23話 あたしと小悪魔

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 その日のフィオは浮かれていた。隣で歩く慶子のせいだ。
 チワワ姿のオーリンを連れ、二人は仲睦まじく散歩をしている。慶子は買い物のついでにフィオの散歩についてきた。それでも普段面倒臭がり散歩などしたがらない慶子が、それに付き合うのは珍しいのだ。
 慶子はスリットの入った、スカートとブラウス、薄手のジャケットを身につけている。きっちりとした服装もあって、同年代の少女にはない落ち着きがある。
 呪われた十字架を首から下げたフィオは、そんな慶子と手をつなぎ歩くだけでも幸せなのだ。
 そんなささやかな幸せを、踏み荒らす者達がいた。
 少年に、少年を卒業しようとしている若者、青年。年齢層は広いこの若者たちは、明らかに敵意を持っている。
「大人しくついてこい」
 青年が静かに言う。慶子はフィオを後ろ手にかばい、鞄の持ち手をしっかり握りしめる。
「何よ」
「大人しくついてこい」
 同じ言葉を繰り返す彼は、一見すればどこにでもいる茶髪の軽そうな青年であるが、それとは雰囲気が違う。オーリンはちょんと座って、いつでも対応できるように彼等を見上げた。少年の何人かが、オーリンを見てへらりと笑い、他の少年に叩かれて顔を引き締める。
「大人しくすれば、危害は加えない」
「どこに、何の用で来いって言うの? 女の子二人を、男が大勢で取り囲んで、危害は加えないなんて、本当にそのつもりが無くても説得力がないわ」
 慶子は警戒心も丸出しに彼等を見回す。全部で六人。少なくとも、少女に見える二人を相手にする人数ではないだろう。
「あんたは東堂保の妹だろう。強いのは知っている。だからこの人数で来た」
「おおげさね」
 と、慶子はもう一度彼等の顔を眺めた。
「……あんた」
 慶子は一人の少年を見て、一歩前に踏み出した。
「この前、先生の所にいたわね」
「うっ……」
 変装のつもりか、帽子を被って似合わないサングラスをしているが、確かに以前見たことがある。背筋も伸びていて、体つきも逞しく普通の少年には見えない。
「…………」
「何がしたいわけ? 来てください、で、大人しくついて行く馬鹿なんて存在しないわよ」
 慶子は目を細め、威嚇するように見回した。
「危害は加えない」
「危害は加えなくても、理由を言いなさい」
 慶子は呆れた様子で命令する。腕を組んで見下した態度は、なんとも彼女らしい。その視線を受けて、彼らの一人が前に出る。
「強情を言うなら、力づくになるけど、いいですか」
「よくないわよ」
「こちらは精鋭を集めてきました。貴女でも、その子を抱えて逃げるのは無理だと思いますよ。変なことはしないんで、ついてきてください」
 慶子は彼等を見回す。確かに彼等は逞しく、鍛えられた身体をしている。女の慶子では、相手をするのは難しいだろう。
 慶子は座り込み、オーリンの首輪を外した。
「大樹に知らせて。場所は向こうが勝手に特定してくれるから」
 その言葉に、オーリンは走り出した。男達があっ、と声を上げるが、普通の犬など比べものにならない速さで走るオーリンは、彼等の視界からあっという間に消えてしまう。
 彼らは今すぐ彼女たちをどうこうするつもりはないだろう。なら、確実な手段を執る方がいい。明神なら確実だ。あの不思議な犬の明と、慶子に執心な兄弟が、きっと何とかしてくれる。あの短気な兄弟が、暴走しないかだけが気がかりだ。


 後ろ手に縛られ、数人の見張りが立つ部屋で二人は座っていた。見張りの少年達は意気がってはいるものの、大した実力はないようだ。こちらは何とでもなるだろう。問題は、やはり最初に見た六人だ。
 彼女たちを束縛するのは紐の結び目に隙はなく、慶子は縄抜けは諦めた。
 フィオの方はぷくと頬をふくらませ、身体をもぞもぞさせていた。
「どうしたの? トイレ?」
 フィオは無言で首をかしげた。どこかかゆいところでもあるのだろうか。慶子は少年達に声をかける。
「ねぇ、トイレに行きたいから紐ほどいてよ」
「っせぇ! 囚人のくせに偉そうな口をきくんじゃねぇ!」
