23話 あたしと小悪魔
3
ディノは思う。
(何なんだ、このメンバーは)
居並ぶのは男達。家の住人である保とその友人である樹。この二人はディノがどうこう言える立場ではない。しかし、最近は毎日のように入り浸るアヴィシオルとルフトの二人はどうにかならないものだろうか。
慶子がいればいたで、彼女の機嫌が悪くなるので居心地が悪い。いないと彼らの接待は全てディノの仕事となる。ここに来るのは良くも悪くも、人を使うことに慣れきった金持ちばかりで、人に従うことに慣れたディノは気がつけばはいはいと言われるがままに動いているのだ。いつもならこの中にフィオが混じっているので怒りは湧かないが、いないのにこうして紅茶、緑茶、コーヒーと、バラバラに用意させられそれぞれに合った菓子を探して出さなければならないのだ。この国に来てそれなりにたったが、やはり理解できないことはあるのに、緑茶の樹に慶子が酒のつまみにもする豆を出したら怒り出し、さらにセンベイを要求された時は、テーブルをひっくり返してやろうかと思ったものだ。
「ディノ、小難しそうな顔をしていると、フィオが真似するぞ」
コミックを読むアヴィシオルは、顔を上げておもむろに口を開いた。
「不機嫌なだけです。フィオ様がお側にいるときにはなりません」
そのフィオは慶子と散歩に行ったまま帰らない。どうせ甘い物でも食べたり、映画を見たりと楽しんでいるのだろう。いない間に彼らが帰ってくれるのが一番平和である。
「何か不満があるのか?」
「それをあなたが言いますか?」
慶子に言われるならともかく、遊んで食事をして夜になると帰るという生活を繰り返す、どこまでも自堕落的な生活態度の彼にだけは言われたくない。
よほど泥酔した慶子のように切れてやろうと思ったが、電話が鳴るので渋々と立ち上がり受話器を取った。
「もしもし」
慶子からは、絶対に自分からは名乗るなと言われている。普通は相手が用のある相手を名指しするので、問題はない。
『あ、ディノさんですね? 鏡華です』
「ああ、鏡華殿。樹殿に替わりましょう」
『樹様ではなく、アヴィシオル様はいらっしゃいますか?』
「アヴィ殿ですか?」
『はい』
「アヴィ殿、鏡華殿からだ」
コードレスの受話器を手渡し、ディノはダイニングの椅子に座り、最近好きになってきた昆布茶をすする。
「はぁ、はぁ……はぁ? うちの妹がフィオと慶子誘拐して立てこもって暴れてる!?」
皆は一斉に立ち上がり、アヴィシオルに詰め寄った。
「どういう事だ!?」
「どうして慶子が!?」
「フィオ様はご無事で!?」
「アリシアさんとフィオさんがなぜ!?」
一斉につかみかかられ、アヴィシオルは受話器を取り落とす。それを樹が拾い上げ、受話器の向こうの鏡華と話し合う。その間、アヴィシオルは皆につかみかかられ、保の馬鹿力によってジャケットが破れたり、シャツのボタンが取れたりした。
フィオと慶子が誘拐されるなどとんでもないことである。しかも原因がこの男の妹だという。オーリンも慶子もついているのが救いだが、もしもの事を考えただけで気が遠くなる。
「貴方は妹をどういう育て方をしたんですか!?」
「私は育てていない!」
「アリシアさんは可愛らしい人ですよ。そんな恐ろしいことをする子じゃあありません。男さえ絡まなけれ……」
「あいつは私より腹黒い!」
ディノとルフトに耳元で騒がれ、アヴィシオルは言い捨て再び受話器を受け取り話し出す。
「鏡華、全く意味が分からないんだが。はぁ? 二人でルフトを取り合っている!?」
きっと何かの誤解だろう。少なくともフィオは。
そう思うディノの隣で、アヴィシオルにつかみかかっていたルフトは夢見るように手を合わせた。
「美少女二人が僕を取り合う……フタナリ美少女がっ!」
彼は喜びに打ち震えていた。なぜだか、無害に見えるこの男こそ、フィオの敵であるような気がした。
