14話 初めての一般家庭訪問

 部屋を片づけ、ヤバイものはすべて隠し、まだかまだかとそわそわとした。考えるだけで全身が熱くなる。
 目を伏せ、心を落ち着かせようとしていたその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
 その瞬間、雅之は部屋を飛び出て階段を駆け下り、玄関を開放った。
「きゃっ」
 小さな悲鳴。しかしすぐに彼女は柔和な笑みを浮かべた。しっかりしていそうで、どこかおっとりとした雰囲気を持つ彼女は、彼の憧れであった。
「こんにちは、川橋くん」
「い、いらっしゃい。あがって」
「ありがとう」
 彼女の微笑みは、大輪の牡丹を思わせる。あでやかで美しく可憐で、しかし薔薇などと違いどこか清楚な素朴さもあるあの花は、彼の好きな花だった。
 部屋に案内すると、中にいた子犬達が彼女に飛びついた。しっぽを振ってじゃれつく子犬達を見て、彼女は喜びの声を放った。
「あはは、元気でよかった。綺麗になったわね」
 綺麗な毛並みをその手で確かめ、彼女は子犬達とキスをした。
 雅之は今この瞬間、犬になりたかった。
「と、東堂さん」
 呼ぶと彼女は振り返り微笑む。綺麗だ。かわいい。優しげな少したれ気味の目元や少し厚めの唇が、彼女のおっとりとした雰囲気を強調する。えくぼもチャーミングだ。
 彼女の腕の中で、子犬がきゃんきゃんとほえた。
「あら、ご主人様の方がいいのね。ほら、雅之くん」
 子犬を差し出されて、雅之は手を出した。気づくと彼は彼女の手を取っていた。
「慶子ちゃん」
「雅之君?」
 視線は絡み、二人の距離はさらに近くなる。
 子犬達が二人の間できゃんきゃんほえる。今ばかりは静かにしてくれと願った。しかし子犬達はきゃんきゃんきゃんきゃんと鳴き……
「だぁ!!」
 気づけば、彼はベッドの上で子犬達にほえられていた。起きたとたんに二匹は雅之にすり寄ってくる。
「…………夢でぐらい、いい思いさせてくれよ」
 子犬達はしっぽを振って雅之の上に乗る。
 遊んで欲しくて仕方がないようだ。
「はいはい」
 雅之は羽毛布団の中に二匹を引きずり込み、その暖かさを感じながら、手元にあるリモコンで暖房のスイッチを入れた。
 夢を思い出して、顔は自然とほころんだ。先ほどのは夢だが、ある意味本当だ。
 今日は慶子と子犬達を拾ったフィオという女の子が来る。部屋は徹底的に片づけられ、ジュースとお菓子も用意した。準備は万端。これで少しでも親しくなれればと願っていた。


 ちっちっと音をたて、秒針が動く。下の階では、カチッカチッと音を立てて、古い柱時計が動く。
 雅之は緊張して正座をしていた。子犬達が遊んで遊んでとじゃれてくるので、買ったばかりの小さなボールを投げては取りに行かせる。ご褒美の餌を少しずつやりながら、買ったばかりのオモチャ数種で遊んでいると、呼び鈴が鳴るのが聞こえた。雅之は母が出てしまう前に全力で走り、やや息を乱しながらドアを開く。
「あ、川橋君」
 慶子は雅之と顔を合わせると、にっこりと微笑んだ。夢の中の彼女とは違い、もっと綺麗だった。化粧はいつもとは違いは、少しだけはっきりとしている。いつもが化粧をしているか、しているかどうかもわからないようなナチュラルなものなのだが、今日は可愛いピンクのグロスをつけていて、唇はてらてらと輝いていた。服装はオフショルダーの黒のセーターと、長めの黒のスカート。腰のラインにぴったりと沿っていて、膝の辺りまでスリットがあるものだから、思ったよりも肌が出ている。鎖骨が綺麗で、見ているだけでどきどきした。化粧と服装だけで、こんなにも印象が違うことに、戸惑い、そして感動した。
「東堂さん、いらっしゃ……」
「やあ、まさちゃん」
 ドアに隠れていた彼は、突然と慶子の背後に現れた。
 呼びもしていない明神大樹が。
「げ、明神」
「げ、とはなんだよ。げっ、とは。まさちゃん照れ屋だな」
「誰がまさちゃんだよ、気色悪い」
 ふざけている彼の目は、如実こう語っていた。
「ごめんね。大樹君、犬好きだから、ちびちゃん達に会いたがって」
 人のよい慶子は、大樹の行動を好意的に解釈して謝った。
