光に満ちた日の終わり4

 

4

 ふわふわのクッションが敷かれる丈夫な蔦で編まれた可愛らしいベビーキャリーが、部屋の中央に置かれたテーブルの上にある。
 その中には一人の男児が眠っていた。
 よく眠る子で、泣くことも食べることも忘れてずっと眠っている。ミルクを与えるためには無理矢理起こしてしまわなければならない。
 ほとんど泣かないこの可愛げのない赤ん坊には、たいそう大きな問題があった。使いようによっては、国をひっくり返すことも可能な大きな秘密だ。世の中には、偶然の産物を奇跡と呼びたがる者達がほとんどで、それを利用したがる愚者が存在する。
 腹の中にいる時、生まれる時、生まれてからもずっとこの赤子を見守ってきた彼にとって、それは胸が痛む事実だった。
「クインシー、名前はまだ決まっていないのですか?」
 元憎き上司であった、今も憎き上司を内に抱える少女が彼に尋ねる。
 彼の子ではないが、彼が今まで面倒を見てきた。この赤子を一番よく知っているのは実の親ではなく彼だろう。
「私の子ではないので決めているわけではありませんが、それの母親は無くなる前に男児であればアディスと言っていました。誰も知らぬ事ですので、そのまま使っても問題ありません」
 おそらく父親に何か言われていたのだろう。
「そうですか」
 意味深に頷く少女。
 ハーネスを乗っ取ったクレアと名乗る女。まだ幼さを残す少女だが、すでに美しく花開きかけている。五年もしたらさらに美しくなるだろう。ハーネスが是非に欲しいと思うのも理解できる見事な器である。見目が抜群によく、魔力の強く、その上ハーネスを逆に食らった最強の女。
 暗殺者を差し向けた愚かな男達は、彼女の術でその日に殺された。呪いはハーネスの得手としていた術。身を守るためなら、快く思わぬ術でも使うと彼女はその朝に宣言した。
 私を殺そうとする者は、殺される覚悟をしてください。ひょっとしたら、その中で一人ぐらい私に傷ぐらいなら付けられるかも知れません、と付け加えて。
 見た目だけなら可憐な美少女が、自らの手で引きずってきた死体の傍らで微笑み言うものだから、それは恐ろしかったそうだ。それを見て、何人かのハーネス達の信奉者は彼女に一生ついて行くと決めたらしい。
「この赤ん坊、本当に寝てばかりだな」
 ハロイドが赤ん坊の顔を覗き込み頬を突く。あのハーネスに愛されていた何も事情を知らぬ王子様は、今なお最強の魔術師に愛されている。
 その暢気な王子様は、暢気に子供を可愛いと思っているご様子だ。
「殿下。そのような不吉な子に触れられてはなりません」
 ハーネスに反感を持ち、最近まで左遷されていた男が諫める。クインシーと同じ穴の狢であるこの初老の男は有能で公平な男だが、今でもハーネスに関すると理不尽なまでの厳しさを見せた。
「知識はクレア様がお持ちですが、何があるか分かりません」
 つまりこの赤ん坊には知識があるはずがないと分かっていて、その言葉だ。
 この赤子はハーネスが死んだ日、死んだ時に生まれた。
 ゆえにハーネスの生まれ変わりではないかと言われている。
 それがただの魔術師なら馬鹿馬鹿しいと言えるのだが、相手はハーネスだ。最後の力でクレアに隠して、意図的に転生するという可能性も否定は出来ない。
 ハーネスという魔術士を知っていれば知っているほど、そう恐れるのは当然だ。
 その恐れは、利用しようと思えばいくらでも利用できる。
「そうですね」
 クレアも頷き立ち上がる。そして眠る赤子を抱き上げた。赤子は相変わらず眠っている。薔薇色に染まっている真白い頬が、彼が生きていることを一目で分からせる。
「可愛いですよハロイド」
「ああ」
 ハロイドは嬉しそうにアディスの顔を覗き込む。クレアの許可が出れば、他の誰も逆らえない。
 この国は未だに影の独裁者によって支配されている。前よりは多少良心的なところだけが救いの、可愛らしい独裁者だ。
「アルド、ハロイドはこれでも子供好きです。構うなと言っても無駄でしょう。目の前に可愛らしい赤子がいれば、抱いてみたくなるのが生物として正しいあり方です」
 動物の中に出さえ、自分の子でなくとも親無しがいれば育てるために乳が出るようになる種がある。同種どころか、他種であろうと育てる事も稀にある。
 人間が親無しの人間の赤ん坊を見れば、経済的に余裕がある限り面倒を見ようとするのは当然だ。
「しかし、反対です。もしもハーネス様のようになったら取り返しがつきません。もしくは旗頭にするような者が現れたら……」
 アルドはこの赤ん坊をここで育てる事に強く反対している。ハーネスかもしれない赤子を恐れている。まだ何も出来ない何も知らないこの赤ん坊が、ハーネスになることを皆が恐れている。