 突然キレた少年を、慶子は冷めた目で眺めた。金髪鼻ピアスと、眉なしの幸薄そうな、頭が足りそうにもない少年達だった。
 ここがどこなのか、アイマスクをされていた慶子は知らないが、それなしにしっかりとしたミーティングルームであり、子供が借りれるような場所ではない。大人もいるようなので、その大人のものだろう。彼らはただの使いっ走りである。
「勝手に漏らしてろ」
「……あんた達、ここ、あんた達の所有物じゃないでしょ。あんた達が偉そうにしてるんじゃないの」
「てめぇ、アリシア様の敵が偉そうに!」
 突然の言いがかりに、慶子は目を細めた。
「誰よそれ。あたしはいつの間に知りもしない人の敵になったのかしら? それに敵って何よ。ゲームのやり過ぎ? 頭悪いんじゃない? センスが欠片もないわ」
 慶子はふんと鼻を鳴らし、少年達を下目に見る。彼らは人手程度としてとか役に立たない。いや、役にすら立たないだろう。
 フィオがおろおろしながら慶子と少年達を何度も見比べた。
「てめぇ、っけんなっ!」
 ナイフを持った少年は、慶子へと近づいてくる。最近の若者は気が短いと言うが、おそらく頭の足りないこういう若者は太古より今と変わらない割合で生息していただろう。ようは、マスコミが取り上げ、若者を悪者に仕立て上げている。こういう馬鹿が目立つことで、若者はと言われるのだ。あとは、親の教育が悪い。子供を甘やかしすぎているのだ。
 こういう馬鹿は、一人でも減らすに越したことはない。
「死にてぇのかよクソアマっ、ええっ!」
 ナイフを持って近づいた少年へと両足を伸ばし、ひょいと足を引っかける。片足で腰を軸にしてやると、予測していなかった彼は爆笑したくなるほどあっさりと転倒した。落ちたナイフにミュールを脱いだ足を伸ばし、指で掴む。足で物を扱う練習は師に習っている。なぜ、と思ったこともあるが役に立つものだ。
 ナイフを手に持ち替えると、縛っていた紐を切る。
 折りたたみのナイフを出し入れするのは慣れているようだったが、構える姿のへっぴり腰具合から実力を予想して実行したものの、こうも弱いとは情けない。転ぶときも受け身を取らず、そのまま倒れて顔を堅い床材に頭を打ち付け呻いて起きあがらない。彼は学校の授業で柔道を習わなかったのだろうか。受け身ぐらい普通は教えられているはずだが、手も付けなかったのだ。
「……あんたそれでも日本男子か」
 慶子は心の底から、そのよく吼えるくせに弱い少年を見下しトドメの蹴りを入れた。そしてもう一人、にやにやと笑いながら様子を見ていた少年を睨み付けてやる。縛られていると思って安心していた彼は、脅えて後ずさる。愚かにもナイフを構えたまま。
「相手に刃物を向けるっていうのはね、正当防衛で殺してくださいって言っているようなものよ? これからの社会生きていたけりゃ、もうやめなさい。そのうち、取り返しのつかない相手に刃物を向けることもあるかも知れないもの」
 例えば樹。彼に刃物を向けるのは、ヤクザに刃物を向けるよりも危険だ。彼の場合は彼が法律、というところがあり、周囲の環境全てがそれを許している。
「痛い目にあいたくなければそれを捨てなさい」
 慶子はフィオを縛る紐を切ってやりながら言う。フィオの縛り方は、慶子に比べるとかなり緩かったのは、見た目の愛らしさや、にじみ出るか弱さのせいだろうか。
 フィオはおどおどしながら、慶子の背に隠れた。
 こういう事が出来るのが、男から受ける可愛らしい女の子なのだろう。もちろんフィオがそれを狙ってやっているのではないことは分かっているので、怒りが湧くこともない。媚びて媚びてすぐに「こわーい」とか言い他人の背に隠れる女が個人的に許せないだけである。
「さっさとする!」
 慶子が催促をするが、少年は脅えながらも構えをとかない。
「弱い犬ほどよく吼えて牙を剥きたがるのよね」
「だ、だまれクソアマっ! アリシア様はてめぇらのせいでご機嫌斜めなんだよっ!」
「だから誰よ、そのアリシア様っヤツは」
 名前からして外国人女性だろう。もしも明神家関係だとしたら、こんな大胆なことはしないはずだ。やるなら証拠を残さず即やらないとどんな末路が待っているか分からない馬鹿は、こんなことをしない。他の可能性は、思い当たらない。