(やっぱり可愛いなぁ)
 その間、二人の後ろでは、フィオとドーベルマンとスレンダーな美女が、足下をすり抜けていった子犬達と遊んでいた。
「ん……こら、鏡華。お前まだいたのか」
「申し訳ありません」
「まったく、アヴィに呼ばれてるんだろ。遅れて文句言われても知らないからな」
「わかりました。じゃあね、バイバイ」
 美女は子犬達に手を振って、それから大きくため息をついて駐車してあるベンツに戻っていく。
 あんな美人を常に側に置きながら、慶子につきまとうなど何を考えているのだろうか。
「……鏡華さん、何させられる予定なの?」
「足」
「可哀想に。どうせあの人達の事だから、行く先々がマニアックなんでしょ。ちゃんとここに迎えにこれるのかしら」
「問題ないって。鏡華慣れたから」
「慣らされたのね……」
 慶子は去る車に搭乗の目を向けた。何か大変な仕事をしているらしい。
「さて、フィオちゃん。そのままお外にいると風邪引くから、中に入れてもらおう」
「うむ」
 フィオは可愛らしく頷き、子犬達を従えて玄関に入る。ドアを閉めたころ、母がやってきた。
「あら、お友達って、女の子だったの?」
 母は目を丸くした。女の子を招いたのは初めての事だから、驚くのも無理はない。
「おじゃまします」
 慶子が頭を下げると、それを見たフィオも元気に頭を下げた。
「こんにちは、おじゃまします」
 素直で可愛い子だ。中学生ぐらいに見えるが、言動から見るに小学生なのかも知れない。白人は日本人よりも大人びて見える。
「可愛いお嬢さん方ね」
 母は一目で気に入ったらしく、上機嫌で言った。下品な友人を連れると、付き合いをやめるように勧める母がだ。
「はじめまして、お母さん。雅之君の友人の明神といいます」
「あらぁ、うちの雅之がお世話になってます」
「驚きました。雅之君のお母さんが、こんなに綺麗でお若いとは」
「あらぁ、うまいのねぇ」
 母は明神のハンサムな顔をひたと見つめ、まんざらでもなさそうにだらしない笑みを浮かべた。
 懐柔された。
「雅之がうらやましいよ」
「お前のお母さん、元モデルのめちゃくちゃ若いすごい美人なんだろ?」
「あれは莫大な投資によるものだって……」
 彼は視線をそらした。彼の家は一般とは比べものにならないほど裕福らしい。送り迎えは高級外車で使用人付き。時にはとんでもない外車が迎えに来る。比べる方が間違っている。
「部屋に行こうか。あがって」
 母を無視して二階に上がり、部屋に招き入れる。学習デスクと洋服タンスとテレビとベッドと大きな本棚。この部屋にあるのはだいたいそれだけだ。
「…………またお前らしい本ばっかだなぁ。マンガの一つもないってのは……」
「ほっといてくれ」
 明神は勝手にベッドに腰掛け、子犬達を手招きする。片手には犬用ジャーキーがある。本当に犬も目当てで来たようだ。
「きゃんきゃん」
 大喜びで飛びついていく子犬達。
「おお、可愛いなぁ。よしよし…………えと、名前は?」
「赤い首輪が虎太郎で、青い首輪が竜之介」
「なんつーか…………まあ、夜依ちゃんよりマシか」
「マシかって……何か文句あるのか」
「別に。強そうな名前でいいんじゃね? よかったなぁ、コタ、リュウ」
 彼は満面の笑みで子犬達を撫でる。その様子は、彼が本当に犬好きであることがひしひしと伝わってくる。
「オーリンもいるかぁ?」
 ドーベルマンにも餌付けしようとしたが、お上品なのか顔を背けて座り込む。
「しつけが行き届いてるね」
「賢い子だから」
 慶子がドーベルマンを見て言った。彼女にはあまり似合わない犬だが、ボディガードと思えばふさわしい。
「僕、飲み物とってくるから、適当にくつろいでいて」
「おかまいなく」
 雅之に言葉が向けられ、心臓が跳ね上がる。
 平静を装いながら部屋から出ると、そこには母がいた。
「な、何してるの?」
「どっちの子?」
「は?」
「彼女よ。いい感じのお嬢さん達ね。いい服を着ているし、でも真面目そうだし、いいところのお嬢さんなんじゃないの?」
 鋭い。前半はともかく、後半は鋭い。
