2話 初めてのおつかい

 慶子は七時に起きて洗面所に向かう。それが彼女の毎日だ。
「ったるー。ああ、なんで学校なんて行ってんだあたしゃよぉ。もう眠いぃい」
 いつものように、うつろな目をして洗面所に向かう。顔を洗いもう一度部屋に戻り着替えてから今度はキッチンへと向かう。
「あいつらの昼食どーしょーなぁ。めんどーだしコンビニにでも弁当買いに行かせるかぁ」
 寝ぼけた頭で短絡的な結論を出しながら慶子は朝食を作る。
 二人には昨日この近所を案内した。もちろん羽は消してもらって。理屈は不明だが、消すというよりもその一部を変化させるのだそうだ。部分的な変身である。さすが謎生物。少なくとも彼らは天使の姿をしているが、この世界で信じられているような天使ではない。ただモデルにしただけであると予測した。
 フィオ一人なら不安だが、ディノがいるので買い物ぐらいは出来るだろう。見た目からしてこの国の人間ではないので、多少もたついても不審に思われることもないはずだ。人間ですら言葉のほとんど通じない海外に行っても買い物ぐらいは出来る。ここは大きな疑問ではあるのだが、彼らは日本語が通じているので何も問題ないだろう。フィオなら無理かもしれないが、ディノがいるので安心だ。
 今朝はご飯だ。納豆だ。幸い腐っているものの匂いをかいだことのないフィオは、腐っているものに対する嫌悪感も先入観もないため、あっさりと食べた。ディノはそれを食べようとするフィオを止めようとしたほど拒否したが。それを見てこれを食べるのは穢れになるとでも思ったのか、フィオはとても積極的に食べた。
 卵を焼いて、フィオの好きなウインナーを焼いて、海苔を用意して。出来上がる頃になると、いつもよりも早いにもかかわらずフィオが起きてきた。お子様は保護者によって早く眠るように言われ、彼も実際に眠くなるので寝てしまう。有害無比な深夜番組を見ることもなく、健やかに育っている。しかし残念なことに、女の子らしくはまだなっていない。まだ今日で三日目である。慶子は気長に教育する事を決めていた。
「……慶子、今日はどうしたんだ?」
「ん? 何が?」
「いつもより若い……むしろ別人。お前本当に慶子か?」
 フィオは慶子を見てやや怯えながら呟いた。
「失礼なガキねあんたも。今日は学校があるから」
「学校? 学校があると若くなるのか?」
 若くなるのかという言葉には反発するのだが、フィオの言うことなので我慢することにした。
「そりゃあ、今のうちに条件のよさそうな男を確保しておいて、一番いい大学に入った男をもしくはその友人知人先輩を……」
「慶子殿!」
 いつの間にいたのかディノがダイニングの入り口に立っていた。ディノは慶子の兄の服を着ている。幸いにも、慶子の兄の一人は大きかったし太かった。その余分な肉はすべて筋肉であり、ディノと似たような体格と言ってもいい。
「だから、フィオ様に余計なことを吹き込まないで下さいっ!」
「あー、はいはい。そうねぇ」
 慶子はトレイで朝食を運びながら適当に相槌を打つ。
「ところで慶子殿。今日はどうなされたのですか? ずいぶんと短いスカートをはかれていますが。それに化粧をされて? 髪型もいつもと……。むしろ全部別物というか」
「別に短くないって。これが標準なの。切ったりしてないし。化粧は人前に出るから、ファンデとリップだけよ。髪型は学生らしく清楚に三つ編みしただけだし。昨日出かけたときは確かにノーメイクで一つに髪も結んだだけだったけどさ、失礼ね」
「慶子殿……学生だったのですか?」
「……なんで宿題なんてしてたと思ったわけ?」
「宿題だったのですか……」
 慶子は無言でトレイをテーブルに置いた。残りの小物を持ってきたディノは慶子へと訊ねる。
「ところで慶子殿。慶子殿は一体おいくつなのですか?」
「十七よ」
 花の女子高生である。慶子が口を開こうとした瞬間、
「ええええっ!?」
 二人が驚愕の声を上げた。
「そんな……てっきり二十代かと」
「お前、老けすぎ!」
 二人同時にひっ捕まえて仲良く脳みそシェイクするという案が頭に思い浮かんだが、フィオがこれ以上馬鹿になるといけないので思いとどまる。
「もう昼食代出してあげなーい」
「ちゃんとすると若く見えます」
「普段がだらしないだけだ」
