3話 あいつとあたし
 学校に来るのは気合がいる。へまをしないようにしなければならない。すべては自分のため。
 あの一家にあって無能。そう後ろ指をさされるのだけは絶対に阻止しなければならない。
「おはようございます、東堂先輩」
 後ろから知らない美少女が声をかけてきた。後輩だ。とても可愛いらしい。
「おはよう」
 慶子は知らない相手だが、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、東堂さん」
 後ろから──以下類似文。
 教室について席に着くまでそれは何度か繰り返された。
 もちろん席についても続くものは続く。愛想良く手を振って挨拶を返す。それが慶子の日課である。慶子は校内において存在感があった。父兄二人が有名すぎたからだ。そして慶子の日々の努力(猫かぶり)のたまものである。慶子は学校では『おっとりとした面倒見のいいお嬢様』で通っていた。
 しばらくすると挨拶するだけの学友ではない、最も彼女の中で存在感のある嫌な相手がやって来た。そう、嫌な男ナンバーワンである。
「ケイちゃん、おはよう」
 一人だけ慶子をあだ名で呼ぶ嫌な男は、慶子の幼馴染、明神大樹(みょうじんたいき)。母親が世界でもトップレベルのモデルだったらしく、顔立ちは下手な女よりも綺麗である。当然のように背も高く、顔が小さい。家は桁が違う金持ち。ただし、宗教関係。彼の一族の誰かがこの学校にも多額の寄付をしているらしいが、学年上位に居座る成績は本物で、運動神経もいい。
 地で女の子の憧れを突き進む、胡散臭いことこの上ない男である。慶子の中で『世界一信用できない造りものめいた男』と認定されているほど裏表のある奴だった。
「おはよう、大樹君」
 完璧男の幼馴染のらしく、慶子は柔和な笑みを浮かべた。
「ケイちゃん、最近すごく元気いいよね」
「そうかしら?」
 天使二人相手に疲れているというのに、とんでもない。むしろへとへとだ。
「今、白人の男と一緒に住んでるらしいじゃん?」
 彼は慶子の耳元で囁いた。
(この男は……)
「ええ。今、うちで女の子を預かっているけど、その子の護衛のことかしら?」
 間違ってはいないはずだ。口を開いてもあの可愛らしさで女の子である事を疑われたことはない。流暢だが変な日本語を話す美少女と。
「護衛?」
「ええ」
「護衛なんて、優雅なことだね」
「世間知らずなお嬢様だもの。大樹君だって護衛の方がいるでしょう?」
 嘘は一切言っていない。ちなみに彼に護衛がいるのも本当。しかも慶子と違ってスレンダーな美人である。
「世間知らずな女の子かぁ。確かお人形みたいな金髪の子なんだって? 会ってみたいな」
 どこから情報を得たのやら。
(ま、連れ歩いたものね)
 ノーメイクで帽子被ってサングラスをしていたとはいえ、近所の人は慶子の事を知っているのだから。
「ケイちゃんち、遊びに行ってもいい?」
「だめよ。預かり子がいるのに、男性を招き入れるなんて無責任なことできないわ」
「護衛がいるんだろ。何をするわけでもないし、平気平気」
「ダメよ。もしもの事があったらどうするの。お家の方に迷惑をかけちゃダメよ」
「平気平気。ケイちゃんは俺が護衛ごときにやられるとでも思ってる?」
 平行線である。このまま断っても、絶対に来る。抵抗しても絶対に。
 この男は人の嫌がる事をするのが好きな男である。
「……見るだけよ」
「ああ、もちろん。お姫様を怯えさせたりはしないよ」
「本当ね? この前も知らない男性に触れられて男性を怖がるようになってるのよ」
