光に満ちた日の終わり3


3
 その蝶は、ひらりひらりと羽ばたいて、不規則に上下に振れて飛ぶ。その予測出来ない動きは、最近の姉に似ているように思えた。彼女は昔から予測不可能だったが、今では別人が交じっているため、本当に理解出来ないときがある。
 悲しいが、仕方がない。どんなに変わっても、彼女は彼女だ。好きな人が先に出来ても根本は変わらない。誰を取り込んでも、彼女は彼女だ。
 美しい蝶は、気まぐれな乙女が舞うように、花園をひらりひらりと飛んでいく。姉が逃げていくようで、彼女はつい蝶を追って走る。
 そうしている内に、いつの間にか知らぬ場所に足を踏み入れていた。姉のクレアはいつも遠くへは行っていけないと言う。過保護な言葉は、彼女の恐れの現れだ。エイダに利用価値を見いだす者はいるだろう。彼女にとって、唯一の弱点となるのだ。
 慌てて振り返ると、いつもクレアと散策する庭の木が見えた。遠くではない。ここはいつもの庭から見えたバラ園だった。血の色の花を咲かせる庭。
 急に身体がぶるっと震え、戻ろう踵を返した。
「ふぐっ」
 耳に響いたその音は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
 血の赤が、脳裏に浮かぶ。肉の暖かさ、臓物の形、怨嗟の声、嘆き、そして……。
 しゃがみ込み、耳をふさぎ、目をつぶる。
 音が頭の中に──怒声、罵声、悲鳴が、容赦なくがんがんと響く。穏やかで強かった父が、無様に悲鳴を上げ、肉塊と化し食われる姿が瞼の裏に映る。
「つまらないな。もっと泣け!」
 鈍い打撲音に、少年の悲鳴。
 殴り殺された、幼なじみの死に顔が頭によぎる。
 男も女も子供も老人も、すべて等しく容赦なく、同じように殺された様が、彼女の網膜に焼き付いていた。
 消し去りたい、何もかも。
 今、すべての恐怖から守ってくれる姉はいない。
 指が意識する事なく動く。寝ぼけながらしてしまうほど、慣れた動作。指先から光が漏れ、空に紋様を描く。
 この音を消し去りたい、その気持ちが勝手に指を動かした。
 力があるのは音だけではない。形にも力がある。お前は形の魔術師だ、と、父はよく言っていた。
 彼女に音はいらない。
 父と同じであることに、昔、クレアは嫉妬していた。
 クレアは音の魔術師。エイダは光の魔術師。
 落雷の音と共に野太い悲鳴が聞こえ、聞きたくない音を消し去った。それでも動けないで、うずくまったまま、目を伏せていた。
 歯の根が合わず、立ち上がる事も出来ない。
 消しても見える。聞こえる。思い出したくない。美しい蝶を、美しい姉を追っていただけなのに、亡霊が付きまとっているように見えてしまう。
「君……」
 静かな、少年の声が聞こえた。
 絶望の闇が、一瞬だけ薄らいだ。その隙に顔を上げ、エイダの頭は真っ白になる。
 少年は怪我をしてた。
 血を流していた。
 血は恐い。血を流せば人は死んでしまう。死ぬような怪我ではないが、見ていると落ち着かない。吐き気がする。
 顔を伏せ、蹲ってすすり泣いていると、少年が再び声をかけてくる。
「どうしたの? 何で泣いているの?」
 エイダは早く去って欲しいと願った。なのに彼は話しかけてくる。仕方なく、エイダは腕を上げて紋様を描く。字であり、記号である、短く意味を示す紋様。
「な、何? 痛みが……」
 エイダは額を膝に押し当てたまま、顔は上げない。
 それでも、これで分かるはずだ。エイダは、ある意味有名である。ハーネスよりも強い力を持つ、ハーネスとなった女魔術師の妹。それを知って、安易に近づく者はいない。ハーネスという男は、どこまでも人望がなかったようだ。
「君は、エイダさん?」