「彼女じゃないよ。犬をくれた子だって言っただろ。東堂さんだよ。東堂学のお嬢さんだよ」
「っ東堂先生の!? すごいじゃない。おつきあいするなら大賛成よ」
「違うって。それよりも、飲み物持ってきてくれたんなら、もらうよ」
「あら、そうね。で、あの男の子は?」
「明神って知らない? 明之宮の教祖の弟」
「ああ、知ってるわ。あのハンサムな教祖様ね。大物じゃない。どうやって知り合ったのかは聞かないけど、将来弁護士になるなら、仲良くしていれば後ろ盾にもなるわ。頑張りなさい」
 仲良くなんて欠片もないのだが、それを今言う必要はないだろう。
「はいはい」
 オレンジジュースとスナック菓子数種類の盛り合わせを受け取り、雅之は部屋に戻る。母の欠点は、雅之に対する過干渉と期待しすぎるところだ。
「お帰り。はやかったな」
「母さんが持ってきてくれたんだよ」
「そんなにつんつんしないの、まさちゃん」
「だぁかぁらぁ」
「褒めてるんだって。ほんとにエロ本の一つもないしぃ」
「人の部屋を勝手にあさるな」
 正確に言うと、母が恐くて部屋に置いておくことができないだけだが、慶子にいい印象を与えるのに役に立った。
「大樹君とは大違いねぇ」
「健全な男子なんてそんなもんだよ。やーい、不健全」
 雅之は明神を無視して学習デスクにトレイを置く。立てかけてあったテーブルの足を立て、それにトレイを置き直す。
「お菓子。ポテト好き。チョコも好きだぞ。ただ、食べ過ぎるとディノが怒るんだ」
「そりゃそうだよフィオちゃん。可愛いフィオちゃんがぶくぶく太ったら、ディノさん首くくっちゃうよ」
「なぜ!?」
「責任感強いからね、あの人。それにケイちゃんも怒るよ」
 彼女も、いいところのお嬢様なのだろうか。スナック菓子を美味しそうに食べてはいるが、子供のようにぼろぼろとこぼして食べるかとも思ったが、行儀良く丁寧に食べる。
「はは。可愛い子だね」
「好みなのか?」
「明神にそっくり返すよ」
「顔は好みだよ。でもさぁ、洗濯板はねぇ。それにねぇ……いろいろとさぁ、越えられない壁が……」
 大樹の心ない一言に、慶子が拳を見舞った。平手でもなく拳である事が、彼女らしいなと思う。彼女の兄は、そりゃあ見事な打撃をする戦士だ。
「んもう。そういう差別心嫌い」
「まあまあ。好みの問題だし。フィオちゃんは好きだよ。面白……こらこらフィオちゃん。犬にそういうのはあげちゃダメだって」
 ねだられるままに菓子を与えようとしたフィオから、明神はそれを取り上げる。
「なぜだ?」
「太っちゃうから」
「そうか。太るのはよくない事なのだな」
「そう。健康にも悪いし、早死にする。犬には犬に合った食べ物があるから、それをあげようね」
 フィオはうんと頷き、虎太郎と竜之介に謝る。オーリンがのそりと起きあがり、子犬達の元へ行くと、子犬達はオーリンにまとわりついた。
「物怖じしないなぁ、お前達。相手は大きな犬なのに」
「相手がオーリンだからなぁ。それに、子犬は好奇心おう盛だから」
 オーリンはボールを口にくわえ、それを投げては取りに行かせる。賢い犬だ。
 しばらく皆でそれを眺めながら、時々来る母を追い返したりして当たり障りのない会話をした。
 少しでも、少しでも、慶子にいい印象を与えるために。


 投げては拾い、投げては拾う。
 なんとなく、大樹がボールを取り上げて邪魔してみると、子犬達はきゃんきゃんほえながら大樹の膝に登る。
「このまま持って帰りたいぐらいなんだけど」
「今更何言ってるのよ。もう、意地はるから」
「だって、持って帰ると戸紀子さんから苦情が来るんだ。知ってるだろ、戸紀子さんの小言は」
「アレは、いやね」
「そうだろ」
 慶子も何度か被害にあっている。戸紀子は慶子を明神家の嫁としてみているため、彼女にお花を教えたり、お茶を教えたりしている。粗相をすると、長々と説教されるため、慶子の上達は早かった。今や戸紀子にも認められる、明神家の嫁候補である。誰の嫁になるかを想定しているかは、大樹にもわからない。
「やっぱり犬がいいよ、うん」
「あたしは可愛ければ犬だろうが猫だろうがウサギだろうが鳥だろうがイタチだろうがは虫類だろうが化け物だろうが何でもいいわ」
