6話 あいつとあたしの未来予想図
ちょうど風呂から出たときだった。
「慶子慶子」
脱衣所の前でフィオが可愛い声で騒いだ。
「ん?」
「大樹が来た」
「あそ」
慶子は髪をふき、パジャマを着て脱衣所を出る。そのままリビングに向かうと、当然のように大樹がテレビを見て笑っていた。
「……あー、何しに来た」
「あ、けーちゃんっ!」
大樹は突然立ち上がり、慶子の前に立ちふさがる。
「何?」
彼はしばらく人を凝視したまま固まった。
「ケイちゃん、結婚しよう!」
「寝ぼけるな」
突然抱きついてきた大樹を、その勢いに任せて投げた。
「わぁ、慶子強い! テレビに出てた人みたいだ」
現在、総合格闘技の試合を見ている。
これに慶子の兄が出ているのだ。兄と慶子は同じ道場で習っていたのだから、動きが似ているのも当然である。
古武術といわれるようなものを習っていたらしい(兄談)。当時何も知らないド素人だったので、そうとも知らずに通っていたのだ。だから自分がしているのは、てっきり空手なのだと思っていた程度には何も知らなかった。ちなみに、現在もあの謎の道場については理解していない。技の名前などもあるらしいのだが、『名前など必要ない。出来なきゃそれまで。身体が慣れるぐらい繰り返せ。油断すれば死あるのみ。いざとなってとっさに動けなければ地獄行きだということを肝に銘じろ!』という教えであるからして、慶子は先ほどの技がどのような名前の投げ技なのかは知らなかった。
今思えば、あの道場は少し変だった気がしてならない。あの実戦を意識する稽古は、まるで──いやよそう。自分や兄にも関わることである。
「んで、あんたは寝ぼけた事言いに来たわけ?」
「いや、風呂上りのケイちゃんにむらむらっときて。谷間っていいよなぁやっぱり。うちにいると、谷間どころか寄せて上げてようやく胸らしきものが出来るような連中ばっかで……」
「はいはい」
慶子は冷蔵庫に向かい、スポーツ飲料をコップに注いで一気に飲む。
「いいじゃん、いいじゃん。結婚しようよぉ。うちの家系にも、巨乳の血を!」
「だから、あたしはそんなにでかくないでしょ! 何よりもまず自分が十八になってから言えば?」
「よし、俺が十八になったら結婚式だ。ついでにケイちゃんの胸は大きいって」
「あたしよりも胸の大きな女はいくらでもいるでしょ。豊胸手術でいくらでも大きくなるし」
「そんなニセチチ俺が求めるとでも!? 何よりも、ケイちゃんより大きな胸って、今度はでか過ぎて嫌だな。何でもほどほどがいいんだよ」
「鬱陶しっ!」
慶子はぎっと彼を睨み、コップを洗う。出したら片付ける。これが散らかさないコツ。
「だいたい、あんたと結婚してもメリットないじゃない」
「じゃあ、医者になろうか。俺頭いいし、コネ山ほどあるし」
嫌な医者である。しかも、絶対に美人を発見したらナンパして、美人看護婦ナンパして、好き放題するはずだ。
「……医者は医者でも、小児科医がいい」
「ケイちゃんが言うなら」
「やっぱ脳外科」
「ケイちゃん夢見すぎ」
「嫌ならもう言うな」
こういう男を追い払うために言っているのだから。無理難題を押し付けて、さらりとやってしまう男など大嫌いだ。例えば『総理大臣がいい』などと言ったら、将来的にはほんとうにやりかねない男である。そういえば、彼の家でテレビで見たことのある有名な政治家とか、色々来ていた記憶があるのだ。そう、誰でも知っているような有名政治家が。
こんなどこにでもコネのある男は嫌いだ。
「そーいやケイちゃん、どうして医者にこだわるの?」
「母さんが死ぬまで、親身にしてくれた先生がいたから」
「なるほど。じゃあ弁護士は?」
