22話 あたしとそれ


 おぼろに見える男の顔は、それの今までの経験の中で、それを所有したことはない種類だった。
「お前は確かにすごいな。今まで見た中で一番すごい」
 その男は聞き馴れぬ言語でそれに囁いた。初めて聞くだけで、意味は理解出来る。
 男はビニールに包まれた彼を、乱雑に箱に詰め込んだ。
「だけどな、お前は奢り過ぎた。俺が呼ばれ、俺にすべて任されるほど、な」
 男はそれの上にと、白い紙をふりかける。
「世界の広さを知れ。まあ、それすら叶わないかもな。あいつの前では、お前は赤子よりも無力だと思い知るだろう」
 それはどういう意味だと尋ねる前に、男はそれを闇に封じた。
 その状況は、それにとっては意味のない、何の役にも立たないものだ。それを真に封じることは出来ない。それをすくい上げる者は、誰がどれほど阻もうと存在する。
 欲に溺れた人間は、それが危険と理解していても自分なら、と手に取るのだ。
 しかし、それは眠る。
 今は眠る。
 新しき土地は、それにとって良い刺激となるだろう。


 ピンポンと、生活をかき乱す音は響く。生活どころか、人生をもかき乱す事となる音だ。
「は〜い」
 少女の声が響き、それの全身を駆け巡る。力に満ちた、清らかな声音。
 堕落するも、実に楽しみな、世間を知らぬ幼さを持つ乙女の声音。
「宅配か。割れ物注意?」
「ハンコかサイン、お願いします」
「分かった、ハンコだな」
 少女は宅配業者から受け取り、とたとたと足音を立てて、それを運ぶ。やがてそれはやや乱暴にどさりと置かれた。彼女は自分で割れ物注意と口にしたのを忘れているようだ。
「慶子、開けてもいいか?」
 少女は誰かに尋ねる。この少女が主導権を握ることはないらしい。権利を持つのは、慶子という人間だろう。
「待ってね、え〜と……げ、父さんから!」
「マジで? フィオちゃん、危ないから離れてな」
 女と男の声が、危機感すら帯びた声を出す。
 父からの贈り物で危ないと言われる、それはどんな環境だろうか。しかし分かったのは、女が彼をここに送りつけたあの日本人の、娘であるということ。
「危ないのか?」
「分からないわ。見てみないと」
 そのまま本能を信じていればいいものを、主導権を持つ慶子は、それの封印を解き放つ。
 それは久々に明るい場所に取り出された。
「十字架?」
「十字架だね」
 少女の言葉に、少年の声が続く。
「キレイ」
 少女はそれを手にし、鎖を首にかけた。
「銀かな。アンティークものみたいでいいわね。ロザリオでもないし、普段使えるわ」
「慶子、かっこいいな!」
 金髪の少女は、東洋人の少女に向かって言う。
「っていうか、ケイちゃんクリスチャンでもプロテスタントじゃ……」
 十字架は偶像崇拝に当たるため、プロテスタントは通常、使用しないものだ。
「プロテスタントがまったく使わないわけじゃないわよ。だいたい、母さんちが伝統的にそうだから、なんか流れでそうなの。
 あたしは洗礼も受けていないし、結婚したら相手の墓に入るつもりよ。神様が何の役に立つって言うのよ。フィオを見なさい」
 信仰を重視しない少女の発言は、噂に聞く日本人らしさを表していた。
「うちは墓に入ることはないんだけどねぇ」
「誰があんたとなんて……って、墓ないの? 海にでもまくの?」
「色々とあるんだよ、色々と」
 少年はふっと小さく息を吐いて、肩をすくめた。そして、そのまま下を向いたとき、彼は何かを発見ししゃがみ込む。それが入れられていた、木箱の中に何かあるらしい。
「……珍しく普通っぽいのもが送られてきて喜んでるところ悪いけど、なんか『慶子へ、この物質扱いが難しいので絶対読め』ってメッセージカードがついてるよ」
 慶子と呼ばれた少女は、受け取ったメッセージを読み上げる。
「ええと……何々? 『お前の亡くなった母さんの祖母の兄の婦人の姪の夫の祖母からもらった、とても価値のあるお守りだ。大切に常に肌身離さず、寝るときも風呂に入るときも身につけていなさい。そうしないと、逆に呪われるぞ』って……」
 慶子はそれを見下ろした。
 恐怖に震える濃茶の瞳を向けられると、なんとも甘美である。
「ケイちゃん、世間一般ではそれのこと呪われているって言うかもしれないね」
「慶子、呪われたのか?」
 慶子はただひたすらじっとそれを見つめた。
