7話  聖なる夜の不浄の宴

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 いつもの如く奴は突然やって来た。
「ケイちゃん、クリスマスだよ!」
 慶子は白々とした目で大樹を見る。クリスマス。そんなことは理解している。どこもかしこもクリスマス一色なのだから、意識せずにいられるほうがどうにかしている。問題があるとすればただ一つ。
「……あんた一体いつからキリスト教のイベントまで自分の宗教に組み込んだのよ」
「いやぁ、明様って、わいわい騒ぐの好きだから。明様がいいと言えばいいんだようちは。反対していた兄さんはケイちゃんのミニスカサンタが見れるかもって言葉であっさりいいって言ったし」
「待ちなさい! なんであたしがミニスカ!?」
「大丈夫。フィオちゃんにも可愛いドレスあるから」 
 あまりにも勝手に言い分に、視界の片隅でディノがフィオを後ろ手に庇っていた。
 そういえば、さっきサンタとは「北からやってきて行いのよい子供達にプレゼントを配り、堕落に導く悪魔のことよ」と言った気がする。
「なんであたし達を巻き込むのよ。明日は今日売れ残って安くなっているチキンを夕飯にする気満々なのになぜ明日の夕飯に困るような事を言うの!?」
「今日の分を明日に回せばいいだろ。それよりもケイちゃんちって、クリスチャンのくせにクリスマスパーティなんでしないの?」
「エセだからよ」
「なるほど」
「それに、キリストの誕生日を祝うんでしょ。でも聖書を信じるならキリスト冬に生まれたのはおかしいよなって説が横行しているのよ。それを信じてドンちゃん騒ぎして何が楽しいの? なにより大切のは復活祭でしょ? 人は慎ましやかに生きてなんぼよ。あたしを華美な堕落の道に誘うんじゃないわよ」
 大樹はけらけらと笑い出す。
 悪魔である。この男こそ人を堕落の道へと誘う悪魔である。
「出てけっ、この悪魔っ!」
「ふっ。やっぱり来てくれないか。そんなことを予測して用意しておいてよかったよ」
 言って、大樹は背中に隠し持っていたマスクをかぶる。防毒マスクにしか見えない代物を。
「な、何を」
 大樹はぱちりと指を鳴らす。瞬間、開け放たれていたドアから、リビングへと何か投げ込まれた。
 そこから慶子の記憶はない。

 気がつけば、皮製シートで樹の肩を借りて眠っていた。見覚えのある広い車内。これは樹のリムジンである。
(何なのこれは……)
 催眠ガスか何かだろう。無茶をする一家であることは昔からの認識ではあるが、このような凝った事をするとは想像の域を超えている。
 慶子は視線を落とし、その時になってようやく気付いた。
「いやぁ、なにこれ何この格好!」
 まさか本当にサンタのミニスカのコスプレをさせられるとは。
「ま、まさかあんたが着替えさせたの!?」
 樹ならやりかねない。このむっつり助平なら、やる。それは慶子にとって信頼に近いほどの域にある確信だった。
「まっさかぁ。嫁入り前の親友の娘を、けだものの前に放り出すわけないじゃない。ヤるなら、もっとロマンティックにじゃないとぉ」
 美津枝は安心させるように、安心できない発言をした。
(あ、いたんだ)
 車内は慶子とすやすや眠る天使二人。そして樹、大樹美津枝の三人。あとは運転手。真樹はいないようだ。
「私が着替えさせたのよ。安心してね」
「ははは……」
 慶子は腰に当てられた樹の手をつねり、未だに眠る純白ドレスのフィオとタキシードのディノを揺り起こす。
「……ここどこ?」
「ここは……慶子殿、その姿はっ!? ああ、フィオ様まで。げ、私も!?」
 一人変な格好をしている慶子は、フィオの隣の大樹を樹へと差し出し、空いたその場所へと座る。