「ストーカー男追い払ってくれたから。ちなみにストーカーは檻の中」
「なるほど。理由はあるんだ」
冗談でも、理由もなく言うはずもない。どちらにも、助けられた。
「でもストーカーなんて、ケイちゃん自分で撃退できない?」
「怖いものは怖いのよ。相談してもあんたは相手にしないし、伝え聞いただけのあんたの兄貴には身の程を知れとか言われるし」
「あー、うー、ごめんなさい」
素直に土下座する彼を見て、慶子はため息をついた。
「あたしは、子供さえいて、夫が他所に女作って変なことしなければそれでいいのよ」
「ケイちゃんらしいね」
「でも最近はフィオがいるから、男なんていなくてもいいかもとか思うし」
「ダメだよケイちゃん! いいよ、男は! ってか俺は!」
慶子は戯言を鼻で笑い、コタツに入りテーブルの上に置いてあるミカンを手に取った。
「あんたといてもろくなことないし。結婚なんてしたら、ストレスで胃に穴が開くわ」
「そんなことないよ! きっと毎晩楽しいよ!」
慶子は大樹の顔に向けてミカンを投げつける。彼はそれを受け止め、自身も皮を剥き食べ始める。
「そういう下品な事は言わないでくれる?」
「……楽しいのが下品なのか?」
隣でアニメを見ているフィオが言う。今始まったところらしい。
「そうだそうだ。楽しくて何が悪い? 俺はケイちゃんになら愛だって語ってみせるぞ。ケイちゃんと結婚した暁には、浮気なんてしないぞ。清く正しく明るい家庭になること間違いなし」
女など立っていれば寄って来るが口癖の男が、言うに事欠いて『愛』を語るなど笑止千万。
慶子はふっと鼻で笑う。
彼女の中で思い浮かんだのは、まったく別の光景だった。
「どうせあんたと結婚したらこうなるに違いないわ」
慶子は予想未来図を語り始めた。
ごく普通に夕飯の支度をする慶子。
料理は得意だ。いや、家事全般、そこらの主婦には負けないという自信はあった。その中でも料理は、決して負けないという自身を持っていた。なにせ、味見はあの大樹とその兄である。
料理を作るのは好きだ。人に食べさせるのはもっと好きだ。素直に美味しいと言う人は大変よい。
慶子は研ぎ終えたばかりの包丁でざくざく野菜を切る。やはり研ぎたての包丁はいい。それを切り終え炒めて鍋に入れた頃、
「け・い・ちゃ・ん♪」
大樹が台所へとやって来た。
「って、相変わらず色気のない」
割烹着の何が悪いというのだろう。とても可愛い割烹着だ。キャラクタ物で、とてもとてもとても可愛い。袖があるから大切な服も汚れない。
「可愛ければすべてよし」
「っていうか、もっと別な可愛さを求めようよ」
言って大樹は白いエプロンを取り出した。
「ケイちゃんにプレゼント」
「……あー、白は汚れるから基本的に」
「いいから。いいから!」
大樹は慶子の頬にキスをし、癖のある髪に触れる。手ぐしを入れようとして、髪が絡んでいたので彼はそれを諦め、ただ表面を撫でる。
妻が可愛い格好で料理を作っている姿というのは、新婚の夫は色々と考えるものがあるのだろう。そう思いそれを受け取ると、
「服脱いで、地肌に直接つけてね」
慶子は大樹の額に手刀を一撃。
「………っ何を?」
額を赤くしながらも、彼はやせ我慢して笑顔で問う。
「実家に帰れ」
「むぅ。ケイちゃんが嫌ならフィオちゃんにやってもらおっと。華奢な身体に裸エプロン! それはそれでいっ」
今度こそ、慶子の奥義を食らった大樹は物言わずに床に伏した。
「って、絶対になるから嫌」
「ケイちゃんは男のロマンを否定するのか!?」
慶子は二つ目のミカンを手に取った。
いつもと大差ないという説もあるのだが、夫婦になってしまえば嫌でも縁を切るのが面倒になるという欠点がある。