 もちろん、さんざんとことん徹底的に脅したからだ。
「きっと可愛いんだろうなぁ」
 完全にまだ見ぬ美少女に現を抜かしている。
(まずいわねぇ)
 見せたら即帰して、男に対する態度をさらに徹底させなければならない。
「ところでケイちゃん」
「何?」
「少し声がかれてるよ。全員に挨拶返してるから。はい、あーん」
 彼はあめを持って慶子の口の前に持ってきた。
「あーん」
「もう、大樹君ったら」
 慶子は手を差し出し、それを手渡しで受け取って口の中に入れる。
「ところで大樹君。岡本君たちがこちらを見ているわよ」
「ああ、本当だ。寂しがらせちゃったかな。じゃあ、ケイちゃん」
 彼は友人達の元へ歩いていく。長い足を見せ付けるような綺麗な歩き方をして。
 慶子は貰ったあめを舌の上で転がす。
(教育も楽じゃないのよねぇ)
 フィオに怒鳴ったり、フィオを叱ったり、フィオを褒めたり、フィオを慰めたり、フィオを誤魔化したり(これが一番多い気がする)。
 そう、家に帰ればしゃべってばかりいる気がする。
 そんなことを考えながら慶子は皆の視線を集めている事を自覚する。
 なぜか大樹との間に妙な噂があるらしい。
 両者とも、普段は温和なフリをしている者同士で、所詮ただの敵でしかありえないのに。
「おにあいだよね」
 とかこそこそと囁かれても、迷惑というものである。
 医者の息子で医大に入るために受験しているとかいうならともかく、相手は新興宗教の幹部候補である。しかも女好き。そんな男、絶対にごめんだ。


 馬鹿が一人前方に。馬鹿が一人後方に。
「ただいま、フィオ」
「お帰り。誰だその男は」
 案の定、慶子の殺意も気付くことなく前方の馬鹿は言う。
「ただの知り合い。もう帰るから」
「そうか。おやつは?」
「ああ、チョコレートあげたでしょ」
「もうない」
「ダメ。太ったらどうするの? 夕飯抜きよ」
 慶子はお馬鹿な天使の額をつつく。彼はぷぅと頬を膨らませた。
「ケイちゃん」
 後方の馬鹿が慶子の肩に手をかける。
「この子……天界の子?」
 突然の発言に、慶子の頭はついに真っ白になり卒倒した。大樹がそれを受け止め、慶子の頬を叩く。
「ケイちゃんどうした? おーい、慶子ぉ」
 呼ばれると慶子の頭の中がわずかに晴れる。本当にわずかだ。
「ケイちゃん、また太ったな。重い。ダイエットするって言ってたのは嘘か」
「うるさい黙れ」
 慶子は自力で立ち、一段高いところにいるフィオを抱きしめた。
「何でこの子のこと知ってるのよ」
「見れば分かるよ。霊的な次元で、人間とは明らかに異なるんだ、異界人は。天界人は俺も一度見たことがあったな。俺は目がいいから」
 慶子はフィオを見た。
 どこをどう見ても普通の人間である。
 何よりも、平然と天使を見たことがあるというこの男の存在が痛かった。あと異界人とはなんだろう。なぜごく日常的な玄関でのやり取りにそんなオタクな単語が混ざるのか。ああ、父よ。今すぐここにきてあたしに説明してくれ。慶子はそう心の中で祈った。彼ならきっと、この非常識な奴らを慶子が納得できるように説明してくれるに違いない。
「慶子、誰だあの男は」
 フィオは慶子に抱きつかれて喜びながらも大樹を牽制した。いい傾向である。
「ただの知り合い。親しくなることもないから安心してね」
「ひどいなケイちゃん。生後三日目の頃からの仲じゃないか。幼馴染にはお決まりのファーストキスも結婚の約束もしているし、十の頃までは一緒に御風呂に入って一緒に寝ていたっていうのにさ」
「はいはい」
 近付いてくる馬鹿のスネにけりを入れ、靴を脱いで家に上がる。
