4話 天使のあのね
「慶子、慶子、あのな」
フィオは退屈で仕方なくて慶子にまとわり付いた。
「うるさい黙れ」
最近ずっと不機嫌な慶子は、鉄の固まりを持って何かをしている最中だった。大樹か来る度にぴりぴりしている気がした。この前は、砂の入っているという袋を殴っていた。殴られると痛そうなので、フィオは諦めてテレビを見る。しかし休日の昼間、面白い番組はやっていない。ディノは近所のスーパーに買い物に出かけている。最近、彼はものすごく家庭的になっている気がした。前の怖いディノよりも、今のディノの方が好きだ。触っても怒らないし、むしろ触ってくれる。他の男は嫌いだが、ディノは好きだ。男で一番好きなのがディノ。女で一番すきなのが慶子だ。
それよりも、今は何もすることがない。退屈。
「慶子、あのな、退屈なんだ」
「っそう。じゃあ、これでビデオ屋さん行ってアニメでも借りてきなさい」
慶子は千円札を一枚、財布から取り出してフィオに渡す。
「何でもいいのか?」
「あたしが言った範囲内だけよ。あと新作はダメ。旧作なら三つ借りられるからね。あと、怪しいコーナーには近付いちゃダメよ。あそこは年齢制限があって、あたしでも入っちゃいけない魔の領域よ。子供が入ると毒だから、絶対にダメだからね」
「わかった。近付かない。近付いたら、もうアニメを貸してもらえないんだろう」
「そうよ」
慶子はフィオにレンタル会員証とかいうものを持たせた。
フィオも最近は一人で外を出歩けるようになったのだ。世間というものを少し学んだ。ディノは天界もこの人間界も大差ないという。こうやって世間を知ることが出来たのも、慶子のおかげである
フィオは感謝しながら家を出た。他の家に比べるとずいぶんと大きな家だ。だから慶子は裕福な家に生まれたのだろうとディノが言っていた。そうでなくて、だれが突然現れた天使を住まわせるものかと。
フィオはレンタルビデオ店にやってくると、アニメのコーナーに直行した。一切の迷いはない。他のものなど興味ない。この店は面白そうなアニメがいっぱいある。フィオは悩んだ後、二本のアニメを選んだ。あと一本を悩んでいると、店員と目が合った。店員の中年女性はフィオを覚えていて、
「慶子ちゃんのところの外人さんじゃない。一人で来たの。珍しいねぇ」
と言った。
「今日は慶子は忙しいから一人で来たんだ。ディノはスーパーの特売品を買いに行っている」
「……はは……すっかり主婦になっちゃってまあ……。そう。慶子ちゃん忙しいの」
「ああ。あと一本を探すから、私は行くぞ」
「フィオちゃんだっけ。たまには実写ものも借りてみたら?」
フィオは首を傾げて考えた。
「変身するヤツか!」
「いやそうじゃなくてね。普通の映画とかさ」
「夜になるとやるやつか? 前に見たのは面白かったな。途中で慶子は子供はもう寝なさいって消したけど。確かにたまには他のビデオもいいな」
魔の領域にさえ近付かなければいいのだ。あそこは仕切られているので、間違って迷い込むことはない。しばらく映画とやらのパッケージを眺めていたが、やはりアニメに比べると魅力はない。
(やはりアニメか)
フィオは場違いを悟り踵を返した。途中近道のために魔の領域のそばを通ると、偶然知った顔と出合った。
「あ、この前の二人組みの男」
以前腕を掴まれて何も知らずに叫んでしまい追われた男たちだった。
「あ……あの時の」
二人はなんと、魔の領域から出てきた。
「前は悪いことをした。しかしお前達は大人だったのか?」
「えいやそのまあ」
この界の者達は見た目で性別を判断しにくい。慶子だってそうだ。いつもは年寄りのようなのに、外に行くと若々しくなる。最近は家の中でも若々しいが、殺気だっているので怖い。
「この先には、何があるのだ? 慶子は子供が入ると毒だと言っていた」
「ええと……その……ほら、エッチなビデオを」
「えっち?」
知らない単語である。
「何だそれは」
「いやその……」
二人は顔を見合わせて口ごもる。
「慶子は教えてくれないのだ。私の事を子供扱いして」
フィオの方が年下ではあるが、慶子の方が数年先に生まれただけではないか。大差ない。なのに大人ぶって偉そうにする。
「ええとなぁ。ここじゃああれだから、もうちょっと人の少ないところに……」
「分かった、行こう。でもその前に、あと一本決めてからな」
「けーちゃぁあん」
大樹はマシンの脇にちょこんと座り、その上の寝そべる慶子を見上げた。
「はいはい何?」
慶子は腹筋をしながら答える。昔の筋肉が少し戻ってきたような気がした。目指せ体脂肪15%である。中学の頃の今よりはスリムだった身体である!