 フィオはフォローにもなっていないが仕方ないだろう。彼はこんな意地悪を言われたことなどなかっただろうから。
 慶子は諦めて朝食を食べ始める。
 学校は徒歩十分のところにある。父の母校でもある、大学付属の私立高校だ。
「ああ、そうそう。洗濯お願いね。あとこれ昼食代。コンビニにでも行って。ただし、フィオが挙動不審な事をしたら保護者らしくちゃんと叱ってね。誰かに身元を聞かれたら覚えてる? 東堂さんのところでお世話になってますって言う。うちの名前を出せば信用してくれるだろうから」
 慶子はそれからも思いつく限りの事を口にした。
 昨日買ったタダ同然の携帯電話をくれてやり、昨日使い方も徹底的に教え込んだ。もしものときはもしもの時。
「何度も言うけどね、フィオ」
 慣れぬ箸を使うため苦戦しつつもお行儀よく、羽を出したまま食べる彼に慶子は言う。
「家の外じゃ絶対に羽を出したらだめだからね。むしろ家の中でも危ないな」
「……なあ。どうして羽があったらダメなんだ? そんなにおかしいか?」
 彼は小鳥のように無垢な瞳で慶子を見つめた。
「あのね、フィオ。この世界の人間は恐ろしいの」
「どこがだ? 慶子は確かに怖いが」
「あたしのどこが怖いってーのよ。あたしはねぇ、あんたらのために言ってるのよ。羽のある人間なんていないでしょ。人間は知らない動物を見つけたら、捕まえて解剖しちゃうの。そうしたらどんな生物なのか分かるでしょ?」
 秘密裏に捕まらなければその可能性はないのだが、脅すに越したことはない。
「いーい? 昔父さんが言ってたわ。今までにない形をした灰色の謎の生命体を某組織に売ったからこの家が建ったって」
 酒の席、彼女の父が言った言葉である。本気にはしていないが、父のことなので実話という可能性も捨てられない。
「は、灰……なぞ?」
「とにかく、捕まったら少なくとも身体いじられまくるから。あたしもさすがに助けてあげられないわよ。だから、人間のフリしてるのが一番。ああ、そそ。あんた可愛いから、ふつうに誘拐される可能性もあるから。突然手とか身体を触ってきたりする男がいたら『痴漢、変質者、犯される、助けてぇ』って叫ぶのよ」
「わかった。触られたら『ちかんへんしつしゃおかされるたすけてぇ』だな」
「そうそう。大声出して人を呼ぶのよ。あんた可愛いから、普通の人は助けてくれるから」
 真剣な顔をして言う慶子に、白けた目をしたディノが言う。
「あの……普通に助けてでは?」
「ダメよ。助けてじゃ助けてくれないわよ。この国、刃物持ち歩いちゃいけないのよ。だけど持ち歩いて人を刺すようなのがいるの。だから自衛手段がないのよねぇ。助けてだと、そういうのの可能性があって、怖がってなかなか助けてくれないのよ。子供達のじゃれ合いとでも、よく助けてって言っているしね。一番いいのは『火事だぁ』だけど、まっ、痴漢野郎相手なら、普通の男性でも女性でも駆けつけるなり警察呼ぶなりしてくれるから」
 慶子は明るく笑って言った。そんな慶子を見て、フィオは小さく首を傾げる。
 理解していないが、言いつけはちゃんと守るだろう。
 昼間はこの二人は忘れて学業に勤しむことにした。


 庭ではディノは洗濯物を干していた。フィオは家の中からその様子をじっと眺めていた。
 この界の人間は奇妙なもので洗濯をする。洗剤を入れて、変な液体を穴に入れて、それで奇妙ななボタンを押せば勝手に水が出てきて勝手に動いて勝手に洗いあがる。あとは干すだけと、とても便利だ。
 ディノは天界にも似たようなものがあると言っていたが、フィオにとってはとても珍しかった。フィオの身につける物は、すべて手洗いだったらしい。
 洗濯物を干すのもこちらに来て初めて見る。このようにして彼の着ていたものは清潔にされていたのだ。
 世の中にはいろいろな働く人がいる。
 自分が統治者になるから、彼に対していろいろとしてくれていた者たち。何もかもしてくれた女たち。彼女たちはどうしているだろう。きっと心配しているだろう。
 しかしそれでも今がいい。
 彼女たちは触れてくれなかった。必要なときだけ触れて、それ以上はしてくれなかった。
 不浄なこの身で御身に触れることははばかられますと。
 不浄であるかどうかなど、何を基準にするのだろう。
(生活? 食べ物?)
