25話 あたしと兄貴その2
見上げるその家は、ご近所でもかなり有名である。どう有名なのかはあまり考えたくないが、彼の顔を知る者は多く、知らない人に「帰ってきたのね。おかえりなさい」と言われる程度には、有名だった。
「すごい、お屋敷じゃないですか」
隣に立つ女が、きゃーきゃーと騒いだ。ここに来るまで散々浮かれっぱなしで人目を引き、彼は少しうんざりとしていた。
本来なら一足飛びで来ればいいところを、公共交通機関を利用してようやくついたのだ。妙に気疲れしてしまった。
「綺麗なお庭ですね。花が一杯咲いて綺麗です!」
門から中の様子を見て、彼女はきゃーと騒いだ。騒がしい女だ。
「ひょっとして、使用人とかいるんですか?」
「いるわけないだろ。あれは妹の趣味だ」
「感心な妹さんですね。な、仲良くできるでしょうか?」
「変なことしなければな。
いいか、絶対に変な言動はするんじゃないぞ」
「はーい」
むやみやたらとニコニコと笑う、この子供じみた女に対して、拭いきれない大きな不安を覚えた。しかしここで立ち止まっては話が進まない。帰りたいが、ここは踏み込まなければならない。今を逃すと、後々が恐ろしい。
そう、早いに越したことはない。時間が過ぎれば過ぎるほど、身内の目は冷たくなるだろう。
「………………行くか」
「はーい」
不安で不安で仕方がないが、彼は諦めて門を開けた。今日は土曜日。少なくとも、妹はいるはずだった。
兄がやって来た。大学生の賢い方の兄がやって来た。
兄弟揃っての癖のある茶色い髪に、アンダーリムの眼鏡の下にある気怠さを感じる目。賢そうに見えるし、顔立ちも悪くないのだが、不思議とやる気を感じさせないその容貌、まさしく彼女の兄である。
知らぬ女を連れている。つややかな黒髪の美少女だ。黒目が大きく、顔が小さい。はかなげで、男なら支えたくなるようなタイプだ。慶子が男なら、間違いなく口説きたい美少女だ。
兄は目を逸らし、うつむいている。
「兄さん、どうしていきなり? せめて連絡ぐらい入れてよ。彼女を連れてくるならなおさら。もう買い物に行っちゃったわよ」
兄は顔を上げ、すまないと呟いた。
次男の淳は、そう大食いではない。よく食べる保が度々予告もなく樹を連れてくるので、多めの食材を用意してあり、足りないと言うことはないだろう。メニューは少し考え直さなければならないが。なにせ、お客様が来ているのだ。
「あ、嫌いな物はありますか?」
「な、ないです」
美少女はぶんぶんと首を横に振った。元気で可愛い人だ。幼く見えるが、大学生だろうか。慶子よりも年下だったらどうしようと、本気で悩む。
「こんな所じゃ何ですから、どうぞ上がってください」
くだらない悩みはおくびにも出さず、スリッパを用意し、リビングへと案内する。年下でも、中学生でなければ問題ない。さすがに、それは無いだろう。きっと。
リビングのドアの隙間から、フィオとアリシアが顔を覗かせていた。
「誰だ?」
淳が二人を指さして問うてくる。慶子の友人とは、まんま毛色が違うのだ。気持ちは理解できる。
「金髪の方がフィオで、銀髪の方がアリシアよ。フィオはうちで預かってるの。あ、あの大きいのはディノさん」
ディノも顔を出し、ぺこりと頭を下げた。
「……人間には見えないが……」
慶子は、ああ、この兄も変な道に足を踏み入れているのだなと、感慨に耽った。明神一家から離れたのに、なぜ彼はそんな道を歩んでいるのだろうか。東堂一家は、そういう運命に呪われているのだろうか。
「慶子、誰だ?」
「私の下の兄の、淳兄さんよ」
「じゅん?」
「そう」
フィオはじっと淳を見つめ、アリシアは上から下まで舐めるように視線を動かす。淳は戸惑いながらも笑みを浮かべて頭を垂れる。
「こんにちは、お嬢さん達」
「こんにちは」
「どーも」
淳の挨拶に、フィオは礼儀正しく、アリシアはおざなりに言う。
慶子はリビングの入り口にへばり付いていた二人を追い払い、兄と客人をソファに座らせた。それから飲み物を入れようとキッチン向かう。淳はコーヒーをブラックと決まっている。客人はどうだろうか。見た目は紅茶が似合いそうだ。
「ええと……」
