18話 あの野郎の陰謀
 ある晴れた日の朝。
 その日は寒く庭の池にも薄い氷が張っていた。霜を踏み池の横に来ると、バードフィーダーに餌を置く。鏡華がそこを離れると、鳥がやってきてさえずりながら餌を食べる。
 これでそのうち大樹は起きるだろう。今日は土曜なので彼に関して急ぐ必要はない。
 手入れの行き届いた庭園を横目に、彼女は離れへと向かう。離れを使うのは、明達犬だ。手はかじかみ身体は冷えるが、冷たい空気を吸いそして吐く白い息を見ると気が引き締まる。
 離れの勝手口に立ちそっとドアを開ける。
 外観は和風だが、中身は洋風だ。床は犬のためにコルクタイルが使用されている。他、冷暖房完備。犬にとって過ごしやすさを追求した場所だ。
「きゃんきゃんきゃん」
 鏡華を見て、数匹の犬が突撃してくる。
「おはよう」
 飛びついてきたのが子犬だったので、受け止め顔を舐められてやる。
「おはようございます」
 家政婦の女性が鏡華に挨拶する。調理中なので少し顔を向けただけだが、鏡華は彼女に見覚えがなかった。鏡華を知っていれば、しっかりと挨拶するのが普通だが、知らないのでは仕方がない。
「新人さん?」
「はい。一昨日からこちらでお世話になっています」
「明様はどちらに?」
「居間にいますよ。大人しくテレビを見ていますよ」
 鏡華は女の態度に、教育の不徹底を感じた。どこでこんな娘を雇ったのだろう。後で抗議しなければならない。彼女の言葉の端には、明らかに明を『ただの犬』として扱っていることがにじみ出ていた。彼はあの外見なので、それは仕方のないのだが。
 ひょっとすると明の趣味かも知れない。年若く綺麗な女の子だった。その可能性が一番高いので、やはり下手な事は言えないか。誰かに身元を聞いてから対処すべきだろう。
 そんな事を考えながら居間へと向かい、ドアを開く。
「明様、おはようございます」
 部屋に入るとニュースを見ていた明へと挨拶する。本来なら叩頭すべきだが、犬がちょろちょろしているので、この場ではそれを許されている節がある。
「鏡華か。おはよう」
 明が振り返り言う。その傍らには大樹の父、明神光樹(みつき)だ。
「おはようございます、おじさま」
「おはよう、鏡華。休みなのにすまないな」
「いいえ、明様のお側に置いて頂けるだけで光栄です」
 光樹は笑いながら茶を飲む。膝には何匹もの犬が顔を寄せていた。まだ早いので人が少ないが、これからたくさんの使用人がやってきて犬達の世話をする。
「樹など、未だに来ない」
「樹様も?」
 樹と鏡華が呼び出されるなど珍しい。二人が互いに興味を持っていないので、会話する事すら少ないのだ。
「実はな、樹もそろそろ跡取りを作らなければならない」
「はあ、そうですね」
「明日、嫁候補を集めた集会が行われる。実質、集団見合いだ。そこで一番の候補になっているのが、お前なんだよ鏡華」
 鏡華の頭は真っ白になった。
 白い。雪景色よりも白い。何もない。白く透明で、だから白い。真っ白だ。
 現実に戻されたのは、背後のドアが開かれた時だ。それまで数秒の間、彼女の頭は考える事を放棄していた。
「おや、樹。珍しく時間通りじゃないか」
「私はまだ結婚はしないぞ」
 樹の声はいつもよりも低く、その目は激しい怒りを持っていた。
「私も嫌です」
 樹と結婚など、想像するだけで死んでしまいそうになる。実際に結婚などしたら、ストレスで死ぬ。それだけは確信できる。
「でもなぁ、お前達にとってこれは義務だ」
「それでも、もっといるだろう!」
「いいじゃないか。鏡華は美人で気が利くぞ。大樹の扱いも上手いから、お前もなんとかなるだろう。お前もそのうち気の利く女にありがたいと思うようになるよ」
「父さんは現状に満足か?」
「……………………ま、満足だ」
 居間の長い沈黙は何だったのだろうか。
「父さん一筋の母さんだからまだマシだが、これでは母さん以下だ」
「母さんを悪く言うんじゃない! どこにいるか分からないぞ!」
「ここにはいない。ランニングに出かけた」
 その言葉に光樹はほっと息をつく。
「鏡華はいいと思うけどなぁ」
 明は立ち上がり、鏡華の傍らに座る。
