15話 あたしと彼女


 その日は、とても寒い日だった。慶子はカシミアの手袋を頬に当て、冷たい頬を暖める。白い息は憎らしいが綺麗だ。
(雪でも降りそうねぇ)
 雪が降るとフィオが喜ぶのでいいのだが、学校に行く身としては迷惑な話だ。
「雪降ったら、大樹に迎えに来させるか」
 普段から迷惑をかけられているのだ。世話になっている以上の迷惑やセクハラを被っているのだ。これぐらいは罰は当たらないだろう。
 そんな事を考えていた時だった。
「ちょっとお待ちなさい!」
 知らない声が響き渡る。知らない。決して知らない。断じて知らない。『お』待ちなさいなどという知り合いはいない。
 というわけで慶子は自分には関係ないと判断し、無視して、やや歩を速めつつも前へと進んだ。
「お待ちなさいと言ったでしょ! そこの乳牛女!」
 一瞬、本気で蹴ってやろうかとも思ったが、関係ないので深呼吸して心を落ち着かせる。冷たい空気が美味しい。
「お待ちなさい! 東堂慶子!」
「何がお待ちよこの恥知らずが!」
 名指しで呼ばれ、慶子は羞恥のあまり嬉々として声の主へと一瞬にして接近し、拳で殴るとキケンなので、カバンで横殴りした。
「んもう、大声で呼ばないでよ恥ずかしい。誰か知らないけど、じゃあね」
 女の子だったが、敵意いっぱい人の名を呼ぶような女には容赦はない。痛かったのか、しゃがみ込んで肩を押さえている。慶子は気にせず今夜のタンシチューの味を思い浮かべながら歩き出すと、町中、昼間であるにもかかわらず、かすかな突撃してくるような足音を耳にした。
 それを表現するなら、殺気とでも言うべきか。
「よくも佳代さまにっ」
 慶子は地面に影が映ったことから、誰かが頭上から飛びかかってきたことを察し、とっさに前へと跳躍して避け、受け身をとった直後に起きあがり向き直る。
「ちぃ」
 影は黒い服装の小柄な男だった。黒い服は別にいい。デザインが問題だ。
「……いやっ、変態っ」
「誰が変態だっ!」
「助けてぇ! 忍者のコスプレ男に襲われるぅ!」
「誰がコスプレだっ」
 自覚のない男の言葉に、慶子は怯える。
 真性だ。忍者になりきっている。かなりヤバイ男だ。
「大丈夫かっ!?」
 犬の散歩途中のおじさんが駆けつけてくれた。ラブラドールレトリーバーがほえる。まるで王子様のような犬だった。
「あ、怪しいヤツっ。行け、大介!」
 犬が駆ける。
 コスプレ忍者は佳代と呼んだ少女を抱え、塀の上に跳んだ。
「東堂慶子、覚えていろ」
 ありきたりな捨てぜりふを残し、忍者は忍者らしく消えた。
「…………」
 慶子も男性もあっけにとられて、忍者の消えた場所を見た。
「ゆ、誘拐!?」
「あ、お知り合いのようでしたよ。お姫様のなりきりでしょうか?」
「気合いの入ったなりきりだな……」
「でも恐かった。本当にありがとうございます。わんちゃんもありがとうね」
 しっぽを振るラブラドールレトリーバーを感謝を込めてなで回して褒める。
(ってか……あたしなんで学校帰りにこんなバイオレンスなことしてるの?)
