのに、そんな事してるなよ!」
 ヨルの叫びが空しくその宮殿に響き渡る。ソウの住まう場所はアヤでも知らなかったのに、ヨルはあっさりと見つけ出し、異質な結界をくぐり抜けて彼の寝室までやって来て──まあ、これだ。
「弱ってるって言っても、暇なものは暇なんだよ」
 その男は振り返りそう言った。ぼさぼさの頭に無精髭の生えた顔。彼女たちの一族の血を感じる顔立ちをしているのだが、彼は身なりに気を使わないため、人間界にいたときからこうだ。
「命がけでするほどゲームが好きなのかよ」
「ヘルメスの悲しげなあの歌を聴いたら、彼の楽しい歌を聴きたくてね。このオトゲー、彼の曲が入ってるんだよ」
 出て行くのを耐えていたのはほめるが、できれば安静にしてもらいたいものだ。
「マリウスの?」
「そう、彼の。君に取られてしまったけどね」
 彼はテレビとゲーム機の電源を消してから立ち上がる。 
「せっかく聞きかじりの魔界に似せて世界を作ったのに、大きくなりすぎて人間界にいるのと大して変わらなくなったなんて、皮肉だと思わないかい?
 だからあちらに干渉して、こういう物も取ってこられる。どちらにいても同じだから。
 君が来るまでは、それぐらいの余裕はあった。君が来て、この世界がいっそうしっかりしてしまって、僕はあの二人が呼んでも動けない状態だ。力を使うと、パンクしそうだよ。周囲が吸い取ってくれないからね」
 彼はいつも饒舌だ。身体自体は健康で、中身が異質で動けない。暇で暇で仕方が無く、人が来るとよくしゃべった。一人の時はディスプレイを睨み付けてゲームをしていることが多かった。ここでも同じ生活をしていたら、何のために人間界を捨ててこちらに来たのか分からない。そう思ったからこそ、あの二人も医療施設も知識のある者も整った、人間界の病院に戻そうとしたのだ。引きこもっていられては、容態の変化が分からない。
「聞いていたけど、君は僕に身体を与えようって?」
 起きてすぐ、ヨルと少しだけそのことについて話した。それを彼は聞いていたのだろう。盗み聞きとは悪趣だが、彼も痛い目を見ているはずだ。痛くはなくとも、力を使うのは苦しいだろう。
「精霊の特性は知っているけど、君はどうするつもりなんだ?」
 ヨルは肩をすくめた。
「さすがはこの世界の創造主。知識はあるんですね。人間界で育って、精霊について知っているなんて他にいないですよ」
 アヤは横目でヨルを睨む。彼が言いたくなかった結論を、異母兄である青年が言った。言われてもアヤにはその意味が理解できない。
「俺の知り合いに異界専門の学者がいるんですよ。つか精霊専門の。さらに言うと父なんだけど」
 父親に頼る気だったとは驚きだ。彼の父親というのをアヤは知らない。ハクも会ったことがないらしい。母親の方は美人で、兄弟は母親似だと聞いている。
「闇の精霊を捕らえた男か……。話だけなら聞いている」
「いつから俺のことを精霊だって?」
「さっきだ。僕が初めから知っていれば、引きずり込む前に支配するのを試しているよ。僕としては残念なことに。
 まあ、アヤの物になったっていうんなら、悔しくはないけど。アヤは魔力が弱いからちょうどいい。きっと上手く使いこなせるよ」
 力を与えると言われたが、何か力に溢れているという感覚はない。ただ、ヨルが触れた時から奇妙な感覚がある。
「で、どうしてくれる?」
「俺もよく分からないから説明しにくいけど、とりあえず行けば分かる。ソウさんが行きたくないってんなら別だけど」
「行くよ」
 ソウはヨルに手を差し出す。
「僕としても、せっかく作った世界で遊べないのは苦痛だ。おかげであの二人には無理をさせたし。
 ……実に楽しげだったけど。サディストだから」
「あ……やっぱりそーなんだ」
「まあ今のところあの二人のことはどうでもいいし。いこっ」
 二人は手をつなぎ、ヨルはアヤに手を伸ばす。誰のために受け入れたのかと思っているのか分からなくなるほどソウは不貞不貞しい。渋々ヨルの手を取り、呆れ半分で兄を睨む。
「行くぞぉ」
 ヨルはヨルで心の底から嬉しそうで、理解できずに不機嫌なのは彼女だけである。
 目を伏せ息をつき、目を開いた瞬間には別の場所にいた。以前のヨルでは考えられないほど繊細な制御である。
