5話 天敵一家


 朝、慶子はリビングにやってくると、ううと唸ってテーブルにつっぷした。
 彼女は朝には強いはずだ。しかし今彼女は憔悴した顔をしていた。いつも結ばれた癖のある髪はそのままで、家の中ではいつも歪められている目元口元はただ無感情だった。
 彼女の様子は、いつもとは明らかに違った。
「慶子、そんなに嫌なのなら断ったらどうだ?」
 フィオが珍しく正当な意見を発する。
 彼は物を知らないだけで、ごく普通の子供である。懐いている慶子が嫌がれば、その相手を嫌う。そして自分の欲望を我慢する事だってする。
「大丈夫よ。あいつがいないなら、今の内におば様とおじ様に挨拶しておかなきゃ。母さんの大切なオトモダチなんだし」
 慶子はふざけたところはあるが、根は真面目な少女である。時々驚くほど潔癖で、ディノが外で見た少女達と比べても、彼女は比較的真面目なことが分かる。フィオが昼寝している間に見るお昼のワイドショーでも、昨今の少年少女の醜態を嘆く世間がある事を知ったので、よけいに意外だと思えた。
 彼女は外面と根本は似たところがあるのだ。けっして良い子を演技している、性悪ではない。
 だから彼女がここまで嫌うには、相応の理由があるに違いない。
 あれだけ女性の身体にべたべたと触る、慶子の話しによれば女性をとっかえひっかえにしている男の方がマシというほど嫌っている。
「慶子殿。その男に何か嫌なことでも?」
「そうよ。人の顔を見るたびに『凡人』だの『十人並み』だの『特徴のない顔』だの『デブ』とか言うのよ!? 何度も何度も!」
「……慶子殿、好かれていると言っていた気がするのですが?」
「知らないわよ。最初は嫌われてたみたいだけど、いつの間にか言葉は変わらなくても態度が変わってきたのよ!」
 慶子は思い出しては憤慨する。
 よほど性格の歪んだ男なのだろう。どちらが哀れなのかは分からない。好かれる女か、それを好いてしまった男か。
「悪徳宗教で人を騙して大金貢がせてるのよ。しかも、あいつの代になってから、著名人の出入りが激しくなったとかなってないとか。絶対に何か犯罪の匂いがするわ」
「慶子殿、大樹殿のご両親は嫌いではないのでは?」
「そうね。あの二人は基本的にいい人だもの。なんというか、娘代わりにされていた気がするわ。娘いないから」
「……大樹殿には妹がいるのでは? 何度か『妹が〜』と言っていたのを聞いた気がするのですが」
「ああ、マキちゃんね。あれはなんてーかな。私の心のアイドル初代よ」
「二代目はフィオ様で?」
「そう」
 慶子はフィオを抱きしめた。好いている慶子の抱擁を受けてフィオは喜ぶ。
 ディノは時々不安に思うのだ。姉のように慕う……のならいい。しかし万が一女性として……などという恐ろしいことが起こったら。ただでさえ俗世に染められてしまったのに、あの乱暴ガサツ女の慶子に惚れてしまったら。
 そう思うとディノの内心は恐怖に占領される。
 幸い、フィオは恋など知らない。単語は知っていても、それを知るほど世の中を知っていない。実感するものとして理解していない。そして日々女の子として洗脳されている。だからその心配も薄いとは思うのだが、慶子のフィオへの愛情は、人との接触に憧れていたフィオにとっては何よりも嬉しいはずだった。そういったものを、フィオがどう受け取るのか。
「っしゃ。やるぞ! 奴はいないんだあたし!」
 慶子は突然立ち上がり気合を入れる。いないと分かっていても嫌なほどの嫌いよう。よほど性格破綻した男なのだろう。大樹の兄ならばかなりのハンサムなのだろうが、ひょっとしたら慶子の男性に対する理想はその二人のせいで出来上がったのかもしれない。浮気をしないとか、そこそこの性格とか、そのくせあまり家に帰ってきて欲しくないとか。
「フィオ、今日はおめかししていきましょうね」
