背徳の王

5
 その女は目を伏せていた。
 拉致同然に連れてこられて、脅えてもらわなければならなかった。これは脅迫なのだ。しかし彼女は平然として、こちらの言葉を聞き流す。腕を組み、退屈だとばかりに息を吐く。
「とにかく、弟からは手を引いてもらう」
 彼女はまぶたを持ち上げる。
 ただ分かりましたと言い、実行すればよい。
「玉の輿を狙っているのだとしたら、他所を当たれ。弟をこれ以上たぶらかすつもりなら……」
「ええと……若様?」
 彼女は微笑みながらも、こちらを軽視する色を含ませていた。
「玉の輿って、お貴族様の愛人になることですか?」
 揶揄するように言う。
 こちらを見下した目をしていた。
 見た目は、とても可愛らしい。街の仕立屋の看板娘。彼女が笑顔で接客していれば、客も快く思い度々通わせる効果があるだろう。
 ただそれだけの娘だ。
「玉の輿? 冗談でしょう。
 私はあんな次男でしかない上に我が儘で飽きっぽそうなお坊ちゃまの愛人になるつもりもありませんし、今を捨ててあの生活力なんてない男と駆け落ちなどしたくありません」
 隣で母がテーブルに両手を叩き付けた。
「この、女狐の分際で! 淫売がっ!」
 彼女は笑みは崩さず、片眉を持ち上げた。
「私はご子息からお代以外をもらったことはございません。二人きりになったこともございません。もちろんどこかに出かけたこともございません。
 お貴族様はそんなごく普通の接客ですら淫売と呼ぶのですねぇ。存じ上げませんでしたわ。予想以上に庶民とは感覚が違うのですねぇ」
 組んでいた指をとき、前髪をかき上げる。
「私にはとてもとても入り込めない世界ですわぁ。ですからご安心下さいませ。そんな理解できない歪んだ世界に足を踏み入れたくないので、頼まれたって玉の輿など狙いません」
「お黙り小娘っ!」
 母が激昂して怒鳴りつける。
 拉致されてきたのに、この少女はずいぶんと冷静だった。怒り狂う母が道化に見えるほど、彼女は落ち着いている。
「私にこれ以上どうしろと? 店を閉めてどこかに行けと? お貴族様って庶民を何だと思っていらっしゃるのかしら。断ったら何か罪でもでっち上げ投獄でもなさいますの? できればそちらさまがご子息をうちの店に来ないようにしていただきたいものですわ。
 その気のないもともと突き放した態度を貫いている私に言うより、息子さんを説得した方が早いでしょう。親子なんですもの。まさか、まだ反抗期が続いているのかしら?」
 家庭のことは家庭で何とかしろ、と、トゲを含む言葉が容赦なく放たれた。
 それが出来るものなら、このような手段はとらない。
 弟は昔から親や兄の言うことなど聞かなかった。反抗期が続いているとは、的を射た言葉だろう。それでも、親にとっては可愛い息子なのである。
「悪いが、弟は君の所にとても熱心に通っている」
「それがどうしたんです? 私は一度だって他のお客様と違う接客などしたことはございません。
 どうせ、落ちない女が珍しいのでしょう。甘やかされて育った様子ですもの。
 ああいう男性は、ほっといてもそのうち飽きて別の方を見つけるものです」
 実の親よりは、彼女の方がよほど冷静だ。
「分かったよ。君の言うとおりだ。君が本当に弟と何もないのであれば、こちらは何も言わない」
「お好きなように見張りでもつければよろしいかと。とは言っても、風呂場やら部屋の中までのぞかれたら、容赦いたしませんが」
 彼女は立ち上がる。
「以後このようなことがないよう願っております」
 薄ら笑い、少女は許しも得ずに出ていく。