 少年は立ち去らない。子供らしい危機感のなさ、と言うわけではないだろう。彼は先ほど暴力を受けていた。それに、エイダよりは年上だ。エイダという存在は、恐れること、警戒することはあっても、油断する相手ではないはずだ。
「どうしたんですか? なぜこんな所に?」
 いつもはここまで来ない彼女がいることを不審に思ったらしく、彼は首をかしげて問うてくる。しかしこれはただの偶然。そう答えたくても、彼女の喉は言葉を発する方法を忘れてしまっている。クレアは直そうとしてくれるが、急いではいない。忘れさせようと寝付くまで側にいて、眠ったのを確認すると男の所に行ってしまう。酒を飲みに行くらしい。朝酒臭いので、それぐらいは分かる。普通の女なら別の心配もするが、国で一番恐れられている魔力を持つ彼女は、変な勘ぐりをする必要もない。
 そんなくだらないことを考えて、少年が去るのを待った。
 少年が消えてしばらくすると、血相を変えたクレアが迎えに来た。


 翌日も、彼女は庭に立っていた。理由は分からないが、昨日の赤い庭。バラの庭。
 今、昨日のような恐怖はない。赤い色を見ても平気だ。思い出しても、平気だ。声は出ないが、取り乱すことはなくなった。
 昨日はどうしてあれほど恐慌したか分からない。
「あのっ」
 風に乗って、少年の声が彼女の元まで届いた。バラのアーチの向こうに、少年が立っている。昨日と違い、血を流していない。
 ──ああ、血の臭い……悲鳴。
 エイダはふるふると首を横に振り、目を伏せる。また動けなくなったら、クレアに迷惑をかけてしまう。彼女はこの国の将来のために、人材育成に取り組んでいる。彼女はお昼まではここに来ない。
 今ここで自分が取り乱して我が儘を言ったら、クレアは言われたとおりにするだろう。それが出来るほど、エイダは恥知らずではない。
 芝を蹴り走り寄る音が聞こえる。
「今日は、平気ですか?」
 彼はエイダの前までやって来て、心配そうに顔を覗き込む。エイダよりも大きいが、クレアよりは小さい。昨日は土で汚れていた顔も、今日は小綺麗だった。
「すみません。血が苦手だと知らなくて」
 エイダはふるふると首を横に振った。
「私はエリオスといいます。ハロイド様の腹違いの弟ということになっています」
 クレアに遊ばれている、彼女の思い人の名を出され、エイダは少なからず戸惑った。クレアが男性を怖がっていたエイダのために、穏やかで華奢な姿をしているハロイドに、可愛らしい格好をさせて連れてきたことがある。クレアが好きな人なら、エイダも嫌いではない。
 ただ、彼の弟はたくさんいる。国王は色を好み、妾も多いが、庶子はさらに多い。城にいる以上、少なくとも妾の子であるのは確実だが、身分は低いだろう。そうでなければ、昨日の虐待はない。
「エイダさんはどうしてここに?」
 エイダは迷い、最近はいつも首から提げている、クレアが特別に作らせた小さな黒板をかざした。そして光を指先に灯し、指揮をするように指を振る。
 黒板には『なんとなく』と浮き出た。
「今の、どうやったんですか?」
 彼は黒板に触れ、それが何の変哲もない黒板だと確かめる。エイダは再び指を動かし、
『水』
 と書いた。
「水ですか。さすがはクレア様の妹君。呪文もなく、水を操れるのですね」
『無音の魔法、形の魔法。言葉は必要ない。紋様が力となる』
 言葉と違い文字を書くのは時間がかかる。相手の正確な身分は分からないが、丁寧な言葉を書く必要はないだろう。王でもクレアには逆らえない。ハロイド相手でもエイダはこうしている。
「話しには聞いたことがあります。
 エイダさんはクレア様とは違う系統の魔法を使われるんですね」
 彼はなぜエイダに話しかけるのだろうか。と、そこまで考えて、姉の顔が思い浮かぶ。彼女の差し金だろう。
『昨日はなぜ』