「おめかし?」
 フィオは顔を顰める。慶子の言うおめかしは、フィオにフリル付きのスカートをはかせる事を意味する。それを着ているときは走ってはいけないなど注文が多く、フィロはうんざりしているようだった。
「今日は車で迎えが来るから。乗ってみたいって言ってたでしょ?」
「うん、おめかしして行くぞ」
 慶子はまんまとフィオを騙し納得させ、そして彼女は着替えに戻る。
 ──フィオ様をお守りするのも一苦労だ。
 何せ、何も知らぬ子供同然なのだ。その育て方が正しいとは思わないが、それも彼の将来のためだ。少なくとも、欲望溢れる世間を見ていると心からそう思う。
 天界も人間界も、その闇の深さは変わらない。

 今日の慶子はブラウスと長めのプリーツスカート。そして暖かなジャケットを羽織る。髪はやはり無難に三つ編み。化粧も学校へ行くのと同じものを。つまりいつもと大して変わらない。
 フィオはと言えば、レース使いの可愛いアンサンブルに、フレアスカート。さらさらとした短い金色の髪は、ブローをして少しだけ動きのあるように癖をつけた。
「ふりふりで可愛い」
 慶子は出来上がった美少女の姿に満足した。
「本当にお美しいです、フィオ様」
 最近まるで過保護な父親のようになってきたディノが言う。
 彼の着ているのは、外に出しても恥ずかしくないように慶子がコーディネイトした服を着せている。ディノの場合、元がいいので何を着ても似合う。そのせいか、最近近所の奥様方に妹(フィオ)とセットで大変人気らしい。
「車はまだか?」
「もうそろそろよ」
 初めて自動車に乗ることになるフィオは、大変興奮していた。朝の子供向けの番組に、乗り物についてのものがあるらしいのだ。それを見て、フィオは乗り物に憧れていた。似たようなものはないのかとディノに聞いたが、乗り物はあるがあのような形状をしていないとのことだ。フィオは滅多なことでは外に出ることもなかったし、だからこそ乗り物に対しての憧れは人一倍強いのかもしれないらしい。
 慶子がはやるフィオをなだめていると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、来た」
 フィオはとたばたと玄関に向かう。サンダル引っ掛けドアを開けると、大樹が微笑みフィオを受け止めた。
「やぁ、フィオちゃん可愛いねぇ」
 子供にするようになでなですると、フィオは無視して門の外に止められた自動車を見た。
 ごくごく普通のベンツである。いくらするかは知らないが、慶子は好きではなかった。
 ちなみに彼の兄が来るときは問答無用の超高級車である。本人達の趣味がこれでよく分かる。
「また車変わってない?」
「うん、信者のおばさんにもらったから」
 どこの高給取りのホストだと思いながら、慶子はフィオを引っ張り込んでブーツをはかせる。
「あ、女……じゃなくて、女の人がいる」
 教育の結果、人を男、女、呼ばわりするのをやめさせることに少し成功した。
 慶子もショートブーツをはき外に出ると、知った顔が自動車の番をしていた。
 スレンダー美人の大樹のボディガードである。これに比べたら大樹の方が強いと思うのだが、本人達がそう言っているのだから仕方がない。
「こんにちは。お久しぶりね、鈴木さん」
「お久しぶりです、慶子様」
 硬い表情で彼女は言う。フルネーム鈴木鏡華。慶子の苦手な女性である。
「慶子。この車キレイだな。ピカピカだ」
 黒いベンツを指差して言う。
「それは大樹が人にやらさせたのよ」
「そうか。人を使ったのか。理解した」
「ケイちゃんケイちゃんケイちゃん」
 微笑みながら言う慶子と、即座に理解するフィオを見て大樹が半ば焦りながら慶子を呼んだ。
「なぁに?」
「……ああ……もういいよ何とでも言って?」
 慶子のぴりぴりした様子に気付き、大樹は話しかけるのを断念した。