「一体どこに向かってるんですか、おば様」
「パーティ会場よ。信者の方が、どうですかってさそってくださったの」
(なるほど。それで珍しくクリスマスなどと言い出したわけね)
 と、慶子は自分の姿を眺める。短い丈。生足。パーティ参加者は参加者でも、まるでコンパニオンのようである。
「なんであたしがこんなかっこでパーティ参加なの!?」
「大丈夫。クリスマスだから変じゃないよ。むしろ、主役は君だって感じ」
 慶子は大きくため息をついた。
 説得は無理。無理。絶対に無理。そういう一家だ。
「慶子、真赤」
「フィオは真っ白ね。可愛いわ」
「慶子、変だぞそれ。変だ」
 がすっと一撃だけ殴り、慶子はフィオの頭を撫でる。
「慶子は凶暴だ。乱暴だ。すぐに殴る」
「はたいてる程度でしょ」
「人に殴られたことのないフィオ様にとって、あなたの一撃は痛いのではないでしょうか」
 ディノはフィオを庇うように言う。慶子は眉根を寄せ、
「痛かった?」
「少しだけな。しかし、転んだときの方が痛いぞ。安心するがいい」
「そりゃそうでしょうけど。あと『するがいい』じゃなくて、『しないでね』よ」
 フィオの言葉遣いをこのように矯正しているのだが、これがなかなか直らない。しかも修正される方向性が少し間違っている気がした。注意していくたびにだんだんと言葉を知らない子供のような話し方になっている気がするのだ。はじめのふんぞり返っているような話し方よりはずいぶんとマシだが、時々まだその時に近い言葉が出る。
 フィオはうんうんと唸りながら言葉の難しさに悩む。
「ケイちゃん、今日は無礼講。お姫様、今日はうんといっぱい食べるといいよ」
「本当か? でも鳥はダメだぞ。明日鳥だから」
「ははは、鳥は鳥でも、調理法方が違ってくるから平気だよ。というわけで、ついたよ」
 車が止まり、そしてドアが開かれる。
「あ、昭人さん」
 ドアを開いた運転手は、慶子の知っている青年だった。
(そういや、樹の運転手させられてるんだっけ)
 可哀想な青年である。
「お、お久しぶりです、慶子さん!」
「久しぶりねぇ。虐められてない?」
「…………はい」
 妙に間があったが、昭人はこくりと頷いた。しかも元気もない。
「……何かされた?」
「いえ、何でもありません。よくしていただいております、はい」
「それならいいんだけど……」
 言葉遣いが前と違うのは、人に仕える仕事をしているからだろう。それにしても、虐められていないか心配である。
 慶子は眼前にそびえ建つホテルを見て、小さくため息をついた。
(ここでするのね)
 料理はかなり期待できそうだ。
(そうよ。飲んで食って食って食いまくればいいのよ)
 きっと、高価な酒もあるだろう。それを思うと慶子は短いスカートの丈を心配しながらも、ホテル内へと足を踏み入れた。


 真樹はため息をついた。
「真樹様、どうなさったんですか?」
 真樹を取り巻く少女の一人が顔を覗き込んでくる。
 可愛い女の子だ。しかしそれだけだ。もっとこう、一目で虜になってしまうような魅力はない。
(アヴィ達が正解だったな)
 とっとと姿をくらまして、この鬱陶しいパーティなどさぼってしまえばよかったのだ。集まってくるのは、いかにも親に言われたからだとか、それに加えて真樹の将来性だとか容姿だとかで打算しましたというような女ばかりである。
「なんでもないよ」
 としか言葉が出ない。
 父は知らない中年男と話をしている。
 主役の明は、犬のくせに酒などテーブルの上から飲んでいる。料理も前へと運ばれている。それを見て、信者達はありがたやと拝むのだ。べつにご利益はないにも関わらず。
(ある意味アホらしいと言うか……)
 明は偉大だと思うのだが、しかしあれは空しくはないのだろうか?