 知らぬ者が見れば理解できない言葉でも、昨日の今日なら理解できない方がおかしい言葉。
 彼は気まずそうに顔を顰め、しかし肩をすくめて口を開く。
「彼らは王子です。陛下にはたくさん御子がいます」
『なぜ暴行を』
「私の母は魔術師でした。ハーネス様の手で失脚し、亡くなりました。それが原因だと思います。魔術師は嫌われています」
 鳩尾の辺りにぞわぞわとした、痛みにも似た感覚が一瞬で広がった。
 呼吸が乱れ、光が散る。
 呻くことさえ出来ず、この不快がただ通り過ぎるのを待つ。
 世界の色が褪せ、空から血の雨が降りそうな程の浅黒さに、美しいバラの色さえ乾きかけた血の色に見えた。
「だ、大丈夫ですか?」
 彼はエイダの肩に触れ、エイダは反射的に身を縮める。
「クレア様をお呼びしてきます」
 クレアの名にはっとなり、エイダは少年の服の裾を掴んだ。
「大丈夫……ですか?」
 彼は放さないエイダを見て、彼女の前に座り込んだ。
 不快は残るが、それでも世界の色は元に戻っている。空はクレアの瞳のような美しい青。バラはクレアのような、情熱的な赤。世界はクレアのように美しい。
 世界は気の持ちようで、どのようにも見えるのだ。
「申し訳ありません。思い出させる気など……」
 エイダはふるふると首を横に振る。エイダも彼に辛いことを思い出させているのだ。
 彼の母はどのように死んだのだろうか。目の前で殺されたのだろうか。
 生かされているのは、彼が王の子だったからではなく、子供の魔術師だったからなのだろうか。
『問題ない』
 エイダは再び指を動かし、先ほどよりも幾分かかすれた字を書く。まだ上手く水が調節できない。
「エイダさんは……」
 彼は何かを聞こうとして、言葉を切った。その表情から、彼の言いたいことが理解できた。
『何か聞きたい?』
 彼は言葉を詰まらせ、俯いた。
 言葉を切ろうとも、彼の聞きたいことは予想が出来る。エイダに聞くことはただ一つ。
『クレアのこと?』
 彼は驚いたように目を見開き、しばしの後に頷く。
「あの方は、優しくて好感が持てます。しかし、時折ハーネス様を感じます」
 エイダ以外にも、そう感じている者がいたのだ。ハーネスのことは知らないが、知識を抜きにしてもクレアらしからぬ瞬間を、感じていた。
『私も分からない』
 保護者はずっとエイダの方だった。
『クレアは急に大人になって、私には分からない』
 今ではクレアが彼女の保護者だった。呆然としている間に、彼女は全てを終わらせていた。
 白濁とした意識の中、庇護下にある彼女を守らなければという意識は消えていた。どうしていいのか分からず、ただ無為に時を過ごしていた。移動するときも、この王宮に移されてからも、視界も術も封じられて閉じこめられた。考えることが恐ろしく、ただただ目をつぶっていた。悪夢にうなされ、眠ることが出来ず、そうしていたら気が狂ったのだろう。未だに立ち直れないでいる。クレアのように戦いもせず、ただ脅えて嘆いただけだった。そんな自分が呪わしい。噛みつくことぐらいは出来たのに、自分はこうして無傷で生きている。
 普通ならば、こんな弱い人間は生きていけない。前を向けない弱者に待つのは死だ。生きていけるのは、力がある者だけ。他人の力に支えられ生きている彼女は、己の不甲斐なさに嫌悪し、泥沼へとより深く沈んでいくのを自覚していた。
「皆、不安に思っています。クレア様は落ち着いた美人です。柔和な笑顔はハーネス様を感じさせません。しかし、皆はやはり彼女を恐れています。
 ハーネス様の知識を持ち、ハーネス様よりも強い人ですから」
 人々の不安は当然だ。万が一、第二のハーネスに変貌すれば、彼らの恐怖は増すだろう。美女であるのも問題だ。美貌とは、それだけで国を傾けるほどの強さを持つ。