「呪いを解くには教会に行くのだろ。呪われた装備は早く外さなくては」
「フィオちゃん、それはゲームの中だけだって。実際に呪いを解けるような人は教会にも神社にも寺にもそう滅多にいないからな」
 少年は、フィオというらしい頭の悪い白人の少女に、真実を教えてやる。
「大樹の家もダメなのか?」
「うちは教会じゃないよ。神社……みたいなもの。まあ、うちならどうにか出来ると思うけど…………おじさんがケイちゃんに託したんなら、それが一番いいって事だろ。ケイちゃんは呪いとか絶対に効かないし」
「なるほど、慶子の父は頭がいいな。慶子なら平気だな」
 フィオは何度も何度も頷いた。
「呪いのかかる装備品は、呪われるがとても強力なのだから、慶子のためにあるような物だな。慶子凄いな」
「フィオちゃん、ゲームやり過ぎ」
「では大樹、呪われた装備品は、強くないのか? 無効化すれば強いのではないのか? それでは、呪われ損ではないか!」
「装備云々がゲームの中の話だから。普通、呪われないから」
「では、呪われていないのか?」
「さあ、ケイちゃんがいるから……」
「ん、そうだな。よく分からないな」
 二人はそれで納得してしまう。
 風変わりな人間達だ。関係がつかめない。
 それらを把握するまで、今は大人しくしよう。彼はそう判断し、意識を周囲に向けながら、気配を殺した。


「あれ、慶子ちゃん。その十字架どうしたの?」
「これ? うちの父が送ってきたの。親戚のおばあちゃんの形見で、肌身離さず持ちなさいって」
「そっか、クリスチャンだもんね」
 友人に適当な事を吹き込むのは、ずいぶんとめかし込んだ慶子。
 皆は娼婦のような出で立ちだが、フィオの言葉を信じるなら、ここは学校である。それは少女達のスカート丈の短さに常識を疑いながらも、周囲を観察する。
 それの持ち主である『東堂慶子』という人物は、ずいぶんと人望が厚いようだ。学者の娘という理由もあるだろうが、本人の態度にも理由があるようだった。家の中と外では、まったく人が違う。
「ケイちゃん、おはよう。呪われた十字架、外してないんだね」
「呪われてるの!?」
 昨夜に慶子の家にいた、大樹という少年の言葉に、慶子の友人達が騒ぐ。
「やぁねぇ。ちょっと古いからって、そんなこと言わないでよ」
「ははは、ごめんごめん。で、何もなかったよね?」
「あるわけないでしょ」
 慶子はさりげなく大樹のスネを蹴る。どうやらこの男は慶子の恋人ではなく、ただの友達であるようだ。ただ、彼の方は慶子に好意を寄せている。
 慶子は美女というわけではないが、人に好かれるような笑顔を持っている。それの主になるには、悪くない条件だ。ただし、平凡すぎる。もちろん、平穏など壊してしまえばいい。そうすれば、彼女は英雄にも、悪魔にもなることが出来る。
 しばらくすると音が鳴り、生徒達は席に着く。始業の合図のようだ。遅れた生徒達が、息も切り切れやって来る。間に合ったことに安堵して、ふらふらと席に着く者や、元気が有り余って友人にしゃべりかける者もいる。大人の男が入ってくると、生徒達は完全に席に着き、遅れて入ってきた者は、男に叱られ席に着く。
 男は出席を取り、連絡事項を口頭で伝える。もうすぐ連休があるらしく、生徒達が浮かれている。
「お前達、来年受験なんだからな。そのまま進学出来る奴ならいいけどな、成績の悪い奴は遊んでるヒマはないからな。宮下、お前はとくに…………って、東堂、ダメだろ、学校にこんな目立つ装飾品付けてきたら」
「んもう、先生まで!」
 慶子はそれを掴んで、見せつけた。
「信仰上の問題です」
「うそつけ。お前プロテスタントだろ」
「父が送ってきたんですよ母さんの……なんだっけ?」
 慶子は振り返り、一番後ろの席の大樹に問う。大樹も首をひねる。
「……とにかくおばあちゃんだった……はず」
「そう、親戚のおばあちゃんの形見で、身につけた者は幸せになるけど、はずすと不幸になるって」
 手紙の内容と大きな齟齬はない。
「……東堂先生が? なら仕方ない。絶対に外すなよ。他の先生にはちゃんと言っといてやるからな。絶対に外すなよ」
 慶子の父は、よほど信頼されているようだった。世間にそれを託されるに足ると思われるほど、優れた人間と評価されているのだ。地元でならば圧倒的な信頼を得ているのだろう。つまりは、その信頼が慶子の立場を強くしている。