「こうしてはいられない。早く二人の元へ! そして二人仲良く僕の物に!」
「ってか、お前んところ、一夫一妻制だろ」
アヴィシオルは自分の妹のことにもかかわらず、冷静に指摘する。
「じゃあ魔界に婿に行きます」
逆に魔界は多夫多妻制らしい。強い者が権力を持つのが魔界である。魔界貴族が多くの伴侶を抱えるのは天界では有名だ。
「ああ、もう、勝手にしろ」
アヴィシオルは友人の言葉に投げやりに言う。妹の貞操やら倫理観やら全て無視したため、同じ兄である保から遠い目で見られたアヴィシオルは、肩をすくめて鏡華からフィオ達の居場所を聞き出した。
目の前の男は人ではなく、食人鬼の類でもない。フィオと同じ異界の者だという。ずいぶんと前には異界の者も多くいたが、つい最近まではすっかり見なくなった。異界との交流が無くなったのは、天界に原因あるらしいが、最近は魔族と妖精の王子達が、ゲートを作り出す方法を編み出したようで、出入りするようになったようだが、自由に行き来できる者は限られている。
これほどの力を持つ魔族が、フィオを誘拐しているというこの事態は、ゆゆしい。この国の闇を支配する一族を恐れないということだ。彼の持ち主である慶子は、誰もが恐れ手を出せないような女でなければならない。
真剣な顔をしたフィオが、クルスを握りしめた。
『大丈夫だ。慶子がいる上、室内だ。大きな力は使うまい』
「うむ」
フィオは頷き、力を練る。
所有者候補その二である彼のことを、今日まで多少侮っていたが、やれば出来るのだと知ると、力の使い方というものを教えてやりたくなる。
所有者強化が趣味であるそれの血が騒ぐのだ。
もちろん物であるクルスに血など流れていないが、人間で言うそういった感情は持ち合わせている。
「フィオ、危ないからさがってなさい」
「任せておけ、慶子。私とてただ安穏と暮らしていたわけではないぞ。魔力の使い方では、ディノよりも上だぞ」
フィオは自慢げに言い、慶子は彼を疑いの目で見つめた。
アリシアは腕を組み壁にもたれている。
ヨーゼは微笑みを浮かべながら魔力を練る。しかし上手く出来ずに内心は焦っているだろう。慶子に睨まれる威力を思い知るといい。
「見ていろ、慶子!」
フィオは小さく呟き、好きな女にいいところを見せたい小さな子供のように意気込んで、全身に力を巡らせた。フィオの髪や服が浮き上がり、時折バチと火花を散らして音が鳴る。
フィオは相手の出方を待ち、そのままじっと佇んだ。
ヨーゼは自分の不調を顔には出さず、動かないフィオを見てらちがあかないと判断したのか、腕を振り上げた。
「謝るのなら今の内です」
「悪いのはそっちだ!」
「そうですか」
ヨーゼは腕を振り下ろした。フィオの脇を何かが通り過ぎる。狙ったのは慶子のようだが、魔力による攻撃は慶子に届くことなく、軌道を歪められて壁に小さな跡を残す。元々慶子を痛い目に合わせるのが目的だ。立ちはだかるフィオを相手にする必要はないのだ。威力から見ても、殺すつもりがないことが分かる。
『水か』
水を使うから、彼は始めに悩んだのだ。相手は電撃を操る事に長けた天使であり、下手に水を広げると主や自分までの道を造ってしまうのだ。
「……」
彼は疑問を感じたのか、再び腕を振った。今度は真っ直ぐ彼女へと向かい、届く前に消える。
慶子は顔を顰め、ヨーゼの奇行を凝視した。
「……効かない?」
彼は手の平に視線を落として呟いた。
「慶子にそんな魔力は届かないぞ。慶子はすごいからな」
フィオは我が事のように自慢し胸を張る。
「慶子はこの世界で一番強い男の妹で、その兄よりも強いんだぞ」
素手で闘わせたらとか、俗世に興味のない強者などを除いているため、世界一というのは正しい表現ではない。もちろん言わなければ彼らがそれを知ることもないだろう。