 恐怖であり英雄であった死した男を皆が恐れている。
 彼の信奉者達は、失った主をまだ捜している。
 彼らにとってクレアは主と同質であるが、受け入れ切れていない者もいるし、将来はどれほどの者がそうなるのか、想像もつかない。全てはクレアの采配一つ。それでこの子供の将来は大きく変わる。
「魔術と関わりを持たないような長閑な田舎町で、子供の出来ない純朴な夫婦に育てられるべきです。それがこの子のためではありませんか」
 必要があれば他人を陥れるのも辞さないが、無防備な幼い赤子は殺せない。強さと甘さが同時にあるからこそ、彼はここに立っている。ここであっさりと殺せと言う男なら、まずハーネスに逆らった時点で殺されていたのだから。
「しかしそれではもしもの時、何も出来ませんよ」
 クレアはアディスの頬にキスをする。
 彼女はハーネスでもあるが、ただの村娘でもある。子供を見る目は年相応に優しい。大人達に向ける微笑みとは違い本物だ。汚い世界を知り作り物の微笑みを覚えた少女も、無垢の前ではその仮面を外す。子供にぐらい気を許せなくては彼女も長くはもたないだろう。だからこれでいい。
「私はここで、責任を持ってこの子を育てる事に決めました」
 提案ではなく、決定。その権利を彼女は持っている。
「子供が子供を育てるようなものです。貴方自身はまだ独り身。子供も育てたことはないでしょう。ハーネス様も子供をお育てになるような方ではありませんでした」
「子育てをしたことがなかろうと、ハーネス様が元々子供を引き取っていたのは事実です。その延長と思えばいいんですよ。彼らのほとんどはハーネス様の私兵となっています」
 そして今は、クレアの私兵。彼女が彼らに見限られぬ限りは。
「ハーネス様が不在の今、魔術師の育成の手を抜けば、魔術国家と呼ばれるこの国がどうなるか、おわかりになるでしょう」
 もともと地形的に他国から攻められにくい国だが、一番厄介だと言われているのは魔術師の質。他国では魔術師の地位は高くない。それほど力のある教育を受けた魔術師が稀なのだ。その力がある魔術師は、他国では悪魔と契約して人間からは離れてしまう。悪魔との契約者となった魔道士は、人間を破滅させることはあっても、国を導くことはない。
 しかしこの国にはその心配がない。この国には悪魔はやって来ないからだ。
 ハーネスは人でありながら、悪魔が逸れる力を持っていた。悪魔が手を出したがらぬのか、面白いから手を出さないことにしたのかは分からない。しかし悪魔達がこの国に現れて魔術師と契約しないことは事実だ。
 その事実は大きく、ハーネスが悪魔に等しい力を持ち、つまりこの国は悪魔が守護するに等しい国という他国からの認識を得た。
 人間は死ぬなら人として死ぬことを望んでいる。
 しかしハーネスに掛かれば人として死ぬことすら出来ないと、他国の王は脅えている。ハーネスを悪魔と完全に同一視しているのだ。そんなはずはないのに、彼らは悪魔以上に彼を恐れている。それがこの国の強みだった。
 もしもそれがなくなれば、勘違いをしてよくを持つこともあるだろう。だからその対策が急務なのである。
「悪魔との契約はほんのわずかに寿命を延ばしますが、永遠に悪魔の奴隷となり、人としての尊厳を無くします。彼らに媚び売り、一分一秒を長く生きる事に必死になる必要があります。
 この国の魔術師はその意味を知っています。
 その教育方法に関してだけは、ハーネス様の方針を取り入れます。もちろんいいところだけ」
 教育の重要性は、この国の歴史を見れば明らかだ。
 しかしただそれだけの理由でアディスを育てようというのではないだろう。
 頑なになるのは彼女なりの贖罪だ。彼女は人も殺めたことがない、普通の女の子なのだから。
「しかし、この赤子にとってもここは危険ではありませんか」
「だからです。悪用しようという者が手を出せぬよう、私が育てます」
 クレアの態度に、ハロイドが首をかしげた。
 彼は何も知らない。大切に大切に育てられ、肝心なことは蚊帳の外だ。話は彼の知らぬ所で進められ、知らされることがあっても最後の最後。彼が意見する場もなく、決定してからのことだ。
「そんなにハーネスがいなくなったときに生まれた子供に意味があるのか? 魔力は高いみたいだけど普通の子だろ」
「ハーネス様が死んだときに生まれたという理由でなら、意味はまったくありませんよ。距離が離れていましたし、生まれ変わりだとしても、生まれ変わってしまったらまったくの別人」
 彼女は邪推する全てを切り捨てる様に言う。他者の意見も、他者の考える可能性も、何もかも。
「こんな話を知っていますか?