 心の中で愚痴をこぼしながら、犬の頭を撫でる。
 あとで、念のために大樹に文句を言おう。


 翌日。
「お待ちなさい、東堂慶子!」
 振り返ると、お嬢様学校の制服を着た少女と、今日は普通の恰好をした小柄な男がいた。少女は意外にも美少女だった。髪をポニーテールにした、気の強そうな少女だ。
「……人違いです」
「嘘おっしゃい!」
「何か用? くだらない事で因縁つけてきてるんなら、女だからって容赦しないよ」
「大人しそうな顔をして、やっぱりそれが本性なのね。
 わかってるのよ、あなたが大樹様の弱みを握って脅しているのは!」
 本当に馬鹿楽して、慶子は哀れみの目を向けた。
「証拠だってここにあります」
 と見せたのは、慶子が大樹に一撃くれている瞬間を激写されたものだった。
 これは数日前、大樹がフィオにろくでもない事を吹き込んでいて、庭にたたき出した時だろう。
「他にもたくさんあり……ちょっと、人の話を聞かずに電話をするなんて最低じゃなくて?」
「ちょっとまってね。警察呼ぶから」
「馬鹿にしてるの!?」
「盗撮って犯罪なの、知ってる?」
「大樹様の敵はすべて滅ぼします。四の五の言っていないで、観念なさい」
「昼間から暗殺……なんて恐ろしい人」
「殺しまではしません。ただ、二度と大樹様のおそばによれないようにして差し上げます」
「でも、大樹があたしに寄ってくるのであって、あたしの意識改革があったとしても、望む結果にはならないと思うわよ?」
 事実、追い払っても追い払っても近づいてくるのだ。めげない、あきらめないあの姿勢は、見習いたくなるほどの厚顔ぶりである。
「どんな秘密を握って脅しているかは知らないけど、卑怯な事はおやめなさい」
「握ってないって。大樹に秘密なんてないし。せいぜい年齢をごま化して年上の巨乳美人と豪遊していたり、一晩でポイ捨てしたり、樹さん騙して高価なもの買ってもらったりしてるぐらいだし」
 人に話せる内容だ。弱みにもならないだろう。樹も大樹には甘いから、悪質なおねだりぐらいでは怒らない。
「あとは、救いようのないミラクルオンチってぐらい?」
「う……嘘よ! 大樹様がオンチだなんて!」
「オンチよ。樹さんは悔しいほどの美声の持ち主だけど、大樹君はその樹さんが目を回して歌うの禁止令が出たほどのオンチよ」
「うそよっ!」
 嘆く彼女の姿を見て、慶子はふんと鼻で笑う。
「本当よ。大樹君があたしにラブソングなんて歌うから、殴り倒したところ樹さんが文句を言いに来て、思い知らせるために大樹君のリサイタルを開いたの。生まれて初めて樹さんに意見を認められたのよ!」
「そんな……あの樹様に認められるなんてっ」
 人にわけの分からない事を言うから、知らなくていい事を知ってしまうのだ。自業自得とはまさにこのこと。小気味よい。
 徹底的な打ちのめされるがいい。


 大樹は大げさな二人のやりとりに、潜伏する屋根の瓦に顔を突っ伏した。
「大樹様……あなたの歌は聴いた事がありませんが、それほどすごいとは……」
「鏡華……」
「だって、あの樹様が赤の他人を、あの方を肯定なさったのでしょう? 奇跡です」
「いや、兄貴に対しても失礼だし」
 みんな失礼だ。
「佳代も、なんでケイちゃんに喧嘩ふっかけてるんだろうねぇ」
 確かに、いつも殴られているので、佳代がそのような想像をしても仕方がないのだが、よく見ていれば現実に気づきそうなものだが。
「大樹様に気があるのでしょう」
「俺、親戚と付き合う気ないし。それに佳代はあんまりなぁ」
 親戚なだけあり美人だが、決して好みではない。あれならばまだフィオの方がいい。
「性格も女王様気質だし」
「慶子様とどう違うのですか?」
「ケイちゃんは気が強いだけだよ。気っ風がいい」
「確かに、佳代さんは人を使う事に慣れすぎていて、人の身になれない方ですからね」
「火野は金持ちだからなぁ。銀までつれてきてまぁ」