「ケイちゃん愛してるから機嫌直して」
「愛はいらない金がいい」
「それ以上やってケイちゃんの唯一の美点であるその胸が減ったらどうするんだ!?」
「望むところよ!」
それが目的だ。中学生の頃は諦めたが、今回は本気である。こういう馬鹿な男がこの世にいる限り、慶子に安息はない。元々、痴漢もストーカーもこの胸が大きな原因である。世の中もっと大きな胸、かつもっと美人はいくらでもいるはずなのだから、そっちに行けばいいとは思うものの、ついてこられるし触られるのだから仕方ない。そういった馬鹿を警察に突き出すのも鬱陶しいので、被害に合わないよう努力する必要があるのだ。
「そんなことしたら、うちの兄貴も泣くよ」
「……泣くの?」
慶子は腹筋を中断して問う。
「泣かないと思う。泣いてくれるなら見てみたいけどね」
「頑張る」
「がんばらなくっていいって。おなかに肉があるぐらい気にするなよ」
自分があおっておいてよく言う。
「その肉付きがたまらないんだし。ケイちゃんの身体俺好きよ」
嬉しくない。ぜんぜん嬉しくない。助平の代表に言われても。
「やせればあんたの馬鹿兄貴に胸見つめられるって屈辱を味わう必要もなくなるし、一石二鳥なのよ。
あたしは本気よ。あのむっつり助平教祖と縁を切るのよ!」
「確かに兄貴はむっつりだけどさぁ」
「あたしはあいつが大嫌いなのよ。あんたの馬鹿を二乗してもあんたの方がマシなぐらい嫌いなの。自分よりも綺麗な男に胸目当てで見られるなんて屈辱、あんたに分かる!? しかも人のこと見るとろくな事言わないし」
「ケイちゃん……兄貴と何があったんだ?」
「別に。嫌いに理由なんてないわ。まあ強いて言うなら、存在そのものが嫌いなのよ」
「……すごい嫌いようだね……いやすごいよ。兄貴をそこまで言うなんて。女の人には好かれるのに」
彼の兄は、彼をそのまま成長させたような容姿をしている。つまりはハンサムなのだ。
(あの人なら、探さなくてもあたしより美人で胸のある女なんて見つけられるだろうに)
本当になにがいいんだか理解できない。平均レベルよりは上だろうが、その程度である。このどこか別世界に住んでいる……いや、本当に別世界に行ったこともありそうな一家と関わりがあって、こちらが拒否しているのにしつこく付きまとってくるのが不思議なのだ。
「ケイちゃんが兄貴を嫌いなのはよく理解できたよ。うん」
「だからあんたとも関わりたくないの」
「まあまあ。それよりさぁ。母さんがケイちゃん連れて来いってうるさいんだよねぇ」
人の話を聞いていないのだろうか。
「イヤ」
「なんで?」
「おば様とおじ様のことは好きだけど、あいつがいると思うと絶対にイヤ」
娘のように可愛がってくれる人たちだ。本当に、しかも円満に娘にしたいからこそ、息子達のどれかと結婚させたがっているほど可愛がられている。それぐらいならまだ養女に行った方がマシだが、それはそれでいやだった。
「兄貴には内緒にして隔離しておくから。明日は兄貴、説法するからいないよ。いろいろと付き合いとかあるし」
「せ……説法って……実は仏教系だったの?」
「いやたぶんどちらかというと神道だろうけど、そういうのとはあんまり関係ない実用的な神様だし。
んま、いいだろ、別に言葉なんて。集会とか言うと怪しげだし。それ以外のなんでもないし」
「あんた自分のちの宗教軽んじてるわねぇ」
慶子は大きくため息をついた。あの男の言葉を聞いて何がありがたいのだろうか。しかしまあ、世の中価値は人ぞれぞれである。自分に理解できない事を否定していても仕方がない。
「あいつがいないんだったら、顔を見せるぐらいなら……」
「じゃあ決まり。明日おいで。十時過ぎからだから。フィオちゃんも連れてきなよ。会わせたい奴いるから」
慶子は少し考えた。あの子に特殊な世界を見せるのはどうだろうか。できれば平凡というものを教えてやりたい。彼女の家は親もいない、兄弟もいない。しかし家はだだっ広い。そんな特殊な環境なので、人の事をいえた義理ではないが、少なくとも明神家に比べればずいぶんとマシである。
「ディノは?」
「いいよ。つれて来たければどうぞ。あ、あと貰い物の美味しい酒があるらしいよ。明様、お酒好きだから、いいもの集まるんだよ」