「ケイちゃん、最近異界人に毒されてきてない?」
「言わないで」
 昔なら、化け物のあたりは否定していたのだが、今ではすっかり慣れている。
 川橋が聞き慣れぬ言葉に首をかしげるが、宗教世界の特殊な話だと思ってくれているだろう。
「それよりも大樹、いつまでコタちゃんとリュウちゃん独り占めにするのよ。ボールパス」
 大樹は慶子にボールをパスする。
 子犬達は何が楽しいのか、ボールを追いかけ慶子に飛びついた。
「やんっ、こら、あはは」
 身体を登られ、慶子は幸せそうに手を甘噛みをされた。幸せそうだ。
「可愛い」
 慶子が撫でるために手を伸ばすと、竜之介はその手を目で追い、手を出しよじ登る。大したことのない接触だが、慶子の手にわずかなひっかき傷ができる。
「あら、悪い子ねぇ」
 慶子は竜之介を捕獲して、無理矢理唇を奪う。
「ああ、ケイちゃんが年端もいかない男の子を襲った!」
「うふふ。奪っちゃった」
 慶子は口紅のついた竜之介の口をハンカチで拭う。自分がグロスをぬっているのを忘れていたようだ。グロスでてかる竜之介の口元が可愛い。
「慶子、手痛くなかったか?」
「? ああ、これ。赤くなってるわね。舐めとけば治るわよ」
 血も出ていないのだ。心配するほどの事でもない。
「舐めれば治るのか?」
 信じたフィオは慶子の手を取り、ぺろぺろと舐める。
「っ!?」
 大樹と川橋は硬直した。
 フィオの行動が問題なのではない。慶子の手を舐めた瞬間、フィオの背中に翼が現れた。
「ちょっ……」
 慶子も驚き目を見張り、しかしどうすればいいかわからず呆然となる。
「どうした?」
 首をかしげるフィオの背に、川橋がおそるおそる手を伸ばす。
「川橋、これは手品だ。触るとタネがバレバレだから触るな」
「手品なわけあるか!!」
 川橋は声を張り上げ、フィオの翼に触れてしまう。フィオは驚き翼を広げた。
「あれ、なんで羽が出てるんだ?」
 フィオが慌てて羽をしまおうとするが、慶子の手を取っているので消えない。
「ほ……本物」
 川橋は愕然とつぶやいた。
「もう、フィオ何やってるの」
「だってだって」
 フィオは消えぬ翼を必死に消そうとしながら、泣きそうな顔をした。
「フィオちゃんは悪くないよ。ヒーリングまではじくケイちゃんが悪い。しかも連鎖してフィオちゃんの変化までキャンセルしちゃってさぁ」
「なによそれ、意味わかんない」
「自分の特性は理解しておくように」
 教えなかったのは自分だが、彼女は本当に口先だけで魔王となる男を黙らせていたと思っていたのだろうか。しっかり手出しをされて、それを無意識に無効化し、時にははね返すようなことまでするのが彼女の力だ。
 普段フィオは慶子に力をむける事はない。しかし、一度ある程度の力を向けられれば、慶子の防衛機能が勝手に発動して手当たり次第に働く。それにより、フィオの変化までがとけてしまったのだ。
「て、天使!?」
 川橋はフィオを指さし、神々しくも何ともない、可愛いだけの『天使』に対して、恐怖の色すら見せた。
「ケイちゃん、説得と記憶を消すのどっちがいい?」
「記憶を消すなんてできるの?」
「精神に異常をきたすかも。兄さん強引だから」
「却下」
「でも、説得となると……」
 慶子は小さくため息をつく。それから、じりじりと川橋に身を寄せた。
 やる気だ。彼女が久々に、本気を見せる。慶子の子供だましのホラが発動するか。
「川橋君」
「はいっ」
 この時点で、川橋は頬を赤らめフィオの事などどうでも良さそうな顔になる。あの体勢だと、慶子の胸あたりが強調されるだろう。
「びっくりさせてごめんなさいね。騙すつもりはなかったの」
 慶子はすまなそうにな顔を作り謝った。慶子の演技にぬかりはない。兄相手に、男がこういう時どのような風にすれば弱いのかを学んでいる。知っていてやるときの慶子は、容赦がない。もちろん、色気だけで納得する相手なら、彼の先にはエリートとしての人生など存在しないだろう。
「フィオは見ての通り天使よ」
 川橋は真剣な顔をしてうんうんと頷いた。ながされやすい男だ。
「どこかの秘密組織の改造人間とか、人造人間とか、そういう事情なのかな?」