幼い頃、「将来はたいちゃんと結婚するの」と言っていた愛らしい子供時代を思うと、空しくて涙が出そうになる。昔は誠実で真面目な子供だった。女の子に囲まれるのは昔から好きだったが、それでも慶子が恨みがましく見ていると、気付くと同時に飛んできて言い訳をしていた。
今は、堂々と女をつれてやってくる男になっている。
──ああ、何で素質はあったのに気付かなかったの馬鹿な幼い私。返せ淡い水色の時代。
今ではすっかり嫁に行く気などない。
「だいたい、嫁に貰うんなら、あたしみたいなデブでブスじゃなくて、鏡華さんみたいなスリムな美人にすればいいじゃない。大根足で悪かったわねっ」
「いや、俺ケイちゃんをブスとかデブとか大根足とか言った事ないんだけど。それ兄さん」
「鏡華さんと見比べてるときのあんた達の目がそう言ってるのよ! だいたい、その似てる顔が悪い! 不愉快!」
「なに言ってるんだケイちゃん! 似てるって言っても、系統が同じなだけで、そんなに似てないし! あの仏頂面と俺の爽やか笑顔を一緒にしないでくれないかな? 何よりも!」
大樹は真剣な顔をして言った。
「美人は三日で飽きる」
世の通説である。
「そんなことない! あたしはフィオに飽きないし!」
「それはフィオちゃんの行動が変だからだよ!
美味い料理は飽きない。冷徹な女よりも、そっけなく見えても実はまめで甲斐甲斐しい奥さんの方がいい! 連れて歩く恋人は鏡華でも、奥さんはケイちゃんがいい! 見た目で幻想を持って寄って来る女の子より、もう互いの性格を知り尽くし取り繕う必要のないケイちゃんが気楽でいい。ってか、たぶんケイちゃん以外誰にも親戚になるうちの連中に太刀打ちできないし」
「そんなのあたしだって願い下げよ。あたしにおば様と、あの馬鹿樹の相手が勤まると思うの? それこそストレスで胃に穴が開くわよ」
冗談ではない。あの一家と親戚。あれをお義兄様と呼ぶ。冗談ではない。
「それに、俺が理想とする家庭は、そうじゃないんだ。そう。俺が理想とするのは……」
大樹は突然夢見るように語り出した。
「ただいま」
玄関を開けて声を掛けると、キャラクタものの割烹着を来た慶子がやって来た。可愛いには可愛いのだが、色気がないからやめろと何度も言ったのだが、彼女は着続けている。いや、また新しい割烹着だ。なぜ割烹着にこだわるのかは分からないが、本人にこだわりがあるのならもう止めはしない。好きなだけ割烹着を着るといい。
「おかえり。ご飯できてるわよ。今夜は肉じゃがね。風呂はまだ入れてないわよ」
彼女は婚前と変わらぬ調子で言う。どこかに出かけていたらしく、化粧はしっかりとしている。
「わかった。じゃご飯食べよう」
「その前に手洗ってきなさい」
「は〜い」
大樹が手を洗い食卓につくと『家族』が『そろって』『待って』いた。
慶子と義父と義兄とフィオたち。比較的一般人に近い家族。天才やら格闘家やらが揃っているが、それでも一般人には違いない。
普通の、使用人などの他人がいない食卓。他人にすべてを用意してもらうのではなく、晩酌の準備も自分でする食卓。
何よりも、大樹の家ではありえない、ずいぶんと庶民臭いメニュー。義父に勧められるビール。慶子の用意したつまみ。テレビを見る子供(フィオ)など、大樹の家ではありえない光景。
そう。これこそまさに。
「まさに俺の理想的な一般家庭の図」
大樹がそれを言った瞬間、慶子は目頭を押さえた。泣いているらしい。彼女は感情のままに生きているところがあるが、涙を見せるのは珍しい。
「……大樹……なんて可哀想なの」
「いやなんで泣き出すんだよ」
泣くほど樹が嫌なのだろうか?