 なぜだか分からないが、背中に汗をかき、鳥肌が立った。


 この仕立屋はとても繁盛している。
 職人の腕がよいのだ。だからルドはここで働いている。まだ日は浅いが、住み込みで働けて、優しく接してくれる店主親子と気も腕も良い他の職人。働くにはまさに理想の店だ。
 彼は今、一人で店番をしている。
 忙しい時間が過ぎ、店主の娘のアリサが買い物に行き、なかなか帰ってこないのだ。彼女が戻らないので、自分が接客をして客の不満を買った。彼女の笑顔を見るために店に足を運ぶ客もいるのだ。
 どこかで立ち話でもしているのだろうと気楽に考えていたのだが、日が傾き、女性の一人歩きは危険な時間が迫る頃、店主と職人が外に探しに行き、閉店間際に何事もなかったような澄ました顔をしたアリサを連れて戻ってきた。
 一人での接客は初めてで緊張しっぱなしだった彼は安堵して、腰が抜けた。
 近所でも評判の美人だから心配したが、どうやら荒事に巻き込まれたわけではなかったようだ。
「でも、どうしたんですか? お嬢さんがこんな時間に帰ってくるなんて珍しい」
「ちょっといろいろあっての。
 ルド君、ごめんなさいね。忙しかったでしょ」
「いえ、なんとかなりましたから。お嬢さんがいなくってがっかりして帰ってったお客さんもいましたけど」
「まあ、大変だったわね。お詫びに明日の夕食はルド君のリクエストを受けるわよ。今夜は簡単な物しかできないけど」
「いえ、そんな」
「言ってくれた方が、考える必要が無くて楽だわ。だから考えておいてね」
 彼女は可愛らしい顔を笑みにする。この笑顔を見たくて通う客の気持ちは理解できる。幸い、粗暴な客はほとんどいない。いるとすれば領主の次男坊だが、とりあえず紳士的な態度は保っている。無理矢理どうこうとか、そういうことはない。
 彼らにしてみれば、彼女の手料理を食べられるルド達は幸せだろう。
「か、考えときます」
 気恥ずかしくて後ろ頭をかく。幸せだ。幸せだと思わなければならない。幸せなのだから。
 アリサは奥にあるキッチンへと向かう。夕飯の支度をするのだろう。
 本当に立派な子だ。幼くして母親を亡くしているから、実際の年齢よりもずっと大人びている。立派すぎて、手が届かない。
 ため息をついて、店の外を眺める。
 客足は途絶えたが、まだ閉店には少し早い──。
「まだ開いている?」
 声をかけられ、はいと跳び上がる。
 いつの間にか、子供がいた。
「あら、ウルお坊ちゃま」
 アリサが声を聞いて戻ってきた。領主の次男坊ではない。時々やってくる、アリサの知り合いらしい少年だ。一度見たら忘れられない美少年で、手足が細く、いつもこの店で仕立てた上等な服を着ている。今日は女の子を連れていた。こちらもなかなか可愛い子だ。ペアになっている服を着ているので、男女の双子のようにも見える。いつも同じ生地で同じようなデザインで、男の子と女の子の服を作っていくのは、これが原因なのだと初めて知った。
「今日は新しい子が一緒なんですね」
「うん。リファっていうんだ」
「体型が同じぐらいなんですね」
「そうだね。ところで、ちょっかいをかけられたみたいだけど、どうする?」
 ウルが首をかしげて問う。アリサにあった何かを見ていたのだろうか。
「どうもしません。可愛らしいじゃないですか。息子を心配する母親の凶行って、なかなか滑稽ですのよ」
「君の趣味はよく分からないね」
「でも、二度目の時はお願いいたします。あまりウル坊ちゃまの楽しみを奪っては申し訳ありませんもの」
「楽しみじゃないよ。ボクの楽しみは、ここで可愛い服を作ることかな?