「座敷童みたいな十字架ねぇ。十字架なのに。東堂教授って、ほんと外国で何してるの?」
 慶子の友人がそれを覗き込み尋ねた。
「さあ。あたし、親の仕事には口出ししないことにしてるから。色々なところに呼ばれているみたいだけど、考古学者してるはずよ。どこぞの密林の奥地に行ったり、砂漠に行ったり。よく分からないけど」
「……教授って、大変ね」
「っていうか、あの人はもう冒険家よ。よく分からない企業とかが色々バックについてるから、やりたい放題し放題。あたしにもさっぱりつかめないわ」
 そのやりたい放題の一つが、それを日本にいる実の娘に送りつけるという凶行であるらしい。よほど慣れているのか、それを胸にかけたまま慶子は一度も脅えもしない。
 それは、ある程度の満足感をそれに与えた。


 それは困惑していた。今までにない、初めての体験だった。
 これまでどんな俗にまみれた、何の質もない人間であろうとも、それは完全に支配してきた。
 人にはそうと気付かせず、それは世界を操ってきた。
 それは人間を使い、時の権力者を操り、身分が低ければその身分を引き上げもした。
『おい、小娘、人の話を聞け!』
 その声は、今まで例外なく、持ち主となった人間に届いた。始めは気付かなくとも、次第にはっきりと聞こえてくる。
 それの声は、例えどんな卑しい身分の、無能な人間であろうとも届いた。
 しかし──
『小娘、なぜお前は私の声が届かない!?』
 彼は困惑した。
 今までにない現象だった。今までにない、恐ろしい現象だった。
「慶子、メシはまだか」
「人んチにいきなり押しかけてきといて、その非常識ないい方は何!?」
 大樹が兄と呼ぶ、樹という青年はソファに座り、ブランデーを片手にふんぞり返っている。慶子が怒るのも無理はない。
 慶子の兄という、格闘家として有名だと記憶する男は、妹にまあまあと言ってなだめる。以前のそれの持ち主が、格闘技好きで何度か試合を見に行ったことがあるため、記憶していた。
「ごめんな慶子。樹は言葉が足りないし乱暴だから。悪気はないんだ」
「突然だから、予定が狂ったわよ。今日はハンバーグにしようと思ったのに、肉が足りないから、メニュー変更しなきゃならないし」
 彼女は大樹に荷物を持たせ、買い物をした。安い安いと言って、大量に買ってきたジャガイモを使い、煮物を作っている。
「ええ、ハンバーグだったのか!? どうして保は今日に限って帰ってきた!? ワイドショーで噂になっている女と食べてくればいいだろう!」
 フィオは愛らしい顔をして、過激なことを言った。
「フィオ、あれはデマだからな。決してそんなことはないからな、慶子!」
 保は妹に無実を訴え、テレビを信じていたフィオはこくと首をかしげた。
「そうなのか?」
「俺はちょっとああいう細すぎて風が吹けば倒れそうな女は、あんまり好みじゃないから。俺はやっぱり、丸みを帯びた女らしいタイプが好きだな。母さんみたいな、優しい、後に引きずらないタイプ」
 男とはそういうタイプが好きらしい。以前の持ち主も、ややふくよかな、おっとりとした女性を伴侶としていた。
「だから今の一番は、慶子だぞ」
「はいはい。とりあえずこれでも食べてなさい! 大樹!」
 大樹は慶子に呼ばれ、揚がったばかりのフライを受け取った。
『おい、小僧!』
 試しに呼びかけてみると、大樹はきょろきょろと周囲を見回し、手首でとんとんと耳を叩く。
『おお、聞こえるのか!』
「なんか、耳鳴りがするようなしないような……」
 多少は伝わるようだが、いつものように完璧ではない。
 だが、伝わる。
 それは確信する。彼の不調の元凶は、すべて慶子だと。
 彼女の父親の言葉は確かこうだ。
「あいつの前では、お前は赤子よりも無力だと思い知るだろう」
 彼には手足がない。故に、人間を操ることが出来なければ、鳴き声も出せない分、赤子にも劣るということだろう。
 だが、何か手があるはずだ。
 焦る必要はない。
 慶子は小さなジャガイモを電子レンジで柔らかくした物を油で揚げて煮付けたものを皿に移しているところだ。
 その隣では、大柄な白人男性のディノが、濁った色のスープをかき混ぜながら、サラダを盛りつけている。
「こちらは出来ました」
「んじゃ運んで。あたしもう少しお酒のおつまみ作るから」