『クレアは子供。外の世界に出てからの時間だけで数えるなら、クレアはまだ幼児』
 水が乾くのを待つ。一瞬のことだが、文字を書く事を考えると、少し長く感じる時間。
『だから、大人の世界のことは、ハーネスの知識に頼っている。だからハーネスのやり方を彷彿とさせるのは当然』
 それが彼にとっての恐怖だったのだろう。もしもハーネスがクレアの意識を押さえ込み、再び出てくる事があったら。一度消えた以上、あり得ない可能性を思い、恐怖する。
『だけど、参考にしているだけ。普通でないことは、ハロイドが正してくれている』
 彼には感謝している。酒を飲むために男の部屋に毎夜出向く彼女に、ふしだらだ、もっと自分を大切にしろ、節度という言葉を神官に聞いてみろと、彼女を子供と分かって、叱ってくれている。普通は出来ないことだ。男というのが、どれほど女性の誘惑に弱いかなど、幼いエイダでも知っていることである。
 彼は常にクレアの側にいる。彼は良心的だ。それがハーネスに対する愛情の延長だと知っていても、彼には感謝している。彼女の非常識を叱ってくれるのは、今は彼しかいない。彼にしかできない。
 エイダの世界は、部屋と、その前にあるこの庭だけだ。それでも情報は耳に入る。だが、そんな彼女がクレアを叱ることは出来ない。出来なくなった。彼女を叱る資格などもうないのだ。
「……皆、不安なのですね」
『クレアとハロイドも』
 皆が暗雲立ち込める未来に対して不安を持っている。
 暗黒であった頃に比べれば良いだろう。それにハーネスも、無差別に虐殺していたわけではない。逆らう者、邪魔な者を殺していた。一般で犠牲となるのは、親の亡いような幼い子供達がほとんどで、民にとってはどちらでもいい存在だったに違いない。税は高かっただろうが、彼の存在で国が守られていたのだけは本当だ。
 そして今は、いつかいなくなるハーネス不在の未来にも脅えている。いてもいなくても、彼は恐怖を与えている。クレアはそれでも己の身体を愛し、生涯添い遂げることだろう。
「……エイダさん。クレア様は、どのような方だったのですか?」
 昔のクレア。ハーネスを知らぬ頃のクレア。可愛いクレア。自分よりも大きいのに、言葉も知らぬ臆病で嫉妬深く可愛かったクレア。
『彼女はハーネスに閉じこめられていた。十歳の頃にうちに来たけど、言葉を一切知らず、人のぬくもりも知らなかった。父が連れてきて、今日からお前の姉だと言ったけど、私にとっては何も知らぬ彼女は妹だった』
 彼は静かに黒板を見つめていた。彼を見ていると、なぜだか落ち着かない。あまり長く見ていると、おかしくなりそうだ。
『母が彼女に常識を教え、父が学問と魔術を教えた。父が得意とする術の系統とは違うけど、父は何でも出来て、何でも知っていた』
 父は彼女の誇りだ。永遠に追いつけず、永遠に完璧な人であると思っていた。だが、今際の際の、あの姿が彼女の脳裏に焼き付いて、完璧だった父が壊れてしまった。何もかもが。
『クレアには才能があり、知識を吸収し、技術を身につけた。魔力が高く、技術では劣るものの、父よりも強い術を扱うようになっていた。そんな時』
 ここまで書いて、手を止める。手を止めて、どうにかなることではない。
 思い出しても、ここはあそこではない。何が見えても、幻だ。
『ハーネスの手で焼き討ちに合い、今に至る』
 息を飲む音が聞こえた。
 視界が赤くなった。これは幻。弱い心が見せる物。声が出ないのは、これを無視できない自分のせい。取り乱してはクレアに心配をかける、愚かな自分のせい。
 しかしこれは、誰かに伝えて初めて自覚したことだ。文章にして、少し軽くなった。彼が知らぬ少年だったからだろう。クレア相手にこのような事を考えられるほどの余裕はない。
『クレアは子供』