 今日は新しい服のデザインを相談したくって。いつもセットで作ってるけど、それを二組にして欲しいんだ。同じドレスを同時に着たり、可愛いでしょ?」
「ええ、ウル様は男の子の格好も女の子の格好もとてもよくお似合いですもの。そちらの子も男装をさせるのですね。きっと可愛らしいわ。ちょうど上等の生地が手に入ったから、ウルお坊ちゃまにも見ていただきたかったの」
 お坊ちゃまは実はお嬢様だということだろうか。女の子の男装は珍しくない。
「リファよかったねぇ。アリサの腕はいいんだよ。アリサがいいって言うものは本当にいいんだ」
「そんなに信用されてるんですか? じゃあ、どうしてお屋敷に置いておかないんです?」
「だって、昔から仕立屋なんだもん。ボクが囲っていたら意味がないよ。仕立屋をやっていてこその仕立屋なんだから。ボク専用なんてつまらない」
「そっか。ウル様かしこーい」
 何が賢いのか理解できない。とにかく、いかにも裕福層のお坊ちゃまは、仕立屋を召し抱えられるほど裕福で、なのにわざわざここに通っているようだ。本当に召し抱えようという気もないらしく、頻繁に来る奇妙だがいい客である。なにせ納期は指定しないし、無茶な注文はしないですべてこちらに負かせて、しかも金払いがいい。ケチな大人を相手にするよりも、よほどいい客だ。
 二人が騒いでいると、奥からこの店の主、アリトがエプロンを外しながら出てきた。
「おやおや。賑やかだと思えば、ウル様。ようこそおいでくださいました。誰か、お茶を二人分用意してくれ」
 誰かが準備していたのだろう。お茶と菓子はあっという間に出てくる。それだけウルが特別な客だということだ。
「このお茶美味しいね」
「美容にいいらしいですよ。そろそろいらっしゃると思ってたから、奮発しました」
「そうなんだ。いい子だね、アリト」
 ウルとリファはよくにた風にくすくすと笑う。
 不思議な子達だ。
「アリサ、お腹すいたから夕飯食べてく」
「あらあら。まだ何も用意してませんのよ? いっそ、食べにまいりますか?」
「別に美味しければいいよ」
「はい。近所の食堂がとっても美味しいんです。庶民的な味ですが、ウルお坊ちゃまならお気に召してくださいますわ」
「じゃあ、アリト、宿の手配をして。忙しかったら他の誰かに頼むけど」
「構いませんよ。夕飯はうちの連中もご一緒しますが、よろしかったですかね」
「かまわないよ。ボクは寛大だから」
 尊大の間違いな気はするが、金持ちの割に庶民を見下さないのは彼の良いところだ。


 翌日、女の子の採寸をした。ウルは前と同じでいいと拒否して、布を当てて合わせている。
「こんな感じにギャザーを入れて、スカートはフレアをたくさんつけましょうか」
「うん、いいね。リファ可愛いよ。ベルも来れば良かったのにね」
「メイド服なんて汚れるから安くていいって。昔からあんまり服とかに興味なかったから」
「可愛いのにねぇ。斧を振り回すのに邪魔だからかな?」
 メイドが薪割りをするのだろうか。小姓を雇えないとは考えられないから理解できない。
 アリサは紙に書いたラフを見せ、ウルに変更点を尋ねる。元々、彼女はデザインが好きで暇があればしているが、そのほとんどはこのウルが身にまとうことになるものだった。
「アリサ、誰か来るよ」
「誰か……失礼します」
 アリサは店頭に戻り、その間にルドは次の布を広げる。
 四着をぎりぎり作れるだけしかない、上等の生地だ。子供にはもったいないのだが、ウルは気に入ったようで彼が持つ布を撫でる。
「いい色だね。アーベルのところで仕入れた布だ」
「よく触れただけで分かりますね」
「染料が特殊でね、どんな色をしていてもなんとなく分かるんだよ」
 そこまでルドには分からない。確かにこれはアーベル夫婦から仕入れた布だ。夫婦で出来ただけを卸し、王族でもなかなか手に入らないことで有名なだ。その上、アーベルは生活には困っていないので、気に入った相手にしか卸さない。この店にはよく卸してもらっているが、それでも多くはない。
 本当に上得意の客へ、店主の判断でのみ見せている。
 ウルはこの店にとってどの程度の客であるか、この扱いだけでも分かる。そして見目があるからこそ、より特別になるのだ。
「そういえばウル様は、どちらのお住まいなんですか?」
「ユグノだよ」
「そんな遠いところから」
「そんなことないよ。うちの馬車なら半日もあればつくし」