(僕は空しい)
 家に帰ってこたつでのんびりしたい。しかしそれは今更である。もうすぐ兄が来る。樹にはどうしても逆らえない。彼は何か用があるらしく、母と大樹と共にどこかに行ったのだが、せめてそちらについていけばよかったと後悔している。
 会場が、一瞬ざわついた。ついに来たかと振り返れば、背の高い兄二人がいた。それに挟まれて、なぜか慶子とフィオがいた。フィオの純白ドレスは天使である彼女に似合いすぎていたので問題ない。問題は慶子である。普段なら、絶対に身につけないであろう丈の短いワンピースを着ていた。しかもサンタワンピである。帽子まで被ってサービス精神は旺盛だ。
 そう、これだ。これこそ求めていた強烈な一撃。
(慶子さん面白すぎ)
 おそらく大樹の仕業である。それを理解していても面白い。
「何かしらあのコンパニオン」
「大樹兄さんのガールフレンドだよ」
 それだけを言い残して、真樹は少女達の輪から脱出し兄達の元へと駆けつけた。
「遅いよ兄さん。それと慶子さん、どうしたのそれ。似合うね」
 今日は三つ編みではなく、癖のある髪をおろしている。丁寧にブローされていて、とても可愛いという印象があった。それでもおしとやかそうな印象は変わらない。彼女は微笑み、その横のフィオも微笑んだ。
「フィオも似合うよ」
「そうか。おま……真樹も似合っているぞ」
 美少女は本当に何を着ても似合うものだ。羽が見えていれば、何もかも完璧だっただろう。さすがに一般人が大半のこの場でそれは出来ない。
「真樹、その天使に何か適当に食わせておけ」
 突然樹が言った。フィオはきょとんとして樹を見上げた。
「……フィオだけ?」
「うるさいのには口に物を突っ込んでおくに限る。行け」
 フィオは真樹を見て、それからにっこりと微笑んだ。
(……まあいいか)
 兄には逆らえない。
「……その前にねえねえ、たいちゃん」
 慶子が大樹に甘えるような声で呼びかけた。『たいちゃん』と呼ぶのも久々に聞く。いつからだろうか、彼女が大樹を名前で呼ぶようになったのは。その頃から、彼の扱いも悪くなった気がするので、きっと大樹が何か馬鹿をしでかして信用を失ったのだと家族内では言われている。
「分かってるよ、ケイちゃん。はい、カメラ」
 大樹自慢のカメラを取り出す。かなり高価なものらしい。慶子の写真をエサに、樹に買わせたものだ。
「はい、フィオと真樹ちゃんこっち向いてェ」
 真樹は名指しされて驚きながらも彼女を見た。
 ぱしゃりとフラッシュがたかれ、フィオと共に写真に撮られる。
「はい笑って」
 言われるがままに引きつった笑みを浮かべると、今一度シャッターが切られる。
「焼増しお願いね」
「お母さんにもっ」
「分かったよ。ケイちゃんと母さんだけでいいよね」
 大樹はカメラを受け取り、少し離れて慶子を一枚映した。
 おそらく、あれが樹の手に渡るときは、何らかの見返りを求められるのだろう。要領のいい弟と、不器用な兄。そして真樹は皆から愛される三男。なんと絵に描いたような三兄弟なのだろうか。ただし、長男は一見真面目に見えるだけで、中身はかなり歪んでいる。
「フィオ、何か食べる?」
「食べる」
 真樹はフィオを連れて歩き出す。顔だけは文句なしの美少女を連れているので、さすがに誰も寄ってこない。この中でフィオに太刀打ちできる容姿の者などほとんどいない。
「虫除けにはなるか」
「虫除け?」
「何でもない」
 真樹は近くのウェイターからオレンジジュースを受け取り、それをフィオに渡す。
「酒じゃないのか?」
「……慶子さん、お酒飲ませてるの?」
「いいや。子供はダメだからな。十七歳になったらいいそうだ」
 真樹は自分のグラスを取り落としそうになった。
(慶子さん、いくらなんでも中途半端……)
