24話 あたしの部屋で


 柔らかに清澄な月明かりが降る、静かな夜だった。
 まだ冷たい風の中に混じる匂いは、春の気配を感じる。
 夜の闇は世界を支配しようと必死に勢力を延ばすが、地上の灯火を消し去ることは出来ない。それでもその勢力は大きく、消し去る事も出来ない。
 闇を薄める空の星々と地上の星々は、彼にとっては女神のような存在だった。
 そして、その闇に潜む者にとってはやりにくくなっただろう。
 光は彼の助けとなり、それらのあだとなる。
 それでも闇はあり、魔物は住み着いている。それは生きるために人に牙を剥く。
「俺は本来温厚で、誰であろうと痛め付けるのは好きじゃないんだ」
 彼は微笑み、光りもほとんど届かぬ暗がりで、小柄な男を踏み付けていた。男の輪郭とわずかながら表情が見える。それだけで、彼にとっては十分だ。
 男はギチギチと耳障りな呻き声を出した。夜の闇の中、フードを被りうつむけば、化け物じみた姿でも人に見える。そうして彼は闇を利用し、狩りをしていた。狩られるのは人間だ。昆虫の種類には詳しくないため、原型を持っていないそれがどんな虫であるかは彼には分からない。しかし虫というのは、彼の最愛の人が最も嫌う生物であり、それを狙った本当の意味で悪い虫を、ただで殺しては到底、気が収まらない。
「鏡華」
 彼は闇へと相棒の名を呼ぶ。
「はい」
 鏡華は鏡と懐中電灯を手に、彼の傍らへと現れる。その光のおかげで、その醜い生物の姿が鮮明になる。しかしこの光は彼のために用意されたものではなく、彼女のために用意されたものだ。
「選りに選って、俺のケイちゃんを付け狙ったこの馬鹿、どうしようか?」
「どうするもこうするも、餌は持ち帰るのが決まりです。生け捕りにしたのですから、皆喜ぶでしょう」
 餌、と言われ、それは声を出そうとした。しかしその前に足をどけ、鏡華が鏡をかざす。
「さようなら」
 鏡の中に引き込まれたその鬼は、今日中には誰かの胃袋に収まるだろう。
 人を食えない人側の鬼達のために、人よりは不味いが人よりも力のある鬼を食わせる。そうして彼らの組織は成り立っている。
「あ、それ真緒に食わせろ」
「真緒……というのは、最近明様の所に住み着いている?」
 彼女は初め、真緒のことを使用人と勘違いしたらしい。彼女からは鬼の気配を感じなかったと。
「あいつ、気に入らない相手をなぶるの好きだったろ。ケイちゃんを狙ってたからやるって言えば、絶対に伝わる」
「また悪趣味な。かまいませんが」
 真緒のことをあまり知らない鏡華は、易く頷いた。
「ところで大樹様、今回は目を瞑りますが、あまり私情を挟むのはお控え下さい」
「堅いな、鏡華は」
「それが仕事です」
「私情があった方が、俺は力が出るけど?」
「それは大きな問題です」
「だって、ケイちゃんってホント変なのに好かれるからなぁ」
 大樹はため息をついて、暗がりから街灯の光へと歩み寄る。大樹の目は闇に慣れていたので、眩しく感じる。
 慶子は知らずに眠っているだろう。彼女は一度寝たら朝まで熟睡するタイプだ。枕元に立っても、気づきもしない。寝ぼけて起きるときはあるが、夢だと思っている。
「久しぶりに、ケイちゃんの寝顔でも見て帰るかな」
「犯罪はほどほどに」
「見るだけだから」
 触れれば寝ぼけた慶子に本気で叩かれるだろう。寝ぼけているから、手加減がない。
 見ているだけなら、小さな頃の面影があり懐かしく、心が安まる。そう、夜な夜な殺伐とした狩りに追われる彼は、そんなささやかな癒しを求めている。慶子は毎晩女遊びをしていると思っているらしいが、そんなことはない、そう弁明出来ればいいのだが、じゃあ何をしていると言われれば返答に困る。時々夜遊びをしているのは本当であり、弁明する意味もないだろう。