(うわ、こいつケイちゃんと似たような脳内構造してる……)
 大樹は呆れ、同時に不安を覚えた。慶子のようなしたたかさがない分、騙されやすそうな性格だ。
「マンガの読みすぎよぉ」
「そ、そうだね」
「フィオは、天界のお姫様なの」
「ケイちゃん、だいたいその通りだからそれに関しては文句ないけど、そっちの方がマンガ読みすぎ感があるよ」
 慶子は大樹を一瞬睨み、すぐに顔を作り直して川橋に向き直り、彼の左手を両手で包み込む。
「て……テンカイって……どこ?」
「さあぁ。天国?」
 異世界という言葉の方が合うのだが、口出しすると睨まれるので黙っておく。
「フィオは天界の時期統治者になる予定だったの。でも、悪い人に狙われて、こちらに逃げてきたの」
 天界にも派閥があり、そういうこともあるという話を聞いているので、間違ってはいない。だからこそ、そのために護衛やオーリンがついているのだが。
「…………」
 川橋はもう一度フィオを見た。威厳はないし後光もないが、天使のはねは本物だ。これを一瞬にして装着できるようなものを作る技術があれば、ハリウッドがスカウトに来るだろう。
「天使、なんだ」
「そう。あたしも拾った時は驚いたわ。うちにもう一人いるけど。ちゃんとした大人が」
「そう。そちらの方がしっかりしているんだ」
「そうなの。フィオはお姫様だから、常識がなくて。話がわからなくて混乱したわ」
 無垢で美しい彼をお姫様だと紹介すれば、なんとなく信じられる。外見の力とは、素晴らしいものがあるのだ。
「可愛そうな子なの。世間には触れさせられず、軟禁されて育ったの。肉も魚もを食べることも許されてなかったのよ。汚れなく、何も知らない人形として育てられたの」
「人形として……」
 川橋は憐憫の目をフィオに向けた。あからさまな同情に、フィオは笑顔で反撃する。彼の同情をさらに強めるだろう、凶悪な反撃だ。
「ある時とある大樹の知り合いの手で逃げ出す事に成功して、なぜかうちの庭に迷い込んできたの」
 脱出というよりも、家出なのだが。しかも、あれはそそのかしたというのだが。
「明神の知り合い……」
「ほら、わけのわからない宗教家だから、わけのわからない知り合いがいるのよ」
「ケイちゃん、その説明は不信を募らせるって。なんというか、神様の交流とか、そういう言い方をしてほしいね」
 兄は悪魔も召喚するが、よその国に行けば、彼らを神と認識して崇めている。神同士なのだから、問題はない。
「でも、キリスト教は一神教だろ?」
 彼はまだわかっていない。
「それが問題なの」
「へ?」
「天界は閉鎖的なところよ。他界の住人を否定し、自分たちを神として崇める人間達を独占的に従属しようとしているの。フィオはその道具にされようとているのよ」
 間違っていない。彼女もある程度の事情を知るディノやアヴィシオルと交流がある。聞き出して、彼女なりに考えた結論なのだろう。
「だからフィオは逃げてきたの。道具として利用される前に」
「…………体制を変えようとかは?」
 川橋の問いかけに、慶子は思わずフィオを見た。フィオはきょとんとして慶子を見た。
「………………一般常識勉強中だから、そういうのは他の人が」
「ご、ごめん。そうだよな。無理だよなぁ」
「もう少し大人になってから」
 慶子もその手の事は気にしているらしいが、フィオを見るたびに諦めるのだろう。
 大樹はそろそろ頃合いだろうと思い、本格的に口を挟む。
「うちで引き取ろうかとも思ったけど、フィオちゃんがケイちゃんに異様なほど懐いてるから、ほっといてるんだ。でも、フィオちゃんを暗殺しに来るかもしれないから、黙ってて欲しいんだ。天使なんてばれたら、世界中に一斉に広がるだろ?」
「確かに」
「しかも、人間の思う神なんていないと言い出したとすれば、下手すると宗教関係者に口封じのために殺される。あれは神の使いの振りをした悪魔だって」
「なるほど、一理ある。もちろん、人に言いふらすつもりはないから、東堂さん、安心してください」
 川橋は慶子の手を握り返す。非現実的なことを目にしながら、慶子の気を引こうとするあたりは、意外に大物かもしれない。