 彼との出会いは病院らしい。母親達が仲良くなったのだ。今、慶子の母は天に召されてしまったが、彼の母親はそんな慶子を哀れんでうちにおいでと誘ってくれる。ただ、慶子に気があるらしい長男と結婚でもしてお嫁に来てくれたら嬉しいなという魂胆が見え見えなので遠慮している。長男とは大樹ではない。彼は次男である。長男は現教主などしている。いくら金持ちでも、そんな怪しい職業の男と知り合い以上にはなりたくない。
「お邪魔します」
「上がるな」
「いいかい? 天使がいるって触れ回しても」
「ふざけるな死ねボケ」
「ははは、ケイちゃんの負け」
 慶子は深いため息をついた。
(だからこいつは嫌いなのよ)
 彼は昔から人の嫌がることしかしなかった。思い返すも憎らしい。
「はじめまして、フィオちゃん。俺は大樹ね。明神大樹。ケイちゃんの幼なじみ」
「触れるな無礼者」
 フィオは大樹が伸ばした手をぱしりと打ち払う。
「いい子よ、フィオ。その調子」
 慶子が褒めるとフィオははにかみ身をよじる。可愛い。
「可愛いねぇ、ケイちゃんと違って」
「慶子に触るな」
 慶子の肩に手を回そうとした大樹に、噛み付かんばかりの威嚇をした。本能的に危険人物である事を感じ取ったのだろう。本当にいい傾向である。
「フィオ、今夜は何食べたい?」
「ええとな、ええとな、これ」
 フィオはあらかじめ渡しておいた料理の本の一ページを指差した。グラタンである。見た目からして美味しそうな、つまり子供の好きそうな料理が彼の好みだった。
「今夜はグラタンかぁ。ケイちゃんの料理なんて久しぶりだなぁ」
 大樹はずうずうしくも、夕飯を食べて行くつもりらしい。
「一食1万」
「安いねぇ。良心的だなぁ、ケイちゃん」
 金持ちの息子は平然と言った。慶子は憎らしくて憎らしくて爪を噛む。彼女の家も裕福なほうだが、一万円をぽいと出せるほど慶子自身は裕福ではない。普段から高いものは、時々帰ってくる兄にねだって節約している。親の金は親の金。慶子が必要以上に使っていいものではない。
「ああ、むかつくっ」
「慶子、どうした? 腹でも痛いのか?」
「なんでそうなるの!?」
「よく分からないが、女官達は腹が痛いと機嫌が悪かったから」
 慶子は言葉に迷った。フィオはまだ幼い。まだせいぜい十三、四である。そしてその手の教育は受けていないだろう。
「そう……フィオはまだ子供なの。そっか、まだなんだ。
 ああ、あたしが怒ってるのはおなかが痛いからじゃないからね。この馬鹿が嫌いだから」
「そうか」
 慶子はいつか来る日のために、赤飯の炊き方を学んでおく決意をした。そうすれば、女の子らしくもなるだろう。こんなに可愛いのだから。
 慶子は冷蔵庫の中身と、買い込んだ特売品と相談し、ごく普通のマカロニグラタンを作ることにした。フィオの好きな鶏肉も入れよう。フィオは好き嫌いがないので面倒がなくていい。
「ディノさん、ただいま」
「お帰……なんですか、その怪しい男は」
 ディノは馬鹿プラス怪しい男を見て呟く。
「ただの知り合い。宗教屋の息子」
「ケイちゃん。天使を飼うのは別にいいけどさぁ、なんというかもっと選びなよ」
「黙ってなさい」
 慶子だって、フィオ一人いればそれでいいのだ。ただ、それでは昼間困るので、絶対に悪くしないディノを置いてやっている。可愛いフィオのために。ディノも大きな体をしている割には繊細なところがあり、もしも夫婦になったら、働いていても家事を手伝ってくれるタイプで、役に立つし、好意も持っている。世間の男の不甲斐なさを思うと、彼はかなりいい線ではないだろうか。国に帰れば、かなりの地位があるだろうフィオの護衛をしているのだ。収入も言いに違いない。天界ではさぞもてたのだろうが、フィオのためにそれを切り捨てていたに違いない。えらい男である。