 大樹ですら、連れ回すのは鏡華だ。しかもそれはせいぜい足代わり。常につれている事などない。しかも彼女は次女だ。立場としては大樹と同じ。なのに彼女は恵まれている。
「俺、わがままに育った女嫌い」
「人の事を言えるんですか?」
「お前は兄さんの下に生まれた俺の気持ちなんてわかるのか?」
「…………私なら、絶対に嫌です」
 彼女は樹を苦手意識している。いや、嫌っている。その嫌い方は、慶子に並ぶものがある。知らないところでいじめられているらしい。
 もちろん、樹にそのような自覚はなく、嫌われている自覚もない。ある意味うらやましい性格だ。
「ところで大樹様、止めなくてもいいんですか?」
「まあ、いいんじゃない? ケイちゃんが俺のために争う姿も見たいし。これ以上暴露される事もないし」
「つまり、大樹様は女好きでオンチの二言で表現できる方だと」
「…………」
「あ、芸術系は全滅でしたね」
 大樹は落ち込んだ。芸術などなくても生きていける。そりゃあカラオケに行ってもマラカスを振りまくっているだけだが、もしもの時も手はあるのだから。
「そろそろ止めませんか? 言い合いがヒートアップしてきましたが」
「大丈夫大丈夫」
 大樹がのんびりと構えているその瞬間だった。
「よくもまあその容姿で、大樹様の側にいられるものですね」
 大樹の顔が引きつる。
「ブスの上にデブで、本当に大樹様の気を引けると思っているの?」
 ぶちっ、というような幻聴が聞こえた気がした。
 慶子の笑みが引きつる。
「あ、切れた」
「いつもいわれている事だと思いますけど」
「フィオちゃんとか兄さんとかは、悪気がないからやっかいなんだけど、だからこそケイちゃんも我慢できるんだ。でも、赤の他人に悪意にまみれた言葉を向けられて、しかも俺の関係者で、昨日襲われて……となると、許すと思う?」
「…………」
「例えば鏡華が同じ立場で、色気のない女とか言われたら?」
「そうですね。身元を調べて、社会的な圧力を」
「だろぉ」
 意外に過激な発言に、大樹は少し驚きながらも、平常を装って言う。
(コンプレックスって、恐いなぁ)
 大樹のは隠す事ができるが、外見では隠しようがない。色気がないというのは、どうしようもない。胸を作ればいいというものでもないのだから。
「もう少し太ったらいいそんなこといわれないと思うぞ。鏡華は少し痩せすぎているだけだから。肉を付けるのは簡単だろ」
「そうでしょうか」
「ああ。ケイちゃんが痩せるのに比べれば……。筋肉が増えて体重が増えたって落ち込んでたし」
「……最近、慶子様のスタイルは格段によくなりましたね。何を悩む必要があるのでしょうか」
「いや、本人が気にしてるし」
 冬場は服の生地が厚いので、胸が出ている分太って見える。佳代がああ言ったのも、その錯覚のせいだ。夏場なら、スタイルには絶対に触れなかっただろう。
「でも、止めなくていいのですか?」
「……恐いじゃん。もしも銀が動いたら、偶然を装って止めればいいんだよ」
「説得力がないかと」
「気にしない気にしない」
 大樹はこの後どうなるか、おっかなびっくりうきうきわくわくしながら覗いた。


 慶子は目の前でふんぞり返る、わがまま女王様の全身を見回し、ふんと鼻を鳴らした。
「大樹君の女の趣味って、知ってる?」
「っ!?」
 息を飲み、そして知りたいと顔に表す。
 正直な女だ。
「ちょっとコート脱いでみてくれない?」
 彼女は言われるがままにコートを脱ぐ。思った通りだ。
「大樹君の好みはね、胸の大きな大人の女性なのよ」
 佳代はくわと目を見開いた。そして、自分の胸に触れる。Cカップに見えるが、かなりの確率で底上げされているだろう。実際にはAカップではなかろうか。慶子はそれを見抜き、痛いところをついてみた。
「あなたじゃちょっと足りないかな?」
 底上げされた胸に対して足りないと言われれば、誰だって傷つくだろう。