 昔、とても深く愛し合う悪魔と魔女がいました。ある時魔女は殺されてしまい、彼女を愛していた悪魔は全てをなげうって、生まれ変わった魔女を百年かけて見つけ出しました。
 しかし愛する彼女は巫女になっていて、悪魔のことを覚えておらず、脅え、汚らわしいと逃げ惑いました。
 悪魔は絶望のあまりに自ら命を絶ち、元魔女は『ああ、せいせいした』と言ったそうです」
 悪魔を殺した女の話。
 クインシーも一度耳にしたことがある。ハーネスから聞いたのだ。彼はこの話を気に入っていたのか、嫌悪していたのかどちらかだろう。
「転生など恐れるだけ、期待するだけ無駄です。悪魔でさえその記憶を取り戻すことは不可能。
 だから運命ならばこの子はどこにいてもハーネス様になり、英雄にもなります。それは他の子にも言えること。それら全てを恐れていては、全てを殺すしかありませんよ。
 それはハーネス様ですらしなかったこと。愚かな……」
 クレアは言葉を切った。
 大人しかったアディスが身動ぎし、泣き始めたのだ。
「あらあら。どうしましょう」
「おしめが濡れたんじゃないのか」
 ハロイドが揺りかごの周辺を覗き込み、道具がないか探す。
「私はこういうことは苦手なので、慣れている方に頼みましょう」
 クレアはアディスをあやしながら隣室に向かう。彼をずっと世話をしていたクインシーは、荷物を持って隣室に入った。見覚えのない顔の女の子と、アディスと同じほど問題を抱えている少年──エリオスが控えていた。
 少女は首をかしげてクレアを見つめた。
「ん、この子ですか? 可愛いでしょう。アディスというそうです」
 クレアはアディスを少女に渡す。
 ほとんど人前に顔を出すことはない、クレアの親類の少女というのが彼女だろう。名はエイダ。
「私は赤ん坊の世話が苦手だから、しばらく見ていてもらえますか」
 エイダはこくりと頷き、アディスを片手で抱き直して手を差し出した。クレアは首をかしげ、背後からやって来たハロイドは、クインシーの持つ荷をひったくり、それをエイダに差し出した。エイダは唇だけでありがとうと礼を言い、アディスを自分が座っていたソファに寝かす。手慣れた様子でおしめを取り替えはじめる。それを終えると濡れ布巾で手を拭いてから、荷の中に入れてあったミルクをほ乳瓶に入れて、光が灯る指を指揮するように動かした。光が消えた手をほ乳瓶に当てて、再び指を動かす。
「何をしているのですか」
 クレアに問われて少女はほ乳瓶をエリオスに手渡し、板を立てて指を動かす。
『ミルクを温めている』
 水が文字を浮かび上がらせ、彼女の意志を伝える。
 ゼロという一人の天才が得意としていたかなり特殊な魔術を、この幼い少女が造作もなく扱っている。素人ならミルクを温めるためるだけと侮るだろうが、人肌程度に暖めるなどというのは熱湯を作るよりも難しい。
『乳母は?』
「いません。さすがにこんな小さな乳飲み子を連れてくることは今までほとんどなかったので」
『母乳の方がいい』
「そうですね。世話をする者を雇わないと。でも難しいんですよ。簡単に声をかけられるところにいる者は、信頼できません」
 エイダは俯き目を伏せた。黒板を置き、手足を動かすアディスを抱いてミルクを飲ませる。
「大丈夫です。探す場所を変えればいいんですよ。父親のいない子を抱えた母親なら、悲しいことにどんな国にもたくさんいますから。その後も子供達の面倒を見てくれるような、子供好きな女性を」
 エイダは顔を上げずに頷いた。ゼロはハーネスに殺された。娘を人質にしてかなり残酷な殺され方をされたらしい。
「クレア。エイダに親のことは……」
「いいんですよ。これから彼女はたくさん現実を目にしなければならなくなります。その度に耳を塞いでいては前へは進みません。子供だからと心弱くあれるほど、平安な生き方は出来ませんから。これからは私が動きますから、否応なく巻き込まれます。
 それにこの子はもう顔を上げました。ハロイド様は子供も女も侮るのはやめた方がよろしい」