 慶子はこれまた安いと大量に買った生椎茸を、ベーコンともやしと不気味なほど赤い物体と共に炒めた。同時進行で、それには理解できない、柔らかそうな四角い食材に串を刺された物を、グリルで焼く。
 国による食文化の違いとは実に面白いものだ。それは物であるため食べることは出来ないが、主が食べる様を見るのは面白い。以前の主は日本のスシが好物であったが、これは初めて見るものばかりだ。
「ケイちゃん、今日はなんで赤みそなの?」
「親戚が送ってきたの。自家製なんだって。美味しいわよ。休日には、うどん作って味噌煮込みしようと思ってたんだけど」
「うどんから作るの?」
「当たり前よ。市販のうどんは、柔らかすぎるもの。味噌煮込みは、あの固い麺が美味しいんじゃない」
 なにやらこだわりがあるようだ。人の食べ物に対する執着は強く、より美味いものを食べたいという野望で、地位を求めた者もいた。
「慶子、親戚んちに遊びに行って、それ以来はまったらしいんだ。甘辛いの大好きだから」
 保の言葉は人の根源を表している。
 人はどこかで些細なきっかけで、何かにのめり込む物だ。
「まあ、俺も美味しければ何でもいいけど。ケイちゃん、今度手羽先作ってよ」
「何であたしがあんたのリクエスト受けなきゃいけないのよ」
 慶子は手際よく料理を完成させ、テーブルに皿を置く。
 直に床に座り食卓を囲む。ソファに座っていた樹と保も床に座り、つまみを食べている。
「さて、これだけあれば満足でしょ……って、オーリン、どうかしたの?」
 ぬいぐるみのような小型犬が慶子の膝の上に乗り、それをじっと見つめた。
 動物は勘が鋭い。それの正体に気付いたのだろう。だが、動物ではどうしようもない。それは諦め、意識を閉じた。


 それは意識の混濁を理解した。時間がたつほど、意識が薄れ行くのだ。それに気付いたのは、数日慶子の胸元にぶら下がったある日のことだった。
 それはさすがに危機感を覚えた。
 己というものが消滅する。
 そのような事を考えたことはない。無為に世界を見て過ごしていたのも確かだが、己の消滅という危機を前にすると、さすがそれも焦りを覚えた。
『小僧、おい小僧! 大樹!』
 慶子の尻を追いかける大樹に声をかけるが、一瞬周囲を見回すだけで届かない。
『おい、東堂保! お前も格闘家なら気付け!』
 家に帰り、保に呼びかけるもこちらは全く気付かない。一般人の学生よりも使えない。
『おい、樹!』
 酒を飲んでいた樹は、ひたすら膝の上の子犬を撫でて気にもしない。いつも小動物がこの家にはいるが、なぜ日替わりで種類が違うのだろうか。ペットを預かるのが趣味というわけではない。いつも小動物は『オーリン』と呼ばれている。
 これまたオーリンなのだろう犬は、つぶらな瞳でそれを見つめた。
『この際犬でもいい! 何とかして我をこの娘から引き離せ!』
 その犬は樹の腕から恐ろしいほどの柔軟性を発揮し抜け出して、それを胸に下げる慶子の元へと近づいた。
『何か呼ばれたような気がしたんですが……』
 突然、彼の意識にはっきりとした声が響いた。
『ぬ、何事!?』
 それは驚きオーリンへと意識を強く向けた。
『……ひょっとして、あなたですか?』
 オーリンは確かにそれに意識を向けていた。一見ただの毛色のいいポメラニアンなのだが、その瞳には確かな知性があった。
『お前は何者だ!?』
『私はオーリンです。フィオ様をお守りする守護者をしています』
『ただの犬ではないのか……』
『まあ、犬ではありません。何にでもなれます』
『そう……か』
 それ自身のような存在があるのだから、何にでもなれる存在があってもおかしくはない。それは何から尋ねていいのか迷う。
『この娘に触れていると、意識が薄れ、誰にも声が届かないのはなぜだ。なぜお前だけには届いた』
『なぜ、と言われても困ります。私も彼女の側では、意識しなければ意志を伝えられません。分かっているのは、彼女が超自然的な力を歪めてしまう体質だということです。あなたの声が私にだけ届いたのは、私たちの意思疎通の方法が似ているからでしょう。そして偶然、意識が向き合った』
『なるほど』
 今までの現象、そして慶子の父の言葉の真の意味が理解できた。
 世界は広い。
 個は無力である。
『意識が薄れるのは問題ですね。フィオ様に頼んで、一時期引き離していただきましょう。ただし、あの方に何かすれば、その時は容赦しません』