政治やら財界の大物が何人も信者にいるらしい。テレビで見たこのある人物を『この人前にうち来ていた』と大樹が言うたびに慶子は早めに潰しておくべきではと悩んだものである。
「ケイちゃん。も一つお願いいいかな?」
「何よ」
「あれやろ」
慶子はため息をついた。
何だかんだと自分は甘い。そう思いながら地下室を出た。
「ケイちゃん」
「なに?」
彼女の声から棘が消えていた。落ち着いた、外よりも低めの声。
「あの二人はこれからどうしてくつもり?」
「さあ。帰すのも忍びないじゃない」
昔から彼女はこうだ。親しい人間には冷たいフリをするくせに、やはり世間が思うように真面目で面倒見がいいのだ。いつからだろう、彼女がこうなったのは。昔は普通に裏表なく本当に素直で可愛い子だった気がする。
ひょっとしたら、大樹自身と並んでいて比べられたのが原因かもしれない。頭の出来が悪いだの、ブスだの、太っているだの。慶子は別に頭もいいし人よりは可愛いし胸があるから太って見えるだけで決してデブではない。ただ、大樹と比べるからそうなるだけだ。今では裏での努力と、何でも受け入れてくれそうな癒し系の雰囲気でもって比べられるのを阻止しているようだ。
「……ケイちゃん、俺のこと嫌い?」
「うん」
「うわひでぇ。俺はケイちゃんだけよ」
「そうねぇ。あんた女の子に友達いないものねぇ。遊び相手はいても」
的を射た言葉に大樹は目を伏せた。
「痛くない?」
「うん。ケイちゃん柔らかくて気持ちいい」
「その手をそれ以上進めたら突くわよ」
「ほいほい」
腰の辺りに触れた手をぴしゃりと払われた。
「ケイちゃん」
「何?」
「痛いもう少し丁寧に」
慶子は耳にふっと息を吹きかけてきた。心地よいそれに大樹は黙る。しゃべらないほうがいいだろう。そう思い目を伏せたときだった。
とたとたとたと、軽い足音が聞こえた。この軽く警戒心のない足音はフィオだ。
「ただいま帰っ……」
フィオは仲むつまじい二人を見て硬直した。ただでさえ大きな瞳を見開く。美少女はどんな表情も似合ってしまう。
「どうしたの?」
「……お前達……『えっち』とやらをしているのか!?」
さく。
慶子の手にしていた『耳掻き』が大樹の耳に突き刺さる。
「いっ!?」
「きゃあああ、ごめんなさいごめんなさい。やだ、うそ、血!? こ、鼓膜は大丈夫!? 聞こえる!? 平気!? 聞こえてる!?」
慶子が錯乱して大樹の身体を揺さぶった。その混乱に乗じて慶子に抱きついてみる。
「ケイちゃん、何!? 何言ってるんだ!?」
「胸触ってんじゃないわよ!」
いつ何時も慶子は容赦なかった。
仕方なく大樹は耳に触れる。耳の弱い皮膚が少しさけただけのようだ。
「とりあえず平気みたいだね。ティッシュくれる?」
「分かった」
慶子が血をふき取ってくれる。耳の中を覗かれ、耳に指を入れられる。
「血が出るというのも本当なのだな」
フィオがまたしてもトンチンカンな発言をした。
「さっきからあんたは何なの!? ビデオ借りに行っただけでなんでそんな発言するようになるの!?」
「ええとな。知っている男たちに教えてもらった。慶子の言う魔の領域とやらを。あまり詳しくは教えてくれなかったが、棒を穴に入れるとか何とか言っていたぞ」
確かに、棒を穴に入れていた。耳掻きを、耳の穴にだが。そして確かに血も出た。フィオの発言に驚いた慶子の手が滑って起きたただの事故だが。
「やっぱり気持ちよかったのか?」
大樹は迷う。慶子が関係なければ、本当の事を教えてやっていただろう。もちろん、騙して実践するなどという鬼畜なことをするつもりもない。しかし、相手は慶子の妹分である。しかも天界の次期王である。教えていいものかどうか。というよりも、やはり慶子が怖いので彼女に任せるのが一番だろう。どうせいつものように適当なデタラメで言いくるめるのだ。
「フィオ、違うわ」
驚くべきことに慶子は否定する。せっかく変な誤解をしてくれたのに、なぜ否定するのだろうか。
「これはただ耳の穴を掃除してただけよ」
「そうなのか?」
「そうよ。あたしとこいつがそんなことするはずないじゃない。間違ってもそんな変なことだれかれ構わず吹聴しないでよ」