 彼女はアディスにミルクを与えている。手慣れたもので、普通に暮らしていた頃は子供の面倒を見ていたのだろう。
「でも、せっかく声が出るようになってきたのに、何も本人を目の前に言わなくても」
 エイダは顔を上げて首を横に振る。黒板を手に取り、それをエリオスが支えた。黒板から手を離し、再び文字を書く。
『大丈夫。私よりも小さな子が甘えさせてもらうことなく現実の中にいるから』
 彼女のように引きこもっていられるのは、庇護された恵まれた子供。この世界の大半が、どれほど辛い目にあおうとも、親がいなくなれば甘えることは出来なくなる。それでも強く生きている。
『この子の親は両方ともいないの』
「ええ、いません。母親はそこの彼──クインシーの妻でしたが、この子を生んですぐに亡くなりました」
 エイダはクインシーを見上げる。
 子供の世話などしたことがなった彼が、こんな目に合っている。彼女が死ななければ、他の誰かの妻であれば、このようなことにはならなかった。
 この子供が生まれるときに居合わせてしまった。
 抱いてしまった。
 あやしてしまった。
 一緒に寝てしまった。
「父親はハーネス様です」
 クレアの言葉にエイダが目を見開いた。
 強い覚悟を見せていた彼女は、自分の父親を殺した男の名を聞き固まった。
 エリオスが彼女を抱きしめ背を撫でる。
「ハーネスの……だと」
「ええ。間違いなく」
 驚愕して確認するハロイドに、クレアは断言する。
 ハーネスの息子。
 夫である彼に覚えはなく、美しいばかりであった妻の元へ気まぐれに通っていたのはハーネス一人。彼女がそう断言した。
 仮面夫婦であったが、妻の報復に近い裏切りが彼の関心を初めて彼女に向けた。彼女を意識し、強い感情を持った。胸の中で怒りがくすぶり、生まれた子をどうしてくれようかとずっと考えていた。しかしいざそのときになれば、怒りの矛先を向けるべき二人が死んでしまい、罪のない赤ん坊だけが残った。
 親無しの赤ん坊をこの混乱した最中処分できるほどの余裕はなく、クレアからの伝令が来るまでどうしようかと右往左往していた。
 クレアが引き取り育てる意志があると知ったとき、耳に入る噂は全てハーネスの策略で、本当は生きているのだと考えた。ハーネスもエリオスのことはそれなりに大切にしていたようだから、この自分の息子が気になったのだと。
 今でも少し疑っている。話をしてその疑いのほとんどは消えたが、未だに少しだけ残っている。他の者達もそうだ。だから賢明な者は態度を変えない。ハーネスを批判したり、クレアを無駄に称えたりということはしない。
 誰もが手をこまねいている。
「エリオスがいるから話しましたが、この事は内密にお願いします。もう大きなエリオスはともかく、こんな小さな子では身を守ることが出来ません。
 子に親の罪はないと言っても、皆が怯えるのです。
 知っているのはここにいるたった八人だけ。私たちが何も言わなければ、この子はハーネス様の子としての偏見だけは免れる。
 ただ、ハーネス様が死んだ頃に生まれた才能ある子供」
 エリオスはエイダから赤子とほ乳瓶を受け取り、ひたと見つめてミルクを与える。
 父が違う兄に見守られ、母が違う弟を抱いている。
 まだ幼いエリオスは再びアディスが眠りだしたのを見て、顔を上げた。クレアは膝をつき、アディスの小さな手に触れる。
「本当によく寝る子ですね。手がかからなくていい子」
「起こしてもっと飲ませないといけないそうです。そううちのメイドが言っていました」
「難しいものですね」
 クレアはアディスの頬に触れて手を引いた。きびすを返して部屋を出て行こうとする。待たせているのはこの国を動かす者達だ。あまり待たせるわけにはいかない。
「クレアさんっ」
 エリオスがクレアに手を伸ばし引き留めた。
「この子がもう少し大きくなってから世間に出せば、生まれた月を誤魔化せます。それでハーネス様との縁は完全に切れるんじゃないですか?」
「嘘というのは、すべてそれで固めてしまうと簡単に露見します。
 必要以上に隠せばボロが出る。でも一つだけを隠すのは簡単です」