 ぺたぺたと車に触りたい放題のフィオの頭に拳固を食らわせ、慶子はフィオを車に押し込んだ。
「なんでこんなにクッションがあるんだ?」
「ベンツは頑丈だけが取り柄だからよ。乗り心地悪いったらありゃしない」
「まあねぇ。もらい物だし。うちの車ってよく壊れるから。
 馬鹿みたいに高い車に乗ってるのは兄さんだけだし。ほら、あれでも教祖だから。ベンツは父さんが好きなんだ。俺はデザインとかあんまり好きじゃないんだけどね。走ってると怖がって道を譲ってくれるのがけっこうお得だったりするけど」
 大樹はフィオを挟んで反対側から乗り込み、鏡華がそのドアを閉める。
「ああ、ベンツって故障多いものねぇ。うちのもいろいろと壊れたわ。あんたのところとはクラス違うから何とも言えないけど。長時間座ってると腰痛いし。やっぱり日本車が一番よ。スピード出さなきゃね」
「そうそう。腰痛くなるよねぇ。これはクラス低いよ。でもほら。クラス低くても、多少ぶつかっても大破しないから」
「ちょっと待て。そんなにぶつかるの?」
 大樹は首を傾げ、はははと笑った。
 慶子はちらと鏡華を見る。今年で二十三歳だったはずだ。免許は十八のときに取っているので、初心者ではない。
「さ、鏡華出して」
 大樹は誤魔化すように言った。
 ──こいつら、そんなにしょっちゅう襲われてるの?
 一度彼の兄が襲われているのを目撃したことのある慶子は、小さくため息をついた。


 玄関の前に着くと、慶子はフィオの髪を直した。フィオは興奮冷めやまぬようで、まだ顔が輝いている。新たな興奮が待ち受けているためかもしれない。
 ──可愛いなぁ。
 金髪碧眼の美少女天使。何とも愛らしいその姿に、大樹は愛玩動物を見守る飼い主に似た心境で彼女を見た。
「ただいまぁ」
 大樹が家に入ると、すぐさま使用人達が集まりスリッパを用意した。
「わぁ、ふわふわ。犬……だったか?」
「冷え性のケイちゃんのためにね。ちなみに、この口の部分に足を入れるんだよ。食いつかれてるみたいで可愛いんだ」
 フィオが喜んでスリッパを履いて、ディノにもそれを強要して遊ぶ。そうしていると本物の犬達がやってくる。
「こ、これはなんだ?」
「チワワよ」
「これは?」
「柴犬よ」
「これは?」
「トイプードル。なんかあたしの好きな犬増えてる気がするけど、気のせいかしら?」
「可愛いなぁ。可愛いぞ慶子」
 フィオは犬へと足を向け、一斉に吼えられる。
「ああ、人間じゃない知らない人には吼えるんだそいつら。お前達、コイツはいいからな」
 大樹が言うと、それを理解して犬達がほえるのをやめた。
 しつけの行き届いた犬達である。
 吼えられたフィオといえば、怯えてディノの背中に隠れてしまった。それを見て慶子はにこにこと笑っている。そうしているうちに慌しい足音ともに母がやって来た。
「美津枝おば様。お久しぶりです」
「まあまあケイちゃん。しばらく見ないうちにますます誠子ちゃんに似てきたわね」
 大親友であった慶子の母、誠子を思い出してか母の美津枝は目じりを拭う。
「さ、あがってあがって。このスリッパ可愛いでしょう? この前頂いたのよ。モデルは明様なのよ」
 と言って、美津枝は足元の白い犬を指し示す。
「……そぉなんですか。あかるちゃんなんですかぁ」
 慶子は顔を引きつらせた。気持ちは分からなくもない大樹は、普通の愛用スリッパをはいた。
「……慶子殿。それは? 妙な気配を感じますが」
「ここの神様の明ちゃんよ。ラブリーでしょ?」
「か……神……なのですか? 犬が」
「この国はいろいろな神様がいるのよ。宗教として成り立ってるんだからいいじゃない。明ちゃんは賢いものねぇ」
 慶子は宗教に興味はなくとも、大の犬好きである。犬好きの彼女は、昔から明目当てにこの家に通っていたようなものだった。明も慶子を気に入っていて、撫でて抱きしめてくる慶子に擦り寄った。まったく助平な犬である。