「慶子殿……私達のことを話したのですか?」
 大樹の言葉にディノが反応した。当然である。彼らはこの界ではありえない存在なのだ。
「うんにゃ。こいつ、変だからそういうの分かるのよ。へんなのと電波で会話してるから」
「ケイちゃんせめて霊能力者とか超能力者とかの扱いを求めるよ。電波って、かなりヒドイ」
「黙れ押しかけ電波」
「半端な凡人には、崇高な人間の価値が理解できないんだよね」
「出てけ。このエセ確信犯め。半端な凡人の家なんぞに来るな。デタラメな神様を崇め奉って詐欺をして信者から好きなだけ金をむしりとってりゃいいでしょ。だから一般人を巻き込むな」
 慶子は言ってリビングを出て部屋へと向かう。
 彼が自分の家を信じているのは本当だ。それ故に犯罪も犯している。これぞ本当の確信犯。偉い政治家もよく来るので、慶子は目をつぶることにしていた。狂信者を怒らせることほど恐ろしいものはない。
 着替えるとキッチンに直行し、冷蔵庫を開けて必要な材料を取り出した。
 慶子はまず下ごしらえを始めた。それからバターを取り出し、鍋を取り出し適当に温めて適当にバターをぶち込む。溶けると小麦粉を適当にふるいながら目分量で入れる。混ざったら少しずつ牛乳を入れてだまにならないように混ぜる。
 その間、フィオはアニメを見ている。彼はテレビが好きらしい。だから朝、新聞をチェックして見ていい番組と、見てはいけない番組にマーカーで印をつけ、ディノに管理を任せる。字は数字すら読めないようなので、時間と時計の見方を教えるのに苦労した。
「そーいえばさぁ、ディノさん」
「何でしょうか」
 彼は取り込んだばかりの洗濯物をたたむ手を止めた。慶子はそれをちらと見てすぐに鍋に視線を落とす。
「なんで言葉通じるの?」
「ケイちゃん、ケイちゃんの頭でそんな難しいこと考えるだけ無駄だよ」
 答えたのは大樹。慶子は手近にあった包丁を握り締めた。
「失礼ねぇ」
「じゃあ、ケイちゃんの嫌いな非常識用語満載で説明してもいいか? それでいいなら俺がいくらでも説明してあげるけど?」
「……いらない」
 慶子は料理に専念することにした。フィオのために美味しいホワイトソースを作るのだ。と、慶子はいい事を思いつく。
「フィオ」
「何だ?」
「今度あたしと料理して遊ぶ?」
「料理? それは楽しいのか?」
 フィオは首をかしげた。今まで食べる専門だった彼にとって、食べる物を作るのが不思議でならないようだ。彼はもう少し庶民になれる必要がある。いきなりは無理だろうが、少しずつ常識を身につけさせるのだ。
「フィオ食べるの好きでしょ? 自分で作ったもの食べるともっと美味しいわよ」
 子供はそうすると嫌いなものでも食べるのだ。だからきっとフィオも喜ぶに違いない。
「うそうそ。ケイちゃん食い意地張ってるから、食に関するこだわり過剰で料理上手になっただけだよ。フィオちゃんが作るよりもケイちゃんの作るものの方が美味しいよ」
「そうか。ならやらない」
 慶子は泣きそうになりなりながら鍋をかき混ぜた。
 誰も手伝おうとはしないのか。この作業はけっこう重労働である。なのに誰も手伝おうとはしないのか。
 慶子は邪魔な男を呪いながら鍋をかき混ぜる。弱みを握られている者として、いっそ刺し殺すのはどうだと思うのだが、さすがにそれをやるとマズいので我慢している。
「慶子殿、手伝いましょうか?」
 慶子の動きを見て、ディノが声をかけてきた。さすがは人に仕える仕事をしているだけはある。