「魔族の魔力はしっかりと構築されなければ出しにくいのだろう。慶子がいてはろくな術は使えまい。慶子を連れてきた事が間違いだったな」
フィオは彼の慶子を自慢するチャンスとばかりに胸を張って言う。人間界の知識はないが、魔界やその魔法についての知識なら多少あるらしく、それを駆使して慶子を売り出すように褒め称える。当の慶子はその意味を理解していないのが愉快である。
「天使が人間に飼われているなんて、落ちた物ね」
アリシアはフィオののぼせた言葉に呆れ顔で言う。端から見ればそうだろう。しかし彼女には側で見守りたくなる、そんな奇妙な素質がある。深く関わってこそ理解できるのだが、彼らにはそこまでの関わりはない。それを慶子を否定されたと感じ取り、フィオはさらに慶子自慢をする。
「慶子はすごいんだぞ! ルフトだって、アヴィだって、慶子が怒ると土下座して謝るんだぞ!」
それは慶子が酒を飲んだ時限定だが、確かに土下座していた。しらふの時の慶子は暴れたりはしないが、酒が一定量以上入ると、ちょっとしたことで武器を持ち出すのだ。刺激がなければ、そこまで酔っているようには見えないからこそ、あの二人は速やかに謝ったのだろう。金属バットとゲーム機破壊が恐ろしいのだ。
「アヴィ……って、お兄様が!?」
「お前、アヴィの妹か!? 確かに似てるな!」
通りで非常識なはずである。あれの妹なら非常識も仕方がない。
「あの気位の高いお兄様が謝るなんて、あり得ない!」
「そんなこと無いぞ! アヴィは悪いことをしたらちゃんと謝るぞ! じゃないと慶子が家に入れてくれなくなるからな」
アニメを見たりゲームをする場所のためなら、あの男達はプライドを捨てるのだ。もちろん、慶子にそうさせる人柄があるのも大きい。人柄というか、迫力が。
「慶子はすごいんだからな! 強くてちょっと恐いけど、何でも作ってしまうんたぞ!」
フィオにとっての慶子のすごい所は、料理でもぬいぐるみでも服でも絵でも、器用に何でも作ってしまうことのようである。そんな慶子が大好きだという気持ちが伝わってくる。
いつでもフィオの身体を動かせるように構えていたクルスだが、次第に馬鹿らしくなり、少しだけ警戒を解いた。慶子の力を理解した以上下手な手出しをしてくることはないだろう。クルスが出る幕はなさそうだ。
フィオは大好きな慶子を自慢し、敵を悔しがらせて満足した。慶子もきっと喜んでいるだろう。そう思ったときだ。
「それ、あたしをけなしてるの?」
「ええ!? 違うぞ慶子!」
慶子の誤解はフィオにとって衝撃であった。褒めたつもりだったのに、なぜ慶子はけなされたと感じたのだろうか。理解できない。慶子をこんなに好きだとすごいとアピールしたのに。
『恐いと言われたからではないか? あそこは普通、強くて優しくてと来るところだ』
言われてみれば、それを忘れていた。慶子は優しい。
「け、慶子は優しくて好きだぞ! 私は慶子が世界で一番好きだぞ!」
「はいはい」
「本当だぞ!」
「はいはい。いいからあんたはさがってなさい。水と電撃なんて、組み合わせ的に危ないでしょ」
言われてみればそうだ。ヨーゼがせせこましい攻撃しかしないのも、フィオの力を見たからだろう。アリシアに何か言おうとしていたが、それでも大丈夫と思い挑んでみたら、慶子の存在に邪魔をされたのだ。彼にとっては誤算だらけだっただろう。
フィオはしょんぼりしながら頷いた。
慶子はフィオに守られる必要はないと思われているようだ。
「アリシア様、あの人間はどうやら特殊なようです。魔力が歪められます。
今のままではアリシア様の望む適度に痛めつける、というのが不可能です。殺せと言われるなら簡単ですが」
「使えないわね」
「申し訳ありません」
「まあいいわ。私がやる」
