このお話は、本当にあった出来事を元に作られています。ネタっぽいところほど実話です。


 私はちょっと小粋な喫茶店のアルバイトである。洒落た感じにウェイトレスと言いたい所だが、私服のブラウスとジーンズに黒のエプロンをウェイトレスと言うと、ウェイトレスに偏見を持つ方々になにか言われそうなので、ただの店員と言っておく。まあ横文字なんぞ私のがらではない。
 喫茶レストラン「胡蝶蘭」という店名の通り、少しファミレス寄りの喫茶店だ。料理のメニューがしっかりしているのは、マスターが料理好きだからである。そのマスターが渋くていい男なのだ。アルバイト歴は半年と少し。んまあ楽しくやっている。基本的には平和な店なのだが、時々その平和は崩れる。
 今日はつい最近出没した、平和を破壊してくれた客とは言えない客の話をしよう。他にも平凡を崩してくれる客はいるが、客は客だ。そいつは客ですらなかった。
 確か、その日はランチが終わり、ちょうど誰もいなくなった、いつも暇な2時頃だった。
 その名も命名「ペーパーナイフジジイ」である。


 
 私がいつものように置物の掃除をしていたときである。
 からぁん、とドアベルが鳴り、私は慌ててカウンターの中に戻り消毒液で手を洗うために手洗い場に向き直った。汚れているので念入りに手を洗おうと蛇口をひねると、入ってきた客が言う。
「か……かか、金を出せ」
 それは蚊の鳴くような小さな声だった。見ないようにちらと横目で見る。髪は結んでいるが、この前美容院でストパーをかけて段を思い切りつけてもらったため、髪はすべて髪ゴムまでは届かず、それがさらさらと落ちて目元を隠してくれる。
 さらさらヘアカーテンの向こうに見えたのは、ヨボヨボのジジイだった。私でもどうにかできそうだ。が、ナイフを持っている。ナイフを持っているのは問題だ。大きな問題である。ナイフをもたれると子供相手でも恐──。
 …………………………って、よく見りゃペーパーナイフじゃん。
 しかも殺傷力のなさそうな切れ味の悪そうなペーパーナイフだった。
 私はあっけにとられたが、それでも耐えて平常を装った。
 つかそれでどうするつもりだジジイ。そこまでもうろくしたジジイが、強盗なんてするなよジジイ。出直せジジイ。フライパン投げるぞジジイ。
 しかしあれでも刺されれば食事用のナイフ刺される程度には痛いと思うので、私もさすがに考えた。
 誰か来い。
 こういう時にこそ来い、変でもいいから客。説教オヤジだろうが、妖怪厚化粧悪臭激甘党肥満ババアでもいい。ギター男だろうがかまわんから来い。ギター男が来たら、思う存分歌うがいい。説教も効いてやる。ババアもバナナジュースのにチョコがけバナナを添えておいてやる。今日は許す。ああ、許すさ!
 しかし私の思いとは裏腹に、表には人すら通りかからない。時折車は通るが、こんな状況など分かるはずもない。しかも今はマスターは買い物中で、店には正真正銘私一人。こんな喫茶店に、警報装置などなければセ○ムもない。
 とりあえず、私は気づかない振りをして、手を拭いた。
「か、か、金を、だせっ」
 先ほどよりは強いが、店の音楽にかき消されそうな声だった。うちの店で飼われているデブネコの方がよほど存在感がある。ちなみに、飲食店にもかかわらず、ここでは三匹のネコを飼っている。犬だったらよかったのにと今思ったが、散歩をする時間がないので飼えないという理由を聞かされたので、仕方がないと思っている。仕事は増やしたくない。ペットの世話もバイトの仕事だから。
 とりあえず私は、気づかないふりをして水をついだ。おしぼりを取り出し、ジジイが席に着くのを待つふりをする。
 そんな私に苛立ったか、ジジイはさらに前に出た。
「か、金を……金を出せっ!」
 あ、声を張り上げたよこのじぃちゃんは。こういう時は、どうしよう。とりあえず、ジジイの気をそぐことが大切である。
「あ、ごめんなさいね。この柿、百均で買った偽物なんですよ。だから柿はおいてないんですよ」
 私はカウンターの上に置いてあるかごの中のニセ柿を持ち上げる。
 とりあえず、天然を装って返してみた。
 どうだ、秘技聞き間違えました攻撃だ。これがけっこうきくんだよね、こういう悪意のある相手の場合。
 ジジイはぽかんと口を開き、私を見た。
「おじいちゃん、それペーパーナイフだよ。これじゃあ柿は剥けないよ。
 あ、ミカンならあるから、ミカンつけてあげますよ。このミカンは本物なんですよ。近所のおばあちゃんが持ってきてくれるんですよ。庭の木で取ったっていう割には甘いんですよね」
 ちなみにこれは本当だ。
 いつもコーヒーをブラックで飲む姉妹。一人は可愛い感じで、一人はしゃがれ声で愛想のいい感じのばぁちゃんだ。マスターはしゃがれ声の方が印象に強いのか、姉妹を「ガミガミシスターズ」と呼んでいる。いつもこちらに話しかけてくるから、段々とその呼び名の本当の意味が身に染みてくる。ここのコーヒーを飲むのが毎日の楽しみらしく、片方が来られない時は、片方が来てコーヒーを水筒に入れて持って帰る。日数的に、たぶん病気だったりすると思う。ブラックなんて飲んでいいのかとマスターと話しているが、楽しみを奪うわけにもいかずに、好きにさせている。家族も知っているから、ダメなら家族が止めるだろう、きっと。