「私も結婚は……」
「君が嫌なら仕方がないね。残念だよ。
 でも、樹の婚約者ぐらいは決めるのは本当だよ」
 鏡華はほっと胸をなで下ろし、樹はその場に固まる。
 思い当たる中で、彼の好みに合う女性は思いつかない。彼は抵抗するだろう。
「私は最低Dカップはないと嫌だ」
「わがまま言うなよ」
「父さんにはこの気持ちは分かるはずだ」
「お前も妥協しろ」
「妥協?」
 女の低い声が、雪女もかくやと言う冷気と共に響く。
 光樹の顔から血の気がひく。
「妥協、ねぇ」
「い、いや違うぞ。言葉のアヤだ。つまりは理想は理想。理想を探し求めていても、実は身近な女の方が愛しかったりするものだと」
「あなた、ちょっとこっちにいらっしゃい」
 光樹の妻の美津枝は、にっこりと笑いながら光樹を引きずって出て行った。残された二人と一匹は、言葉もなく二人の消えた居間のドアを見つめる。完全に気配が消えると、樹は床に座り鏡華を手招きした。
「いいか鏡華」
「はい」
 彼は真剣な目で鏡華を見つめた。なまじハンサムなので、普通の人に見えてしまう。しかしこれは罠だ。彼は普通ではない。
「私はお前と結婚する気はない」
「ご安心を、私もです。どうぞ慶子様のようなナイスバディの女性をもらってください」
 彼は半眼閉じ、手をあごに添える。その仕草は、例え寝起きで寝癖のある頭で、スウェットスーツ姿だろうと様になる。
「そうだな。私の趣味にかろうじて当てはまり、周囲に認められるような女はあれしかいない。まったく、なんて世の中だ」
「かろうじて、ですか」
 好きなくせに、認める気はないらしい。これが問題なのだ。彼が本気で口説けば、ガードの堅い彼女の心も揺らぐはずである。
「明様、明日のいつだ?」
「昼からだよ。会食を兼ねてね」
「そうか……鏡華、明日までにいい酒をたんまりと用意しろ。酒の選定は沢樹にでもやらせればいい。ついでに飲ませてやると言えば、可能な限り集めてくるだろう。私のつても使っていい。餌を集めろ」
「かしこまりました」
 鏡華は拳を握りしめる。
 ついにこの日が来てしまった。不幸になる人がいる。それでも彼女は動かずにはいられない。
(ごめんなさい。でも、私は幸せになります)
 鏡華は不敵に笑い立ち上がる。
「あれ、どうしたんですか?」
 新しい家政婦が朝食を持って現れた。明がしっぽを振って彼女を迎え入れる。家政婦は朝食をテーブルに置き、じゃれついてくる明をなで回した。
「やはり女は、恐ろしいな」
 その光景を見て、樹は小さくつぶやいた。


 障子の前で大樹は大きなあくびをした。
 これから退屈な親族会議が行われる。兄の樹の婚約者を決めるとか決めないとか。そろそろ彼も結婚しなければならない年頃だ。とっとと結婚してしまえば、慶子にもちょっかいを出さなくなるだろう。そうなれば、大樹も慶子も安心できる。
 そう思い、大樹はだらけた顔を直して障子を開けた。
「大樹様、おはようございます」
 彼に一番に挨拶をしたのは遠縁に当たる、父よりも年上の男だった。確か葉野の当主である。人当たりのよい人物で、一族の中では珍しく清く慎ましやかな生活を送っている。隣には彼の娘もいる。物静かな綺麗な黒髪をした、大樹よりも一つ年上のしとやかな女の子だ。
 アヴィシオルとルフトを引き込んだのがこの一族だ。それまでは一族の中でも最も目立たない家だったのだが、今では明の覚えもよく、当主の能力や人柄に惚れて相談に訪れる若い者も多いらしい。
「おはようございます」
 娘も深々と頭を下げて挨拶をする。
「おはようございます」
 挨拶だけ返して、大樹は席に着く。何人かが声をかけてきたが、大樹は当たり障りのない返答をして、頭の中は明日の慶子とのデートでいっぱいだった。ただ血の描写のせいでR指定となっている映画を見に行くからフィオがいないというだけだが、最近ではそれすら滅多にない事だ。こんなくだらない集まりはさっさと終えて、とっとと明日に備えたい。服を選んだり、デートコースを考えたりと、することはある。デートの後は、素直に家に送り届けるということだけは決まっているが、それ以外は決まっていない。妙なところに連れ込もうとしたら、それだけで数週間無視されるだろう。