「アリシア様はてめぇと違って、すげぇ美人ですげぇ可愛くてすげぇ賢くてすげぇ色っぽくてすげふぐぁっ」
 慶子は思わずしつこい少年に近づき腹を蹴っていた。馬鹿らしくて聞いていられない。
「ごめんなさいね。馬鹿馬鹿しかったからつい。蹴るつもりはなかったのよ」
「ぐ……うそだっ」
「絞めるつもりだったから。人質として機能しないとね。よたったら持ちにくい」
「なんつー女……」
「あたし、数に頼ったり、身動き取れない相手に威張る男嫌いなの。男に頼る女もね。さあ立ちなさい。今度はあたしが縛ってあげるから」
 人からは癒されると言われる笑顔を向けるが、少年は脅えていた。フィオが紐を持ってきて、楽しげに縛る。もちろん緩いので慶子がしっかりと締め直す必要があるが──

 かちゃ
 
 間の抜けた、ドアが開く音が部屋に響く。
 入り口の真横にいた慶子は、迫り来るドアをひょいとよける。愚図な少年は扉の洗礼を受けた。縛られて咄嗟に動けなかった可能性もある。
「ああ、人が!?」
 小さな空飛ぶ物体が入ってきた。ぬいぐるみのように胴体がぽってりとしたメイド服に包まれた身体は、おそらく服に詰め物がされているのだろう。まん丸なそのボディからは、黒いコウモリのような羽が生えている。それをぱたぱた動かして飛ぶ姿はまさに小悪魔。
 しかも、その顔立ちの愛らしいこと。推定二歳ほどである。
「か……可愛い。この子可愛い!」
 慶子は我を忘れて生きたその愛らしいことこの上ないその生物を抱きしめた。
「すっごく可愛い! 小悪魔ちゃんらぶり〜」
「きゃう!?」
 小悪魔は驚き目を白黒させた。そんな様も可愛らしい。
「慶子慶子、それなんだ? なんでそんなのが来るんだ? 罠じゃないのか? さっきの男も来ているぞ」
 フィオの言葉に慶子は我に返る。あまりにも可愛い小悪魔に夢中になっていたが、今はその場合ではない。しかし、小悪魔は放さない。
「お客ちゃま、どうなされたのでしゅか?」
 小悪魔はこくんと首をかしげた。舌っ足らずな話し方がたまらなく可愛い。
「ああ、やっぱりあんたの好みだったか」
 部屋に入ってきた少年は、見覚えのある少年だった。手にケーキの乗ったトレイを持っていて、友好的であることを示そうとしているように見えた。
「しかも、やっぱり逃げだそうとしてた。っつーかさ、なんでこの人に安易に近づくんだよ。馬鹿だろお前等」
 頭を振って起きあがった鼻ピアスの少年と、縛られたまま転倒した幸薄そうな薄眉に冷たく言う。仲間意識はあまりないようだ。
「あんたそういうの好きだろ。しばらく預ける」
「どういう意味よ。どうしてあんたがこんないかにも魔界の住人を手懐けてるのよ」
「やっぱり魔界のこと、知ってるんだな」
 彼は持っていたトレイを置き、椅子に座る。敵意がないと示すように、身体から力を抜いている。すると腕の中の可愛いメイドさんがじたばたと手足を動かした。
「お客ちゃま、お茶の準備をいたちしますので、お離ちくだしゃい」
「あら、いい子ねぇ」
 メイド姿をしているだけはあり、意外なほど手際よく準備をしていく。
「こいつは魔界のお偉いさんのお気に入りのメイドだ。俺のご主人様が預かっている」
「……どうして君が、魔界の人と知り合いなの? そのご主人様って……」
「ご主人様は魔界の住人だから。見れば分かるよ。もうすぐ来る」
「いや、どうしてそんな人をご主人様って……」
「あの人は……俺達の……」
 なぜか彼は頬を赤く染めた。よほど美人なのだろう。それとも、彼が純情すぎるのか。
「女の色香に惑わされて誘拐するなんて情けない」
「色香に惑わされたわけじゃない。さすがに危害を加えようってんなら、何をしてでも従わなかったよ」
「…………情けないわねぇ」
 結局いいように使われていることに変わりはない。
「あ、あの人は、すべてを超越して絶対なんだ。逆らえない」
「逆らえない?」
「悪い気分じゃないけどな。
 フィフィ、ありがとう」
 彼はお茶の準備をしてくれたフィフィを撫でて、にっこりと微笑む。背も高く、そこそこハンサム。その上、おそらく強いだろう。普通にしていればモテるだろうに、変な女に入れ込むとはもったいない。