名前を聞いていないことを思いだし、少し言葉に詰まった。彼女さんでは、おかしいだろうか。
「あ、申し遅れました。リノと申します」
可愛らしい声で、可愛らしい名を名乗る。ここまではよかった。ここまでは。
「ご主人様には、いつもよくしていただいています」
その言葉に、慶子は固まった。
兄を見る。兄は「馬鹿かお前は!」など言いながら、リノの後頭部を殴った。
「ああ、申し訳ありませんご主人様じゃなくて淳様じゃなくて淳さん」
慶子は、思わず両手で頭を抱えた。
淳はまともな男だと思っていた。頭も良く、常識があり、保に比べてずっと安心して見ていられる存在だった。
「兄さん……」
慶子は、自分の目が霞んでいるのを感じた。
「ち、違うっ!」
「兄さん! 人様のお嬢さんに、一体何をしているの!?」
涙がこぼれた。
「だから違う、誤解だ! 俺は決してお前の思っているようなことはしていないぞ!」
決定的な証拠が目の前にあるにもかかわらず、兄は必死で否定する。情けない。他所のお嬢さんに、そんなマニアックなことを仕込むなんて、情けない。情けなさ過ぎる。
「見損なったわ、兄さん!」
慶子は兄を睨み付ける。
「いいんじゃないの? 下僕は多い方がいいわよ」
アリシアは、アリシアらしい発言をした。彼女は彼女で問題だ。そのアリシアの隣で、フィオがあっ、と声を上げた。
「分かった、ドレイでチョーキョーという奴だな」
手を打ち満面の笑みで言うフィオ。慶子は耳を疑い、フィオの肩を掴みガクガクと揺さぶった。
「またあいつらね!? あの馬鹿悪魔と馬鹿妖精ね!? そんな言葉は即刻忘れなさい!」
「そうですフィオ様!
ああ、あの悪魔ども! 人が目を離した隙にフィオ様になんてことをっ」
「それは違うぞ。これはアリシアが、奴隷を調教するのは楽しいって」
慶子はアリシアの頭を軽く殴った。教えていいことと悪いことがある。一見仲良くなったように見えたら(睨み合うだけで、掴み合わなくなった)、一体どんな会話で盛り上がっていたというのだろうか。
「お、落ち着け慶子。俺は別に調教なんてしていないから」
淳が何かしらじらしい言い訳をしている。
慶子はほろほろと泣きながら携帯電話を取り出し、大樹や保へと電話をかけた。
慶子の泣き声を聞いて動揺した大樹と保が飛んで来るまで、慶子は兄を正座させて頑固な父親のように聞く耳持たず説教をした。
珍しく鍵の掛かっていないドアを開き、大樹は東堂家に踏み込んだ。いつものリビングまで行くと、慶子が並ぶ兄達に、あんたらは不誠実だ、このふしだらな遊び人め、帰ってくるな、認めて欲しければ首を洗って差し出してこいなどと、機関銃のようにまくしたて説教している。よくあれだけ言葉が続くものだ。
「あ、大樹!」
部屋の縁の方で震えていたフィオが、大樹を見て大喜びして駆け寄ってきた。フィオにこれほど歓迎されたのは初めてである。バイクに乗ってやって来たかいがあったというものだ。
「大樹殿、慶子殿を止めてください!」
ディノがまだ説教を続けている慶子を指さした。
「っーか、兄二人に止められないものを、俺が止められるはず無いだろ」
「この役立たず!」
なぜかいるアリシアが、汚物を見るような目で大樹を見上げて罵る。失礼な小娘である。さすがにむっとなり、意地悪く言う。
「まあ、できないこともないけど。もしも出来たら、どうする?」
謝罪の言葉ぐらいは欲しいのだが──
「べつにどうもしないわよ」
それはとそうだろう。彼女はこういう女だ。
渋々と、大樹は出かけに持たされた一升瓶をかざした。
「ケイちゃん、よくわかんないけどとにかく珍しくて高い日本酒持ってけって父さんが。なんかよく分からんけど、祝いだとか何とか」
その言葉に、東堂一同全員が飛びついた。
「お酒持ってきたの? 先に言ってよ」
「お、俺、飲んだことあるぞ。美味いんだこれ」
「芸能人はこれだから」
「いや、芸能人じゃなくて、ただの格闘家だって」
妹と弟に、グルメライフを送る長兄は睨まれあたふたと言い訳をする。
慶子の怒りは散々説教して、酒を与えられて収まったらしい。
「で──淳さんが他所様のお嬢さんを調教して奴隷にているってのは、どういう意味なの?」