 それと同じで、慶子も体型の事を言われると傷つくのだ。
 この言葉で傷ついているのは、自分も同じだった。
 そう、これは諸刃の剣。
「な、何よ! あなたみたいに、胸以外にも肉が付いていたらただの肥満じゃない!」
「あたし肥満なのかな? 体脂肪は20パーセント切ってるけど」
 地下にある兄のトレーニングマシーンで鍛えた結果である。もちろん、兄のように力をつけるためにやっているのではないから、ランニングマシーンなどを主に使用している。胸が減らないかと思い筋肉をつけてみたが、それは無駄に終わった。むしろアンダーが減り、バストサイズが上がってしまった。スマートなスポーツ選手がうらやましい。
「む、胸は大きければいいってものじゃないでしょ」
「そうねぇ。邪魔だもの。地面も見にくいし」
 自傷行為だとわかっていながら、慶子は佳代を傷つける道をとった。
「ち……乳牛!」
「洗濯板」
 互いを傷つけ、自分を傷つけ、二人は睨み合う。
「本性を現しましたねっ! 温厚そうに見せて、裏では凶暴な二重人格内弁慶女!」
「あなたは外弁慶タイプね。家族の前だととたんに大人しくなるタイプよ。自己中女!」
「大樹様のお美しい顔を殴るような凶暴女が……何ですの」
 慶子が近づくのを警戒し、佳代は構えをとる。何か武術の心得があるようだ。
 実は大樹もあれで武術の経験があるらしい。痛くない殴られ方──防御に関しては、慶子のおかげでかなり上達している感じがある。
「ねぇ、一ついいかしら?」
「何よっ」
「結局、あなたはその可愛いお顔以外に何があるの?」
「ふん。あなたにないものすべて」
「あたしにないものって? 親の財力ならあるわよ。成績だって、普通からしたらいい方よ。運動神経もいいわ。で、容姿以外でそこまでの自信を持つほどあたしに勝るものって何?」
 詰め寄ると、彼女は言葉をつまらせた。
「だいたい、大樹が人に脅されて殴られているタイプだと思う?」
「それはあなたが何か卑劣な方法で」
「大樹をいいなりにできる卑怯な方法って何?」
「…………」
「あたしは、生まれた時からあいつと一緒なの。隣の保育器に入れられて、おそろいのおくるみにくるまれて、色違いのドレス着せられて、色違いのミトンをつけて、色違いの乳母車に乗って、同じベッドで寝かされた事もあるの。服もペアルックが多かったわ。親たちが結婚を前提に育ててたから、当たり前のように一緒にいたの。同じ幼稚園、小学校に通った、正真正銘の幼なじみなの。で、同じ学校に通っているのに、一緒にいるのは変? 変なの? 言ってみて」
 慶子は前へ前へと進みながら、満面の笑顔で言う。佳代は慶子が進む事に後ろにさがり、ぎりっと音が達ほど歯がみした。
「…………この、乳牛っ! 見てなさい! 必ず大樹様を守ってみせます!」
 とつぜん捨てぜりふを言い放ち、きっと忍者男を睨む。彼は頷き慶子を睨み付け、昨日のように佳代を抱えて、塀に飛び乗り、去っていく。佳代はその間、慶子に舌を出していた。
 本物の忍者なのだろうか。大樹の知り合いなだけあり、お抱えの忍びの一人や二人いてもおかしくはない気がしないでもないのが不思議だった。
「…………なんか、また来そうな気が」
 その時はどうしようか。彼女は本当に大樹の事が好きなのだろうか。とてもではないが、『大樹』という人間を真剣思っているとは思えない。
「大樹も大変ねぇ。下手に容姿がいいと、ああいう女がわんさか出てきてそうだもの」
 大樹も大樹なりに苦労しているのだろう。だから遊び慣れた年上の女性を好むのかも知れない。
「まっいっか。少しは懲りただろうし」
 その日帰ると大樹が当たり前のようにいたので、とりあえず蹴りをかましておいたのだが、一発で許してやった。
 

 

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