「理解があるね、雅之」
「だから、馴れ馴れしく雅之とか呼ばないでもらいたいな」
「雅之と呼ぶのは、馴れ馴れしいのか?」
 突然割ってきたフィオは、純粋な疑問を川橋、否、雅之に投げかける。
「いや、別に」
「なんと呼べばいいのだ?」
「…………雅之でいいよ」
 雅之は引きつった笑みを貼り付けてフィオに言う。あっさりと負ける姿が愉快。
(からかいがいのあるヤツ)
「雅之、トイレに行きたいのだが、どこにある?」
「階段をおりて右手奥に」
 雅之は赤面しながら答えたが、フィオは首をかしげて慶子を見た。慶子は立ち上がり、フィオの手を取り部屋を出る。
「…………」
「何緊張してんだよ、へたれ」
「うるさい! 君は一体何なんだよ!?」
 慶子という安定剤がなくなり、雅之は大樹に詰め寄る。
「知りたい? みたい? 裏社会に足を踏み入れる事になってもいい? すごいぜ。絶対に驚く。知りたいか?」
「…………君は慶子さんのいったい何なんだ!?」
 規模が急に小さくなる。
「お前……色々と素直だな。まあいいけど。お前はなんでケイちゃんに目をつけたんだよ。あれは大人しく見えるけど、すっっっっげぇ気の強い女だぞ」
「知ってるよ。そこも可愛いんじゃないか」
「お前も巨乳好きか」
「違う!!」
「ふんっ。素直になれよ」
「慶子さんは優しくて、すごく美人じゃないか」
 雅之の言葉に、大樹は大げさに驚いてみせた。
「…………恋は盲目? あばたもえくぼ?」
「君は本当に慶子さんが好きなのか?」
「別に顔はどうでもいいし。それに顔で選ぶなら、お前もっと美人に告白されてたじゃないか」
「美人でも、遊び人は嫌いだ。慶子さんみたいに貞操観念がしっかりした人がいい」
「つまり、巨乳でバージンがいいと」
「違うって言ってるだろ!」
「じゃあケイちゃんよりも美人でおしとやかだけど、芯の強い女紹介しようか? バージンの」
「なら自分がそっちと付き合えばいいだろ!?」
「胸がないから嫌だ」
「胸だけが目当てなのか!?」
「胸もなけりゃいやなんだ!」
 そんなやりとりをしていると、いつの間にか慶子がドアの前で白い目を向けていたりしたのだが、大樹はしばらくそれを知らせずに続けた。
 これで印象は悪くなっただろう。大樹の印象については、だいたいこんなものだから良し。


 フィオはごろごろと横になり、アヴィシオル達とアニメを見ている。
 慶子は、フィオの将来が心配になる。
「ねぇ、アヴィ」
「何だ?」
「フィオって、将来どうすればいいと思う?」
「決まってるだろ。私に都合のいい天界を作る」
「…………地獄?」
「にしてどうする。種族に関係なく交流を持てる世界にするだけだ」
 彼の言う事は、意外にもまともだった。
「そして、マンガを世界に」
「広めるな広めるな」
「テレビを持って帰りたい! んで、アニメをいっぱいやるんだ」
「ニュースも流しなさい」
「あ、ネットも普及させたいですね」
「妖精がネットするの!?」
 夢を壊す奴らばかりでいやになる。妖精だけでも、メルヘンの世界にいて欲しいのに。
「お前は異界を誤解している。私たちは悪魔と呼ばれていても、お前達の思っている生活はしていない。普通に政を行い、普通に生活している。悪の巣窟でもなければ、メルヘンの世界でもない」
「そうですよ。妖精なんて非力だから、重機なんかはとても重宝するんですよ」
 すでに重宝しているのかと、慶子は幼い頃夢見た妖精の世界が崩壊した。
「ケイちゃん、まだそういう事考えるのは早いよ。もうすぐ、アヴィのオヤジさんが引退するから、話はそれからだな。それまでフィオちゃんがつかまらなきゃ。世界が動くのは、それからだよ」
 世界が動く。その言葉に、事に大きさに嫌気がさした。
「それ、いつのことよ」
「さあ。ねばるかもしれないからなぁ」
 先はまだまだ長いようだ。それまでに
「あ、終わった。アヴィ、ゲームしよう」
 フィオの意識改革が完成するかどうか。それが問題だ。


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あとがき