 話がずれた。
 あのばーちゃんたちのことはどうでもいい。来てくれれば嬉しいが。
「で、ご注文は?」
「え……」
「かきはないですよ。コーヒーにします?」
「れ、冷珈を」
「はいはい」
 とりあえず無力化した。こうやってはぐらかされると、本来の目的を忘れるのだ。あとは誰か来てくれればいいのだが……と思っていると、ドアに黒い影がさしかかる。
 天の助け!
 そう思った瞬間、私の顔は引きつった。ジジイも私の顔を見て不審に思ったらしく振り返り、固まる。
「おお、感じのいい店ではないか!」
 劇団員ですかという、ちょっとセクシーな野太い声。いつか見た荒削りだが味のある彫刻に似た、野性的で渋いお顔。逞しい体躯。
 見た目、好みのオジサマだった。マスター以来の大ヒットである。ああ、素敵、とうっとりしたいものだが、彼の姿がいけなかった。
 縦巻ロールの金髪のカツラは少しずれて、下にある黒く癖のある短い髪が見えていた。着ているブラウスは少し小さく、ぱっつんぱっつんだった。上着はいかにもギャル風で、ピンクのタイトなミニスカからは、マッチョで毛深い生足が見えた。お顔の方は格好いい顔を損なう歪んだメイクがされていて、小学生の初めてのメイクという雰囲気で口紅ははみ出し、アイシャドーは濃くてグラデーションも何もない。
 神様、どうせよこすなら見た目は普通のギター男止まりのでお願いします。あいつただギターかき鳴らして語りながらパフェ食べるだけだし。
 寄りにも寄って、なぜこんな存在感が濃いのを寄越されたのですか神様仏様。
「い、いらっしゃいませぇ」
 声が裏返った。ふつうのオカマなら普通に対処できるけど、この嫌がらせのような女装を見て、一般人にどうしろと言うのだろうか。何かの罰ゲームだろうか。にしても、うちに来なくても……。
 下手くそな女装オヤジはカウンターに座り、メニューに目を通し始めた。
「ん、胡蝶蘭か。いい名だ。最も高貴な蝶の花。見事に花咲かせている」
 ああ、確かにうちには胡蝶蘭いくつもありますよ。店の名前だし、マスターが好きだし。私が世話してるけど。
「店の作りも素晴らしい。どこか古風で現代的だ。うん、素晴らしい」
 あの、女装してる割には口調は堅くて渋いんですけど、その姿でそれはやめてください。ショック大きいです。
 私はそれからしばらく強盗と変態と向き合って接客した。いや、出すもの出して無視したとも言う。ジジイは腰が抜けたか、座ったまま動けないでいる。
 私も帰りたいよまったく畜生。
 時計を見ると、時間は少し過ぎて、再び客が来る頃だ。ほんの十分でも、客の入りというのは違う。あと少し耐えればいい。
 ……って、この女装おっさん見て逃げられたらどうすればいいんだろう。可能性かなり高いんだけど。
 そう思っていると、突然店の電話が鳴る。私はそれに飛びついた。買い物に行っているマスターなら助かる。
『あ、胡蝶蘭さん?』
 客からの電話だった。
「……山田さん?」
 山田さんはご近所さんだ。いつも出前を頼んでくる。仕事場を離れられないけどうちのコーヒーが飲みたくなるらしい。
『茜ちゃんか。出前頼める?』
「もう嫌だ。そんなこと言ってないで来てくださいよ」
『え、でも』
「いいからいいから。お仕事でしょ」
『……何かあったの?』
「つべこべ言わないでくださいよぉ。そんなこと言ってると怒っちゃいますよ」
 ジジイがいるからなかなか直接的な言葉では言えない。女装オヤジだろうが、すぐ近くに客があるので少しは安心。あの客なら頼めば取り押さえてくれそうな気はするが、あの客に恩を売りたくない。絶対に。
 ああ、私は差別しているさ。何が悪い。変な格好する方が悪いんだよ! 接して欲しければまともな女装をしてこい! オカマバーの麗しい皆々様を見習え!
『分かった。すぐにそっちに行くね』
 やった。これで大丈夫。仮にも柔道の有段者だ。この後本物のナイフが出てきても、ジジイには後れを取らないだろう。
 それから数分後、うちの裏にある交番勤務の山田さんがやって来て、ジジイを連れ帰ってくれた。
 女装の方は──少し迷ってそのまま置いていった。ちっ。


 ちなみに、その後ジジイはおとがめなしで釈放されたらしい。
 実害なかったし、凶器はあれだし、ボケとか入ってそうだし、警察署の方はめんどくさがってやる気なかったみたいだし、地方の新聞にすら載らなかった、ニュースとも言えないようなものだし、マスターはボケたジジイなんてどうでもいいって言うし。
 別にいいんだけどね。
 二度と来ないでくれるなら。
 
 

 あとがき

 さすがに、二人は同時には出現していません。
 ただの犯罪者ですが、なぜか凶器にならない可愛い凶器でした。
 女装のオジサマの方は出現場所以外は脚色一切なしで、見たまんまを表現してみました。
 好みだっただけに、繊細な乙女心は粉々になりましたよ。どこかにフリーのいいオヤジいませんかね。
 

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