「ところで、慶子ちゃん。可愛い天使ちゃんが来るんじゃなかったのかしら?」
 ディノを見て、そのたくましさにややときめきつつ美津枝は問うた。
 フィオは未だにディノの背中に隠れている。
「フィオちゃん、どうした? あれうちの母」
 フィオはディノの背中から顔を出して美津枝を観察する。その瞬間、美津枝の顔に緊張が走る。
「まあ…………まあまあまあまあ!」
 緊張というよりも、歓喜。歓喜というよりもただのミーハー。
「可愛い!」
 その一言にフィオは顔を引っ込めた。
「フィオ……どうしたの? 珍しく緊張して」
 慶子はフィオに問う。
「……大樹の母親なのだろう?」
「そうよ」
「母親なのだろう?」
「そうよ」
「母親というものをこんな近くで見るのは初めてだ」
 慶子の目が点になる。
 そこまで理解していないとは思っていなかったのだ。
「……って、あんたいつも商店街のおばちゃんと話してるじゃない」
「あれも母親なのか!?」
 その言葉に慶子は額を押さえる。
 母親というものを知らずに育った故に、彼は母親というものを誤解しているようだった。もっと特殊なものなのだと。
「そうか……母親なのか」
「あんたねぇ、時々近所の子と遊んでるでしょ。よく母親迎えに来るでしょ」
「あれも母親なのか!? ママとか、オカアサンとか呼んでいるが」
「それが母親なのよ。もう可愛いんだから」
 目を白黒させるフィオを慶子は抱きしめた。可愛いというか、純粋というか、ひたすら物知らずというか……。
 誰も教えなければ知らないのは当然だ。フィオがあまりにも理解していないので、翻訳がされていないのだろう。彼の中に当てはめる相応しい単語がないのだ。
「ケイちゃん、ケイちゃん。それ可愛い。私にも貸して、私にもそれ貸して」
「ええと……はい」
 慶子はあっさりとフィオを美津枝に差し出した。フィオは美津枝に抱きしめられて撫でられて、理解できずに何度も何度も瞬きをした。
「そうだ。真樹ちゃんを呼びましょう。並べたらきっと可愛いわぁ。今日はケイちゃんが来るから、お小遣いでつってキレイにしておいたのよぉ」
 フィオは歩き出した美津枝の腕の中から抜け出し、慶子の背に隠れた。それから足元の明に気づき、歩きながら手を伸ばす。女の子が好きな明は、フィオの手に鼻面を押し付ける。
「慶子、慶子、犬犬! 犬に触ったぞ」
「よかったわねぇ。その子はとっても賢いから、絶対に吼えないし噛まないのよ。可愛いでしょお? すごくおりこうさんなのよ」
 慶子はにやけている。彼女は大の犬好きである。慶子は一人と一匹を見守りつつ美津枝の後を追う。大樹はその後に続き、不機嫌な鏡華はその横に。
 鏡華は慶子を苦手意識している。自分にない物をもっているから。癒し系の豊満な胸とか。ミニスカートの似合いそうな細すぎず太過ぎないむちむちしたエロい足とか尻とか。ついでにエロい身体をしているのに、顔はいかにも柔和である。そう、まさしく世の男性が求める癒し系。
 その他諸々、すべて正反対だから羨むべき点は多いだろう。逆に慶子も鏡華を妬んでいるはずだ。肩こりとは無縁そうな全体的に細いらな身体だとか。ほっそりとして綺麗すぎて色気のない脚とか。ついでに癒しとはほど遠い、クールで触れれば切り付けられそうな鋭い雰囲気を持つ美人なところとか。
 そんな二人を見ていると実に楽しかったりする。
「鏡華、そんなにむすっとするなよ」
「していません」
「してるよ」
 頬をつんと突付くと、不機嫌を丸出しにした慶子が振り返り大樹を睨んだ。
 フィオの側で女といちゃつくなと思っているのだろう。勘違いされているのは仕方ないし、弁解の余地はないことは悟ったので現在この状況を楽しむことにしている。