「兄さん」
 真樹もやってきて大樹の隣の席に着く。
「樹兄さんがそわそわしてたけど、どうしたのかな?」
「結婚したくないからじゃないか?」
「鏡華も一緒なんだ」
「ついに二人も結婚か……鏡華なら性格が分かってるからいいよな」
「もしもそうだったら、鏡華なんて家を捨てても逃げてるよ」
「言われれば確かに」
「何かあるよ」
 真樹は無関係ということもあり浮かれていた。退屈な一日に何かある事を祈っているらしい。彼は外見から勘違いされやすいが、過激さという意味では兄弟の中で一番だ。
 しばらくすると宴席に集まる皆が静まりかえる。
 明の気配が近づいてくる。
 皆、それぐらいの事は感じ取れる。そうでなければここにいる資格などない。ここに集まっているのは、六家の当主やその近親者。そして一番力を持つ者だけが集まっている。親戚関係にある者も多いが、実際にはほぼ他人という間柄の者が多い。最近六家を分家と呼ばないのは、組織として肥大化してきたからだった。家というよりも、すでにそれぞれが立派な組織である。それを束ねるのがあの兄で、象徴が明である。
 しばらくすると障子が開き、明と樹が現れた。皆明と樹に頭を垂れるが、決して話しかけない。
「今日は一段と神々しい」
「見ろ、輝くような毛並み」
 小さな囁き合い。言われてみれば、明はいつも以上に毛並みがいいように見えた。新しい家政婦が犬好きで、よくしてくれているらしい。
 明は上座にちょこんと座り、樹が座るのを待つ。樹の後ろをちょろちょろと数匹の犬がついて来ていたが、それは数人の使用人により部屋の外に追い出される。樹がそれを見て不服そうにするが、これはいつもの光景だった。彼の犬好きは一族の中でも随一である。
 樹は席に着くと集まった者達を見回した。見れば見るほど若い女が多い事に気づかずにはいられないだろう。
「皆よく集まってくれた。一人も欠けることなく、嬉しく思う。今日はよく飲みよく食べてくれ。足りぬ物があれば近くのものに遠慮なく言え」
 言うと樹は杯を手にし飲み干した。乾杯はない。
 それからは叔父の司会で退屈な親族会議は進められていく。樹は真面目に聞く振りをして、好きな酒をずっと飲み続けている。
 ──ケイちゃんといい、酒の何がいいんだか。
 せいぜいチューハイぐらいしか飲めない大樹は、ウーロン茶を飲みながら心なしかぴりぴりとしている樹を見た。
 現状はよくないというのは、誰もが思うことだ。今はまだいいが、将来という点では、不安は多い。
「大樹様は、現状についてどう思われますか?」
 突然話を振られ、大樹は面食らう。
「大切なのは戦力の確保です。どれだけ力のある者を外から取り込めるかが焦点ではないでしょうか。どれだけ力のある子を残すではなく」
 大樹の言葉に樹も頷く。
「ルフトの界も、そろそろ安定してきました。そろそろ、本腰を入れてもいと思います。もちろん絶対の態勢を作り上げてから出なければなりませんが」
「最近は、天界の者もこちらに来ていると聞いたのですが、それは確かなのでしょうか? 取り込めるならそれはいいのですが」
 名前は忘れた水野の男が発言する。
「天界の者がいるというのは確かだ」
 樹が静かに肯定する。
「天界の者は保守的と聞きます。大丈夫なのでしょうか」
「あれに関しては問題ない。アヴィシオルが懐柔している」
 あれを世でも懐柔というのだろうか。仲がいいのは確かだが、二人を掌握しているのは慶子だ。最近はアヴィシア…もコントロールし始めている。もちろんそんなことは口にしない。慶子に興味を持たれても困る。
「今のところ益もなければ害もない。下手に手を出さない方がいい。天界の方でもあれを探しているだろうが、道は閉じている。門の監視はアヴィシオルと私で行っている。万が一の事はない。
 天使については保の妹に懐いている。天界では得られなかった愛情を受けているから、万が一の時があってもあれはこちらにつくだろう」
 樹は樹なりで慶子を評価しているのだが、それを本人の目の前では口にしないのが、嫌われる原因である。
「しかし東堂保どのの妹とは、一般人ではないのですか」