 それでも、慶子が思っているほど乱れた生活はしていない。そう言いたいのを我慢して、大樹は東堂家に向かった。


 見上げるその家は、狭苦しいこの国の住居にしては、なかなか広く洒落ていて悪くないと、主である少女が呟いた。翼で塀を乗り越え、庭に降り立つと、小奇麗な庭が目に入り、彼女は満足げに頷く。
 彼女は植物が好きだ。日の光を受けて育つ彼らに、憧れを抱いていると言っていたい。男達が綺麗な束にして持ってくる、手折られた一瞬で枯れてしまう花が好きだとも。
「あの女は金持ちのお嬢様?」
「はい。有名な学者の娘さんです。母方の祖父が大層な資産家だそうで、金銭面では何一つ不自由していない……はずなんですが、基本的に倹約家です」
 ドケチ、とも言う。
 大助の言葉に彼女は満足した。こちらの住居の狭さは彼女の趣味ではなく、仮に住んでいる家もかなり広いマンションだ。彼女の男の中には、そういう物件を簡単に用意できる男もいるらしい。
「あの……本当に行くんですか?」
 大助は主であるアリシアに問う。彼はこの家について一番詳しいので連れて来られた。
「行くわよ。何のために来たと思ってるの? あんた達帰っていいわよ」
 彼の女王様は、無慈悲に突き放す言葉を発した。そんな冷たいところも、彼女の魅力の一つだ。
「そう言われても……」
 帰れるはずがない。彼女はまだこの世界に慣れていない。その上、彼女が狙っているのは、ご近所で一番の隠れ危険人物、東堂慶子。出来れば昼間に訪ねてほしかったが、残念ながら彼女は夜の花。魔界では夜しか姿を見せないので、そう呼ばれているらしい。
「ところで、ケイをどうするおつもりですか?」
 出会いから強烈な印象を持つ少女の顔を思い浮かべる。師に弟子入りしたいと言って来たが、師に髪を伸ばすような者には教えることはないと言われ、次の日にはばっさりと切って師を納得させた剛胆の持ち主だ。母親が伸ばしていたらしく、本人は髪に対する執着がなかったようだ。
 懐かしい。あの頃は楽しかった。
 今は楽しく、辛い。好きな人は、別の所を見ているから。
「どうするって、決まっているでしょ。私のものにするのよ」
 彼女にとって男など道具だろう。それでも大助はいい方だ。実力を認められ、だから人格を認められている。
「ど、どうやって?」
「力が通じないなら、他の手があるわ。薬を使うの。私の体液を利用した、強力なのをね」
 彼女は紅い唇で、妖しい笑みを作った。彼女は天然の小悪魔だが、まさしく小悪魔の笑みである。そんな彼女は壮絶に綺麗だった。
「た……体液?」
「媚薬になるの。どんな淑女も、生娘ですら乱れるわよ」
 にいと笑う彼女は、どれほど妖しいほどに美しくも──今は少年の姿であった。男の姿でも、大助にとっては愛しの女主であり、言われるがままに行動してしまう。
 そんな自分が情けなく、泣きそうになりながら呟いた。
「初恋の人の貞操と、今好きな人の貞操がっ」
 これほど悲しいことが、他にあるだろうか。何も過去の思い出までこんな形で壊れることもないだろうに。初恋とは永遠の宝だ。今はどうであれ、あの頃の彼女は可愛かった。そんな永遠の思い出にしておきたい宝は、踏みにじられようとしている。
「アリシア様、あれほど頑なに貞操を守っていたのに、なぜそこまで……」
 彼女のお目付役であるヨーゼが蒼白になりながらも問う。
 彼女は、ただ一人、最高の男にこだわっていた。なのに彼女は今、女相手にその貞操を捨てようとしている。
「馬鹿ね。孕まされるのと孕ませるのは違うわ」
「孕ますつもりですかっ!?」
「つもりがなくても、それは運よ」
 大助は頭を抱えた。最悪だ。
「よ……ヨーゼさんっ」
「言うな。私に言われてもどうにもならない」
