光に満ちた日の終わり
1
「暗い場所にいました。石壁に囲まれた牢獄。唯一存在する窓には鉄格子。それは椅子に乗ろうが手の届かない場所にありました。
しかしそれらは私にとっては何の意味もないことでした。外は見えず、ただ一日の半分暖かさと光をくれるだけのものでした。
その当時は、そこから逃げるという考えすらありませんでした。
私は何も知らぬ獣にも劣る存在でした。
物心付く前に幽閉され、言葉も知らず、飢えと寒さを凌ぐ程度の扱いを受けてきました。時々眠らされてどこかへ連れていかれたようでした。今思えば健康診断などだったのでしょう。
私は人と話すことすらなく、触れられるときのほとんどは眠らされました。例外は簡単な世話をしていただくときだけでした」
向かい合う彼は私を睨みました。
私は彼の友人を殺しました。しかし、彼は私を殺せません。それでは彼の友人は犬死になってしまいうからです。わずかに存在した『殺される』可能性を頭に入れていなかったあの男が悪というのは、彼も理解しているからというのもあります。私が悪いわけではなく、ここにいるのは当然の権利である事も、賢い彼は嫌というほど理解しているはずです。
「では、なぜお前は話している。いや、話していた」
私がこうなる前も私は話していた。その事を言っているのでしょう。
「貴方達の言い方で言うなら、私は十の頃に賊にさらわれました。
私にとっては彼らは救いでした。彼らは私のことなどもののついでだったのですが、私にとってはそのついでが人生を大きく変えました。 私はその時初めて世界を知りました。その時の感情は、どういったものだったのかよく覚えていません。ただその眩しさと多くの知らない色に驚き、人の暖かさに恐怖を感じました。言葉も何も知らなかったので、その感動を深く記憶はしていません。めまぐるしいまでの強烈な……印象でした。その時、覚えることも理解していませんでした。生まれたばかりの赤ん坊よりはマシという程度の存在でしたから」
「…………知っている」
それはそうです。
彼はあの男、ハーネス様から信頼されていた。他の候補者も見ているはずです。
私の代わりにと育てていたにもかかわらず気に入ってしまい、隠されていた私を探し出すことを選んだほど、彼はハーネス様の心を掴んでいました。
その思いだけは、ハーネス様の中で輝いていました。
私は目を伏せ、言葉を考えました。
それは思い出すのも懐かしく、愛しい。
私の中で輝いていた長いようで短い時。私が人生を歩み始めた時。私が初めて心から歓迎された時。
「私は小さな村へと連れられました。風呂に入れられ、髪をとかれ、着替えさせられました。そういったことはいつも物言わぬ監視にしていただいていたので、私にとって場所が変わっただけで同じことでした。身体を洗われるときが、意識があるとき人に触れられていた唯一の例外でしたから。しかし、監視の手にはいつも手袋をはめられていて、人の手の温もりというものが全身を触れるのは少しばかり奇妙な感覚でした。
何よりも決定的な違いは、彼らは話しかけてきたことです。音、言葉、そんなものがあるのはなんとなく理解していたのですが、私は突然人の発する音を向けられて驚きました。私は言葉を向けられたことがなかったので、とても驚きました。身体を洗われることよりも、言葉を向けられることに対して非常に恐怖を覚えました。
私は彼らの言うことが分かりませんでした。だから私はよけいに怯えたのです。
彼らは仕方なく私に『人の言葉』を教えていきました。
始めは単語です。
水を飲むと『水』と発音し、『水』と文字を書いた紙を見せました。そして私に発音させました。出来るまで何度も。
空になると『カップ』と発音し、『カップ』と文字を書いた紙を見せました。また発音させます。
私はそれを始め煩わしく思っていました。しかし、そのうち出来るようになると楽しくなっていました。私は子供でしたから。
そのようなことを毎日繰り返すうちに、私はその音がそのものの名前だと知りました。名前という概念も理解していなかったので、その音を口にすると、それであることが伝わるということだけを、まるで動物のように理解しました。