 馬車でも丸一日はかかりそうな距離のはずだか、特別な人間は乗る馬車まで特別なのだろうか。
「うるさいばあやがいないから、けっこう自由を満喫できるからいい気晴らしになるよ」
 この年頃なら、遠出も遊びの一つ。体力もあるから旅行と思えば通うのも楽しみになる。良家でこの年頃では厳しい教育も受けているだろう。男装も抑圧から来るものかも知れない。
「君はここに来てどれぐらいだっけ。前に来たときからいたような気がするけど」
「はい。前回ウル様がいらっしゃった少し前です」
「ふぅん。アリサが見込みがあるって言っていたから、大きくなったらボクのドレスを仕立てられるぐらいになってね」
 ウルは笑みを浮かべて言った。そんな彼に、連れの少女が声をかける。
「ウル様、アリサさんはどれぐらいウル様のことご存じなんですか?」
「君の知ってることぐらいは知ってるよ。君の中にあるのとは違うけど、似たようなのが代々あるからね。ボクの家系は昔から似たようなものらしいんだ」
「親戚なんですか?」
「馬鹿らしいぐらい遠いけど、母方の親戚だよ」
「へぇ」
 それで親しくしているのだろうか。どちらにしても、美人の家系だということは確信した。美人の服は作りがいがある。どうやっても似合うのだ。だったら、より美しくなるように仕上げたい。それを着て貰えれば嬉しい。それを良いと思ってもらえることが嬉しい。
 この目の肥えたお坊ちゃまが大人になったとき、本当に自分の仕立てた服を着てもらえたらどれほど嬉しいか、どれほど満足できるか、想像もつかない。
「アリサ、まだ戻ってこないね」
 ウルは部屋を出て店頭へと向かう。
 布を置いて慌てて追うと、あの貴族の放蕩息子がアリサを熱心に口説いていた。手を握って。
「大丈夫。君は僕が守るよ。もう母にも兄にも手出しをさせない。君はただ、はいと言ってくれればいいんだ」
「もう、いやですわ。ご冗談が過ぎましてよ」
「君に辛い思いはさせないよ。本当だとも。これを受け取って欲しいんだ」
 手を離し、指輪を見せる。ウルがそれをのぞき見て、鼻で笑う。
「大きいし立派に見えるけど、安石だね。本物に似せた偽物だよ」
「まあ、さすがはウル様。見ただけでおわかりになるなんて。
 アルベート様、お戯れはそれが好きな方にどうぞ。騙されたふりをされて喜びますわ」
 ふりであって、内心では笑われている。そんな毒を含んだ言葉に、アルベートの頬に朱が刺す。
 いつもはぐらかしていたが、ここまで言うのは初めてだ。
「私、今とても大切なお客様をお迎えしておりますの」
 止めた方がいいのだろうか。彼は客としては最悪なので、来なくなるだけなら問題ない。来なくなるだけなら。
「怖い顔」
 いつの間にかウルの背後に立っていたリファが言う。
「これはしつこくして嫌われて逆ギレしそうな男の顔だよ」
「いい男はしつこく口説いたりしないって、ロバスさんが言ってました」
「そうだね。しつこいのは嫌われるからね。熱心なのはいいけど、空気は読めないと無駄だね」
 子供達の正論に、さらに顔をゆがめる。
「ふざけるなっ! なんだい、この失礼な子供は」
「うちの大切なお客様です」
「ここは、子供服まで作るのか! 仕事は選んだらどうだいっ!?」
「次男のアルベート様と違い、この方はすでに当主であられます。その上、一族での付き合いもございますから、アルベート様の百倍はお得意様ですの。現在着られている服も、アルベート様が注文されるものの三倍はしますのよ」
 普段着がアルベートの夜会服の三倍というのも、悲しい現実だ。
「ウル様、父がお菓子を買ってきてくれたと思うので、奥でお茶をどうぞ。ルド君、ウル様のご案内を」
「でも……」
「平気よ」
 ウルが先に行ってしまう。彼女のことだから問題ないだろうが、不安だ。誰かに声をかけて様子を見に行ってもらおうか。
「アリサはね、大丈夫だよ」
 ウルが振り返り言う。
 一瞬、その足下の影がうごめいて見えた気がした。もちろん錯覚だろうが、アリサに対する心配よりも、もっと別の危機感が生まれたような気がした。
 正体の掴めない、ざわめきが胸にある。
 その理由すらも分からないまま、ふわふわする足を動かして、彼について行く。
 なぜだか、恐ろしく思うと同時に、安堵を覚えているのが、とても不思議だった。


 毒を吐く。
 吐いた毒は、自身を蝕むことがあっても、人は毒を吐く。