 ヨーゼは泣いていた。それもそうだろう。彼はアリシアが生まれたときから彼女の世話をし、恋い焦がれていた。ようやく大きくなってきたと思えば、タチの悪い妖精に惚れ、冷めたと思えば少年の姿をとって女に言い寄ろうとしている。それが彼女のプライドからの行動であっても、彼にとってはショックだろう。
「絶対に私の物にしてやるわ。あんた達はここにいなさい」
 自分の足下にひれ伏さない者を許さない彼女は、数少ない例外である慶子の力に負けたことを、その上一時的にとはいえ自分自身が魅了されたのを屈辱と感じている。
 そのリベンジの結果は、彼女の周囲の男達にとって、絶望的なものである。


 この国の鍵は実に簡単な造りをしている。おかげで大した念動力もないアリシアでも簡単に侵入できてしまう。
 部屋に入ると、少女趣味な部屋に閉口した。ぬいぐるみや人形ばかりが並び、天蓋付きのベッドは、淡い桃色のふんだんにレースが使われたシーツで飾られ、本人は白いネグリジェを身につけている。
 この国のスタイルは学んできたつもりなので、これが度を超えた少女趣味であることは分かった。
 すよすよと眠る乙女は、彼女自体には色はあるが、その周囲が彼女を子供のように見せた。彼女は大きなクマを抱えて眠っている。平和な寝顔は、口が半開きでだらしがない。これがもう少し落ち着いた部屋で、もう少しまともな寝相であれば、色気もあっただろうが、現在そういう物は半減以下である。
「まあいいわ」
 アリシアは小さな瓶を取り出した。この中にある液体から発せられる香りを吸い込めば、力が効かない人間であろうと、簡単に狂わすことが出来る。嫌でも色に目覚めるだろう。
 媚薬作りは彼女の家系の代々の仕事だ。その取引相手は、魔王である。今の代は彼女の父。媚薬と言うよりも、魔王相手の場合は強精剤である。母は父に媚薬を持たせて、行ってらっしゃいと見送るのが仕事だ。父は時々引きこもってしゃべる人形相手に愚痴を吐いているらしい。
 もちろん、魔王以外にも提供しているのが媚薬の類である。これはその中でも、一等いいなのがこれだ。先ほど男達にも説明したが、どんなに無垢な小娘でも、性に、欲に目覚め、どんなに嫌う男にでも足を開き、獣のように交じり合うという代物である。母は滅多なことでは作らないし、アリシアもそうだが、必要とあれば作るし使う。
「さぁて、どんな顔をするか、楽しみね」
 生意気な女が、どのようになるか楽しみだ。女に育ったが、女のことは嫌いではない。
 瓶を開けるために蓋に手をかけた。その手を、横からで出てきた男の手に、がしりと掴まれ、阻まれた。
 驚いて手の主を見ると、見たことのある男が立っていた。
 兄が出入りしている、この国の影の支配者と説明を受けた一族、明神の次男坊だ。名は──
「たーき!?」
「大樹だ。ってか、お前何してる!?」
「そっちこそ! 鍵はかけ直したわよっ!?」
 二人は睨み合いながら小声を出す。
「俺は、ガラスならすり抜けられるんだよ」
「…………人間の範疇を越えているわよ」
「常識内の人間じゃない。こういう一族だから、あいつと交流があるんだろう」
 あいつとは、兄のアヴィシオルのことだろう。彼は明神とその関係する一族に対して高い評価を下している。その中でもに当主は魔力が高く、人間のくせに召喚術まで身につけてしまったという。その弟なら、人間離れしていても当然だ。しかし、すり抜けるというのは聞いたこともない。
「それより、お前、そんな格好で何をするつもりだ。下で大助達が泣いていたけど……」
「夜這いよ」
「ふざけてんじゃねぇぞ」
 手の中から媚薬を取り上げられ、大樹が見つめるとそれは瞬く間に消えてしまった。