 外見だけでも、彼女はまだ成人していないのが分かる、子供として扱われる年齢。子を産めるがまだ子供の、一番微妙で不安定な年齢の少女。
『ハーネスによって、時間と、恋をする自由を奪われた子供』
 彼女の恋は、偽物だ。ハーネスの思いに引きずられ、そんな思いを知らぬ彼女は自らの物と錯覚している。彼女はそこまで自覚して、ハーネスの恋を受け入れている。彼のそれは、長い時を生きて来た中で、数少ない本物の情熱だったと。彼の意志には勝てても、彼の情熱には敵わないと。
 だから負けた部分だけは、その醜さも美しさも素直に受け入れ、大切にすると話した。
 彼女は情熱を知らぬから、情熱を知る彼を羨んでいるようだった。
『そういう女を恐れるなど、馬鹿げている。クレアは自分が得た知識を書物に残し、人々に教え、彼女自身の生をまっとうするつもり』
 人の身体など乗っ取らないし、国も乗っ取らない。
『ハロイドを国王にするつもりはあるみたいだけど』
 それは国の乗っ取りとも取れるが、ハーネス亡き今、国は別の方向に腐り始めている。クレアのことを恐れると同時に、小娘と侮るからだ。
「それに関しては問題ありません。本当は問題ですが、ハーネス様の側にいた、あの方が一番穏やかで真っ直ぐな性格をされています。いい反面教師になったようです」
 彼は目を伏せ、抑えた調子で言う。
 エイダは初めて、彼自身について興味を持った。
 今まで彼という人間のことなどどうでもよかった。仮説を立てて納得するで十分だと思っていた。
 しかし、興味を持ってみると、不思議に思うことはいくらでもある。魔術師にしても彼はなぜ、ハーネスに生かされ、王宮で暮らしているのだろう。反逆者の息子なら、もっと不当な扱いを受けていたはずだ。クレアのように。
 しかし彼の瞳には知性がある。学のある者の目をしている。
『貴方はなぜ、子供のくせにハーネスの事を気にするの?』
 心配は大人にさせておけばいいのだ。クレアがエリオスを処刑するような者ではないのは、ハーネスが彼を生かしていたことから分かるだろう。彼が殺さないと思った者を、殺すほど天の邪鬼ではない。
 自分自身の邪魔をするなどの、きっかけすらないのに。
「……私の母は陛下の妾の一人でした」
 ハーネスといえども、王の子は殺さないのだろうか。王ですら殺しそうな男なのに、そんな理由が根本だとは思えない。
「でも本当の父は、ハーネス様です」
 ああ。
 目元が似ていたからだ。だから彼を見つめると恐ろしくなったのだ。
 彼は唇を歪めた。少年の、長い苦渋がそこに現れている。それがどういう事か、エイダには分からない。少なくとも、彼は苦労したのだろう。
「あなたにとっては、仇の息子ということになります」
 クレアのことを気にもするはずだ。彼女は親の敵になる。
 どうして世の中は、これほど複雑に物事が複雑に絡んでいるのだろうか。運命は、まるで鎖のように絡みやすく出来ている。
「あんな方ですが、私は彼を慕っていました。
 ハーネス様にとっては、奪い取った身体から偶然に出来てしまったただの子供でも、どれほど遠ざけられていても、私にとっては唯一の身内で、今でも彼を愛しています」
 父親を愛しているのは人として当然だ。彼女の父も多くの人を殺した。どれほど屍を作った男であっても、父は憧れで愛していた。
 人として当然のことだ。
「あなたが許せないというのなら、私はあなたになら命を差し出します。ハーネス様のしたことは、許されることではありません」
 彼はハーネスとは別人だ。母親がハーネスのために死んだのであれば、彼も被害者だ。エイダは顔を顰め、首を横に振る。
『そんなことを言われても困る』
「なぜですか? 憎くはないのですか?」
『貴方は関係ないし、人の死は嫌い』
「そうですか……」