「ああ、腹が立つ」
 男はグラスを壁にぶつけ、中身を用意した女が密かに顔をしかめた。
「あの女、何が得意様だ」
 荒れた男を女は快く思っていない様子だ。金払いは悪くないのだが、物に当たる男はそのうち手も出る。そうなってしまうと、金では足りぬほど害ある客になる。
 この男が落ちない女に躍起になっているのは知っていた。評判の美人で、仕立屋の娘。彼女もよそ行きのドレスを頼んだことがあるので、値段なりの仕上がりになる事を知っている。ケチらなければ立派なドレスが、ケチればそれなりのドレスができあがる。それにしても、素人では素材の差などなかなか分からない。
 揶揄するように、値段相応の出来になるのだ。
 相応の対応をされたのだと、容易に想像がつく。
 彼女はどこまでも冷めた気分で男を見ていた。
 先のない男よりも、兄のほうがよほど客としてはよかったが、現実はこれだ。
「一番はじめに生まれてきたからと何が偉いんだっ。無能の兄貴ですら、長男ってだけで家を自由に出来る。馬鹿らしい」
 その無能な長男と彼にどんな差があるのか。
 節度のある兄の方がよほどいい当主である。
 この男に比べて、裕福で金払いのいい子供なら、願ってもない客ではないか。可愛くて裕福な男の子の相手を出来るなら、彼女だってそちらを選びたい。この口だけ男よりはよほどいい。
「落ち着いてくださいませ。ただのお針子でしょう。身の程をわきまえて身を引いているのですわ」
 これの愛人になるのは大変だ。店に通われる分にはいいが、囲われるとなると彼の母親が黙っていないだろう。悪い女に騙されて可哀想な坊や。そうやって始末するのだ。そこまで落ちるわけにはいかないが、何が気に入ったのかこの男は彼女の元へと通う。
 ふと、部屋の隅で何かが動いたような気がした。目をこすってからもう一度見るが何もない。何もないと思ったところに、いつの間にか知らぬ女が立っていた。
 女の子だ。まだ幼さのある、可愛らしい女の子。目が合うと、にぃと笑った。
 声が出なかった。ただ茫然と見ていると、男はその視線を追い、女の子の存在に気づく。
「お前は昼間の!」
「こんにちは、若様。私、堕落のウル様の飼い犬、リファと申します」
 ウル、という名にはあまり良くない意味がある。だから誰も子供に付けない。
 最近、その気味の悪い名を持つ子供の姿をしたモノがいると、怪談話のように囁かされてる。
 堕落のウル。
 狂乱のウル。
 殺戮のウル。
 関わる者は近い身内から殺されていく。
 契約もなく悪魔が傅いた。
 実在するかもどうか分からない噂だけが広まるその名を、少女は出した。部屋に突然現れた少女が、その名を口にする意味。
 その小さな手には、不釣り合いな大きな槌を持っている。
「いつの間に、どうやって入ってきた!?」
 彼女は男から離れ、床に跪く。
 噂だ。
 ただの噂。
 しかし、それが本当であった場合、こうすべきだと本能が告げていた。
 この商売は危ない橋を渡ることは多い。聞いてはいけないことを聞いたり、見てはいけないものを見る。その時どうすべきなのか、それを探り出す嗅覚が大切なのだ。
 案の定、女の子は彼女をちらと見るが、すぐに視線を馬鹿な男へと向けた。
 目当てでないのなら、下手に動くよりも服従の意志を示す。逃げても外に誰かがいるかも知れない。それこそ『ウル』がいるかもしれない。
「やっぱり、空気が読めない人ですね。あちらのお姉さんの方が心得ている」
 顔を下げ、息を潜める。殺されるかも知れない。殺されないかも知れない。逃げるならば、本当に逃げるべき時を待たなければならない。
 慌てて逃げる者から死ぬのだと、誰かに聞いた。誰か、おそらく傭兵か何かしている客から聞いた。
「本当はウル様が来たがったんですけど、あのお姉さんが止めるからまず私が来ました」
 彼女には大きすぎる土建用の槌を右手だけで持ち上げる。左手には杭。
「ウル様は不機嫌です。とてもとても不機嫌です。
 私はウル様の不機嫌が恐ろしい。ウル様が動くと、三親等ぐらいまでは皆殺しだから。
 私が出ている今が、一番被害が少なくてすむんです」
 そう言って笑う。
 笑顔だけは妖精のように可愛いらしい。
「大変なんですよ、後始末とか。愚痴を聞くのは姉さんだから」
「何を訳の分からないことを!」
 若様が女の子に寄るとその頬を叩いた。女の子は叩かれるままに叩かれ、顔を背けたまま頬を撫でる。