「いいわよ、ゆっくりしていて。大変なところは終わったから」
 女というのは、その言葉だけでも十分なのだ。
 ホワイトソースが出来上がると、一度裏ごししてだまになっているのを取り除き、それを潰して伸ばしてまた裏ごしする。そうして出来たホワイトソースと、茹でたマカロニと加熱しておいた野菜を耐熱皿で合わせて温めていたオーブンへ直行。
 その間にパンとサラダとスープを準備。オーブンがチンというと慶子はなべつかみを手にはめて……。
 背後に誰かの気配を感じた。
「何? あぶ……」
 突然、背後からわきの下を通って手が回された。その手はこともあろうに、慶子の胸に置かれたというか、握られた。
「何をするかこの変態っ!」
 慶子は反射的に相手のスネへ攻撃したが、あっさりとかわされた。
「ケイちゃん、何でサイズの違うブラしてるの?」
「は!?」
 唐突に意味不明な事を喚く大樹。
「ケイちゃんがFカップなんて嘘だ!」
「はぁ?」
 慶子は自分の胸に触れている大樹の手に、彼女のブラジャーがあることに気付く。色気のない肌色をしたブラだ。胸が大きいので、可愛いブラというのがあまりないのである。
「この変態っ! 返しなさいっ」
 慶子は大輝の手を振りほどき、飛び退る。
「返して! 人の下着を勝手に触るなっ」
「いやケイちゃん。だったら何で男に洗濯させてるんだよ」
「ディノさんは害がないからいいし」
「いやケイちゃん天界人舐めすぎ。真面目そうな人だからまだよかったんだけど……。そんなことより」
 彼は慶子のブラを握り締めて怒鳴りつける。
「自分に合わないブラなんてつけてたらダメだろ! 身体にも悪い!
 だから俺がいますぐ計ってやるから、とっとと服を脱げ」
 大樹は慶子を見据えて腐りきった事を言った。
「ぶざけてんじゃないわよっ!」
 慶子は怒りのあまり全力でその腹に拳を叩き込んだ。それからふと、世界的に有名な格闘家の兄と同じ道場に通っていた自分を思い出したが、仮にも大樹なのできっと大丈夫だろうと足払いも加えた。
「ぐ、しまった」
「もう返しなさいっ!」
 慶子は下着を奪い取りポケットの中へと入れる。
「あんた、ほんとに何しに来たの?」
「別に。ケイちゃんの無駄に大きな胸の秘密を探って来いって言われたからではないのは確かだけど」
 平然と起き上がる大樹を見て、慶子は大きなため息をついた。
(ああ、なんでこんな馬鹿と知り合いなのあたしは)
「そういえば、慶子はどうしてそんなに胸が大きいんだ?」
 フィオは自らのないに等しい胸を見て首をかしげた。
「そりゃあケイちゃんは毎日消費カロリー以上に食べてるから」
「かろりー? かろりーを食べたらああなるのか?」
「カロリーってのは、まあ食べ物にある……栄養だな。でも、腹につくのもいるからな。ケイちゃんは胸についてるだけマシだろうな」
 慶子は馬鹿な問答を始めた二人を見て、怒るのも馬鹿らしくなり今度こそオーブンに耐熱皿を入れた。あとはタイマーをセットし、水を張った鍋に火を入れた。
「フィオちゃんも慶子みたいに胸大きくなりたいの?」
「ああ。慶子の胸好き。ディノと違って柔らかいから」
「まあ……あの人と比べたらねぇ。じゃあ、フィオちゃん、俺が大きくしてあげようか?」
「大きくなるのか?」
「ああ、揉めば大きくな……ぐあっ!?」
 慶子の後ろ回し蹴りが、フィオの頭上を通過して炸裂した。慶子は女性にしては身長もあり、足も長いほうだ。小柄なフィオの頭に上まで足を上げるなど造作もない。
「まったく、ろくでもない」