 下手に隠せば憶測から真実を引き出す者もいるが、幼子が信じる伝説並の可能性を考えて答えを探そうとする者はいない。
 探し当ててもそう都合の良い話を誰も心から信じない。都市伝説で終わるのがせいぜいだ。
 ハーネスが死んだときにその子が生まれたなど、一人が声高に叫んでも誰も信じはしない。
 クレアは会議室に戻り、椅子に腰掛ける。
「心配なく。アディスは私が責任を持って育てます。ハーネス様が持っていた施設を改築し、そこで魔術師として育てましょう。
 特別でない存在として、他の子と一緒に」
 無垢な少女のように微笑み、その下にははまるでハーネスのような含みを隠している。有無を言わせず、強くもない言葉を強く感じる。
 彼女はやはりハーネスだ。
 その事実に絶望するのではなく、安心してしまう自分が実に滑稽だ。あれだけ嫌っていたのに、完全にいなくなるとそれはそれで不安になる。
 彼が両親から人として扱われなかったのはハーネスのせいで、ハーネスは彼を予備の一つとしか扱わず、しかし時折気まぐれに優しさを見せた。
「もちろんあなた方の意見を全て聞き流すつもりはありません。あの子をここで育てるというのを覆すことがなければ、よい意見は聞き入れましょう。
 私はあなた方を信頼しています」
 彼らは顔を見合わせ、目で真意の確認しあう。それを見てクレアはくすくすと笑った。
「あなた方は自分が生きたまま左遷されていた理由をご存じですか」
 彼女は椅子に座り足を組み、一同を見回す。
 クインシー以外の彼らにある共通点とは、まさにその一点だろう。
 皆能力はあるはずなのに、その芽をつまれていた。しかし殺されることなく、能力が衰えさせられることもなく、適度に環境を与えられていた。
 殺してもよかったのに、彼はそれをしなかった。
「ハーネス様が我らを危険視されていた、ということでしょうか」
「まさか。
 彼は有望さ故に彼はあなた方をとても好いていました。
 無謀なゼロに手を貸すことなく、与えられた仕事を放棄することなく、己を貫いていらっしゃった。どんな仕事でも与えられればそつなくこなし、発展させた。あなた方の田舎領地は潤っているでしょう。田舎に左遷されたではなく、これからの可能性があると考えれば道は開ける。
 しかし並の者でしたら不平不満を唱えてそこで手を抜き別のことに力を入れる。税を無駄に使い、無駄なことに力を入れる」
 彼女は笑いながら言う。
 無駄なこととは、おそらくゼロのしてきたことだ。
「自分の育ての親をそのように……」
「事実です。私のようなイレギュラーがなければ、無駄に命を散らすだけ。
 ハーネス様が不在になったときの事も、あまり深刻には考えていらっしゃらなかった。
 それでは意味がなかったんですよ。
 だからこそ派手に見せしめで殺したんです。彼は自分に逆らうだけなら叩きつぶしたりはしない。それが見当違いな方法だと判断した場合に容赦なく叩きつぶすんですよ。彼には彼なりの一線があるんです。
 そしてその一線をふまえた者があなた方。
 本当に、なぜ自分達が生かされていたか考えたこともなかったでしょうが、これも彼なりの愛情表現なんですよ」
 彼女は足を組み替え、皮肉げに笑う。
 身内が殺され、その殺された理由を理解している彼女は、いつエイダのように落ち込み、立ち直ったのだろうか。
 それをする時間すらなかったはずだ。彼女はまだ少女で、保護者達以外のこの世界など知らなかったはずだ。小さな村で、普通に暮らしていたはずなのだ。
 それなのにハーネスの意識を食らい、知識を得る。そんな精神力を、こんなまだ幼さを残した少女が持っている。絶望するよりも前に目の前の壁を突き崩し、ひたと前を向いている。
 恐ろしく、悲しい話だ。
「私達の目標は、生きている間にこの国の体質を変えること。
 死んでも悔いが残らぬように『ハーネス』以外でこの国を守ること。そんな当たり前の国にすること」
 そう、それが当たり前。昔はハーネスだけでもっていた国ではない。だからこそゼロ達は希望を持っていた。