 フィオには分からない。ただ、穢れていない故に触れてもらえないなら、穢れたいと思うのだ。フィオは肉を食べた。魚を食べた。色々食べた。どれほど穢れたのだろう? 皆と同じほど穢れたのだろうか? 穢れは足りぬだろうか?
「フィオ様」
「ん? 何だ」
「終わりました。退屈でしょう。買い物ついでに散歩にでも参りましょうか」
 ディノの言葉にフィオは頷く。
 最近、ディノは少し優しい。今まで黙って側にいて守ってくれるだけだった。だが、今は話しかけてくれる。
「行く」
 フィオは玄関へと回り靴をはいた。慶子が選んだもので、サンダルよりも走りやすい。
 玄関を出て門のところでディノを待つ。彼はしばらくするとやって来た。慶子の兄のものだという服を着て、靴だけは昨日買ったものをはいた。
「お待たせいたしました」
 ディノは慶子に言われたとおり鍵を閉める。彼は黒いザックを肩にかけフィオへと歩み寄った。
「お手をよろしいでしょうか」
 その意味がしばらく分からなかった。だが、昨日出かけたときは慶子と手をつないで歩いた。だから手をつなごうということだと分かると、フィオは嬉しくて彼の腕をつかんだ。
 大きな手だ。フィオの手とは比べ物にならない。
「ディノ」
「はい」
「私はここに来てよかったと思っているぞ」
 ディノはしばらく引きつった笑顔を浮かべた。
 ディノは望んで来たわけではないのだから当然だと気付き、それでも嬉しくて彼にしがみ付いて歩き出した。


 コンビニという店は面白い。わけのわからないものがあり、昨日はプリンというものを買って食べたが、とても美味しかった。色々あって迷ってしまうが無駄遣いは厳禁だ。したら夕飯抜きだと慶子に言われているので、肉の沢山入った弁当を選んだ。ディノが列に並んでいる間、フィオは退屈で店の外を見た。
 店の向かい側には広場──公園とやらがあった。
「ディノ、あそこに行って来る」
「あ……お気をつけください」
 目と鼻の先、しかも昨日遊んだ公園だからだろう。珍しくディノが止めなかった。昨日は砂で遊ぶのを見て汚らわしいのでお止めくださいと言っていたのだが、諦めてくれたようだった。
 昨日はここで買い物帰りに遊んだ。小さな子が髪を引っ張ったりしたが、可愛くて楽しかった。彼が宮殿に住んでいたときは遊んだことなどなかった。勉強をするか、瞑想をするか、ためになる本を読むか、食べるか寝るか。単純な生活を送っていたものだ。
 だから遊ぶのは楽しかった。
 そう思い公園に入ったのだが、子供たちはいなかった。風に吹かれてブランコが、きぃと音を立ててゆれた。少し考えると、フィオは自分が空腹であることに気付く。
「そうか。皆食事を取っているのか」
 フィオは納得し、つまらないのでディノの元へ帰ろうとした。だが、公園の片隅のベンチで笑いながら本を見ている二人の少年が目に入った。
「何を見ているのだ?」
 フィオは気になり、こっそりとその背後に回る。
 覗きこむと、裸の男女がなにやら複雑に絡み合った写真だった。
「……この者達は何をしているのだ?」
 フィオは理解できずに呟いた。
「っ!?」
 本を読んで談笑していた二人は、ぎょっとして振り返る。
「…………だ……誰」
「フィオだ」
 驚く二人にフィオは名乗る。
「な、何か用?」
 二人はその本を隠しながら言う。
「その本の写真にある人物達は、なぜ裸で舐めあっていたのだ?」
「…………」
 二人は顔を見合わせ、フィオを見る。
「そりゃ気持ちいいから」
「舐めると気持ちいいのか?」
「そりゃ」
 フィオは首をかしげて自分の腕を舐めた。別に気持ちよくない。
「自分でやっても……」
「そうか」
 試しに少年の一人の手を舐めた。