 慶子は肩でぜいぜいと息をした。ここ最近、あまり運動をしていないので体がなまっているのもあるが、精神的なものが大きかった。嫌がらせにこんな子供まで利用するほど腐っているとは思いもしなかった。冗談の通じる相手でないのは、彼の言動を少し見れば分かるだろうに。
「ケイちゃん痛いよ」
 大樹は普通の男なら悶絶するような蹴りを食らいあっさりと立ち上がる。反射的に腕でガードし、当たる瞬間に跳んだのだ。もちろん反射的に出した手で、女の力とはいえ蹴りを完全に防げるはずもなく、ある程度のダメージはあるはずだった。
「俺はただ、可憐な美少女の悩みをこの手で解決してあげようと思っただけなの……」
 大樹がすました顔で言う最中、突然フィオは慶子にしがみ付いた。
「慶子、慶子。胸揉んで」
 おやつをねだる調子でねだる彼を見て、慶子は言葉を失う。
(そ、そう来るか)
 男ならロリコンの気がなくても襲い掛かりたくなるような強烈さだった。
「……あたしそういう趣味ないし」
「趣味?」
「とにかく、そんなの迷信!」
「でも、慶子『ちかん』に胸もまれたって」
 フィオはどうでもいいところで記憶力がいい。痴漢という言葉もしっかりと覚えていた。
「ケイちゃん……そんな、ケイちゃんが俺以外に揉ませるなんてっ!? 不潔!」
「アホかっ! しっかりと警察に突き出してるわよ!」
「そうか。ケイちゃんってば魔性の女なんだからぁ」
「……くぁ、だまらっしゃい!」
 人知れず夜遊びしている男に言われる筋合いはない。
 慶子は大樹に一喝すると、フィオに向き直った。
「いい、フィオ」
「うん」
「こいつどう思う?」
「慶子よりも綺麗」
「…………」
 子供とは素直なものだ。見た目は少女、中身は童子のフィオの場合はことさら。
「でも慶子の方が好きだぞ」
「あーはいはい。今言われても嬉しくないわ。まあ、この件に関しては許してあげるけどね。
 いい、胸が大きいと、変な男が触ろうと寄ってくるの。それでもいいの?」
「嫌だ」
「それに、重いし肩こるし邪魔だし、うつ伏せなんかになれないし、下着は少ないし高いし可愛いのないし、下着ドロボー出るからうかつに外に干せないし」
「……よくわからないが……大変なのだな」
 フィオはきゅっと眉根を寄せる。美少女はどんな顔をしても可愛い。
「あたしはフィオみたいな華奢な子の方が好きよ」
「本当か?」
「ええ。あたしもフィオみたいになれたらどんなによかったか……」
 背が低いというわけではないが、背の割には全体的にコンパクトなのだ。つまり細くて足が長いのだ。
「それで腹の肉を気にしているのか?」
「だから余計なことは言わないの」
 慶子は多少怒りを覚えながらも、ぐっとこらえた。
「わー、腹の贅肉気にしてるんだぁ」
 とどめに大樹が慶子のわき腹をつついた。
「あ、指が刺さった」
 刺さった。それが慶子の中で何度も何度もこだました。
 最近はろくな運動をしていない。体重も増えたが、肥満ではないし、痩せすぎよりも健康的だ。
「ま、大切なのは、胸と腹のサイズの差だよね」
 腹が出ていれば、胸が大きい意味もない。そういいたいのだろう。確かに肥満女性の巨乳は、見ていてむなしさを覚える物だ。
「そ……そんなに太ってないわよ! 大樹なんて大嫌い!」
 慶子はリビングを走り出た。
「ケイちゃん、そんな駄洒落な捨て台詞変だよ!」
 その後、慶子は地下にあるトレーニングルームに閉じこもり鍵をかけ、三人が本気で怯えて謝り倒す深夜十一時ごろまでサンドバックを殴り続けた。

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