理解してくれて、しかも微笑みながらそれを与えてくれたことが、なぜだか嬉しかった気がします。
私が一番に覚えた言葉は『パン』だったそうです。私は食い意地が張っていたと後々までも語られました」
私は彼が疑わしげな顔に気付きました。
彼はとても素直です。ハーネス様は彼のすべてを気に入っていました。このようなところも含めてすべて。
「あら、お疑いですか? この私が、五年前には何も知らぬ者であったこと。
それはそうですね。しかし私は元々知識を持っていたわけではありません。そして私が牢獄にいるときも、ハーネス様を裏切った者などいませんでした。私に声を掛けず、気配を殺し、私が理解する事を決して許しませんでした。非情に徹するということは、きっと難しいことなのだと思います。人形のような行動。私にはとても出来ません。きっと感情を見せてしまいます。彼らはとても素晴らしい役者でした。彼らの仕事は見事としか言いようがありませんでした。殺されてしまったことは、とても悲しく思います。
だからこそ、私も苦労しました。本当に何も分かりませんでした。その時から五年。五年でようやく今程度しゃべることが出来るようになりました。しかし今でも知らないごく普通の言葉は多くあります。貴方よりも人生経験は少ないものですから。言葉とは、意識しなければ意味のないもの。知識としてあっても、引き出せなければ意味がありませんもの」
だからこそ難しいのですが、彼は理解していないようです。この感覚を知らないのだから。
「私はしばらくして、自分にいつも付き添っている女性について興味を持ちました。以前私を世話していた女性は氷のような表情の人でした。それが仕事だったので、仕方がないといえば仕方がないのです。私はその女性の笑顔に心惹かれました。笑顔の意味も分からなかったのですが、世話役の女性と比べて、好感を持ちました。
いつしかは彼女がついて回るのではなく、私が彼女の後を追うようになっていました。
多くの緑に囲まれた近所を散歩したり、畑の草を抜くのを手伝いもしました。それは私にとって、とても楽しい遊びでした。初めて遊ぶ事を覚えた私は、彼女について遊びました。
しばらくすると、彼女とよく接触する男性と自分よりも小さな人間がいることに気付きました。
私は幼い子供に等しかった──いえ、十分幼かったので、その二人に嫉妬しました。その女性、アリスは私にとって母のような存在でした。
子供、エイダも母親を独占する私に嫉妬しました。まだ四つであった彼女の方が私の何倍も物を知っていたので、彼女が私を一方的に罵りました。私はその意味も分からず、怒鳴られているだけで言葉でもない音を獣のように唸っていただけです。しかし子供とは不思議なものです。しばらくすると、私の興味は彼女へも移り、共に遊ぶようになっていました。それから私は、彼女と共に世の中を学びました。
言葉の意味を理解してきたとき、彼女がアリスの娘であること。娘とは、エイダの父親と、アリスとの間にできた子供であること。私が彼女の従姉である事を知りました。
アリスは姉から奪われた子供を取り戻すため、そして貴方達の目的を阻止するために私を連れ出したそうです。
母は、最期まで私を離すまいと抵抗し、その時に殴られ、その怪我が元に亡くなったそうです。父もまた、ハーネス様の命令で処刑されています。
私はあの方に、知らぬ間に両親とやらを殺されていたのです。
しかしそれに関する怒りはありませんでした。私の中に記憶はありません。だからでしょう。
私にはアリスとその夫であるゼロがいました。そしてエイダも。しかも死というものをあまり理解していませんでした。もしも生きていたら、きっと嬉しかったのだろう。そう思う程度でした。
一年して日常会話程度をこなすようになった私は、ゼロに魔術というものを習いました。私がハーネス様に目をつけられたのは私自身の魔力ゆえに、ゼロはその必要性を感じたのだと思います。