「うわっ」
「気持ちいいのか?」
 少年の顔がなぜか真っ赤になっていた。
「京介っ、ず、すりぃ」
 そんなにいいのだろうか。理解できない。
(帰ったら慶子に聞いてみよう)
 彼女は質問すると何にでも答えてくれる。フィオは自分の界のことすらほとんど知らずに育った。なのに慶子は自分の世界についてちゃんと知って育っている。とても羨ましい。
 その時突然、京介とやらが突然フィオの手をつかんだ。
「なぁ、俺と来ないか? うんと気持ちいいことしてやるから」
 気持ちいいこと。
 気持ちいいことは、穢れること。
「本当か?」
 フィオは言ってからふと思い出す。
 慶子は言った。男に腕などをつかまれたら……
「あ、そうだ。ええとたしか……」
 なにやらわけの分からない言葉だったので思い出すのに少し時間がかかったが、思い出した。一字一句間違いなく。何度も練習したのだから。
「ちかんへんしつしゃおかされるたすけてぇー!!
 だったか?」
 少年達は突然叫んだフィオの声に驚いた。
「突然何を……」
 二人は慌てて立ち上がった。そのとき、背に隠していた雑誌が落ちた。
「貴様ら、フィオ様に何をした!?」
 突然公園に野太い声が聞こえた。白い弁当入りの袋を持ったディノだ。それに続き自転車とやらに乗る青っぽい服を着た、帽子をかぶった男もやって来た。
「痴漢はどこだ!?」
 男が慶子に教わった呪文の一節を口にした。
「痴漢って何?」
「あのなぁ!」
 二人は同時に怒鳴った。フィオは慶子以外に怒鳴られたのは、初めてのことだった。だが慶子は怒鳴っても優しい。怒った後も慰めてくれるしいろいろと教えてくれる。だがこの二人に怒鳴られるのは怖かった。
「ふえ……」
「げ、泣いた」
「ああ、もう逃げるぞっ。さぼってるのがばれる」
「あ、ああ」
 言って二人は突然走り出した。柵を乗り越え、あっという間に走り去る。
「フィオ様、ご無事で!?」
「ディノ……」
 フィオはディノの手をつかんだ。本当はもっと触れたかったのだが、慶子にダメだと言われている。
「くそ、見失った。なんて足の早い連中だっ。
 君、何かされなかったか!?」
 フィオは首をひねり、
「手をつかまれたから、慶子に習ったとおり叫んだら怒鳴られた。
 私は何か悪い事をしたのか?」
「いいえ、フィオ様。フィオ様は何も悪くありません。怖かったでしょう。申し訳ありませんでした。まさかこのような公共の場にあのような無礼な者たちがいようとは。てっきりまた慶子殿の誇張話だと思っていたのですが……」
 ディノはフィオの前に膝をつく。
「ディノ、問題ない。少し驚いたが、彼らは別に悪い者でもなかった」
「しかし……そうですね。とにかく帰りましょうか」
 フィオは頷いた。
「あ、待ってください。とりあえず連絡先を」
 青い服の男が呼び止めた。
「ええと、東堂さんのところでお世話になっています……。これで通じると聞いたのですが。この国のことはあまりよく分からなくて……」
 自信なく言うディノに、慶子が『警察』と呼んでいたものだと思われる男が、ああと頷いた。
「東堂さんの。そうですか。分かりました。犯人が捕まりましたら、東堂さんのお宅にご連絡させて頂きます」
 ディノはめずらしくにこにこ笑いながら頭を下げた。
「さ、フィオ様」
「ああ。あ、ちょっとまって」
 フィオは本を拾い、ディノの背後に回り鞄の中に素早く本を押し込んだ。
「それは何でしょうか?」
「秘密だ。さ、行くぞ。私はもう腹がすいたぞ」
「はいはい。フィオ様」
 フィオは本当に腹がすいていた。弁当の袋を見たら、とてもではないが我慢できなくなったのだ。
 本はお昼寝の後にゆっくりと見よう。