「ここは?」
 人間界のようだが、まるで怪しい研究室だ。魔界にでもいそうな奇妙な生物が檻に入れられ部屋の隅の方にあるし、顔のないマネキンのような物が寝台に寝かされている。かなり危ないのではないだろうか、と思うには十分な施設だ。
「へぇ、面白い部……ああ、目眩が」
「うわっと」
 浮かれて動いて倒れかけるソウの身体をヨルが慌てて支えた。自分よりも長身の男を支えるるのに彼は苦労している。
 彼の中の、何が変わったのだろうか。制御力が増したのは認めるが、それ以外は元々持っていたような気がする。
 冷めた目で二人を見ていると、研究室に一つしかないドアが開いた。
「誰だっ」
 誰何する声の主は、クセのある色素が薄めの髪質をした青年だった。
「ただいま、父さん」
「なんだ、冬夜か」
 彼は息子の姿を確認すると、構えていた銃を白衣の下に入れた。色々と突っ込みたいところはあった。若すぎる気がするとか、銃刀法違反とか、動じもしないところとか。
「その子は……魔族か。お前、魔界に行ってたのか。よく無事だったな。っていうか、無事じゃないか」
 彼はアンダーリムの眼鏡越しにアヤとソウを睨んだ。
「……ひょっとして、あの魔王の親戚か?」
「父をご存じで?」
「ああ。昔うちの可愛い息子に手を出そうとしたことがある。危うく連れて行かれるところだったのを、握っている弱みで追い返したが」
 アヤはヨルの父親像とはかけ離れたその青年を見つめて顔を引きつらせた。
 ヨルは彼女の父親の好みだろう。アヤの性別は父親に似た。彼は男であり女である。想像すると、ぞっとした。
「ところで冬夜、春日の中身を知らないか? 帰ってこないんだ。完全に死んでいたら、身体の方も再生出来なかっただろうし」
 この一家はどこまで常識から外れているのだろうか。
「知ってる。普通の幽霊みたいに生活してる」
「……無事ならいいんだけどな。身体の方は再生しているから、いつでも帰ってこいって言っておけ」
「たぶん帰らないと思うぞ」
「……無事なら別にいいけどな。で、お前の主はその女の子の方か」
 アヤは見つめられて身動ぎする。
「可愛い子で救いだな」
 ヨルは頬を染めて頷いた。潜在的にアヤに目を付けたのを、恋愛感情と勘違いしていたのかと思ったが、どうやら根から惚れられているらしい。
「お嬢ちゃん。これから大変だから、頑張れ」
「大変?」
「すぐに消えたり、すぐに身体壊したり、すぐに反射的に服従するからな。とくに最後のはこいつらの習性だから、根気が必要だ」
「しゅ……習性?」
「そのうち理解できる。鬱陶しいから」
 ヨルは確かに犬のような性格だが、鬱陶しいと思ったことはない。距離をわきまえているので──
(その距離が崩壊したっていうのかしら)
 懐かれるぐらいなら問題ない。
「で、冬夜。その青年は? ずいぶんと弱っているようだけど。力が強いのに、身体がそれに耐えられていない」
 ヨルの父はソウへと歩み寄り、顔に触れる。その瞬間、ヨルの父親の手から黒いもやが立ちのぼる。
「あの黒いのは何?」
 アヤは気になりヨルに問う。
「あれは闇だよ。父さんは母さんと契約して、闇の力を持っているからな。時々垂れ流す」
「闇の力って?」
「精霊の中で最も力を持つ闇の精霊の力だ」
「その精霊っていうのは? 妖精とは違うのよね?」
 妖精は見たことはあるが、精霊というのは物語の中以外では知らない。知らないからと言って否定するには、彼女は世の中の不思議を知りすぎている。
「全く違うな」
 答えたのはヨルの父だった。
「妖精は自由な生物だ。精霊は束縛される生物だ。
 精霊というのは、こことは別の次元の──異世界。精霊界とか呼ばれるところにいる生物だ。異世界のことは、分かるな?」
 アヤはこくりと頷いて、無言によって先を促す。
「そこには普通の人間と、一見普通の人間と区別できない精霊と呼ばれる生き物がいる。精霊は人間に見えるが、中身が違う。肉体に縛られず、肉体が滅びても死なず、何かに宿りそのまま生き続けることが出来る。何かに宿らずとも、生き続けることも出来る。