「それより母さん。静かにね……って、『可愛い女の子』に夢中で聞いてないな」
 昔から女の子を欲しがっていたので、慶子も昔は散々いじられていたものだ。そして今でも嫁に来いと言われている。
「真樹ちゃん、ここ!?」
 美津枝が襖をばんと開けると、ぎょっとした様子の少女と、そして青年がいた。
「慶子さん!?」
「慶子!?」
 少女──真樹は自らを恥じ、そして兄の樹(いつき)は思わぬ慶子の訪問を喜び声を上げた。
「げっ」
 慶子は樹を見て普段人前では絶対に出さない声を上げた。
「な、ななな、なんで樹おにいさんが?」
「いて悪いか。ここは俺の家だ」
「説法に出かけたんじゃ」
 慶子の顔は青ざめ、まるで浮気の最中に夫が帰ってきた若妻のようである。
「調子が悪いから父が代わりに行った。私の調子が悪くて悪いか?」
「あれにも不調なときがあったなんて……鬼の霍乱なんて言葉ではすまないわっ」
「人を何だと思ってい……」
 立ち上がった直後、樹はぱたりと倒れる。
「ああ、兄さん熱あるんだから寝てこなきゃ」
 真樹に心配され、しかし彼は再び起き上がる。立ちはしないが、背筋を伸ばしきらずに胡坐をかく。
 顔は赤く、息も荒く、病人そのものであるが、その態度もいつもの兄そのものと変わりない。
「座ったらどうだ? ただでさえ太い足がよけいに太くなるぞ」
 こういうところが慶子の嫌気を膨張させていることに気付いていない。
「フィオ、樹さんがいるなら帰るわよって……あんたは何でもう食べてるの!?」
 慶子が帰ろうとするのを見越して、美津枝はフィオにフライドチキンを与えていた。ここは居間に設けられたパーティ会場。いつもは家族でこじんまりと豪勢な食事をしている場所である。
「フィオちゃん。これは?」
「美味しい! 何だこれは」
「アワビよ」
 その単語に慶子は過剰反応した。
 慶子は昔からアワビが好きだった。そしてキャビアが好きだった。ついでにフカヒレも好きだった。ツバメの巣も大好きだった。
 つまり高いものが好きだった。
「慶子、美味いぞ」
「……せっかく用意していただいたんだから、ちょっとだけ食べていかなきゃ失礼よね」
 樹の体調が悪いのに多少油断して、慶子はアワビと美少女の誘惑に負けてふらふらとフィオの元へと行く。
「フィオと真樹ちゃんの間に座ろうかなぁ……って、真樹ちゃんなんで逃げるの?」
 羞恥のためにこそこそと逃げ出そうとしていた真樹の足が止まる。
「ちょうどフィオと同じぐらいの歳よね。フィオ、同年代の子と話したことないでしょ。仲良くしてもらったら?」
「ん。女……の子だから仲良くする」
 フィオが無邪気に言うと、その姿を凝視して真樹は泣いた。
「なんで僕が……僕がこんな目に……」
「泣くな、男だろ。そんなんだから母さんに面白がられて着せ替えさせられるんだぞ」
 一番母に似て女顔の末っ子は、娘代わりに時々女装させられている哀れな男の子である。慶子はその姿を気に入っているのだが、年頃の少年は気になる年上でちょっと憧れているおねえさんにいつも笑われて傷ついているのだ。
「真樹ちゃん。うちのフィオと仲良くしてあげてね」
 真樹はちらと大樹を見る。
「あれって、天界の統治者候補……なんだよね?」
 仲良くしろと命じられた相手を見て真樹は怖気づいた様子だった。慶子など、毎日のように小突いて抱きしめて餌付けしていい子いい子しているというのに小心者の弟である。
「ああ。アヴィの言う事を信じるならな。アヴィは?」
「すぐに帰ってくるんじゃない? 実家でトラブルがあったらしいけど。それよりも、なんで慶子さんが来るって教えてくれなかったんだよ! かかなくていい恥かいただろ!」
「言ってお前の様子がおかしかったら兄さんに気付かれると思って。まさかこんな日に風邪引くとはなぁ。後でケイちゃんに殴られるんだろうなぁ。お前代わるか?」