 慶子が帰ると、ソファで丸くなってフィオが寝ていた。
 お人形のような可愛い顔ですよすよと寝息を立てる様を見て、思わずデジタルカメラで一枚撮ってしまった。それからはたと気づく。
「あんまりお昼寝すると、夜寝れなくなるぞぉ」
 柔らかいほっぺたをつつくと、フィオは起き上がりきょろきょろと周囲を見回した。
「やん、可愛い」
 昔に慶子が着ていた少しふりふりとした可愛いワンピースがよく似合っている。取っておいてよかったと心から思った。
「……あー、けーこだぁ」
 寝ぼけた彼は慶子へと近付こうとしてソファでバランスを崩し彼女の腕へと倒れこむ。軽いので慶子でも支えることが出来た。
「こらこら。んーもう仕方ないわねぇ」
 可愛い子に擦り寄られるのは、悪い気はしない。もちろん男であるという事実は忘れる。
「そうだ、けーこ」
 フィオは何かを思い出したようで、突然──
「ひぃぃぃぃい」
 突然──この馬鹿天使は人の喉を舐めたのだ。喉を、ぺろりと。
「何をするぅ!?」
「気持ちいいか?」
 さらに舐めようとするフィオの頭を遠ざけて、慶子はその頭をぱしりと叩いた。
「アホかお前はっ」
「……気持ちよくなかったのか?」
 一瞬気が遠くなる。慶子のいないたった半日で一体何があったというのだ。
「くすぐったいわっ! こんのあほ娘っ!」
 慶子がなぜ怒るのか分からないといった様子で彼は見上げてきた。
「どこの誰に吹き込まれたっ!?」
「こ、公園にいた若者達だ」
 慶子はゆっくりと事の成り行きを見ていたディノを睨む。
「実は、会計を済ませている間フィオ様が公園で遊ばれていたのですが、その時に二人の少年に腕をつかまれて……。
 慶子殿に習った台詞が早くも役立ちました。まさか子供が遊ぶ場所にまであのような狼藉者が現れるとは……」
「早すぎるって、いくらなんでも。ああ、やっぱ明日から昼準備しとくわ。んで、ディノさん。あんたは料理を覚えなさい。コンビニ弁当なんて高いし、身体にもいいとは言えないし。外には変質者も結構いるからね。あたしもバスとか電車のるとよく胸触られるし」
 もちろん持っていた針をぶすっと刺して、痛がったり血が出ている人を探して警察に突き出すが。
「偶然手が当たってしまっただけでは?」
「偶然当たって揉まれるか」
「物騒な国ですね」
「自由って言うのは、物騒と紙一重なの」
 慶子は小さくため息をつく。今回はどうやって説得しようかと悩んでいると、フィオは突然立ち上がり、ダイニングテーブルの上に置かれた黒い鞄を手にして、何かを中から引きずり出す。
「では、この本の者達はなぜこんなことをしているのだ?」
 本とやらを差し出した。
(え……エロ本)
 慶子はそれを引ったくり中身を見る。
(何これ……)
 眩暈がした。さすがに慶子も初めて見る。慶子が今まで目にしたことがあったのは、学校の友人が持ってきていた、少女漫画風の絵で書かれた中身は成年誌に引けを取らないようなエロ雑誌、学校で男子生徒が持って来ている普通の成年誌。その程度である。
 慶子は望んで手を出したこともなければ、見ようとも思わない。
「……ど、どうしたのこれ」
「慶子殿どうし…………ひっ」
 覗きこんだディノは腰を抜かしてその場に倒れる。
「み、見たの? これ」
「あまり見ていない。昼寝の後見ようと思って。さっき手をつかんだ若者達の忘れ物だ」
「どんなの見たの?」
「……んー、変な風に絡み合って舐め合っていた。前に見た絵と似ていなくもないが。それは何をしているのだ? それも芸術なのか?」
 探すと確かにあった。そのシーンが一番目立つが、他にはもっときわどいものがある。隣のページは広告ページ。
(ああ、まったく何考えてこんなの世間に流通させてるの!?)