 オーリンの子犬の口の中から、まるで映画の中に出てくるエイリアンのごとき不気味な触手がはみ出た。
 犬でもない。そして、悪魔でもない。
 動物が姿を変え、人を食らうオーガという存在もいる。しかし彼等は、自在に姿を変えられるわけではない。根本である生まれたままの姿か、中途半端な化け物か、まるで人と区別がつかない人魔と呼ばれる連中か。
 しかしこれは明らかに違う。明らかに、毎日種族が異なっていた。時にはハリネズミの姿のときもあったほどだ。このような生物、それは今まで遭遇したことはなかった。
 その瞬間、
「こら、オーリン! 変身をといちゃダメって言ったでしょ! 見た目が可愛い分、すっごく気持ち悪い!」
 慶子は物怖じすることなく、その変身生物をぽかりと殴りつけた。


 世界は広い。
 無力である少女の胸元を飾りながら、それは思う。
「慶子、慶子、クルスかして」
 フィオはとくに名前のないそれに対して、クルスという呼称をつけた。名前らしい名前を付ければ、慶子に何か言われるからだろう。
 それぐらいのことは、日々の生活によって、それも学んだ。
「いいけど、なんであんたこれがそんなに気に入ってるのよ」
「たまには外の空気も吸わせないと、可哀想だ」
「毎日外には出てるけど……」
「いいからいいから!」
 フィオはじたばたと手足を動かし、慶子からそれを受け取った。それを目の高さに持ち上げて、オーリン達の元へと歩く。
 今日もまた、大樹と樹、そして見知らぬ白人の男が二人、この家に遊びに来ていた。
「元気か、クルス」
『問題ない』
 それも、慶子との付き合い方に慣れた。慶子へと意識を向けすぎなければ、意識は薄れないのだ。彼女は自分自身の周囲の力にも影響を与えるようだが、本領を発揮するのは、自分自身へと力を向けられたときだ。言葉をかけようとしたのがそもそもの間違いであったのだ。
「それが十字架の付喪神か」
 黒髪の白人男性がそれをフィオから取り上げた。
「面白い。物にここまで力が宿るとは……」
「物なんて、せいぜい人間を呪い殺すのがせいぜいですからね。これなら、大体のことは出来るんじゃないですか?」
 黒髪の男の手の中を、金髪の少年が覗き込む。
『我は見せ物ではなし』
「一丁前に嫌がってやんの」
 大樹がけらけらと笑いながら言う。
 それは不遜な言辞を弄する少年を、呪い殺す気持ちを向けた。
「おお、恐い恐い」
 何か力に阻まれ、それの呪いは届かない。阻まれたと言うよりも、歪められた。今まで人でありながら、おかしな力を持った異能者には出会ってきたが、彼のようなタイプは初めてだ。
 ──世界の広さを知れ。
 ふいに、あの言葉を思い出した。
 世界は広い。ここに来てからは初めてばかりだ。まるで意識を持ったばかりの頃のように、理解をしていない。もちろんあの頃は何も知らず、ただ力を振るっていただけであった。だが今は違う。少なくとも、それには経験があった。初めてのことも、簡単に学習できる。
「クルス、クルス、この前の話の続きをしてくれ」
 少女は天使のような微笑みでそれを催促した。それはフィオにねだられ、今まで出会ってきた人間達のことを語って聞かせた。それの話がたいそう気に入ったらしく、頻繁に慶子の元からそれを離してくれている。望めば、そのまま慶子から離れることも出来るだろう。
『かまわないが、慶子が食事の準備をし終わるまでだ』
 慶子の元から離れる気はない。
 彼女は、今までであった中で、最も特異な人間だ。運命を、自ら切り開く女だ。いや、蹴散らしてみせる女だ。このような主をもってこそ、『物』としての彼の価値はある。
 簡単に堕落する人間ではつまらない。
 欲に溺れる人間ではつまらない。
 清らかすぎる人間ではつまらない。
 強すぎる人間はつまらない。
 弱すぎる人間はつまらない。
 何事も、ほどほどだ。
 彼女は、それにとってほどよいバランスを持っていた。この不思議な力を抜きにしても。それにとってその力が大きすぎたとしても。
 彼女の行く末を見るだけであれば、何も支障はない。
 彼女はどんな人生を送るのか、それを体験する時間は、それ──クルスが生まれて過ごした時間を考えれば、それほど長くはならないだろう。
 だからこそ、価値がある。
 だからクルスは、彼女の胸元へと戻る。

back  目次  next

あとがき