「私を誰だと思っている!」
「刃向かう相手が何なのか理解できないほど本能の薄れた馬鹿ですね。普通は、感じ取るモノなのだけど」
 赤く腫れた頬。その頬が割け、気味の悪い虫が飛び出た。
「なっ」
 ミミズにもウジにも似た長い虫は、頬を這い、耳から体内へと戻る。
 それが完全に頬から出ると、その傷は瞬く間にふさがり、わずかに出た血を手の甲でぬぐうと腫れも引いて、虫が隠れてしまうと完全に元に戻る。
「気色の悪い!」
「ウル様に頂いた虫です。怪我や病気や老いから守ってくれるけど、大人が寄生されると頭まで乗っ取られるんですよ」
 杭を持った手を伸ばされ、若様は後ずさる。
「でも、痛みはあります」
 女の子は笑う。小さな口を横に伸ばし、不気味に笑う。そんな不気味さも、また妖精のようだった。
「私も良心の呵責なしに行えます」
 若様は壁際に追い込まれた。
「選ばせて差し上げます。
 親殺し、兄殺しの罪で処刑されるのと、ここで苦しんで死ぬの、どちらがお好みですか?」
 どちらも死。
 すでに逃げられないところまで来ている。
 彼女はそれでも動かない。動いたら先に殺されそうな気がした。
「馬鹿なっ! どうして僕が死ななきゃならない!」
「ウル様を不快にさせた、それだけです。それだけで死ななければならなくなるようなお方なんです、あの方は。
 生き残る道はもう閉ざされています。ウル様は貴方が生きているのが気に食わないから、私から逃げたらもっと苦しみますよ。私と違って、苦しませることに長けた方達ですから。
 もちろん私は逃がすつもりはありませんけど。
 ウル様に殺されたくはないから、多少は苦しんで死んでいただかなくては」
 彼女だったら撲殺か、それとももっと別の苦しい死の準備があるのか。
 彼女からしても、ウルを満足させねばならない。
「だまれ、なんなんだお前はっ」
「だから、ウル様のお使いです」
 聞き分けのない若様に言い含めるように言う。その手に凶器さえなければ、可愛らしい女の子のいたずらにも見えただろう。
 しかし現実にあるのは狂気に命じられた執行人の姿。
「くそ」
 若様はベッドを乗り越え、逃げようと出口に向かう。このまま追いかけっこしてくれればいいのだ。そうすれば安全な場所に逃げられる。一人残され、忘れられればいいのだ。
「ダメですよ。そっちは危ないですよ」
 女の子の言葉で彼女の背筋に寒気が走った。
 若様の悲鳴が響く。
 それが終わる前に若様の声ごと気配が消えた。振り返ると若様の姿はなく、何もない。ドアを開けた気配もなかったのに、いない。
「あらら。だからここで選択するのが一番楽な方法だったのに。あの人どうなるんだろう。え? 数ヶ月かけて食べられるの? その間生きてるの? すごいのね」
 女の子は見えない何かと会話した。
 あそこに、何がいたのだろうか。いや、まだいるのかも知れない。
 もしも自分が逃げていたらと思うと、身体が震えて首も回らない。目もそらせない。
「お姉さん、もういないから動いていいよ」
 女の子が普通に笑いながら声をかけてくる。
「ウル様は賢明な人は好きなんですって。うかつに逃げない、動かない、逆らわない、そんな人が」
 手が、足が震える。
 緊張がとけたとたん、恐怖に襲われる。今は動きたくとも動けない。いなくなった若様の悲鳴が、頭から離れない。
「若様の姿をした子がそこから出て行ったから、お姉さんが疑われることはないよ」
 目が回る。それでも音を拾い、生き残るための道を探る。
 最後まで、最後まで気を抜いてはいけない。
「生活は普通に出来きますよ。おかしな事さえしなければ。ウル様は千里先の様子も分かる方。だからこそ、間違えないですから」
 口を閉ざせばいい。
 見たことを忘れればいい。
 簡単だ。一人の男が殺されただけ。客が殺されるなどよくあること。
「もしも何かあったら、仕立屋のアリサさんに相談すればいいよ。アリサさんは賢明だから、ウル様のお気に入りなの」
 こくりと首を落とすように頷いた。これが精一杯で、倒れ込むことも出来ない。
「じゃあ、ごきげんよう」
 女の子はそう言って、姿を消した。
 それから日が昇るまで彼女はふるえが治まるのを待っていた。


 いつものように朝が始まり、以前よりも静かな昨日に感謝し、今日もそうであることを祈りながら店を開いた。