「ったく。どうせ変な薬だろ。お前等の家系のことはアヴィから色々聞いてるんだからな」
 大樹がいては、薬など使うことも出来ない。遊び慣れていそうな男に襲われるなど冗談ではない。
 忌々しく思い、アリシアは大樹を睨んだ。視線が絡む。本来ならこれだけで、相手は骨抜きになるはずだ。しかし彼の表情は硬く、怒りを露わにしている。
「お前の力は効かない。アヴィに散々遊ばれて、耐性がついたからな」
 アリシアの魅了の力はアヴィシオルよりも上だ。これだけは、父に似て強い兄に勝る。それなのに、慶子に続いてこの男にも効かない。悔しくて唇を噛んだ。その彼女の頬に、大樹は手を添えて突然笑った。
「お前、誰を魅了しようと勝手だけどな、ケイちゃんに手を出すつもりなら話は別だ。殺すぞ」
 笑いながら言う彼の殺意は本物だった。
「ケイちゃんは俺の物だ。手を出す奴は容赦しない」
 彼の暗い瞳がアリシアを見据える。
 彼は強者だ。腹立たしいことに、兄と同じ側に立つ者だ。
 この力は、通用するなら耐性がつくものではない。彼女自身が分泌する匂いなどには慣れても、視線を媒介にす力に慣れることは出来ない。おそらく何らかの方法で防いでいるのだろう。
「分かったらさっさと……」
 大樹は突然黙り、ドアを見つめる。
「……ずるい」
 そう言うのは、以前殴り合いをしたフタナリ天使のフィオ。こちらは大きなウサギを抱えて、瞳をうるうるさせていた。背中に翼は見あたらず、夜でも隠しているようだ。眠るのに邪魔なのだろうアリシアはそれをする力がないため、横を向いて眠っている。天使の羽ほど邪魔にはならないので、仰向けでも眠れないことはない。
「私だって我慢していたのに、お前達だけ慶子と一緒に眠るつもりか!? ずるいっ!」
 大きな声を出すフィオの口を慌てて大樹が塞いだ。
「しぃ。ケイちゃん起きるだろ」
「わ、私も慶子と寝る!」
 半分寝ぼけているのだろう。そうでなくて、男が二人侵入してこの反応はいくら何でもあり得ない。
「何よあんた。ややこしいから部屋で寝てなさい」
「お前はアリシア! 慶子を狙ってきたのだな!? そうはさせないぞ。慶子は私のものだ」
 フィオはアリシアを睨み付け、頬をふくらませた。
「はん。お子様のくせに東堂慶子に何がしてやれるっていうの?」
「慶子は、私は私でいれば世界一大好きだって言ってくれるもん!」
「中身まで子供ね」
 馬鹿なことを言うフィオを嘲り、小さく笑った。
 半分男で半分女のくせに、何も理解していない子供だ。相手にもならない。
「あのね君たち、そうじゃなくて」
 大樹がおろおろと二人の仲裁に入る。
「慶子は私がいいって言ったもん! 慶子、私も慶子と一緒に寝ていいか?」
「だから……げっ」
 大樹はむくりと起きあがった慶子を見て身動ぎした。
 どうするのかと思いきや、彼は天蓋を手で払いベッドに腰をかけ、慶子へと笑みを向けた。
「ケイちゃん、まだ寝てていいよ。朝になったら起こすからね」
「そーお? じゃあ寝う……」
 こくと頷き慶子は再びベッドへと倒れ込む。
 危機を凌いだ大樹は袖で汗を拭い、そっと立ち上がる。
「フィオちゃん、ケイちゃんの寝起きは、酔って意識が飛んだとき並に恐ろしいんだぞ」
「そ……そうなのか?」
 よい子のフィオは、いつも夜は熟睡していたのだろう。戸惑った様子で、すよすよと眠る慶子を見た。
「さ、お前等は帰れ」
「大樹は?」
「俺も帰る。ケイちゃんがまた起きたら大変だからな」
 彼は、はははと小さく笑い、再び慶子を見る。天蓋をめくり上げて彼女の寝顔を眺め、そして小さく言った。
「おやすみ」
 そう言って彼が離れた瞬間、どん、と窓が叩かれた。音は大きくないが、彼女たちの心臓を跳ね上がらせるには十分だった。