「あれのことは生まれた時から知っている。大樹と同じ病院だったからな。よくこの家にも遊びに来る。知識の点では一般人だが、すでにこちらに身を置いているに等しい。実際に……」
 樹は小さく笑い下座の方を見た。その視線の先で障子が開く。
「失礼いたします。樹様、お客様がお見えです」
「私が呼んだ。入れろ」
 使用人の言葉に樹は許可を与えた。
 使用人に案内され、姿を現したのは──
「け、ケイちゃん!?」
「どうして慶子さんがここに!?」
 大樹と真樹は恐慌に陥る。
 よりによって慶子だ。あの慶子だ。それがなぜここに来る。ついでにフィオもいるのだが、オーリンと一緒にどこかに走り去っていく。慶子が「一時間ことに休憩するのよ」と注意したということは、アヴィシオルあたりがゲームで釣ったのだろう。
「堂々保……の妹」
 場がざわめく。慶子はは部外者だ。それがなぜここに来たのだろうか。
「……あの、ひょっとして、場違い? 日にち間違えた?」
「今日でいい。来い」
 樹は手招きをする。その姿はなぜか中年のスケベオヤジのイメージとだぶった。
「でも……私は美味しいお酒があるって、沢樹さんに誘われて」
 大樹は必死に目で訴えた。帰れ。罠だ。ついでに手を小さく振って帰るように訴える。慶子に好意を持つ真樹も同時に同じ行動を取った。慶子も二人の必死な姿を見て一歩後ずさる。
 しかしその時、再び樹が動いた。
「そうだったな。鏡華、沢樹」
 樹の呼びかけに、大樹のそばの障子が開かれる。
「!?」
 振り返れば、笑顔の男女が酒瓶を持って立っていた。珍しく鏡華も笑顔だ。
「ああっ、それはっ!」
 慶子の目の色が変わる。それがどんなに美味い酒なのか、大樹は知らない。日本酒にワインにウイスキー、その他色々ワゴンに乗っている。
「いっちゃんとケーコさんのため、各種色々取りそろえてみました」
「わーい」
 慶子はあっさりと陥落し、浮かれた足取りで樹の元へと小走りする。
「ああ、なんてもろいっ」
「慶子さんは相変わらずお酒に弱いなぁ」
「ケイちゃんはいつからあんなに酒好きになったんだ!?」
「僕の記憶の中では、すでに大酒飲みだった気がする。ここに来ると飲まされてたから」
「って、この家のせいか!?」
 母のせい、父のせい、身内のせい。
 大樹は己の常識のない身内を呪う。
(何をたくらんでるんだ、兄さんはっ)
「保は?」
「後輩と遊びに行ったわよ。帰ってきて香水臭かったら追い返してやる」
 ごく普通の会話をし、慶子のために用意されていたらしい空席に彼女は座る。
「何にしますか? 日本酒? ワイン? 珍しいのがいろいろありますよ」
「沢樹さんの一番のおすすめでいいです」
 慶子は沢樹に笑顔を向ける。
「あの二人、なんで親しげなの? 沢樹なんて、ここにいてもいつも寝てるのに」
「ケイちゃんがあいつの店の常連なんだよ。あいつ、未成年でも酒好きには平気で飲ますからな」
「なんっていうか、さぁ」
 真樹は手で顔を覆って嘆息する。
 慶子はちらと大樹の方を見たが、帰る兆しもなく、むしろ飲み始めた。皆突然現れた彼女に注目している。
 樹が何を考えているか、だんだん分かってきた。
「兄さん、勝負に出た……」
「どうするの、大樹兄さん」
「ケイちゃんなら、自分で断るだろうけど」
「相手が樹兄さんだもんねぇ」
 相手が他の誰かならともかく、樹は問題ないだろう。ただ、酒が入ると慶子は大胆になる。一見酔っていないように見えるし、酔いつぶれた事もないが、ある程度の量を飲むと凶暴化するのだ。
「樹様、そちらの女性は?」
「先に言った保の妹だ」
 慶子は酒を飲み、樹の話など聞いていない。幸せそうにうっとりとしている。
 彼女は気づいているのだろうか。
「ところで沢樹さん、この宴会何?」
「ただの親族の集まりですよ。大したことは話してないんで、気にしないでください」
 自分の立場を理解していないのでは慶子と同レベルの沢樹が言う。明が沢樹を見たが、すぐに飽きて鏡華の方を見た。
「いいのかなぁ、ほっといて」
「いいんじゃないか、別に。沢樹の天然は今に始まったことじゃないし」
 問題は樹だ。