泣きながら言うものだから、もっと修羅場を予想していたのだが、実際には保を巻き込んでの説教だった。物は壊れていないし、淳も無傷であり、拳は使われていないらしい。
「聞いてよ。淳兄さんってば、彼女にご主人様とか呼ばせて、叩いたのよ」
大樹は部屋の隅の方、フィオ達がいたよりもさらに奥の方で萎んでいる黒い少女を見つけた。
あれが原因らしい。
人間のように見えるが、そうでない気もする。少なくとも、普通の人間ではないだろう。
「慶子、話を聞いてくれ。少なくとも、俺はあれを紹介しに来たんだから」
「そうね。名前しか聞いてないものね」
慶子は酒瓶を抱えて、上機嫌で頷いた。
慶子をなだめるには酒。美味い酒が一番である。次に和菓子かケーキ。酒飲みなのに、甘い物が大好きなのだ。そして辛い物も大好きなのだ。
「リノ、こっちに来い」
「はい、ご主人様じゃなくて淳さん」
「だから、その呼び方をやめろと言っているだろう! お前のせいで周囲に変な目で見られるわ、妹に説教されるわろくでもない!」
少なくとも、彼は自分からそう呼ばせているようではないらしい。どちらかというとサディストなのだが、口先で散々凹ませるタイプの男である。慶子とは違った方向性だが、口の上手い男である。それが、女二人のせいでここまでダメージを受けていた。実に愉快である。
「でも、ご主人様はご主人様で……」
「お前の頭はヘチマたわしかっ!」
「でもでも」
その問答を見て、慶子は立ち上がって茶をくみに行った。酒瓶は、冷蔵庫に入れる。さすがに昼間からは飲まないようだ。
「淳さん、いちゃつくのは子供達のいないところで」
淳はフィオが無垢な瞳でじっと見つめていることに気付き、こほんと咳払いを一つする。
「兄さん、慶子、実は大切な話しがある」
淳は改まり、慶子が持ってきたコーヒーを一口飲む。心なしか、彼が緊張しているように見えた。
「実は、できた」
「なにか?」
兄と妹、同時の呟きに彼はふっと笑いながら、きっぱりという。
「あんたらの甥か姪」
慶子の蹴りが淳の側頭部にヒットし、彼の眼鏡が吹き飛ぶ。保が倒れた淳に見たことのある寝技を仕掛けた。
自業自得とは、まさにこの事である。
ちらと確認した眼鏡は、なんと無事だ。毛足の長いカーペットの上に落ちたのが幸いだったようだ。
「二人とも学生なのに、結婚もしてないのに!」
「見損なったぞ淳! お前が高校生孕ませるなんて! 相手を考えろよ!」
全くその通りである。実に滑稽だ。慶子に散々説教を受けていたのも、身に覚えがあったからに違いない。
大樹は耐えきれなくなり、とうとう吹き出し腹を抱えて転げ回った。
「ぶっははははっ! 失敗してやんの、ばっかでー!」
「っさい! 泥酔してたんだよ! なんかの祝賀会で、みんなで酒持ち寄りまくってちゃんぽんして!」
「酒で失敗してやんのぉ。馬鹿だ。大馬鹿だ。それなのにさっき酒に反応しまくりかよ!」
大樹はツボにはまり、ひぃひぃ笑いながら床を叩く。そんな大樹のズボンの裾を、ちょんちょんとフィオが引っ張った。
「出来たって、何ができたんだ? オイカメイとは何だ?」
「子供だよ。赤ちゃん!」
新種の生物を脳内で創造するフィオに、正しい答えを教えてやる。彼は子供ができるのは特殊なことで、身近に起こるはずがないとでも思っているのだろう。
「お……甥か姪!? 」
フィオは戸惑った様子でわたわたとリノを見る。
「でも、腹は出ていないぞっ」
「妊娠初期は普通なんだよ。段々大きくなるんだからな」
フィオに説明している内に、笑いの発作の方は収まった。フィオは瞳をキラキラと輝かせ、夢見る瞳でリノを見ている。ただ一心に見つめている。その腹を。
「お腹が出てくるのはまだまだ先です。検査したら偶然発覚して、普通に生活していたら気付いたのはもっと先でしたから」
彼女は嬉しそうに腹を撫でた。彼女の愛情は本物だ。何がいいのか知らないが、あの男に惚れているらしい。
「で、結婚はいつ?」
「まあ、そのことで明神の方にも相談している最中だ」
「どうして明神に?」