「アリシア様、先ほど妙な男がベランダに立っていたような気がしましたが、何事もありませんか!?」
 外で待っていた二人のようだ。勝手に入ってこないことだけは褒めてやろう。アリシアはカーテンを開き鍵を開け、外にいる二人の男達を蹴った。
「東堂慶子が起きたらどうするつもり?」
「いやだって、起こすつもりだったんでは?」
「状況が変わったのよ。邪魔者が出たわ」
 彼女は顎で大樹を示し、大助は硬直した。
「ほう。お前も共犯か」
 大樹は動かず、大助を睨み付けた。彼は明神には逆らえないらしく、膝と手をついた。
「……それに関しては何も言葉がありません。しかし、一つだけ言わせてください」
 彼は一息ついて、本当に一言だけ口にする。
「ありがとうございました」
「止めろよ」
「止められると思いますか!?」
「声が大きいっ!」
 大樹が小さく怒鳴り前に出ようとしたが、その身体ががくっとつっかえ、後ろに倒れる。彼の長いコートの端を、慶子がしっかり握っていたのだ。
「フィオ、そっちは危ないからダメ」
「ゆ……夢の中でまでお母さんしてるの」
 大樹は慶子の微笑ましい寝言に、呆れながらその手をコートから外そうと手をかける。しかし乱暴にも出来ず、四苦八苦していると、今度は大樹の腕が掴まれた。
「大樹……」
 起きたかと逃げる準備をしたが、
「好き嫌いするなぁ」
 まだ夢を見ているらしい。しかも大樹の嫌いな物を調理して食べさせる夢。
 大樹は困ったように慶子の手を外そうと、さらに慎重に手を動かす。
「可愛いなぁ、ケイちゃんは」
「大樹、早く慶子から離れろ!」
「だから声が大きいって」
 振り返り言う彼の背後で、慶子がむくりと起きあがる。熊で隠れていたふくよかな胸は、ネグリジェを押し上げ自己を主張している。
 彼女はぼんやりと大樹の後頭部を見上げ、ぱちぱちと瞬きする。それでも目は死んだように意志がない。
「ドロボウ?」
「いや違うって!」
 寝ぼけた慶子は大樹を捕まえ、寝ぼけたまま戦慄する。
「ドロボウ風情があたしの部屋に侵入するとは不届き千万っ!」
 この部屋が真っ暗であるのも、彼女の寝ぼけに拍車をかけているのだろう。
「違うだろ!」
「じゃあさては、父さんが目当てねっ! あたしを誘拐しても、父さんの居所なんて分からないわよ!」
「そうじゃなくてケイちゃん……ケイちゃん?」
 慶子は布団の下から、何か取り出す。闇の中でも普通に見えるアリシアの目には、それが鉄の塊であることが分かった。確かこの国で人気のあるスポーツに使う道具だ。投げられたボールを、打ち返すために使用する道具である。
「き……金属バットなんて、ベッドに隠すのやめようよ。十分強いのに」
「この誘拐犯どもがっ! 成敗してくれるっ!」
「ケイちゃん! マジで危ないって!」
 慶子は聞く耳持たずバットを振り上げ、容赦なく振り下ろす。
 バットは床を叩き、そこにいたはずの大樹は慶子の背後にいた。
「すごい! 大樹、今瞬間移動したぞ! 大樹は超能力者だったのだなっ? すごいぞ!」
 フィオが言うと、妙に軽く聞こえた。
「ケイちゃん、まだ夜だよ。俺がいるから、安心して寝ていいよ」
「大樹……」
 大樹と認識した慶子は、ぽいと金属バットを捨て、大樹の首にすがりつく。
「大樹のばかぁ」
「ど……どうしたの?」
「知らない女の匂いがする」
「それはたぶんアリシアのだと思う」
「大樹の変態ぃ…………」
 慶子は熊の代わりに大樹を抱えて再び眠る。金属バットを振り回しはじめたときは、下手に自分で起こさなくてよかったと思ったが、この事態はいけ好かない。
「大樹ずるい」
「何言ってるんだ……このまま絞め殺される可能性もある……をぐ」
 慶子は大樹を抱きしめたまま寝返りを打つ。