アリシアはもたれていた壁を蹴って前に出て、にやと笑いながら慶子を指さした。
「あんた、ルー様を侮辱したのは気に入らないけど、珍しいみたいだからから私の物にしてあげる」
勝手なことを言うアリシアは、慶子に近づく足を突然ぴたりと止めた。彼女の表情が歪んでいる。わなわなと震え、慶子をじっと見つめていた。
『愚かな』
クルスが心の声を漏らした。アリシアは慶子を見つめたまま、ヨーゼよりも少し後ろの所で固まっている。
「何が愚かなのだ?」
『慶子は全ての力が効かない。害を加えようともしない私の存在を封じてしまうほどだ』
「ああ」
フィオがそれを忘れて癒そうとしたときは、変な風に作用してフィオが自身にかけていた力が全て消されてしまったこともある。
『効かないだけならともかく、時に消し去り、時に歪め、時にまったく違う効果で外れたところで現れ、時にはね返す。その読めない結果が、彼女の恐ろしいところだ』
フィオは思い出す。アリシアの能力は……
「魅了する……というのは、どういう意味だ?」
『彼女の能力を簡単に表現するなら、無理矢理好きにさせてしまうことだ』
フィオは観察した。
アリシアはそわそわとした様子で、心なしか頬が赤い。フィオは確信して呟いた。
「跳ね返ったな」
『そうだろうな』
フィオは慶子を観察した。自分のことを一人理解していない慶子は、不審な目でアリシアを見つめた。フィオは再び確信した。
「気付いていないな」
『鈍感な娘だ』
そんなところが可愛いとフィオは思っている。
「あんたどうしたの? 顔色が変よ」
慶子はアリシアの変化に気付いたが、間違った解釈をして彼女に近づいた。
「息も荒くなったし、苦しいなら言いなさいよ。体調が悪いなら叱ったりしないから」
「べ……別にそんなんじゃ」
慶子は警戒心なくアリシアに近づき、顔を覗き込む。慶子も彼女自身に戦闘能力がないのは分かっているのだろう。
「だって変よ。さっきまで元気が良かったのに、急に顔が赤くなったでしょ。ちょっと椅子に座ってなさい」
アリシアは手を引かれ椅子に座らされ、ぽーっと慶子の顔を見つめた。心捕らわれている。
「ちょっと熱いけど、熱はないわね。アヴィも人間と体温は変わらないから、問題ないわよね」
慶子はアリシアの額に触れた後、自分のコートを脱いで薄着の彼女に着せた。
ヨーゼは主の心変わりにショックを受けて、口をあんぐり開いたまま、どうしていいのか分からず硬直していた。そうできるのは、慶子が何も気付かず彼女に親切にしているからである。もしも危害を加えようとしていたら、さすがに動いていただろう。
『哀れな』
「うむ、哀れだな」
と、ここでフィオは気付く。アリシアが慶子を好きになってしまったら、まずいのではないだろうかと。慶子は可愛い女の子が好きだ。
「ちょっと待っててね。人を呼んでくるから」
「いや、いい」
アリシアは慶子の手をぎゅっと握り、熱い視線で引き止めた。
いけない。これはいけない。
「だめっ!」
フィオは慶子の背中に飛びつき、腰にぎゅっと抱きついた。慶子はうひゃと悲鳴を上げたが、フィオはふるふると首を横に振って慶子の背に頬を押しつけた。
「フィオ、こんな時に何甘えてるの」
慶子が後ろを向こうと身体を動かし、そのためアリシアと目が合った。
そこにあるのは、先ほどまで以上の敵意。フィオもまた、対抗意識を燃やす。
「慶子は私のだ!」
「はん。くだらない。どんな手段を使おうが、手に入れたモノ勝ちだよ」
フィオとアリシアは敵意をむき出しに睨み合う。
「あんた達……どうしたのいきなり」
慶子が困ったように首をかしげたが、全ては慶子を守るためである。こんな目的のためなら、他人を使って何でもするような女に、慶子は渡せない。
フィオはぎゅっと慶子を抱きしめ、何をしてでもそれを推敲する事を決意した。
(慶子は私が守るんだ!)