 彼は目を伏せた。長閑な村で、よく出かける父の安否を気にかけてながらも、暢気に育った彼女には、彼の苦悩は分からない。
 ハーネスがいなくなり、彼の後ろ盾は消えてしまった。それで彼がどんな扱いを受けているのか、想像も付かない。
 クレアを呼びに行ったからには、彼女と多少なりとも交流があるのだろう。彼はクレアが育てようとしている魔術師の一人に違いない。
 光の魔術を知らなかったのは、彼の無知と言うよりも、あまりにも珍しいからだ。
「どうすれば、あなたの心の傷は癒えるんでしょうか」
『分からない』
 エイダはそう書くしかなかった。
 全ての解決は、時の流れのみが行えるのだと、クレアは言っていた。時が流れれば、嫌でも薄れていくと。それでも心の奥には生涯の傷となって時折血を流すこともある、と。
 もしも彼を責めれば、おそらくエイダの傷は深くなるだろう。後悔で自らを傷つけ、より多くの血を流すだろう。昔、自分のおやつを食べてしまったと、クレアを責めたことがある。自分よりも大きいくせに、無知でそれ故に我が儘なところがあった彼女に違いないと、そう決めつけて。しかし、実際の犯人は父だった。父は母にこってり絞られ、クレアはめそめそと泣いていた。その姿を見て、騒ぎ立てた自分が許せなく、恥ずかしくて部屋にこもった。今でも時々思い出しては、顔が赤くなる。
 それと同じ事だ。罵れば一時的に気も収まるかも知れないが、彼は悪くないと話し合って知っている。過去の人物を恨んでもどうしようもないことは知っている。知っていて彼を責めるなど、そんな恥ずかしいことは出来ない。
 姉妹があるということは、そういった経験を積むのに適していると、彼女は今になってなんとなく知った。
「エリオス」
 エリオスが驚きのあまり跳び上がった。
 いつの間にか、バラの陰に隠れてクレアとハロイドが立っていた。クレアは微笑み、ハロイドは不快と顔に出していた。
「エリオス、そういうくだらないことは言うな」
「はい……ハロイド様」
 ハロイドは彼の愚かな発言に腹を立てていた。大切な師を失って、その子供まで失うのは、彼の傷を大きくするだろう。クレアが情熱を向ける男の傷を、広げることなど出来ない。
「エリオス。一つ、言わなければなりません」
 クレアは唇から笑みを消し去り、真剣な面持ちでエリオスへと語りかけた。
「ハーネス様が貴方を遠ざけていたのは、その方が安全だったからです。彼とて人の子。自分の子供が他人の手に掛かって死ぬのは、快く思わないのは当然です」
 その言葉は、息子のことなど死んで不快と思う程度。そういう意味も含まれていた。
「そして、貴方の母親が死んだのは、ゼロのせいです」
 エリオスは目を見開いた。エイダも驚き、黒板を握りしめた。
「ハーネス様の暗殺に失敗し、代わりに貴方の母が死んだ。理由が説明されず、殺したのはハーネス様と言うことになっていますが、すべては貴方のためです。
 下手に貴方の母をハーネス様が気にかけていたと知れば、生きているその息子の貴方を、利用しようという者も出てきます。それならば、貴方が『反逆者の息子だが、生かされ続けている』として、ハーネスが貴方にまだ利用価値を見いだしていると、世間に浸透させたかったようです。
 どちらも変わらず危険ではありますが、貴方にとってより安全な方を選ばれました。大切な息子より、予備の一つの方が、手を出すリスクを考えると見返りがありませんから」
 ハロイドが、おいと言ってクレアの肩を掴む。彼の視線の先にいるのは、エイダ。
「辛くとも、知ってよい結果を生む事もあるのですよ。お互い様、です。互いに命を差し出し合うこともないでしょう。そんな馬鹿な子達ではありません。馬鹿にしないで下さい」
 クレアは笑みを作る。無邪気な昔の彼女を忘れさせる、大人の女の艶やかな笑み。遠いクレア。それでもクレア。たった一人の身内。