「可哀想に。そうよね。そうよね」
「俺んち泣くほど嫌なんだ」
「大樹。いつでもウチに来て庶民の味を堪能するがいいわ」
許しが出たのはいいのだが、喜んでいいのか分からないのはなぜだろうか。
大樹は首傾げ、落ち着くこの安物のコタツを見てふっと笑う。
「そうか。分かったよ。卒業したらここに住み込むよ。大学生なら、同棲も問題ないしね!」
「アホか」
「そうだよな。結婚の前に同棲しておくといいっていうからな。うん。それがいい」
「うちの兄さんにそれを言って生きてる自身がある?」
「うん。俺、保兄さんにも淳兄さんに嫌われてないし」
慶子は腕を組んだ。そして、彼女は禁断の一言を発した。
「じゃあ、あたしが感心できる程度のラブソング歌ってくれたら今すぐにでも結婚してやるわよ」
大樹の頭はしばしフリーズする。それからその意味を全身で理解し、
「ケイちゃんの馬鹿あ!」
大樹は泣く泣くリビングを飛び出した。
勝ったとばかりに残るミカンを一口で食べる慶子を見て、フィオは無邪気に問う。
「あいつはどうして出て行ったんだ?」
ディノもそれを考えていた。ただ歌えといわれただけだ。実はあの性格で愛を歌うのが恥ずかしいと思っているタイプなのだろうか? それにしてはおかしな態度であった。
慶子はフィオの歌に感涙したことがあるほど、実は感動しやすい感性を持っている。それを感心させる程度なら、練習しだいだと思うのだが。
「あいつはねぇ、あの性格と顔しておいて、美術系全部超がつくほどオンチなのよ。歌も絵も。だから芸術系の授業選択が選択式で、習字を選ぶことの出来るうちの高校に入ったのよ。うち進学高校だから、芸術系かなりいい加減な扱いなのよ。あいつ字は上手いから」
「そんなに……下手なのか?」
歌の上手い……いや、人生に置いてそれのみが仕事であったフィオには、歌の下手な者の気持ちなど理解できるはずもなかった。そしてそのレベルがどれほどのものなのかも。
「そうよ。どんなオンチも一日で矯正するというその道のプロに徹底的にしごかれて、ぜんっぜん上達しなかったぐらいだから」
フィオはそれを聞き顔を顰めた。
人は見た目によらないものである。彼なら、歌もきっと上手いのだろうと思っていた。そういったものが似合いそうな容姿をしている。
「かわいそうに……」
「うわっ、フィオちゃんにまで同情された!」
ドアの前にいたらしい大樹の声。しかし慶子は気にせずに続ける。
「フィオは本当に歌上手よねぇ。フィオにラブソングなんて歌わせたら、なんかこう、お嫁に貰いたいって感じになるのよ。可愛い」
フィオは慶子に抱きしめられ、わけも分からずおろおろとする。しかしすぐに慶子の抱擁を、戸惑いではなく喜びで迎えた。
──フィオ様の慶子殿好きもどうにかならないものか。
以前はいつもディノの後についてきたのに、今ではいつも慶子の後をついていく。子供に好きな相手が出来たら、きっとこのような気持ちなのだろうとディノは考えていた。
──慶子殿も、悪い方ではない……どころか、むしろ私の知る中でもかなりお人よしの部類に入るのだが……。
あの歪んだ愛情はどうにかならないものだろうか。
それでも、慶子がフィオを誰よりも大切にしているのは見ていれば分かるし、その様は赤の他人に対してどうしてそこまで出来るのかと思うほどだ。
「慶子、腹がすいたぞ」
「そうね。ご飯にしましょうか。ほらそこの可哀想な奴。ご飯あげるから入ってらっしゃい。今夜は鍋よ!」
慶子は聞きなれない料理名を言うと、フィオを開放してキッチンへと向かい、大樹はのこのこと部屋の中に戻ってきた。
──一体、この二人の関係は何なのだろうか?
甘さも何もない。何か壁がある。それでも理解の線でつながれている。
不思議な関係。
それは、どれほどフィオやディノが関わろうと、変わるものではないことを予感した。
それは、ある意味どれほど愛し合う男女よりも深い関わり方なのかもしれない。