その時、背後で大きな音が聞こえたのだが、それすら今のフィオにはどうでもいいことであった。
アヴィシオルは自身の魔法で転移すると、ちょうど鏡華の前に出た。連絡をくれた彼女の気配を辿ったのだから当然である。しかし彼女は突然彼らが現れたことに驚き、反射的に後ろにさがったはいいがたたらを踏み、尻もちをついて、きょとんと彼らを見上げた。
連れてきたのはルフト以外は皆長身の男ばかりである。保とディノなど、筋肉の鎧まで付いていて、普通に来ても驚くだろう面子だ。アヴィシオルとしてもこのような団体の中にはあまりいたくない。
「ああ僕の愛しい小鳩とコウモリさんはどこかなぁ」
ルフトはるんるん気分で騒がしい方へと向かった。フィオとアリシアの罵り合いが聞こえる。
「ああ、僕を取り合い美少女達が争っている」
争っているのは確かなようだが、ルフトを取り合っているかは疑問だ。ルフトに目をかけているアリシアならともかく、フィオは少なくともルフトに懐いているのは確かだが、友達以上には思っていないだろう。
部屋の前まで行くと、ドアが縦半分に割れている事に気付いた。これはどう見ても大樹の仕業である。滅多なことで乱暴はしない男だが、慶子のことで見境を無くしたのだろう。昔は片手でどうにか出来る子供だったが、今ではすっかり厄介な相手になった。
それより問題は、肝心の誘拐された二人だが──
「っ!?」
アヴィシオルは絶句した。
慶子は困ったように立ちつくし、なぜかいるヨーゼも立ちつくし、そしてフィオとアリシアは、取っ組み合いの喧嘩をしていた。
「ちょ、お前ら、何やって!?」
滅多なことでは自分で動かない、落としたスプーンを拾うにも男を使うあのアリシアが、フィオとつかみ合って喧嘩をしている。二人の顔にはひっかき傷も出来ており、かなり本気で喧嘩をしているのだ。あの美貌自慢のアリシアが。
「慶子は私のだ!」
「手に入れたモノ勝ちだって言ってんでしょっ!」
しかも選りにも選って、あの慶子を取り合っている。
前方で、ルフトが崩れ落ちるように膝をつく。そのまま拳を床にたたきつけているが、ルフトを奪い合うよりは現実的なのかも知れない。
「こら、ヨーゼ! お前が付いていながらどうしてこんな事になっているのだ!?」
「あ、アヴィシオル様!? なぜこのような場所に!?」
「呼ばれたからだろう! それより青軍のお前がここにいる方が問題だろう!」
「私はアリシア様の護衛です。陛下の許可は頂きました」
彼の父である魔王は、アヴィシオルの母にはどこまでも弱く、そして母にうり二つの美しい娘を溺愛している。それはもう親馬鹿と言うべき溺愛ぶりである。そのため父は、さっさとアヴィシオルに王座を譲り、一刻も早く母と娘と隠居生活を送りたいと願っている。このまま彼の望み通り事が運べば王座にいる時間は半世紀にも満たないという過去最短記録を打ち出すだろう。他の魔王が王座にしがみついていたわけではなく、相応しい跡取りがすぐに生まれなかったからだ。アヴィシオルのような優れた力の後継者を、あっさりと輩出することが稀なのである。
父の期待がかかっているので、幼い頃はそれはもう苦労した物だ。普通の魔族よりも成長が早く、人間よりも早く成長する吸血族の血が混じる彼だからこそ、父を縛り付ける魔王の座から速やかに解放できると、大変に喜ばれている。
巻き込まれた息子としては、なら初めから魔王になどなるなと言いたいのだが、魔王以外に興味はないと母が言ったため、父はつい魔王になる気になってしまったらしい。より強い男を得ることが生き甲斐の吸血族の口車に、まんまと乗せられたのだ。魔王になれば半強制的にハーレムが付いてきて、スケジュールが組まれるのを知っていたくせに、素直に口説き続けるではなく、女の望む地位を与えてしまうなど、男として情けないことこの上ない。おかげで母は月に一、二度やってくる父の相手を数時間するだけで、ほとんど独身生活と変わらない悠々自適な奴隷のような男達に囲まれた生活を送っている。