 その代償に、無防備となった彼らは自分と波長が合う者に簡単に支配されてしまう。だから精霊は心許した相手に支配してもらう。それによって、意に反した支配を防ぐんだ」
 彼のおかげでヨルの言っていた意味がようやく理解できた。
 彼が脅えていた理由も、隠れていた理由も。理由だけは理解できた。
「支配した相手は精霊と同じ力を手に入れる。精霊は主を手に入れるとその力が安定し、主は自身に宿った力と、そしてそれを上回る精霊の力を操ることが出来る。こんな風に」
 彼は両手を広げ、その瞬間アヤの隣にあった棚が浮き上がる。それを支えるのは、あの黒いもやだ。
「闇の精霊は相性がいい相手が極端に少ない。だから力全てを封じていたが──この馬鹿息子が」
 父が指をはじき何かを飛ばす動作をすると、ヨルは額を押さえて呻く。
「封じられても勝手にいなくなるなんて、どこまで馬鹿母に似たんだお前は」
「ひ……引きずり込まれたんだって、この人に」
「こんな少し動けば熱暴走しそうな青年に、そんなことが出来るわけないだろう!」
「アヤ、父が信じてくれない!」
 簡単に泣きついてくるヨルを片手で止めて、うるさいと言いながら頭に拳を振り下ろしてあしらう。何も説明しなかった彼をかばってやる必要など無い。それよりも重要なのは、ソウのことだ。
「そんなことはどうでもいいから、本題に入って」
「分かった」
 彼は寂しげに頭をさすりながら父親と向き合う。ヨルの父は眼鏡のブリッジを中指で持ち上げ息子の言葉を待つ。
「見て分かるだろうけど、あいつの身体どうにからないか?」
「お前、その色々な背景を見て分かるの一言ですますな。お前はそういう所まで母親に似やがって」
「説明するにも、俺にもよく分からねぇし。父さんの方が詳しいだろ」
「無茶を言うな。俺が持ってるのはリノのためのものだ。他人には合わない」
「どうにかしてくれよ。このままだと危ないだろ」
 ヨルの父はソウを眺めた。そして顔を顰めて、顔のない人形の元まで行って、再びソウを見る。
「……俺も人間相手の完璧な義手義足の研究をしているけど、まだ本体を取り替えるほどの技術はない。俺は精霊相手になら壊れた人間に近い身体を提供できるが、それ以外には出来ない。出来るとしたら、他人の身体に移し替える程度のことだ。
 それでは意味がないだろ。魔界に行って適合者を捕まえてくるのは骨が折れるし立派な犯罪だ」
 それが出来れば苦労はしていない。魔界の住人では、乗っ取るなど困難である。
「そこを何とか作ってくれよ。天才だろ」
「天才が何でも出来るかと言えば否だ。普通の人間ならともかく、そんなに力抱えた魔族だぞ。普通の魔族ならともかく、魔王の血脈だぞ。一朝一夕に出来たら、俺は全ての世界で賢者と呼ばれるだろうな」
 父はヨルの額をつつき、デスクに座る。
「出来たとしても、数年はかかる。あれだって、リノの身体が修復されるまで入れておくスペアでしかない。今空いてて耐えられそうなのは、春日の身体ぐらいだ」
 ヨルは「あっ」と呟き、ぽんと手を打った。
「それでいいよ」
「いいのか!? お前自分の弟だぞ!?」
 あっさりと弟を売るヨルに父は驚き肩を揺さぶった。
「だから言っただろ。春日は元気にやってるって。身体をちゃんと手に入れてな。だから父さんがどうにかする間ぐらい貸していても問題ない。一度死んでも、あいつまだ自覚無いし」
 父はしばらく考え、それから肩をすくめた。
「お前、また行くのか?」
「ああ」
「息子二人が事件に巻き込まれたっていうのは、世間体が悪いんだけどな……。
 まあいい。お前達がそれでいいなら、そうするといい。近々引っ越して、今度は俺に似て賢くてまともな子を作るから」
「成績悪くてごめんなさい……」
 彼の成績は悪いというわけではない。いい方だが、特別いいわけではない。天才とは呼べないレベルだ。
 ヨルは慣れた様子で壁に向かい、言葉をかける。
「開いて」
 その声に反応して、壁に隠されていた扉が開く。
「闇の力で開くんだ、ここ。さっ、ソウさん来て」