 しかし現在他国に畏れを与えていたのは紛れもなくハーネス。資源豊かなこの国は、その名前だけの脅威を失えば、他国に攻め入られる可能性をもつ。
 もう普通であった昔とは違うのだ。
「この国はハーネス様の名だけではありません。
 陸は竜の峰と魔物達に守られて、岩礁の多い海に囲まれています。重点的に守るべき所は少なく、とても攻めにくい地形です。けっしてハーネス様がいたから竜や魔物が住み着いたわけではありません。そういう物がいたからこそ魔術が発展したのに、それを皆が忘れ去っています。それ以前は個々の能力が最も高いのは神殿というのが常識でしたが、この国がそれを覆しました。
 その中で出てきたのがハーネス様です。初めではなく、過程で生まれたものに過ぎません。そして彼が発展させました。もしも普通に人生の幕を閉じていれば、教科書には英雄的な扱いになっていただろうという一天才です。悪魔や竜や魔物を操れるほどの力はありません。彼は人間なのですから。
 それを他国は理解せず、もう忘れてしまっています。記録にあり信じているとすれば神殿だけでしょう」
 生まれかけていたものが、一人の男に全てのしかかってしまった。そしてそれを素直に背負ってしまったため、彼は長々と国に縛られてきた。
 そんな彼にただいなくなれと言う者は浅はかである。いなくなったら何かいい方に変わるのかと、ハーネスは一度だけ呟いたが、まさにその通りだ。確かアレは彼の幼い頃。ゼロがここからいなくなった時。
 クインシーは彼を恨んでも意味はないと、分かっていたから何もしなかった。何も出来ないと知っていたから何もしなかった。憎いが憎みきれなかった。何かするとすれば、それは何もかもを捨て、犠牲にして、どんなことでもする必要があると分かって、その覚悟を持つ事が出来なかった。
「一つだけ、お聞きしたいことがあります」
「何ですか、クインシー」
 今まで知りたかったことがある。
 ずっと。
「ハーネス様はどうやってあのような術を作り、試したのですか。一人で作り出せるものでもなければ、老いてしまえば若者の抵抗を抜けられるとも思えない。初めは、若者から身体を差し出していたのでしょう」
 知識の保存、天才を生かすための誰かの決意。
 ハロイドを見てそう仮説を立てた。彼に接していれば、彼のすごさがよく分かる。おそらくクインシーもハロイドのように魔力が高く、魔力だけでハーネスの目に止まるのなら、差し出す覚悟を持っていたかもしれない。
 しかし現実にその立場にいたのはハロイドで、彼が愛されすぎていたため幕が閉じた。
「……初めは知識の融合が目的だったのです。
 若者が自ら身体を差し出したというのは正解です。どちらが残っても、どちらが消えても、知識と身体は残ります」
 クレアはちらりとハロイドを見た。彼のような若者がいたのだろう。
 歪になった国を元に戻ったように外に分からせるのは大変だ。
「ありがとうございます」
「感謝することはありません。貴方にはこれからして貰うことが山のようにありますから」
「私に……ですか?」
 魔力は人よりは高かったがハロイドほどではなく、それを補うように剣の腕を磨いた。何か一つの事に突出しているここにいる者達は遠い存在だ。
「これからまずは外交関係を改めます。そこで誰か使いに出て欲しいのですが、推薦できる者はいませんか。護衛にはクインシーをつけましょう」
 クインシーはだから自分はここにいるのか、ここにいるため巻き込まれたのか意図を計り損ねた。どちらにしても利用されるのは同じだ。魔法騎士団から近衛に転属させられた彼がそのよに動くことになるとは思いもしていなかっただけ面白い。動けぬ事が一番の屈辱なのだと痛感し、それを分かってやったハーネスをより憎く思った。あのような王など守って何になる。奥の奥で腐っていくよりも、命をかけられることの方がよほど生きていることを感じられる。
 しかしそうなると、本当にアディスの顔もしばらく見られなくなる。赤子の成長は早く、数ヶ月も離れれば他の子供と見分けなどつかないだろう。彼にも忘れられていそうだ。その方が彼のためになる。離れるべきなのだ。それでハーネスとの繋がりも完全に消える。