そしてハーネスという悠久の時生きる魔術師が、なぜ私の魔力を求めたのか、私は教わらぬまま魔術を体得しました。魔力が高く、それを制御する能力に恵まれていた私は、苦労もなく何でもすぐに身につけました。おそらく、私を無知に獣のように育てたのは、そういった力を見抜いていたからでしょう。
私の魔術はすぐにゼロを追い抜きました。彼も昔は国仕えしていたそうですから、今思えば私が特殊だったのでしょう。しかし私は彼を魔術は下手だが、何でも知っている人だと思っていました。彼は様々な事を教えてくれました。言葉。文字。分法。そして歴史、地理、数学。魔術以外にも重きを置いて教えてくださいました」
また彼の顔つきが変わりました。
「その男はどうしている?」
「決まっています。知っているでしょう?」
ハーネス様の気性を知っていれば、推測できます。彼は俯きました。彼もまた、優しい人です。私のことを気にかれていたのは彼だけ。そして、私以上にハーネス様のことを心配していました。彼はハーネス様の弟子のようなものでした。
彼の残酷さも、彼の予測できない気まぐれさも知っている。
「一ヶ月前。
私は人としての知識もそこそこに、魔術について並み以上の知識を得ていました。人としては、どうなのでしょう。未熟だとしか言いようがありませんね。
村の青年に結婚を申し込まれたのですが、いまいちぴんときませんでした。
結婚すれば子を作るというのは理解していたのですが、私が子を育てるなどまだ早いでしょう。子供もこのような常識を知らない母親では哀れです。そういった理由で断ったのですが、アリスには叱られました。断る理由がそれでは相手がかわいそうだと。相手はしっかりとした青年なのだから、断る理由は『誰よりも好き』かどうか、たったそれだけでいいと。しかしそれ以外ではいけないのだと。もちろん、私に自信ができるまでは相手を待たせてもいいそうです。もしも待てないような度量の狭い男なら、容赦なく叩きのめせばいいと。
私はその男性よりもアリスの方が好きでしたから、待つも待たないもなく謝りに行きました。
その頃でしょうか。
村は襲われました。
どういった理由からか、ハーネス様に村の所在が知れてしまったのです。
ハーネス様は自分に逆らった者達の抹消、そして自分から奪っていった魔力の高い人間を取り戻す。その二つのを目的とし、彼自身がやってきました。
私が理解できずに呆然としていると、私を好いてくれていた青年が私の手を引いて逃げようと言いました。私が戸惑っていると、彼はやって来た兵士に弓で胸を貫かれて死にました。
私はその時、死というものを本当の意味で理解しました。
私は呆然と立ちすくみました。しかしそんな無防備な私を殺そうとする者はいませんでした。いえ、若い娘だけは生かしておくようにしたのでしょう。私がどのように成長したか分からないので、そういった条件の娘だけ生かすようにしていたようです。
幼い頃、私にりんごをくれ、それがリンゴであると教えてくれた女性の死体を見たとき、その兵士達が、大切な物を奪う『敵』だと突然理解しました。もうその時は半分以上の村人が殺されていました。
私は兵士達を殺しました。
兵士達は私に反撃できませんでした。私が魔法を使う、魔力のある金髪の娘だったからです。
彼らは私を避けるようにして、村人を追い詰めました。彼らは魔法騎士団です。村人達が訓練を積んでいたとはいえ、化け物とすら恐れられる彼らに、抵抗できるはずもありません。唯一それが可能なのはゼロでした。しかし剣の腕に覚えのない彼は、やがて追い詰められました。
私が駆けつけたときは、ゼロは死んでいました。ハーネス様の召喚した魔物に食い殺されて」
彼は息を飲みました。
当然です。ハーネス様がそこまでしているとは思っていなかったはずです。ハーネス様は彼の前でも残酷性を隠していませんでしたが、それを必要以上に見せ付けてもいませんでした。
「あら、なんて顔をされているのですか」
せいぜい、自らの手で殺す程度と思っていたでしょうね。
「貴方もあの方の気質をご存知なら、自らに逆らった者……その中でもリーダー格の者をただで殺さないのは想像が付くでしょう?