つまり大樹とそんな関係であると思われるのが耐えられないようだ。
「では『えっち』とはどんなものなのだ?」
「結婚してから旦那様に聞きなさい」
「だんな……男などとは結婚せぬぞ」
「じゃあ奥さんに聞きなさい。あんたなら許してもらえるから」
大樹は慶子のあまりにもな発言に脱力する。
(フィオちゃんの男嫌いもあれけど……ケイちゃんもケイちゃんなんだよなぁ)
「私は慶子と結婚する。だから教えてくれ」
「そういうのは双方の合意があってするもんでしょ」
「私のことは嫌いか?」
「じゃああたしのこと好きなの?」
「好きだぞ」
「ただの好きじゃダメなのよ。他の誰よりもよ。死んでもいいぐらいね」
フィオは考える。考え、
「慶子好き」
抱きつかれ、慶子は頬を朱に染め抱き返す。
「ケイちゃん!? 俺の知らない間にそんな百合な世界に?」
ただ可愛くて反射的に抱きしめているのだと理解していても、妙に落ち着かない。堕落のきっかけなどささやかなものである。
「そうしたらずっと一緒にいられるのだろう? 私は慶子と一緒にいたい」
慶子は抱きしめたくなるほど可愛いフィオにお願いされ、珍しく慶子は素で微笑んだ。最近、大樹には向けなくなった素直な顔。
「……もう、可愛いんだから。ほんと馬鹿ねぇ。結婚なんかしなくても、フィオがいたいだけいていいのよ」
「本当か?」
「当たり前よ。フィオのこと、私も大好きよ」
おそらく、慶子の理想の女の子なのだ。何もしなくても可愛くて、華奢で、守ってやりたくなるような。そんな可愛げのある、誰からも愛されるだろう少女。
「でも、結婚するなら慶子がいいぞ」
「はいはい。可愛いこと言うわね。そうだ、フィオ。明日大樹の家に行く?」
その言葉を聞いたとたん、フィオの笑顔が膨れ面に変わる。
「嫌だ。そいつ嫌い」
「どうして?」
「慶子は私のだ」
可愛らしい独占欲である。いつか慶子が結婚するとき、相手の男をどんなふうに罵るのだろうか。それとも本当に百合の世界に……。
「フィオちゃん。うちは美味しいもの沢山あるぞぉ。フィオちゃんの食べたことのないような高級食材の料理を沢山用意しておくよ」
とりあえず、もっと他の事を教えるほうがいい。慶子とディノに大切にされすぎていては彼女のためにならない。慶子のためにも。世の男のためにも。
「行く」
やはり子供。食べ物の誘惑には勝てないようだった。
慶子はあっさりと裏切られ、フィオを抱えたままふてくされた顔をした。フィオは慶子に抱きつき、そして珍しい物を食べさせてもらえると知り、ついでに借りてきたばかりのビデオとで大変満足しているようだった。
「そうだ慶子。話しはずれたが『えっち』とやらは何なのだ? 私もしてみたい」
「だからダメだって。あたしもしたことないから、あんたもしなくていいの。
もしもどうしてもしてもらうなら大樹にしてもらいなさい。あいつがヤなら諦めなさい」
思わぬところで突然名前を出された大樹は、ぎょっとし一気に大量の汗をかいた。
フィオは可愛いと思う。連れて歩く分には自慢できるし可愛いので楽しいはずだ。しかしそういう相手としてはまずい。フィオのことは女としては好きではない。好きではないなら遊び相手でしかない。しかしフィオはそれではすまないタイプである。慶子はそれを理解しているはずだ。もし万が一フィオがそれでもいいと言ったら……。
「やだ。慶子じゃなきゃやめる」
いいと言うはずもなかった。
「しかしディノもダメだろうか?」
「ディノさんは無理よ。真面目だから。本気でないならこういう後腐れのない男が一番よ」
「うう……じゃあいい」
かみ合わない会話を繰り広げる少女達に、大樹は少し絶望した。
(ケイちゃん……人を何だと……。しかもフィオちゃんもそんな迷いもせずに)
こちらの気持ちなどはまったく無視なのだろうか。
「じゃあ、耳ほってあげるからここに寝て。これも眠っちゃうぐらい気持ちいいから」
「分かった」
フィオは慶子の膝の上に頭を預ける。
「ケイちゃん。方耳しかしてもらってないんだけど」
もちろん大樹の訴えは無視された。
しばらくするとディノも帰ってきて、結局はディノの後にようやく順番が回ってきた。大樹はじぶんの耳を掃除するのが苦手だった。