 彼女は無類の酒好きだ。昔はそうでもなかったようだが、無理矢理飲まされた酒がおいしくて、週に一度は飲むようになったらしい。それでも週に一度というのが彼女らしい。多少なりとも罪悪感があるからこそだ。
「あ、明だ」
 フィオはこちらを見て尻尾を振る明を見て花咲くように顔を輝かせ笑う。一瞬背後に白い花の幻覚が見えたほど輝いていた。
「明、明」
 フィオは走って明のところへ行く。さすがにそれには周囲が大きな動揺を見せた。
 明を呼び捨てにして走り寄る美少女。そして尻尾を振ってそれを受け入れる明。
(女の子が好きなだけなんだけどな)
 それを遠慮なしにする少女が他にいないだけで。
「明、何を食べているのだ?」
 明の前足が乗るテーブルを覗き込むフィオ。
「肉か。お前も肉が好きなのか。私も好きだぞ」
 フィオは明の頭を撫でる。明は心の底から幸せそうだった。
(相変わらずエロ犬だな)
 昔から慶子に飛びついていたし、撫でられていたし、抱きしめられていた。そして今、とびきりの美少女に撫でられている。
 その様子を見て、皆はフィオを何か特別な存在だと感じたに違いない。もちろん特別なのだ。特別すぎて、なかなか手を出せない。悪意のない純粋な好意で住まわせてくれている慶子と言うクッションがあるからこそ、あの護衛も何も言わないのであり、もしも下手に手を出せば、痛い目を見るのはこちらである。
 慶子は彼らの持つ危険性を知らない。もちろん、彼女がその危険に巻き込まれることはない。それをあの二人は決して許さないだろう。そして大樹も。
(兄さんは毎日楽しそうでいいよなぁ。僕もあんな幼馴染が欲しかった)
 母には時々女装させられるし、最近面白いことがない。
「フィオ、明様と遊ぶのもいいけど、明様は色々と忙しいからあっちに行こう」
「忙しいのか? そうは見えないが」
「忙しいんだよ。だって、神様だから」
「そうか。統治者が忙しいのと同じか?」
「そんなところじゃないかな。よく分からないけど」
 真樹はフィオを連れて隅の方へと足を向けた。そこなら食べて飲んで食べてとしていても、誰にも邪魔されることはないだろう。
 視界の隅に、慶子と大樹が会場から出て行くので見えた。
(何をする気なのやら)
 慶子を口説いても、口説くだけ無駄だということは本人が一番わかっているだろうに。
 彼女のことに関すると、とたんに不器用になる兄達が愉快でたまらない。だからこそ、彼女が好きだ。普通の女の子の域を出ないくせに、退屈を与えない。そんな、理想の女性。


 夜景が見えた。人工の光が地上を埋め尽くし、偽りの星を作っている。地に堕ちた星々は揺れ動き、高みから見るそれは人に優越感を与える。
 人の作った星は美しい。空の星を打ち消すほどの輝きを持つ。
 しかし、きっとこの地上の星々が消えたとしたら、もっと美しいと思うだろう。
 偽りは、本物には決して敵わないのだから。しかし偽りは本物を喰らう力を持つ。それはどのような事柄にも当てはまる。
 慶子はその偽りの美に酔いしれることなく、素手をぎゅっと拳にする。
「嘘つき」
「ぐはっ」
 慶子の拳は大樹のわき腹をえぐる。
「目立つじゃない。変じゃない。皆正装してるじゃない。恥かいたじゃない」
 本当は樹にやる予定だったのだが、猫なで声で二人きりになろうと誘うと、逃げるようにして去って行った。だから大樹が身代りである。企てたのはあれでも、この男は嬉々として協力していたから。
「い……いいパンチだったよ」
「まったくろくでもない」
「まあまあ。じゃあお詫びをするからさ」
 大樹はうっすらと笑う。いつものふざけた笑みとも違う、まるで女を口説くときのような笑み。
「何を企むか己は」
「大丈夫大丈夫。だからちょっと目閉じて」
「何をするかこの変態」
「いや何もしないから誓って」
 慶子は疑わしく思い、結局どうしても疑念は晴らせられなかった。
「……目、閉じて。何もしないから」
「嫌よ。あんた嘘つきだもの」