父としては、そういう男を可及的速やかに母の側から引き離したいのだ。
父は単純な竜族らしく、愛に生きる男だ。
そういう背景があるからこそ、アヴィシオルはしぶしぶ頑張ったものだ。頑張った結果、勉強が楽しくし研究が趣味となり、妖精界へのゲートを解放することに成功したのだ。そこで親友となるルフトと出会い、今では人間界にまで自由に行き来することが出来るようになった。その間に色々と大変なこともあったが、最愛の妻とも出会い、幸せを手に入れた。
その幸せをお裾分けするため、魔力が足らず魔界の日光で肌が焼けてしまう妹にも、日の光というものを教えてやりたくて人間界へは何度か連れてきたことがある。
まさか手順を覚えて自力で来られるようになるとは思いもしていなかった。吸血族というのは魔力が極端に少ない代わりに、特殊能力と技術と頭脳に優れた種族であり、理屈だけならどうにかなっただろう。ただし魔力が足りないので、自力で来るはずがないと彼はたかをくくっていたのだ。
まさかヨーゼほどの男を魅了しているとは思いもしなかった。彼ならアリシアの指示通りに魔力を使うことが出来るだろう。世の中、何が起こるか分からないものだ。
それはともかく、現実と向き合わねばならない。幸せな時への道程を思い出すのは楽しいが、大切なのは目の前の現実である。
「ヨーゼ。なぜ、うちの吸血族としては優秀な妹が、フィオと子供のような喧嘩しているんだ?」
「どうやら……慶子とかいうあの娘を魅了しようとして、自分に跳ね返ってしまったようです。まあ、しばらくすれば我に返るでしょう。自分の魔力です」
と、青ざめた顔で言うのだ。我に返ればいいな、という願望が含まれていることが分かる。
「止めさせろよ」
「いやしかし……子供の喧嘩に大人が出るのは」
ヨーゼもこれを子供の喧嘩と認識しているようだ。非力な二人が素手でひっかき殴り合う程度だ。放置しても支障ないレベルである。
「慶子は私のっ! お前にはルフトがいるだろう!」
「ルー様はもうどうでもいいの! あんな煮え切らない中途半端な人っ!」
キープしたつもでいたアリシアにまでどうでもいいと言われてしまい、ルフトがしくしくと泣き始めた。初めから既成事実の一つや二つ作ってから浮気をすればいいのに、変なところで律儀だからこうなるのである。吸血族は男を魅了して使うが、自身の貞操観念だけはしっかりとしていて、一度決めた男に操を立てるし、相手が多少浮気をしても気にしないのだ。
しかしそろそろ二人をどうにかしないといけないだろう。フィオが本気になれば、アリシアが敵う相手ではない。天界の統治者といえば、魔王に並ぶ存在だ。そんな大物の候補であるフィオは、実質かなりの魔力の持ち主である。慶子の側にいるせいか、天界にいた以上に爪を引っ込めてしまっているが、能はあるのだ。
仕方がないとアヴィシオルが止めようかと動こうとしたまさにそのとき、突然動いて二人を宙吊りにした男がいた。
「こらっ、お前らっ! 黙って聞いてればケイちゃんをまるで物のように!」
大樹である。慶子の元恋人、現在ただの半ストーカー、大樹であった。
「選ぶのはケイちゃんだろ!」
大樹の正論に二人ははっと我に帰る。そして同時に慶子を見て問う。
「どっち!?」
「いや、どっちって言われても」
気持ち的にはフィオだろうが、自分に好意を寄せる美少女を無下に出来る女でもない。
「私達も混ぜてっ!」