「ケーキはフィフィが作ったんだ、食べてやってくれ。あんた舌が肥えてるから、批評してやってくれないか。俺達は美味い、不味いしか分からないからさ」
 フィフィが天使も顔負けのうるうるキラキラした純真な瞳で見上げてくる。
 慶子は小さく肩をすくめて椅子に座った。ここで暴れてもどうしようもないことだ。初めから手は打ってある。自力で逃げ出す必要もないのだから、可愛い小悪魔に付き合ってケーキを食べるぐらいは問題ないだろう。乱暴なことをして嫌われるのも悲しいから。


 慶子は他人が見ても分かるだろうほどデレデレしていた。慶子は可愛いものに弱い。とにかく弱い。一緒に住んでいるフィオは、それを十分すぎるほど理解していた。
「あの男は何者だろう。慶子を知り尽くしている」
 呟くと、慶子と男が振り返る。
『知り合いのようだが……』
 フィオの首に下がるクルスの心の声が聞こえてくる。慶子が側にいるため弱々しいが、身につけているのが彼女でないため、声ははっきりと聞こえた。
「そう言えば、あんた誰なの?」
「え……?」
 彼は硬直した。慶子は人の顔を覚えるのが苦手なところがある。クルスから憐憫の情が伝わってくる。慶子は頬をかき、首をかしげた。男はその様を見て、顔を引きつらせて泣きそうな顔になる。
「ダイスケちゃま、泣かないでくだちゃい」
「な、泣いてなんて……」
 彼は目尻を手でこすり、上を向いて強がる。それを見た慶子は、ぽんと手を叩いた。
「ああ、大助君か。すっかり大きくなったわねぇ。ハンサムになってて分からなかったわ」
 慶子が言うと、大助は涙を引っ込め顔を真っ赤にした。アヴィシオルが大樹達を翻弄する慶子を見て、彼女を魔性の女と言っていたが、こういうところがそうなのだろう。
「でも、涙腺が緩いところは相変わらずなのね」
「っせぇ。はやくケーキ食え」
 慶子はくすくすと笑いながらケーキを食べる。
「あら、面白い味。初めて食べる」
 慶子は目を丸くしながら言う。
「はい、魔界の果物と甘味料を使いまちた。色々と実験をちていまちゅが、こちらの素材はまだまだ分からないことばかりで、もっといい使い方があるかもちれましぇん。もしも何かあったら、ぜひおちえてくだしゃい」
 可愛らしい口調で必死に訴える小悪魔は、可愛らしすぎて慶子はあっさりと陥落する。これほど慶子の好みを的確に把握しているとは、この大助という男は何者だろうか。
 フィオの知らない慶子を知る男。見ていると、なぜかムカムカとした。
『落ち着くがいい。今のところ危害を加えるつもりはないだろう』
『あの男嫌いだ』
『そうか』
 慶子はフィフィと菓子について語り始めた。フィフィは魔界の貴族に使えるメイドで、立派な菓子職人になるのが夢らしい。夢のある可愛い生物を、慶子がほっておくはずもなく、持っている知識を教えてやっている。慶子は菓子を作る部活の部長をしているので、菓子作りには詳しい。菓子を作るのは月に二回で、その他は計画を立てたり、買い物をしたりするらしい。もちろん休みの日の方が多く活動時間も短いため、慶子は都合のいい部活だと言っていた。家でも菓子を手作りしてくれる。そんな慶子が大好きだ。
「慶子、慶子、私も食べる」
 フィオは慶子の隣に椅子を移動させて、ぴたりとくっついた。慶子との接近をクルスが抗議するが、いつもは慶子と一緒にいるのだ。偶然いつもの散歩に慶子がついてきただけである。
「お前達は、慶子に何の用があるんだ?」
「見たいだけだろ。ケイの兄貴ってんなら色々と考えるだろうけどな」
 フィオは頬をふくらませた。大樹達が慶子に馴れ馴れしいのは慣れたが、慶子が顔も忘れたような男が慶子を『ケイ』などと呼ぶなど、腹立たしい。
 クルスを握り止めて、ケーキにフォークを突き立てた。
「フィオ、どうしてそんな乱暴なコトするの? お行儀よくしなさい。じゃないと、隅っこの方で為す術なく震えているあのお馬鹿さん達みたいになるわよ」
「……ごめんなさい」