アリスもまた殺されていました。ハーネス様はゼロに妻が残酷に殺される様を見せ付けてから彼を殺したのです。
そのすべてを見ていたエイダは、今でも口が利けません。明るく活発であった彼女が、部屋に引きこもって暗い顔をしています。
でもよく生きていたでしょう。ゼロの娘でありながら」
彼は頷きました。
「ハーネス様はその時エイダも殺そうとしていました。しかし私が来ました。私は彼を殺そうとしました。しかし彼は私を殺すこと、傷つけることはできません。なにせ、彼の必要なのは私の身体だったのですから。
彼が魔力のある子供を私のように育てては、身体を取り替えていることを、その時私は初めて知りました。教えてくれたのは、その時駆けつけた村の人でした。その直後、その方はハーネス様に殺されました。
私はゼロから聞いたことを思い出しました。それについて彼はとても詳しく教えてくれたことがあったのです。彼は私の事を考えて事実は伝えずに、その術についてを教えてくれていました。
術を掛ける者は、相手よりも巧みでなければ成功しない術です。そして、意思の強い相手では、逆に食われてしまう術だと。だからこそ万全を期すため、彼は私に意思と思考を与えないために閉じ込めていたのだと悟りました。
彼は私を得るために、エイダを人質に、大人しくしていればこの娘は殺さないと言いました。私にはどうすることも出来ませんでした。彼女まで殺されるなど、私には耐えられませんでした。
村の人達は何人逃げ延びたのか、私にも分かりません。私は今までにないほど悲しく、悔しい思いを味わいました。
彼は私など所詮子供と侮っていました。
本当にそうです。私は未だに幼い。何百年生きた彼には敵うはずもありません。その生命と知識に対する執着心。魔力の扱い方。そして、存在。
彼から見れば私は、魔力は強いが未熟でしかなかったのでしょう。
しかしあの術の特性は、魔力の扱い方以上にその意思に左右されます。
私は自分の生命に対してはさほどの執着はありませんでした。
ただ、あのエイダを見て、私は決めました。
彼は私に抵抗したらエイダを殺されると言いました。しかし、私には信じられなかったのです。彼がエイダを生かしておくこと。私は全力で抵抗し、術の攻守を逆転させることに成功しました。
そして、結果がこれです」
彼の知識を手に入れ、身体はそのまま。そしてエイダの命も救うことが出来ました。
奇跡と言っていいでしょう。いくら私に才能があっても、彼に勝った事。
ここにこうしていること。
「私は彼のすべてを喰らいました。死んだのはハーネス様。勝ったのは私。知識を手に入れたのも、人生を手に入れたのも。
あなたのお友達には悪いのですが、私は天寿をまっとうしたいと思います。
この奪い取る形になってしまった知識と一緒に」
この国が欲しいのは、ハーネス様ではなく、その知識。入れ物が取り出しにくいものになってしまいましたが、消えたわけではない以上、私の大切なエイダを殺すお馬鹿さんは誰もいいということです。それこそ、私が失意の内に自害してしまうかもしれませんから。
「死を許すと思っているのか?」
「あの術を強制させることが出来ると思っているのですか? それに不安定な精神で行っても、逆に食われるのは目に見えています。繰り返せば知識の精度は落ち、劣化します。三代先には、ほとんどの知識は歪んでいるでしょう。一人の者が抱えるからこそ、意味があるのです。
それと、エイダを人質になど取った瞬間、私はこの国の中枢を破壊してしまうと思っていてください。あの方を思えば、それぐらい容易いことは理解できますね?」
私は微笑みました。笑うことはよいものだと思っていた私は、ハーネス様から奪い取った知識により、美しい物を汚く使う方法を知り驚きました。
世界のなんと汚れていること。
そして、今までの世界のなんと美しかったことか。
あそこで育った私は幸せです。
「私は将来死にます。ハーネス様のようには生きられません。
ただ、あの方が貴方にしたように、誰かに教えることは可能です。劣化してしまうのは仕方がありませんが、教え、書に残し、私はいつか死にます。
それまでは、この知識を人々の役に立てましょう。
しかし知識と力で人を傷つけるのは、もう嫌です」
私は出来るだけ美しい世界に生きたい。
争いのない、笑い合い、許しあえる世界。
そんなところに、エイダを住ませてあげたい。
私は彼──この国の第二王子、ハーネス様が心から愛した少年、可愛いハロイドの部屋を出ました。
私は部屋に戻ると、ベッドで丸くなるエイダに毛布をかけました。
「…………」
彼女はぼんやりとこちらを見ています。口を動かしますが、音は出ません。
「エイダ、起きていたの」
彼女はこくりと頷き私にしがみ付いてきました。
怖い夢を見たのでしょう。
「大丈夫。もう怖くはありませんよ。怖いものは、私が追い払ってあげますから」
私は調合したオイルの匂いを彼女にかがせました。それをかぐと、彼女は再び眠りに付きます。
夢も見ずに眠るでしょう。今彼女に何が必要なのかは分かりません。
だけど私は彼女のためにずっと側にいようと思います。
再び彼女が笑顔を取り戻すように。
決して離れはしません。彼女が幸せを掴むまで。
それが彼女の両親を奪う原因となってしまった私が、彼女に出来る唯一の償い。
そして、死んでしまった人達への弔い。
あとがき(蛇足に過ぎませんので、雰囲気を壊さないように背景に溶け込ませてあります。反転して見てください)
この話しのテーマは「ほぼ台詞だけで小説を作り上げる」でした。修正前と比べると、五倍ほど地の文が増えましたので、テーマ的にはやや失敗しました。本当は真ん中は全部名無しのゴンベイちゃんの(仮)語りだけの予定だったのですが……。