唐突に、今まで指をくわえてみていた真緒が自己主張した。レズというわけではないはずなので、よほど気に入ったのだろう。彼女の頭の上には、楽しげに笑う小さなメイドがいた。あれは母の友人である女侯爵の愛玩用の下級悪魔だ。気に入っているらしく、いつも連れ歩いているのでアヴィシオルも知っている。
以前から思っていたが、慶子は普通は遭遇しないで一生を過ごす手のモノに好かれる傾向がある。
「ああ、もう、いい加減にして!」
二人の両性具有に腕を捕らわれ、面白半分の鬼にも立候補され、慶子は切れて両腕の二人に足払いをかけた。もちろん頭を打たないよう、腕を握って。
「そういう聞き分けのない子は嫌いよ! どっちが好きかなんてくだらないこと言ってないで、みんなさっさと帰りなさい! もう夕方よ? 夕飯の支度しなきゃ!」
慶子は腕時計を見て叫んだ。
女子高生の台詞ではないが、美味いので良し。
「フィオ、ディノさんが心配してるだろ。いい子は暗くなり始めたら遊んでないで帰るんだぞ」
保が部屋に入り、慶子に腕を掴まれていたフィオをひょいと抱き上げ、そのままお持ち帰りする。その後を、尻尾を振るオーリンが追いかけていく。フィオもディノという名を聞き、もう一人の『大好きな人』を思い出したのだろう。
「ほら、あんたも保護者が来たから帰りなさい。アヴィ、妹を連れてくるのはいいけど、悪戯しないように見張ってなさい! こんな変な集団作っちゃって、地元民に睨まれても知らないからね」
慶子は片腕に残っていたアリシアをアヴィシオルに差し出した。
「いや、連れてきたわけでは……」
「言い訳無用! 男でしょ!」
すべて男かと言われれば否なのだが、今言えば火に油を注ぐことになる。きっかけを作ったのは彼自身に間違いないのだ。
「あと、ルフト。今度フィオを変な目で見たら、二度とうちには入れないからね」
「そんな無体なっ!」
即出入り禁止でない分、優しい対応だと思うのだが、女の趣味に関してはかなり変質的な物がある彼にとって、それは無体なことなのだろう。昔は普通の美少女が好きだったはずなのだが、どこで道を間違えたのやら。
「じゃあ、あたしら帰るから。大樹、送って」
「はいはい。鏡華、車出してくれ」
大樹は傷一つ無い慶子に命令されて、嬉々として車の手配をする。
「じゃあ、あんたももうこんな事しちゃダメよ。まあ、ルフトみたいな変態への熱が冷めたのはいいことだし、今度はまともな男の人を探しなさい。せっかく身の回りにいい男いっぱいいるんだし。よく分からない一時の気の迷いにも騙されちゃダメよ」
「うぅ……」
自分の力のせいだと自覚があるからこそ、アリシアはうなって唇を噛む。他者を魅了することが唯一他人より優れた技能である吸血族が、他人に心を奪われるのは恥とされている。恋をするのと、心奪われるのは違う。恋はしても、冷静になり距離を置けるなら問題ない。しかし、熱を上げてしまってはいけない。それは魔界でなら命取りとなる。
慶子は大樹と部屋を出て行き、アリシアはうつむいてアヴィシオルの手をぎゅっと握った。
好きになったら奪えばいい。それが吸血族なのに、片思いなど屈辱だろう。例え、一時的だとしても。
「分かったか。お前は未熟だ」
「くそっ!」
アリシアは下品に地団駄踏んだ。その姿を見て、アヴィシオルは皮肉に思う。実は、慶子の態度に腹を立てたアヴィシオルも、一度彼女を魅了しようとしたことがある。その時は効果がなかっただけだったが、今思えば彼にもこうなる危険性があったのだ。もちろん兄の威厳という物があり、アリシアに言うつもりはないが、考えるだけでぞっとする。
「アリシア、帰る前に俺の家に来るか? まだうちのチビ達と会ってないだろ?」
「……うん」
アリシアはしおらしく頷き、アヴィシオルも彼女を連れて部屋を出た。
問題はこの少年達なのだが、明神が記憶を消すなりどうにかするだろう。