 これで二人の今後は上手くいくはずだ。
「行き先と手土産はどうなさるおつもりで」
「行き先は必要な分だけ。手土産は必要な分だけ。幸い年頃で見目よく無能で無知な若者は一山あります。彼らも王族の端くれ。お国のためにそれぐらいの役にはたってもらいましょう」
 それが贅沢との引き替えに生まれる義務だ。
「では私の息子はいかがでしょうか」
 尋ねた老人が手をあげた。外観だけなら人の良さそうな雰囲気だが、ここにいるということは有能なのだろう。
「ダールの息子……各国を遊び歩くかなりの変わり者ですか」
「人の先の先を読むため変わり者扱いされますが、とびきり頭はいい子ですよ。一人で旅をする程度には腕も立ちます。父親が言うのもなんですが、私の家系の中でもあの子だけは特殊です」
「ではそれで事を進めましょう」
 クレアは頬杖をついてグラスを傾ける。姿は聖女のようであり、心は毒婦のようでもある。
「たのもしい。十分に伝え回ってくるように伝えてください。若き新しい王を」
 真剣に話を聞いていたハロイドが目を見開きクレアを見た。クインシーは彼女の意図を察した。
「そしてその妻を、ですか?」
「よく分かっていますね」
 ハーネスの知識を得たハーネスかもしれない女が王妃となる。
 それで他国はしばらく前と同じ印象をこの国に持ち続けてくれるだろう。ハロイドの王位継承に、だめ押しの結婚は十分な時間を稼ぐことが出来る。今はその当面の時間稼ぎというのが大切なのだ。そして知らしめるための機会も生まれる。
 この国に実際に変わった事など何もない。攻め込まれてきても勝てる。しかし犠牲を出している余裕はクレアにはない。内側から弱らせるわけにはいかない。
 話の中心にいるべき当事者は困惑のあまり皆の顔を見回して、自分を指さし何か言っている。誰も彼の主張は聞く耳持たない。年若い彼はまだ結婚など先のことと考えていたはずだ。父親も生きている。王位を継ぐことになっても結婚よりももっと先の話だったはずだ。
「この国は変わらなければならないのです。それには王に退いていただくのが一番。そして私を伴う魔術師の王。理想的ではありませんか? 少なくとも、作り話のようです。
 ああ、いっそサーガにでもして広めれば面白いことになりましょうねぇ。誰かいい詩人がいたら紹介してください。
 噂が広まれば、不遜なことを考える者がいたとしても、手を出しにくくなる」
 この国にとって今大切なのは『幻想』。魔術の国としての畏怖だ。可能性を考えずに手を打たなければ、国など長く続かない。土台が腐っていれば国が崩れるのは数日で事足りる。
「さて、ここからしばらく大変でしょうが、皆さんぜひ全力で手伝って下さい。特別優遇はしませんが、冷遇もしませんので」
 彼女の言葉は包み隠さず素直すぎるほど素直だが、彼らにはそれでちょうどいい。彼らは厚遇して貰わなくても、冷遇されなければどこまでも上に行く。下手に地位をちらつかせるよりも、冷遇はしないという言葉の方が大きい。
「ハロイド、これから貴方はとりあえず皆の言うことを素直に聞いておきなさい。貴方に関しては拒否権はありませんのでそのつもりで」
「…………王様にさせようっていうのに?」
「王とは適度に賢く、人を見る目があり、人材に恵まれていれば自分で何かする必要はないのです。貴方はただの象徴であればそれでよろしい。自分で我は我はと動きたがる王など王としては無能。肝心なときに発言し、その言葉に重みがあればそれでよいのです」
 ハロイドはため息をついて項垂れる。重みのある発言というのが若い彼にとって──たとえ年を重ねていても、それを身につけるのがどれだけ困難なことか。
「不安に思う必要はありません。不安を取り除くために、私が知恵を出しますから。今はハロイドに出来ることがないだけです。気に病んではなりません」
「それは……信じている」
「なら黙って王座にいなさい。自覚があるならば、貴方が何をするも私は止めません」