「すみません。誰か電気付けて。ここはケイちゃんと天幕のせいで暗すぎて……。位置的に見えないし」
「電気なんて付けたら、慶子が起きるだろう。起きたらシュランモードと同じほど恐い慶子が出てくるだろう」
「せめて豆電球」
「でも……」
 フィオが迷っていると、大助が携帯電話を開く。画面の明かりは天幕に反射し、慶子の部屋をほんの少し明るくした。
「サンキュ」
 大樹はいつの間にか大助の傍らに立っていた。
「大樹様の力は、見えることが重要なんですね」
「目からビームとかは、出せないぞ。目隠しをしても無駄だ。ただ、ケイちゃん相手だと、俺は無力だ。ケイちゃんに意識がなくても、何とか移動するだけで精一杯だしな。それより……アヴィの手下までこんな事に荷担するなよ。こいつは大切な魔王の娘なんだろ」
「……返す言葉もない。愛しているなら逆らわなければならないのに、彼女の言葉には逆らえない」
 彼は深くため息をついた。魅了されているとはいえ、彼ほどの男がこんな小娘の呪縛を少しも払えない事実が、彼をさいなむのだろう。
 アリシアはいい気味だとせせら笑い、壁にもたれて立つ。彼は何と都合のいい男なのだろうか。理想の下僕だ。
「なあ、お前等何やってるんだ?」
 開け放たれていたドアから、ひょっこりと見たことある男が顔を出す。下は短パン、上はランニングと、季節はずれの格好をしているが、素晴らしい筋肉があるので無様ではない。
「誰?」
「ここの住人だよ」
 思い出した。大助が憧れているという、格闘家の慶子の兄だ。いい体をしているはずだ。彼の逞しい身体は、ただ鍛えた者の身体ではない。実戦により鍛えられた、強者の身体だ。大助が憧れているのなら、大助よりも強いのだろう。
「何で慶子の部屋に、こんなに人が……」
「そんな事はどうでもいいでしょ?」
 窓から漏れる月明かりで瞳を蠱惑的に輝かせ、保を見つめた。保はきょとんとしてアリシアを見下ろし、突然にっこりと笑う。
「ダメダメ。慶子と同じで、俺には効かない。慶子ほどじゃないけど、俺もあれに近い体質だからな」
 気さくに笑うその男は、アリシアの頭をくしゃくしゃと撫でた。このようなことは、父と兄以外にされたことなどないのに。
「事情はよく分からないけど、慶子が起きる前に帰れ。俺はとんでもなく寝ぼけた慶子だけは恐いから、助けないぞ」
 保は廊下を指さし、アリシアの手を引いて無理矢理連れ出した。
「ほら、フィオも」
「私は慶子と一緒に寝たいぞ」
「なんだ、甘えて。恐い夢でも見たのか?」
 保の言葉にフィオはこくと頷いた。うさぎを抱えて、ふると震える。
「でも、慶子は寝ぼけると金属バット振り回すからな」
「もう振り回した」
「だったら、なおさらだろ。恐いんだったら、俺の部屋に来るか?」
 フィオは保を見上げ、こくと首をかしげた。
「でも、慶子は男の人と一緒に寝てはいけないと言っていたぞ」
「身内ならいいんだよ。フィオは俺にとって妹だからな」
「本当か?」
「ああ、本当だ」
 フィオは嬉しそうに保の腕にしがみつき、ぐいぐいと彼を引っ張った。
「お前等、この子を家まで送ってけよ」
「は、はい」
 手を引かれ、アリシアは玄関まで連れて行かれた。気安い男を睨み上げ、同時に己の未熟に歯噛みする。
 魔族に劣る人間達の世界で、これほど悔しい思いをすることになるなど夢にも見なかった。アリシアは魔王の側近クラスでも、自由に動かすことが出来る。
 それが、人間などに逆らわれるなど、一族の恥だ。大樹のようにそらしているならともかく、まともに受けて効かないなど、何をしてもどうしようもないということだ。
「アリシアだっけ」
「そうよ」
「そんなに恐い顔するなよ。可愛い顔が台無しだろ」
 浮いたことを言って、彼は玄関のドアを開けた。
「アリシア様、靴を」