 真樹は首を横に振る。
 彼は慶子に懐いている。慶子がいると真樹への母の愛(嫌がらせ)が減るからというのが一番の原因だろう。この人が姉だったらどんなに幸せだったかを切々と語ったことがあった。
「真樹ちゃん。フィオちゃんと並んで並んで」
 美津枝の命令に、真樹は着替えるタイミングを完全に逃して渋々とフィオと並んだ。
「お似合いねぇ。可愛いわぁ。いいわぁ。うちにもほしいわぁ。フィオちゃん。大きくなったらうちの真樹のお嫁さんに来てね」
「オヨメとは何だ?」
 美津枝と真樹はきょとんとした。フィオは理解せずに不安げに慶子へと視線を向ける。
「妻になるのよ。つまり結婚して、家庭を作って、子孫を残すパートナーになるの。人生で最も大切な選択よ。真樹ちゃんなら許すけどね」
「慶子殿! フィオ様にそういうことは……」
 ディノはフィオの様子を見て、慶子の耳元で囁いた。
「フィオは彼氏を作っちゃいけないって言うの?」
「いや、たぶん彼女の方が喜ばれるかと……って、そういう問題ではありません。フィオ様はまだ幼くていらっしゃる。フィオ様に恋愛はまだまだ早すぎます」
 どっちもどっちである。
 あっぱらぱーな保護者と、過剰に過保護な保護者と。
 慶子もフィオに相応しくない知識は徹底排除しているが、自分はこの家に嫁に来るのは嫌だが、フィオならいいとは勝手な言い草だ。
「慶子? 座らないのか?」
「ええ。真樹ちゃんは?」
 真樹はふるふると首を振って樹の背に隠れた。傷つきやすい年頃なのだ。
「んじゃ、俺がケイちゃんの左側に」
「まて、ずるいぞ……こほっこごぼっ」
 身体を引きずって慶子の左隣に来ようとした樹は、突然咳き込み真樹に心配される。
「……あの、なんで左隣なの?」
 慶子は大樹を左に置いて樹を牽制しつつ問う。
「ああ、それはケイちゃんがブラウス着てるから」
「は?」
「左側はボタンの隙間から胸見えるときがあるんだ。今日は可愛いピンクのブラ」
 慶子は慌てて手に持っていたジャケットを羽織って胸を押さえる。
 ──あ、やっぱ知らなかった。
 絶景ではあるが、他人にこれを見せるのはもったいない。一人だけの楽しみでないのなら、気付いてもらった方が安心できる。だから、教えた。
「お前っ!」
「……兄さんもケイちゃんのピンクのブラ見たかったの?」
「っ、誰がそんな牛女のブラなどっ」
「……」
 素直でなかったり、素直すぎるのは昔からなのだが、ここまで来ると馬鹿としかいいようがない。慶子は突然箸を持ちアワビを口に含み始めた。
 ──あ、無視してとっとと帰る気だ。
「慶子は牛なのか?」
「フィオは聞いてなくていいのよ」
 慶子はおっとりと微笑む、その間にも、箸は皿に欲しいものを選び取っていた。
「牛は美味いぞ。慶子も美味いのか?」
「そんなわけないでしょう。人間なんかと牛の美味しさを比べちゃダメ」
「わかった」
 フィオは納得して再び食べる。
「そこの腰と足と胸の太い女。そんなに食べていると、顔にまで脂肪がつくぞ」
 ひくっと顔が引きつったが、慶子はそれも無視をし続けた。
「慶子の足は太いのか?」
「待って。なんで腰を抜かすの? 腰は太いと思ってるの?」
「ち、違うぞ。慶子は腹のことに触れると怒るから。慶子の足は、べつに太くないと思うぞ」
 と言って、フィオは慶子の長いスカートをめくりあげる。
 下着こそかろうじて見えなかったが、普段膝下以上を決して人に見せない慶子の太股があらわになる。
「おおっ」
 兄弟の声と、フィオを殴る音が見事に調和した。
「いやいや、フィオちゃんナイス!」
「ストッキングなどはくな。若いくせに」
 兄弟揃ってのセクハラ発言に、慶子は頭をかきむしる。
「いやぁぁぁぁあ!」
 慶子はフィオの首根っこをむんずと掴んだ。
「帰るわよ」
「ええ、まだ食べたいぞ」