 ハロイドは頷いた。彼女に逆らう気は毛頭ないらしい。彼女の言葉に含まれる止めないことの意味など、理解してはいないだろう。
 面白い夫婦になりそうだ。クインシーと違って、彼は結婚することを強要されているクレアに好意を持っている。少なくとも無関心ではない。
「お幸せに、ハロイド殿下」
 クインシーは落ち込むハロイドの肩を叩いて隣室へと向かう。
 王族など不本意な結婚が義務とも言える。その相手が嫌いでも関心を持てないのでもないなら、彼は幸せだ。
「最後のお別れですか、クインシー」
「そうなりますね」
 せめて、もう一度でいいから抱きたい。これから先はその機会もないだろう。あの赤子とは他人で、次に合うときは知り合いですらなくなる。
「出立は来週の船で。それまで質問があればいつでも私の所に来てください。子育ての練習をしていますが、それでも話は出来ますので」
 クレアがいらぬ事を言う。好意で言っているのか、未練を残させたいのか判断がつかない。未練がなければ手を抜くとでも思っているのだろうか。
「ありがとうございます。しかし明日は式があるので」
「何の式です」
「病弱であった妻の後を追うようにして死んだ息子の葬式です。問題が多くて名前はまだ決まっていなかったのですが、何かいい名はありませんか?」
「そうですね。それは必要な儀式です。
 名前は決めかねますが、墓の中身は私が用意しましょうか。貴方がしては繋がりが残ってしまいます」
「それは有り難い」
 墓と死体。それがあればアディスはもう他人だ。屋敷の使用人はたった二人だけで、ハーネスのことなど知らないし、アディスが眠り続けていたのも知っている。そしてアディスをアディスなどと呼んだことはなかった。実家に帰っている間に眠るように死んだと言えば納得するだろう。主が死んだと言ったら死んだのだと納得する者達だ。けっして探ることもなく、金で買われるような者達ではない。あとは死体を実家の墓に埋めればいい。
 一礼し部屋を出る。
 アディスは相変わらずエイダの腕の中で眠っていた。人見知りをしないから、安心して手放すことが出来る。泣かれでもしたら、がらにもなく心が鈍る。
 ここで切りをつけなければならない。
「お嬢さん、その子をよろしく」
「…………はい」
 小さく、少しかすれた声を出して頷く。
 目を閉じ、耳を塞いで蹲っていた子供が、顔を上げ立ち上がっている。彼女は立派にその足で歩いている。
 小さいのに立派なものだ。こういう人間が側にいるなら、アディスも健やかに育つだろう。才能を伸ばしてもらえる。
「アディス、お前は真っ直ぐ育てよ」
 これからこの赤子は己の道を行く。魔力があるからと連行される国ではなくなる。教育もされるし、あとはアディス自身の育ち方の問題だ。
 ならば自分も自分の道を行こう。彼が望む者を与えてくれたのだ。感傷は胸にしまい、やることをやればいい。することがないから心が弱り、小さな支えに縋り付きたくなる。
 顔を上げて、前だけを見ればいい。己の道を踏み固めるのは、自分自身の足なのだ。
 もう二度と、湿ったあなぐらの様な場所で後悔することのないように。

 

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感想、誤字
 

あとがき(蛇足に過ぎませんので、雰囲気を壊さないように背景に溶け込ませてあります。反転して見てください)

 書いていてちょっぴり空しかった。
 アディスがああなるから先に書いておかないと、何でそんな風に育ったんだよってなるから青色吐息の連載を始めました。
 これを出してからの方がよかったかも……とほんのり後悔しました。
 それにクレアは自分で育てますと言って、したのは教育だけで育児はしてないし。

 青色吐息でアディスがハーネスの生まれ変わり云々言っていますが、才能がありすぎたために言われていることで、本人含めて誰も信じていません。なのでハロイドとクインシーが実はそれで悩んでいる事を知りません。親の心子知らずです。