(ケイちゃん、気づけ。っていうか、気づいてるなら逃げろよ)
 何かあると分かっていて、酒の誘惑に勝てないとことんダメな女子高生。それが子供を育てられると思うのか。
「東堂慶子は一般人であったはず」
 火野の当主がトゲのある発言をした。
 その横には、三人の娘が控えている。どこかに銀もいるのだろうが、今は姿が見えない。娘達は慶子の登場に、近づきがたいオーラを発していた。
「……あのさ兄さん」
「何だ」
「火野の子達、なんか胸が大きくなってない?」
「詰め物だろ。女の子なんだから、ほっといてやれ」
「そうだね」
 嫉妬を向けられている当の慶子はワインに興奮していた。彼女はこういう事に慣れすぎていた。
「なぜ一般人をここに?」
「保の妹だ。そのままの意味で、ただの女のはずがないだろう」
 樹は慶子の手を取り、彼を向かせた。目があったのを確認し、樹は命じた。
「慶子立て」
「なんで? 座ったばっかなのに」
 慶子は当たり前のこととして、ただ首をかしげる。手にはしっかりとグラスを持っている。
 しかしその出来事に、宴席は騒然となった。
 慶子はその騒ぎに目を丸くし、樹は鼻で笑う。
「火野はこの女について調べていたと思ったが、私の思い違いだったか」
「この目で見ていないものを鵜呑みにはできません。しかし、面白い力をお持ちのお嬢さんだ」
 理解していないのは当の慶子だけだ。
 彼女はいつものように胸の内で決着をつけ、気にせず酒を飲み、つまみを食べる。その姿は、ある意味大物に見えるだろう。実際彼女は物事を忘れ去ることの天才である。何があっても簡単に決着をつけて気にせず忘れる。
「鏡華、あれを」
「はい」
 鏡華は古い木箱を持って樹の側に寄った。中から鏡を取り出す。
「あれは天雲鏡。どうしてあんなものを」
 鏡華は鏡を慶子に渡す。
「それで自身を見てください」
「って、何も映らないけど、この鏡どうなってるの? 鏡華さんは映ってるのに」
 見る者により見え方が変わるというその鏡は、慶子の姿を写さなかったようだ。この中で正常に映るのは唯一鏡華のみだった。鏡の影響を受けないという意味で、鏡華はそれなりの評価を受けていた。鏡華という名も、そこからきている。しかし慶子は、姿すら写さなかった。その魔境の力を慶子の力が凌駕しているということになる。
「やっべ」
 本格的に注目されている。ここで動かないとヤバイ。
「ケイちゃん」
 大樹はそっと移動し、彼女に呼びかける。
「何?」
「ちょっとこっちへ」
「何で?」
「いいから」
 立ち上がろうとする慶子を、沢樹が腕を取り止める。樹に買収されてしまっている。この酒を集める資金や人脈は樹のものを借りたのだろう。樹の名を出せば、国内で手に入らないものはない。
「あとにしろ大樹」
「いや……あの」
 慶子は大樹を見た。何を考えているのだろうか。
「後にしろ」
「はい」
 樹に怯えてすぐに引いた大樹を、慶子は冷たい瞳で睨んだ。樹は上機嫌で酒を飲む。
「樹様、今回の集まりは樹様の縁組みについてと聞いていたのですが、あなたはすでにその女性を選ばれたという事でしょうか」
 優れた年頃の娘を抱えない水野の当主が朗らかに言う。
 馬鹿馬鹿しいとばかりに顔をしかめる慶子。
「そうだ」
 慶子は樹の肯定の言葉を聞き、飲みかけていたワインを吹き出す。
「ああ、料理がっ」
「自分で吹き出してもの惜しげな顔をするな、みっともない」
「なんであたしがあんたの縁組みに関係するのよっ!」
「安心しろ。お前の親の許可はとったし、保も賛成している」
「だから、なんであたしの意志を聞かないわけ!?」
「気にするな」
「するわよ」
「卒業までは待ってやる」
「待たなくていいから」
 それだけ言うと慶子は再び大樹を睨んできた。
 彼女が何を訴えているのか、このときばかりは理解できた。
『あたしが好きだって言うなら、たまにはあんたも兄に反撃しなさい』
 口を開けば、そんな罵声を浴びせられるのだろう。
 分かっている。そんなことは分かっている。ここで動かなければ、本格的に捨てられる。それだけは我慢ならない。命に替えても阻止すべきことだ。命も何も取られはしないのだが、それぐらいの気持ちで挑まなければならない。