 慶子は雑誌を雑巾のようにひねった。
「……こんなもの、拾ってきちゃダメです!」
 慶子は父溜めに溜めたたばこのオマケライターを片手に掃き出し窓から庭へ出る。
「こんなおぞましいもの、こうだっ」
 しゅぼっ。
 ライターの火を雑誌のすみに押し付ける。めらめらと音を立てて燃えるそれを見て、フィオが抗議したような気がしたが、慶子は手元が熱くなるまでそれを持ち、火傷するなと思う頃手を離した。隅の方が少し燃え残ったので手で集めてまた火をつける。
「ふぅ。悪は滅びた」
「慶子、それ人のものだぞ」
 珍しく常識的な発言をするフィオへ、慶子は優しく微笑みかけた。
「いい、あれはこの世にあってはならないものなの」
「何でだ?」
「あれは……」
 考えをまとめる。言葉を思い浮かべながら慶子はソファに腰掛ける、フィオを手招きして横に座らせた。
「いい、あれは儀式よ」
「またですか」
 ディノの言葉は気にしない。
「とても野蛮な儀式なのよ。昨日、怖い映画やっていたでしょ?」
「ああ。人を食べてしまう化け物の」
「そう。あれとよく似ているかな。互いの身体を舐めあって、お互いの力を吸収するの。それで負けてしまうと、その人はすべてを吸い取られて……干からびてしまうの」
 びくり。
 最後の一言だけ形相を変えて言ったのがよほど恐ろしかったのか、フィオは青ざめて身を震わせる。
(本当に可愛い子ねぇ)
 思いながらも、一転した笑顔で続けた。
「まっ、そんな魔力のある奴なんて今時いないから安心しなさい。ああ、でも。誘われてもついていったらダメだからね。今の若い子はこれをファッションのようにしたがるけど、とても恐ろしいのよ。負ければ死ななくても、相手に支配されてしまう可能性があるから。あんたは絶対にしちゃだめだからね。そんなことしたら、もううちの子じゃないから」
「ええ!? 肉は!?」
「肉もなし。うちの子じゃなくなるから」
「わかった。もうしない」
 彼は半泣きになりながら言った。
 慶子は浮かんだ涙を、ポケットから取り出したハンカチで拭ってやる。
「泣き虫ねぇ」
「そ、そんなことはない」
 フィオはハンカチを押しのけて強がる。
「強いわねぇ。いい子いい子。今日はね、フィオのために美味しいおやつ買ってきたんだけど、いる?」
「いる」
 現金なもので、その一言で彼は完全に涙を引っ込めた。
 本当に素直な子供である。見た目は中学生ほどだが。
「ディノさん、そんなところで固まってると邪魔なんだけど」
「は……すみません。あまりにも衝撃的で」
 彼も真面目な成年であるが、あまりにもひどかったのでかなりのショックを受けてしまったようだ。
「ああ、花の乙女が一瞬でショックから立ち直ったって言うのに、いい歳したした男が情けない。あんたも甘いもの食べてヤなこと忘れる!」
 慶子はディノの背中を蹴りつけた後、コーヒーメーカーの準備をした。
 今夜はフィオに男の恐ろしさというものを懇々と語ってやらなければならない。
 手は早めに打っておくに限る。

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あとがき