 ヨルは階段を下りて地下室へと向かう。ヨルの足取りは軽く、アヤはゆっくりと歩いて降りた。地下にはいくつか部屋があり、それらは無視して扉が開いた突き当たりにある部屋へと向かう。先行していたヨルは、漫画の中で見たような、何か化け物でも培養されていそうな大きなガラスの筒の前に立っていた。中にいるのはまだ幼い春日である。
「すっ……すごい。日本の民家にこんな施設があったなんて……」
 そういうのが大好きなソウは、子供のように目を輝かせた。もしもミストやハクがヨルの父の存在を知れば、かなり気に入るだろう。
「さて」
 ヨルは春日へと手を伸ばした。ガラスなどすり抜けて、春日を引きずり出す。この時初めて、アヤはヨルが変化したのだと実感した。自由に転移するのも成長と考えれば誤魔化せたが、これはアヤにでも不可能である。
「さっ、ソウさん」
「……えと」
 ソウは戸惑いヨルの父を見た。
「一人で出来ないんなら、協力するが」
「いや……僕の本体はどうなるんですか?」
「ちゃんと保存しておくよ。身体が死んでは魂も死ぬからな。中身がなければ負荷がかかって壊れることもない。安心して行け」
 ソウは頷き、恐る恐る空っぽの春日の春日へと手を伸ばした。


 目の前に置かれたコーヒーカップを手にし、鼻で息を吸う。本物の香りが鼻こうを通り抜け、口をつけるとコーヒーの味がした。なかなかいい豆を使っている。
「美味しい」
「当たり前だ。俺が趣味でブレンドしたやつだからな」
 ヨルの父は胸を張って言う。
「……普通はしないこだわりとか、ヨル君の父親という感じですね」
「全部が全部母親に似たら救いがないだろ。食い物とか酒の趣味だけ似たなんて、救いにならないけどな」
 彼は一体何を考えてそこまで言うような相手と結婚したのだろうか。
「そーいや母さんは?」
「さあな。今日帰ってこなかったら、せっかくの休みを潰して探しに行くよ」
 彼の言葉には、押さえても押さえても溢れ出てくる怒りと呆れが感じられた。色々と苦労しているのだろう。
「にがい……」
 アヤの隣で春日──いや、春日の皮を被ったソウが舌を出した。その仕草は本物のソウと違ってとても可愛い。
「ソウってコーヒー好きじゃなかった?」
「好きだったはずだけど……」
 ソウは顔を顰めた。まだ動きが緩慢で、カップを持つのにも苦労する彼は、不思議そうにもう一度ぎこちない動作でコーヒーを舐める。
「うちの春日がコーヒー嫌いだったからな。味覚が影響されてるんだろう。子供っていうのは、苦みが苦手だ。成長すれば改善もされる。その前に、春日に返してやれるようにするつもりだけどな。
 まったく、俺のことを何でも作れる便利屋だと思ってる身内の多いこと」
 彼はこめかみをひくひくと引きつらせて、コーヒーをぐいと飲む。たばこは吸わないらしく、灰皿もなければヤニ臭さもない。
 ヨルの父は身体が慣れるまではじっとしていろと言った。それ以降のことは何も言わない。彼は息子に対して愛情を持っているようだが、幼くして親元を飛び立つのに対する不安は見えない。
「そうだ、アヤちゃんだっけ?」
「はい」
「長生きしてくれよ」
「どういう意味ですか?」
 ヨルと関わると、早死にするような危険があるのだろうか。
「精霊の寿命は長いが、契約した精霊は主に命もろとも捧げることになる」
 アヤの頬が引きつった。
 そんなことは、聞いていない。
「主は精霊の力を得るから年をほとんど取らなくなるし、病気にもかからない。そして精霊は主が死んだら死ぬことが多いけど、主は精霊が死んでも命を落とすことはない。
 だから人間は精霊を得ようとする。それがあるから、精霊ってのは本来なら臆病で疑い深い生き物だ。主を得るにしても、慎重に慎重を重ねて吟味し、本当に信頼できる相手にしか頼まない。
 うちの息子はあんたを信頼したらしいから文句を言わないが、せめて長く生きてくれ」
 アヤがヨルを見ると、彼はふいと視線をそらした。
 ヨルは彼女に何も言わなかった。メリットがあるのはアヤだけで、彼自身にはデメリットの方が多い事を。
「……まあ、がんばります」
 アヤに囚われたのはヨルの方だ。しかしなぜだか、アヤは彼に囚われたような気がした。
 それからしばらくして、彼女たちは帰った。
 彼らの世界シェオル──冥界へと。

back  menu       next
あとがき