ああ、と大樹は納得した。父は知っていたから、祝いを渡したのだろう。慶子が怒ったのも、出来ちゃった婚をする兄を怒っている、とでも思ったに違いない。まさか奴隷が云々と騒いでいるとは思わなかったのだろう。大樹も状況が判断できず、慶子の所に行くとだけ言って出てきた。
「戸籍がないからな、こいつ」
「…………隣の大陸のお方ですか?」
慶子はいつものように現実的な発想で問う。入管が来ては大変だとでも思っているのだろう。
「そっちの連中と似たようなものだ」
そっち、と、固まる異界人達を指さした。家主の方がドタバタして、今日はアリシアも大人しい。いや、訂正する。たった今、怪しげな目をして動き出した。
「妊婦相手に乱暴するなよ」
「しないわよ! 魔界は男女差無く乱暴な奴の多い世界だけど、孕み女にだけは親切なのよ!」
子供は大切にということか。大樹は妙に子供好きな所のあるアヴィシオルを思い出す。彼がフィオをかまうのも、初めは利用するつもりであったが、今は根っから子供のような無邪気さに触れ、可愛くなったからなのだろう。趣味が合うのも大きい。
アリシアはソファに腰を下ろしたリノの顎を掴み持ち上げ、顔をじっくりと観察する。アヴィシオルが見たらお持ち帰りされそうな、黒髪と黒目の美しい美少女だ。
「あんた、精霊?」
「は、はい。でも、どうしてそれが?」
「人間と区別がつかないのに、人間でもないからよ。私みたいに繊細に出来ていると、それぐらいの判断は出来るわよ。噂に聞く闇の精霊ね。主がいない限り呼ぶ者に逆らえず、主がいればそれに絶対服従」
他の魔族は力押しするようなタイプばかりらしい。魔界で頭を使い生きているのは、少ないとアヴィシオルは言っていた。だから考える生物が多い人間界は好きだと。アヴィシオルもまた、あれでも一応思慮深く行動するタイプらしい。魔界とは、きっと恐ろしい場所なのだろう。
「主持ちとは残念だわ。契約の書き換えが出来るのなら別だけど」
「主はただ一人だからこそ主です。いいご主人様に出会えて良かったです」
異界の知識に乏しい大樹には、二人の会話の意味が理解できない。兄かアヴィシオルかルフトなら理解できるのかも知れないが、今ここに二人はいない。いればルフトあたりが自慢げに解説してくれただろうに、残念だ。妖精というのは、魔族と違って全体的に賢い種族なのだ。だからこそ、アリシアも一度は惚れたのだろう。しかも彼は妖精王の息子で、最も魔術を巧みに操る、妖精の王子様なのだから。あれでも。趣味が変質者的でも。
「でも、人間でしょ。主を持たない精霊が自分の世界を出るはずもないし、どうやって出会ったのよ」
アリシアはリノから手を放し、空いたソファに腰掛けて問う。
「ご主人様はとってもとっても天才で、自分で扉を開いてしまえるんです」
にこにこーっと、とんでもないことを言う。
アヴィシオルとルフトの出会いは、本当に偶然だった。彼らは偶然、同じ研究をして、毎日のように同じ儀式を試していた。異界への扉を開くという、火種になりかねない実験を。それが同時に行われて、偶然開き、穴越しに会話をしたのがきっかけだった。
「自由に世界を渡れるようになったのは、そいつを手に入れてからだ。精霊界に行ったのは、ちょっとした偶然が重なった」
淳はしきりと首をかしげながら言う。さすがはこの一族にあるだけあり頑丈だ。普通なら気を失っているだろう。ごきりと鳴ると、満足して反対側に首をかしげた。
「淳兄さん……危ないことしてるの? 真面目に勉強してる?」
「普通にしていれば危なくないし、卒業は出来る」
真面目に勉強はしていないのだろう。真面目な慶子にとっては、高い授業料を無駄にしてと腹が立つだろう。
彼が通う大学は、光の宮の息が掛かった、普通ではない研究もしている。どちらかというと、光の宮寄り。鬼や異界研究などという、恐ろしく普通ではない研究をしている。もちろん、非公式だ。
「これからどうするの? 進学するつもりだったみたいだけど、子供いるんなら、学校やめて就職するの? 卒業までは待つの?」
家族を持つには金がいる。親のすねをかじって家族を持つというのは、慶子は許さないだろう。責任を取るというのは、そういうことだ。