 フィオはお行儀よくケーキを食べる。慶子は行儀が悪いのは嫌いである。背筋を伸ばして、丁寧に食べる。口に含むと、確かに変わった味がした。ケーキはシンプルなシフォンケーキだが、今までに食べたことのない味がする。
「美味いな」
「お褒めにあずかり光栄でございまちゅ」
 フィフィはぱたぱた飛びながらぺこりと頭下げた。しかしバランスを崩し、そのままテーブルに落下する。服に詰め物があるせいか、柔らかい音がしてころりと転がりミルクを倒した。突然のことに理解できないらしく、きょとんとしてきょろきょろと周囲を見回し、こくと首をかしげた。
「あらあら、可愛いお洋服が汚れちゃったわね」
 慶子はハンカチを取り出し、ミルクがついたスカートを拭く。
「いけまちぇん、お客ちゃま。汚れてしまいましゅ」
「可愛い服にしみが付いたら大変よ。作ってくれた人がいるんでしょう?」
「はい、ご主人ちゃまにいただきまちた」
「じゃあ、大切にしないとね」
 慶子は丁寧にミルクを拭う。フィフィは大人しくなり、人形のように頬を赤く染めていた。そんな二人を見ていると、フィオは嬉しくなりケーキを食べる。
 魔界の住人は恐いと言われていたが、アヴィシオルといい、まったく恐くなど無い。フィフィなどはとても可愛い。


 その門を見上げて、どうしたものかと考える。初めは塀を跳び越えようとしたのだが、嫌な予感がして地面に降りた。
 ここは正面の大きな門ではなく、裏の小さな門だが、こちらにも防犯カメラなどのセキュリティもしっかりしている。しかし問題はそんな機械によるセキュリティではない。おそらく、何か呪術的なものが仕掛けられているだろう。あの一族なら何の違和感もない。塀を乗り越えれば、何かろくでもないことになる予感がある。そういう感覚的なものは他の生物よりも発達しているため、自分の感覚が危険だと告げる場合はそれを信じることにしている。
 そこで問題が発生した。明の元へ直接行けば問題はなかったのだが、呼び鈴を鳴らした場合、はたしてオーリンを理解する者が出てきてくれるかどうか。最悪の場合は門前払いではないか。ここはフィオか慶子の姿になるのが最適だろうか。慶子ならこの屋敷の者なら知っているだろう。
 二人にはクルスがついている。経験豊かな彼がフィオという身体を得ていれば、よほどのことがなければ怪我もせずに自力で帰ってきそうだが、ここはやはり力を使わず穏便に事を済ますのがいいだろう。
 オーリンは周囲に人がいないことを確かめ姿を変えようとした。しかし、それをする前に、一般の家なら立派な玄関にも見える裏口が開く。
「やっぱり、チワワ。何でこんな所にいるの?」
 知った顔が出てきた。以前慶子の合コン騒動で会った明の雑用係の真緒だ。彼女はオーリンを抱き上げ、こくりと首をかしげた。以前見たときとはもっと弾けていたが、こうして見ると普通の女の子に見えた。
『こんにちは』
 呼びかけると彼女は驚いて目を見開いた。しかし取り乱すことはなく、じっとオーリンを見つめている。
『フィオ様の守護のオーリンです』
「ああ、樹のお気に入りの」
 来るたびに抱きかかえられているということは、気に入られているということだろう。毎回違う犬のビデオを見せられ、リクエストされる。中には珍しい犬などもいるらしく、毎回満足しているのは感じていた。
「一匹で来るなんてどうしたの? フィオちゃんや慶子さんは?」
『フィオ様と慶子さんが、若者の集団に連れて行かれました。慶子さんがこのことを、樹さんか大樹さんにお伝えしろと伝言を受けました』
 その瞬間、真緒の顔の顔から笑みが消えた。一族の大のお気に入りである慶子が誘拐されたなど知れば、誰でも真剣になるだろう。
「あの二人が、さらわれた。私の慶子さんがっ……」
 かなり曲がった事を口走りながら、彼女は拳を握りしめた。
「こうしちゃいられない! 可及的速やかに救出しないとっ」
 彼女は大変だと叫びながら、オーリンを抱えて屋敷に戻っていった。伝わったはいいが、ずいぶんとテンションの高い人間に頼ってしまったものだ。それでも、あとはきっと大丈夫だろう。
 きっと……

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