「兄さんじゃないんだから、不意打ちなんてしないよ」
 慶子は小さく息をつき、目を伏せた。大樹の手がしばらく迷い、頬に触れる。
「俺さ、こんなパーティどうでもよかったんだ」
「でしょうね」
 目を閉じたまま言葉を返す。
「興味ないし」
「でしょうね」
「でも、ケイちゃんと一緒ならいいかなって」
「馬鹿じゃない」
 首に手が回る。冷たいものが地肌に触れ、ちゃらりと音がした。
「まだだよん」
 大樹の手が慶子の髪を分け、彼女へと近付いた。肩越しに背中を覗き込まれ、慶子は居心地の悪さを感じた。
「いいよ」
 慶子は目を開けて胸元を見る。赤いサンタ服の上に、シルバーとダイヤの輝き。クリスマスらしくシルバーのクルスがついたペンダント。それにはダイヤが散りばめられており、可愛い。
 決して安いものではないが、高いものでもない。大樹にしてみれば安物と言っていいだろう。
 慶子の趣味だ。
「ありがと」
 生まれて始めてのクリスマスプレゼントだった。クリスチャンだが、東堂家としてもクリスマスをしなかった。懐疑的な日に、なぜそのような事をしなければならないと。聖人にとって大切のは誕生ではない。死んだときこそ聖人にとっては何よりも重要なのだ。
 だから誕生日など意味はない。意味があるとすれば、本人達にとってのみだろう。
「たまにはこういうのもいいだろ?」
「……そね」
 たまにはこのようなこともいい。
 二人は並んで夜景を見た。
「綺麗だけど、このすべてが消えたときにこそ本当の美しい星が現れると思うと、複雑よね」
「そうだね」
 この美しさは環境の破壊へとつながるものだ。本当に美しいものを食い散らかしているのだから、まさに魔性の美しさと言えるだろう。
「ケイちゃんは俺にとって月だ」
「……何よ突然。で、その心は?」
 握りこぶしを作って言う彼に、慶子は呆れながらも問う。
「どの星よりも自己主張が激しいから」
「おい」
「知って欲しいとこは照らさずに、嫌なことばかりは明るみにしてくれる。
 大切なことは分かってくれていそうで安心する」
「そりゃ、生後二日後には隣同士にいた仲だからね」
「俺は生まれてすぐだよ」
 実は慶子の方が二日ほど年上である。
「ケイちゃん、俺へのプレゼントは?」
「ない。うちのサンタは堕落を誘う悪魔説が高いから。いつもそうやって騙されてたのよ」
 慶子のそういうところは、確実に父親似だ。
「じゃあ堕落しよう。プレゼントは身体でいいよ。部屋借りれると思うから、堕落しよう」
「拳で語り合うの? そうね。暴力ほど素敵な堕落は存在しないもの。いいわよ。朝までサンドバックにしてあげる」
「……ごめんなさい。もう言いません」
「それはよかった。あたしも朝までは辛いのよ。歳かしらねぇ?」
 二人は喉の奥で笑う。昔からこんな馬鹿な会話をしていたわけではない。以前付き合っていた時は、もう少し普通の会話をしていたはずだ。
「ケイちゃん、もう一回目つぶって」
「何でよ」
「いいから」
 慶子は仕方なく目をつむる。
 どれぐらい久しぶりだろう。この男とこうして二人で寄り添い、抱きしめられるのは。
 あの頃は若かった。しかし今は違う。
「何しているお前達」
 背後から樹の声がかかる。
 慶子は笑った。
「ほぉら、時間切れ」
「……知ってたの?」
「樹さんの足音って分かりやすいから」
「ちぇ。騙された」
「不用意に焦らすのと、騙されるほうが悪いのよ」
 慶子は大樹から勢いをつけて身を離し、嘘泣きしつつで樹の元へと駆け寄った。
「樹さんっ」
「な、何があった!? 大樹、は、犯罪はよくないぞ」
 慶子は油断する樹の腹に、肘の一撃を見舞いした。
 これで最初の目的は果たされたのだ。
 世の中、騙される男が悪いというのは世界各国の常識である。

 

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