 ベランダに脱いできた靴を、大助が玄関に置いた。それを履いて立ち上がると、無駄ににこにこと笑う保を睨み上げた。
 この兄妹、何が何でも落としてやると心に決める。
「遊びに来るなら、昼間に来い。今週の日曜なら、みんないるから」
「誰が遊びに何て来るというの!?」
「こないだのフィフィって子も連れてくると、慶子が喜ぶな。美味しいケーキ買って待ってるからな」
 言われて、フィフィがまたこちらに来たいと言っていると聞いたのを思い出す。こちらのデザートをもっと食べて、研究したいらしい。彼女の主は母の親友だ。よくしてもらっている。
「仕方がないから、フィフィは連れてくるわ。あの子、また来たがっていたから」
 本当のことだ。どうせ来るなら、多少知っている所の方がいいだろう。
 拍子抜けしたアリシアは、今日の所は諦め、次に向けて策を練ることにした。男相手では、薬は使えないから、今のままではいけない。根本的な部分から考え直さなくてはならない。




 朝、新聞のテレビ欄を眺めていると、朝食のトーストとスクランブルエッグをテーブルに置いた慶子が、エプロンを外しながら言う。
「兄さん、なんか変なのよねぇ」
 慶子は再びキッチンへと向かい、コーヒーと牛乳を手にした。
「何がだ?」
「窓の鍵を閉めたのに、開いてたのよ。干してあった下着はそのままだったし。鍵は絶対に閉めたのに」
 窓は防犯ガラスだ。一度、家に男が侵入してきたことがあり(寝ぼけた慶子に叩きのめされた)、慶子は防犯については過敏になっている。本当のことを話すのも何だが、このままでは慶子が落ち着いて眠れなくなるだろう。
 フィオは牛乳に手を伸ばした手を引っ込め、不安げに保を見上げた。彼は日頃から部屋には入るなと言われている。その約束を破ってしまったので、脅えているようだ。
「ああ、それにぃちゃんだ。猫が慶子の部屋のベランダ近くで鳴いてたから、下に降ろしてやったんだ。猫のくせに降りられなくなっててさ、可愛かったぞ」
 保は咄嗟に嘘をつき、慶子は何だと言って椅子に座る。
 フィオが眩しいほど澄んだ瞳を保に向けた。
「慶子はぐっすり寝てたから」
「兄さんやディノさんがいるし、最近熟睡できるのよ。そういえば、バットの位置が変わってたのよね」
「ははは。寝ぼけてお前に殴りかかられたぞ」
 慶子の頬に朱が差した。これで疑われることはないだろう。この嘘は、しばらく前に実際に起こった出来事だ。バットは振り回さなかったが、寝ぼけて蹴られた。その時は鍵を閉めておいたので気付かれなかった。
「そう言えば、日曜日にフィフィとアリシアが遊びに来るから、美味しいケーキでも買っておいてくれないか」
「アリシア……って、こないだの? なんで?」
「フィオの遊び相手にいいだろ。年も近いし、性別も似たようなモンだ」
 たまにはフィオにも同年代の同性の友達が欲しいだろう。慶子が仲裁に入れば、喧嘩もしなくなるだろう。秘密も何もない、友人が出来れば、フィオの慶子に対する依存も薄れるかも知れない。フィオと慶子の仲がいいのは問題ない。しかし、彼の将来を考えると、今のままではまずいだろう。そろそろ、変化が必要だ。
「私はアリシアとなど遊ばないぞ!」
「どうしてだ? アヴィの妹だろ?」
「兄は兄、妹は妹だ!」
「慶子の好きなフィフィも来るんだ。仲良くするんだぞ」
「仲良くなどしないぞ」
 フィオはぷりぷりと怒ったが、彼ならすぐに忘れるだろう。仲良くなるかなれないかは分からないが、可能性は用意した方がいい。
 喧嘩友達でも、いれば人生が変わるときもある。
 保と樹も、始まりは口喧嘩からだった。

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