「フィオはたまには我慢しなくちゃダメ。いい、行くわよ」
 言って慶子は立ち上がった。フィオは首根っこを捕まえられているので痛くて立ち上がる。
「イタイイタイ」
「フィオ。あたしが言っているのよ」
 優しく、子供に言って聞かせる口調で何気に傲慢な事を言う。
「ま、まて……」
 樹が弱った身体で引きとめようとする。どんなにけなしていても、どんなに本気でそれを思っていても、彼が慶子を憎からず思っているのは紛れもない事実である。
「待ちません。おば様。真樹ちゃん。もうすぐ兄が凱旋すると思うので、その時は遊びにいらしてね」
「待てと言って……」
 立ち上がろうとした樹は、立ち上がったとたんにぱたりと倒れた。
 座っていた大樹が下敷きになる。重いので膝の上におろすが、起きる気配がない。
「ちょ……樹さん?」
 慶子は樹に手を伸ばす。大樹の膝の上で死んだように動かない彼の額に。
「って、本当にめちゃくちゃ熱あるじゃない! 何考えてるんですかあなたは!」
 慶子はがしっと樹の肩を掴み、腕を自らの首にかけてすくっと立ち上がる。
「うわぁ、ケイちゃん力持ち」
 慶子は大樹を一瞬睨んだ。
「ディノさん、手伝ってくれる」
「はい」
 ディノは反対側から樹を支える。
「わ、私は!?」
「フィオは好きなだけ食べてなさい。私はこの馬鹿をベッドに叩き込んでくるから」
 言って、慶子は樹の部屋へと向かう。
 ──ケイちゃん……人よすぎ。
 それでも、それが慶子の魅力だ。何だかんだと人を見捨てることの出来ない性格なのだ。そこが、大樹の気に入るところである。
「やっぱりケイちゃんはいいお嫁さんになるわねぇ。大樹、絶対に逃がしちゃダメよ。ケイちゃんなら、嫁姑の間柄とか関係なく仲良くできるし。気が利くし。ちょっと気は強いけど、そこも含めて理想なお嫁さんなのよ!」
「やー……でもさぁ。もう一回振られてるんだけど」
「男は当たって当たって当たって相手を砕くまで当たるのよ!」
「父さんは……そんなにしつこかったの?」
 一回り以上の歳の差がある夫婦だ。息子の目から見ても美人で、しかも売れていたモデルの母がだ、よりにもよってこの家に嫁いできたのだ。そうとう情熱的なものがあったに違いないと裏で囁かれている。
「お父さんは、いつだって優しい紳士だったわよ。私が一目で好きになるぐらい」
「母さんがアタックしたのか……」
 珍しい歳の差カップルだ。
 大樹は小さく息をついて天を仰ぐ。
 慶子では、絶対にありえないことだ。砕けるまで相手に当たるなど、絶対に。


「四十度もあるのに、歩き回るなんてあんた馬鹿!?」
 慶子は樹へと怒鳴りつける。氷枕と額に張った冷却材。暖房をつけて暖かくして粥を口に突っ込み薬を飲ませ。
 そうしてやるべき事を終えた後、慶子は怒鳴った。
「熱出したから引退したおじさまが代理で行ったんでしょ? それを無駄にするんじゃないわよ、この馬鹿」
 猫も何もない。この家では、元々あってなきものだ。ついつい簡単に猫が逃げてしまうのだ。もちろん、この男に関わることに関してである。
「いーい? それでもし真樹ちゃんやうちのフィオにうつったらどうするの? 病人は食って寝る。これが常識でしょ。ったく、寝てなさいよ!」
 慶子はそれだけを言うと、足音荒く部屋を出た。
 そこには鏡華が立っていた。
「何?」
「大樹様が偵察に行けと」
 素直な女である。
「樹様は?」
「親切にしてやったら人の尻に触ってきたからつい殴り倒しちゃった。まあ、これで当分安静にしてるでしょう」
 そう、あれは独り言だった。
「フィオ、今度こそ帰るわよ!」
 居間へと殴りこむと、フィオは幸せそうな顔をして大福を食べていた。
 ──ほんと、好き嫌いのないガキねぇ。
 外国人が食べると嫌がるものだ。それとも天界人は日本人と似たような味覚なのだろうか?