「今日は天気がいいですねぇ。最近、あの若様が来ないから気が楽ですし」
 何でも家出中らしい。母親は行方不明として探しているようだが、束縛が嫌になって出て行ったのだろうと噂されている。アリサを口説いていることで、そのアリサを拉致同然に屋敷に連れ去り脅しをかけたというのも噂になっていて、誰もが出て行きたくなるだろうと口にしている。
「本当に、若様ったらいい年して家出なんて、どこに行かれたのかしらねぇ」
 アリサはくすくす笑いながら、今日納品予定の服をチェックしている。あのお坊ちゃま、ウルが来るのだ。一つのテーマにつき男女二着ずつを作るものだから、親方とアリサはそれに付きっきりだった。本当にほれぼれするように可愛らしい服ができあがり、あの尊大なウルお坊ちゃまが喜ぶ姿が目に浮かぶ。
 彼は裕福で偉そうだが、若様と違って下々の者を見下すことがない、素直で可愛い子だ。
 可愛い子のはずだ。
 なのに、なぜか引っかかる。
 嫌っているわけではないのだが、何かが引っかかる。
「どうしたの、ルド君」
「いや、坊ちゃまも少しは大きくなっているかなと」
「ウル様は……ずっとあのままでいらっしゃるかと」
「え?」
「そのうち分かるわ」
「小柄な家系なんですか?」
「そうね」
 やはり女の子の男装なのかもしれない。体格のことは口にしない方が良いだろう。彼を怒らせるのはどうしてか恐ろしい。
 恐ろしいと感じて、ぎょっとした。
 なぜ恐ろしいなどと感じるのだろうか。裕福な家の子だが、横暴でもなく、とてもいい子のに。
「ルド君」
「は、はいっ」
 考え込んでいると、アリサに声をかけられた。いつの間にか、彼女が正面に立っている。
「悩むことはないの」
「え?」
「本能から感じ取るなら、それはいい事よ。感じ取れないで消えゆく者もいるの。何も知らずに、消えてしまう者が。
 君は、感じ取れるのなら、それを信じていて。それが君の将来を大きく左右することになるわ」
 アリサは背伸びをしてルドの頭を撫でる。彼女の微笑みは、心を麻痺させる。
「あら、もういらっしゃったわ」
 アリサが外へと迎えに行き、アリサのデザインらしきスーツとドレスに身を包んだウルとリファが店内に入る。
 一瞬、どちらがどちらか分からなくなった。兄妹のようには見えても、そこまで似ていなかったはずなのに。
「今度ね、友達が結婚をするんだ。だからお嫁さんのドレスを作ってあげて欲しいんだ。とびきり、最高のドレスを。ビックリするぐらいのがいいね」
「ビックリするぐらいですか?」
「ボクの威信にかけて、金に糸目は一切付けないよ。アリトと一緒に行ってあげて。これ住所」
「まあ……この方、ご結婚されるんですか。意外です」
「だからこそ、行ってあげて。ボクは優しいご主人様だから、ペットの見つけたお嫁さんには逃げられないように、たっぷりと金をかけてやらないと」
 彼の口にした単語に驚いた。
 ペットとは何だろう。言葉通りなら、馬鹿馬鹿しいほど贅沢で、もしも人間だとしたら、それはそれで問題だ。
「では、腕によりをかけます。前々から作ってみたかったウエディングドレスの構造がありますわ。手間と資金の問題があったので、なかなか作る機会がなかったんです。お金はたっぷりかかります」
「アリサに任せるよ」
「では、任されます。
 ルド君、お茶の準備を。これから忙しくなるわよ。今日からしばらく新規の注文は控えないと」
「はいっ」
 驚きと困惑と恐怖と畏怖が根本にあるのに、なぜだか楽しいと思えた。
 理由は分からない。しかし、逸興なる少年のために動く事を、恐怖達が後押しするこの訳の分からぬ状況は、悪くないとすら思えた。
 なぜだか分からない。
 分からないが、アリサもアリトも楽しげで、自分だけではないと思うと、その『本能』に身を任せるのは、悪くないことのような気がして、どうせなら思い切り楽しもうと決めた。
「じゃあ、今の仕事はさっさとかたさないとだめですねぇ」
「そうそう。その前にお茶ね。君のいれたお茶って美味しいのよ」
 褒められることがこれでは、楽しみに参加するのももう少し先だ。が、それはそれで構わない。
 自分が頑張ればいいだけだ。頑張れば、きっともっと楽しくなるのだろう。
 この店で働けて、本当に幸せだ。


 

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