「金のことなら問題ない。それなりの収入あるから」
「どうして?」
「俺とこいつは、研究対象でもあるからな。まあ、変な薬を試すのと違って、危険はない」
本人が望んでも、逃がして貰えないだろう。そういう世界に足を踏み入れている。全ては彼の父の策略だ。気付いたときには、彼もとっぷりとこちらの世界に浸かっていた。
「まあ、生活のことは心配するな。その他諸々、光の宮がなんとかしてくれる」
彼としては頼りたくもなかったのだろうが、孕ませてしまったものは仕方がない。二人で逃避行するほど、苦難が好きな男でもない。
「で、結婚式は?」
「しないつもりだけど。やるとしても、招く人間なんてお前等ぐらいしかいないから」
元々こちらの世界の住人ではないのなら、それは当然だろう。
「そっか。でも、せめて簡単なお祝いはしなくちゃね。今日は泊まってくでしょ。保兄さんに高い肉と酒を買わせに行かせましょうか」
「そうだな。ぱーっとやるか。保の金で」
「ええ、兄さんのお金で」
二人のぱーっとは、半端ではない酒の量になるだろう。保の頬がひくりひくりと痙攣した。酒好きの弟と妹を眺め、不安が募るのだろう。
「そうだ。肝心なこと聞き忘れてた。お姉さま、予定日は?」
慶子はリノに向かって、うきうきとした表情で尋ねる。叔母になることを、喜んでいるようだ。彼女は子供が大好きなのだから、当然だろう。しかも兄の妻が、彼女が好きそうな可愛らしい女性である。その子供に愛らしさを期待するのも無理はない。
「お、お姉さま!?」
リノは狼狽し、しかし隠しきれない喜びも見えた。
「よ、予定は、12月だって言われましたけど」
「女の子かな? 女の子だと嬉しいわ」
「さぁ。いつごろから分かるんでしょうか。私はご主人様の子なら、男の子でも女の子でも嬉しいです」
リノは幸せの絶頂とばかりに笑う。いい笑顔だ。淳の人間が出来ているとは思えないが、主として、恋人としては良かったのだろう。彼女がどういう理屈で使役されているかは知らないが、この世界にもそういうのはある。主が悪ければ、使役される側は不幸でしかない。あれだけ幸せそうに笑えるのは、主がいい証拠である。
淳の妻、慶子の義姉というのであれば、大樹にとっても未来の姉である。円満な家庭を築いてくれるに越したことはない。
「じゃあ、兄さん美味しい物を買ってきて。お姉さんは肉好きですか?」
「はい」
「じゃあ、すき焼きね」
慶子は他に何を作ろうかしらぁ、と呟きながら、台所に向かう。保は立ち上がり、上着と財布と車のキーを持った。
「あ、私も手伝います」
リノはぴょんと立ち上がり、どこかフィオの足取りに似た、とてとてという頼りない足音を立てて台所に向かい、慶子はいいんですよお姉さん、と言った瞬間だった。
彼女は何もないところでつまずいた。こてっ、とつまづいた。
大樹は迷わず動いた。視界に入った何もない場所に、移動する。
そして、気付けば大樹が横から腹を支え、前から来た慶子が抱き留め、保が背中を掴み、腕が首根っこを掴んでいた。手だけ。振り返り腕を差し出す淳を見た。腕の先がない。大樹が視線を戻すと、手は消え、淳の手は戻っていた。
「お前は、自分が妊婦だって自覚を持て。今は転ぶぐらい問題ないかも知れないけどな、もう少ししたら洒落にならないぞ」
「あ、はい。すみません」
「だからお前は動くな。地を歩くな。寝てるか座ってるか飛んでろと、何度言ったら分かる?」
「うう……」
リノは涙目になりうなだれた。
彼の言葉から察するに、きっと、これは日常茶飯事なのだろう。精霊というのがどんな生物なのかは知らないが、仮に妖精に近いものだと考える。彼らは歩くよりも空を飛ぶ事が多い。走るなら飛ぶ。よって、こちらの世界に来て人間の振りをすると、走るのが遅く、筋肉のバランスが悪いのか、よく転ぶ。それと同じ理屈だろう。
「……兄さん、ガンバ」
「……なんで俺はこんなイバラの道を」
「自業自得という言葉以外にないと思うけど」
リノが自分の使役であることを忘れ、手を出したのが悪い。
大樹も気をつけようと、日頃の行いを振り返った。
そして、酒には絶対に手を出さないとも誓った。どうせ飲めないのだが。