 大樹は再び樹へと向かう。二人の席は近いのだが、再び接近する。
 ここでやらねば男が廃る。
「兄さん」
「何だ」
「……………あの、その」
 急にやる気がしぼみ、それを見て慶子が新しい酒瓶に手をつけた。
「あの……その……えと……」
「どうした大樹」
「あの……ケイちゃんは……俺が……その」
 樹の目に敵意はない。しかし恐ろしい。なぜここまでの恐怖を感じるのかは、大樹自身わからない。
 それに活を入れるのは、慶子の冷めた視線だった。ここでいいところを見せれば、慶子を手に入れられるわけではないが、多少は気を許してくれるかも知れない
「ケイちゃんは……俺、好きだし」
 樹が見ている。
「明日デートするし」
「別れたんじゃなかったのか?」
「お、俺」
 よりを戻そうとしているところだと、そう口にしようと思った瞬間だった。
「けぇぇぇえこぉぉぉぉお」
 とたぱたと可愛い足音と可愛い泣き声がこだました。
 慶子は立ち上がり、よろよろと歩き出す。
「け、ケイちゃん」
 慶子は生半可な量では酔いを目に見えて分かる行動では示さない。そんな彼女の足下がおぼつかない。
「沢樹、何飲ませた!?」
「え……日本酒に焼酎にワインにブランデーとか」
 よく封の開いた瓶を見てみると、かなりの本数の封が開いていた。それぞれ半分以上は飲まれている。慶子はここに来てからの短い時間、休みなく飲み続けていた。半分は沢樹や樹だろうが……。
「あと、アヴィシオルにもらったのとか」
「お前は何をケイちゃんに飲ませた!?」
「強い酒もロックで飲ませたのが良くなかったでしょうか」
「だから高校生に何を飲ませる!?」
「ケーコさん、強いからいいかなぁって」
「ケイちゃん、待って」
 大樹は慌てて彼女を追いかけようとした。
「っ……けぇこぉ!」
 泣きべそをかくフィオが、部屋を出ようとした慶子の腕にすっぽりと収まった。
「フィオ゛!?」
 慶子の顔が引きつる。
 フィオは奇妙な恰好をしていた。
 一言で言えばメイド服+α。
「何この猫耳とか……」
「アヴィが……変なことしてくるんだ。慶子にしちゃダメって言われてたから、逃げてきた」
「へ……変な……」
 慶子は周囲を見回した。目が据わっている。
「あら、いいものあるじゃない」
「ケイちゃん、落ち着いて」
 慶子は樹の背後の床の間に向かう。そこには刀が飾ってあった。いつでも切れる真剣である。その中で一番小ぶりのものを選ぶ。
「け、ケイちゃん!?」
「ちょっと借りるわね」
「ケイちゃん! 目を覚まして!」
「起きてるわよ」
「酔ってるでしょ!?」
「酔ってないわよ。あ、汚れたらごめんね」
「まっ……」
 慶子の肩を掴んだ大樹は、その瞬間、意識が飛んだ。
 起きた時は、なぜか家が凄惨な事になっていたが、幸い血で汚れてはいなかった。


「……ったま痛い」
 デートのために迎えに行った彼女は、こたつの中でもがいていた。ディノがみそ汁を作り、心配そうに覗き込んでいる。
「慶子殿は風邪を引かれたのですか?」
「どうみても二日酔いだろ。人が気を失ってる間にも、たらふく飲んだらしいし」
 慶子はよろよろと起きあがり、みそ汁を飲む。
 大樹はこんな事だろうと思い、ディノに持参した柿を渡す。
「これ、いいらしいからむいてあげて」
「すみません。ところで、出かけるのは無理だと思いますが、どうしますか?」
「…………いいさ。俺もごろごろしてるから」
 うきうきデートから、こぶつきごろごろデートに変更。
 大樹は慶子の隣に横になり、げんなりとした表情の彼女を見つめる。大樹の視線に気づいた彼女は、顔を不機嫌に歪めた。
「頑張ろうとしたんだけどな」
「努力は認めてあげるわ」
「覚えてた?」
「覚えてるわよ。まあ、映画は来週ね」
「来週……か。まあいいよ。来週ね」
 楽しみは伸びたが、慶子が見てくれるだけずいぶんと──
「ケイちゃん、やくそく」
「はいはい、約束ね」
よい方向に元に戻ろうとしている気がする。

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あとがき