「ケイちゃん。まだ会わせたいって言った奴帰ってきてないからさぁ。もうちょっとゆっくりしてきなよ」
「そうだよ慶子さん」
 大福を食べる大樹と、その横でトレーナーにジーンズ姿でこれまた大福歩食べる真樹。
「真樹ちゃん……あのワンピース可愛かったのに……」
「俺は女装の趣味はないんだって!」
 慶子は首をかしげた。嫌がっているということは分かっていたが、ではなぜ拒否しないのか。さすがに嫌がる男の子にあんな着せにくい服を着せることはできないだろうし、脱ごうと思ったらいつでも脱げる。
「じゃあ、どうして着てるの?」
「だって、そうしないと小遣いくれないから」
 少年にとっては切実で、可愛い理由である。
 そして我が侭な美津枝の策略に苦笑した。
 今の世の中、お金がなければ遊べない。金でつったとは、小遣いの追加ではなく、小遣いそのものの有無だったのだ。
「そっか。お小遣いかぁ」
「慶子、慶子。私も『お小遣い』とやらが欲しい」
「フィオにはあげてるでしょ。お金よ、お金。子供に買い物させるためにやるお金のことよ。無駄遣いしちゃいけないものだから、大切に使わなきゃいけないものなのよ」
「……でも、あれではおまけ入りのお菓子が買えないぞ」
「いいから。真樹ちゃんを見ればどれだけ大切なものか分かるでしょ」
 決してケチで小遣いを少なくしているわけではない。金はある。父には忘れられるのだが、兄からは毎月過剰な仕送りが来る。格闘家なので、試合に勝つたびにこれで美味しいものを食べなさいとか、欲しい服を買いなさいとか、身体に合う下着をオーダーメイドしなさいとか理由をつけては送ってくるのだ。慶子はそのほとんどに手をつけていなかったのだが、最近父親が研究に夢中で仕送りを忘れるので、仕方なく手をつけている。できれば頼りたくないのだ。趣味とはいえ、兄が身体を張って稼いだ金なのだから。
「さっ、フィオ。行きましょう。帰りは歩こうね」
「どうしてだ?」
「人間、贅沢には慣れちゃいけないの。少し厳しいなぁってぐらいがちょうどいいのよ。あんたみたいなのには特にね」
 世間知らずだから。あまりにもぬるま湯につけすぎるのはよくない。だから教育も多少厳しくしている。殴られれば痛いという事を教えるために適度な強さで殴っているし、わがままをきかない時もある。幸せになって欲しいが、甘えさせすぎるのはよくない。
「ってことで、ほら行くわよ。もう十分食べたでしょ。太っても知らないわよ」
 慶子はフィオの首根っこを掴み、そしてディノを従えて居間を出る。
「それじゃあおばさま。また今度、樹さんのいない場所で」
 慶子は樹嫌いを隠そうともせずに言い、そして明神家を出た。
 見送りは明一匹。仲良くなったらしいフィオは名残惜しそうに手を振って分かれた。

 

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