「エイダ、エリオス」
 クレアはいつもの──最近の、いつものクレアに戻り、手を差し出した。
「もしも気が向いたなら、明日から私と一緒に行動しませんか」
 エイダは首をかしげ、エリオスは顔を顰めた。
「エイダも、引きこもりからは卒業できたようです。私と一緒なら、多少他人がいても平気になったのではないですか?」
 言われて、その通りだと考えた。声は出ないが、通りかかる兵士を見て、脅えて隠れることもなくなった。まだ恐いが、逃げ出すことはなくなった。いや、逃げないよう努力すべきだ。不幸だと嘆いて引きこもっていられる人間は、少ない。世の中の大半の人間は、嘆いていたらそのまま世界に置き去りにされて死ぬだけなのだ。
「貴方達は、もう少しだけ、大人になる前に学んだ方がいいでしょう」
 学ぶことに何の意味があるのか、エイダには分からない。どれだけ魔法が使えても、上には上がいる。知識だって、時に瞬時にしてそれが偽りだったと発覚するときもある。知識を得ても、生活の役に立つとは限らない。知恵と知識は違うのだ。
「大人になるまでですよ。知識を頭が素直に受け入れてくれるのは。若い時間を無駄にして、将来の可能性の選択肢を狭くすることはありません。忘れたいなら、詰め込みなさい。人間の頭とは、覚えていても、新しい知識を詰め込むことで、古い知識が沈んでいきます。消えることはありませんが」
 クレアはエイダを立たせ、肩を抱いた。
「それとも、まだだめですか?」
「ううん」
「あら?」
 クレアが首をかしげて、初めて気付く。自分の喉から、吐息以外の音が漏れていた。
「な……」
 なぜ、と口にしようとして、それ以上声が出なくなる。
「無理をしなくてもいいんですよ。落ち着けば出るようになります」
 彼女はこれを心因性失声症だと言っていた。ストレスから来るもので、心の平穏が薬だと説明してくれた。だからこそ、落ち着く美しい庭を見せてくれたのだ。
 エイダはクレアの手を握りしめ、最近ではすっかり愛着の湧いた黒板を抱え、もしも声などでなくとも、彼女と一緒にいられるならそれでいいと考える。
 エリオスが教えてくれた。
 心が曇っているのは、光であるクレアを拒んでいた己の殻のせいだと。彼女はいつもエイダを気にかけ、精一杯のことをしてくれる。それを拒絶して、己の殻にこもっていた。
 それでも彼女は、空の太陽のように、分厚い雲で拒絶するエイダに、暖かな光を注いでくれる。太陽の光は、どれほど雲が阻もうと、地上に光を与えてくれる。
 彼女の手のぬくもりは、春の木漏れ日のように心地よい暖かさをエイダにくれた。
 エイダが我が儘を言えば、もっと二人きりでかまってくれるだろう。しかしそれはエイダ自身が許せない。だから、彼女の隣を歩くのだ。イバラの道を歩く彼女の隣を。
 大好き。
 唇を動かすだけの言葉を呟き、エイダはクレアの肩に額をすり寄せる。
 未来のあるのは闇でもあるが、目を開けば淡い光に包まれている。
 そんな気がするのだ。
 

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あとがき(蛇足に過ぎませんので、雰囲気を壊さないように背景に溶け込ませてあります。反転して見てください)

 今回は、危うく名無しのゴンベイちゃんと名付けられるところだったクレアの名前を書きまくってみました。
 話せないので、ほとんど会話だけで話を進めるシリーズにする予定が狂ったので、彼との出会いから書いてみました。
 そしたら、エイダは子供のくせに小難しいことを考える、しっかりと躾の行き届いたお嬢さんになってしまいました。しかもこの世界には「恥の文化」があるんだなぁ、とか他人事のように考えてました。