26話 山へ行こう

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 ひいひいと言いながら、彼は山を登って行く。道無き道を、ただひたすら登る。雪が積もったりとしていないのだけが幸いだ。
「なんで俺がこんな目に……」
 呟く彼に、妙に元気な昭人が言う。
「まま、奴が見つかるまでですよ、大樹様」
 それが見つからないから、こうして苦労しているのだ。昭人はあれで元々野生動物の身だが、山に来たからと生き生きしているわけではない。ここにいて、追跡部隊に参加できたからこそ喜んでいるのだ。
「つーか、なんで俺がこんな山中を歩き回らにゃなんねぇんだ?」
「私達ではどうも捕まえられないからですよ。
 結界で出られないんで、まあゆっくり探しましょう」
「だぁら、なんで俺が」
「いや、離れていても捕らえるのは、大樹様と樹様が得手としています。となると、樹様はさすがに……」
 分かっている。自分達がかなり都合のいい力を持っているのは。そうなると、自然と自分が働かされる。兄は組織の頭で、最強なのだ。そう易々とは動けない。
「ああ、ったく!」
 大樹はたまらずくしゃみをして、鼻をかむ。
「ああ、花粉が憎い!」
 ここは山の中だ。杉の木は見えなくとも、花粉は強烈だ。花粉ガードの眼鏡にマスクも空しく、彼は餌食となっている。
 実に憎らしい。
 シーズン前に注射も打ったのに、こんな所にいては意味が無い。
「つーか、どこだよ」
 早く見つけて帰りたい。だが、見つからず、帰れない。すばしっこいため、捕縛するのは難しい。なのに、明の命令は、生け捕りである。
 生まれたばかりの鬼は、こちらに引き込みやすい。
 ただ情報が何もないので、どんな形状をしているのかも分からない。人の姿をしていたら分かりやすいが、山の中で動物の姿になられたら、ぱっと見で判断するのは難しい。
 大樹は鼻をかみ、勢い余って転び、眼鏡を落とし、涙を落とす。
 泣けてくるのか花粉のせいか、よく分からない。天気予報では、今日は花粉がひどいと言っていた。だから来たくなかったのに。
「大樹様! 来ました!」
 言われて目をこらすが、涙でよく見えない。何かが彼の脇を通り過ぎたような気がしたが、目に捉えることが出来なかった。
 涙で目が霞んで。
 気配は消えて、追い立てていた男達が肩を落とす。
「だめだ。今日は風が強い」
 花粉が多い。このまま続けたら、死ねるような気がする。
「あきらめて、人里に降りるのを待とうよぉ」
 この台詞も、鼻水により自分でも何を言っているか分からない。 
 とは言っても、本当にそれは出来ない。結界をはらせた意味がない。根本から考えなくてはならない。
 おびき寄せる餌でもあればいいのだが……。
「お、そうだ!」
 大樹は思い切り鼻をかんでから携帯電話を取り出し、履歴からかける。何度か呼び出し音が鳴り、スピーカーから女の声が漏れた。
「あ、ケイちゃん? 今日から夜依ちゃん泊まりに来てるんだよね。じゃあ、明日みんなで俺んちの別荘来ない? 温泉にご馳走に美味い酒付き付き。山菜も採らせにいくから。あ、黒衣も連れてきていいよ。保さんとかも。え、保さん仕事で一週間いない? じゃあディノさんとかでもいいけど。あ、ほら、男が少ないとなんだか寂しいじゃん。じゃあ、決定! 着替え用意しといてよ。朝九時頃、迎えをやるから。ははは、フィオちゃん山行ったことないって? そりゃあ楽しみにしていてって伝えてよ。じゃあね」
 ぴっ、と、電話を切ると、大樹はまた鼻をかんだ。慶子の前では鼻声にならないよう我慢していたが、やはり長くは保たない。
「慶子さんを呼んでどうするんですか? 危険ですよ」
「餌」
「は?」
「夜依ちゃんって餌に、黒衣という新たな戦力がタダで手に入る」
「……やけになっているでしょう」
「ってわけで、昭人、明日ケイちゃんを迎えに行く。俺、今から別荘に戻って花粉落として空気清浄着付けて、温泉入って休む。よし完璧。俺もうイヤ。無理。やっぱ人間なんだから、知恵と道具を使うべきだよな、うん」
 大樹は一人で納得して、きびすを返して山を登る。ここから歩いてすぐの場所に、火野の別荘がある。分家の物は本家の物だ。だから一切の遠慮はいらない。
 その代わり、彼は生涯『明神』という血に縛られる。おかげで、青春で謳歌すべき部分を半分ほど損をしているのだ。


 車を降りると、黒衣は周囲を見回した。
 複数の『鬼』の気配を感じた。
 人形なのはさすがに少ないだろうが、明神子飼いの鬼はそれだけではない。
 昭人が迎えに来た時から感じて、山に入ったときから増して、到着したときには爆発しそうになった物が、今はじけ、呟いた。
「騙されたっ!」
 ただの温泉旅行だと言っていた。どうせ大樹が慶子の浴衣姿を目当てに一緒にいた夜依も誘って、警戒心を与えないよう周囲も誘ったのだと思っていれば、目当ては慶子ではなく彼らの方だったのだ。
「騙したな!? 貴様達、騙したな!?」
「何言ってるんだ、黒衣。ここまで来ておいて」
 ははは、と鼻に掛かった憎らしい笑い声が聞こえそちらを見て──絶句した。
「……変質者?」
 そう、あれはまさしく人間の思い描く変質者の図だ。幼子相手に興奮し声をかけるような、コートの前を開けば女性を恐慌に陥らせる醜い姿が待っていそうな、そんな格好である。ご丁寧に、ゴーグルのような眼鏡に、マスクまでしている。
「ああ、大樹、去年ぐらいから花粉症なの」
「おお、あの有名な杉花粉の『あれるぎー』とやつか」
 慶子の言葉に、最近テレビで覚えた言葉を思い出す。そういえば、このようなグッズがあると言っていたような気がする。現実に見るのは初めてだった。
「杉は見あたらないが、あるのか?」
 黒衣は花粉などというものを不快と感じたのは、寝ている傍らで杉を伐採し始めた時だけだ。
「あるんだよ。ここらは一見天然林でも、向こうは杉だらけ。ここは風下。しかも俺は杉だけじゃない! へっくしっ」
 最後にくしゃみをして、鼻をかむ。
 彼は見るからに弱っていた。これほど弱々しい明神の男はほとんど見たことがない。風邪をひいているとか、死にかけているとか、そういう稀な場合だけだ。
「……というか、樹の名前を与えられて、木に弱いとは。明が嘆くぞ」
「それとこれは関係ない! 俺は立派な現代っこなんだよ! 明様の血縁者でもないし」
「そうか。明神も人の子か。人として生まれてきた人外だと思っていたが、すまない。誤解していたようだ」
 彼は愉快に思いながらも感慨深く頷き、そして自分の置かれた状況を思い出す。
「ところで、何のつもりで私達を呼んだ」
「あ、明様の命令で、鬼になりたての子供を迎えに来たんだけど……怖がって出て来ないんだ。だから俺がちょっと捕獲することになったんだけどな……ほら、俺、いまボロボロだから」
 自虐的に笑う彼の様子は哀れだ。だが、同情する気にもならない。なぜなら、彼の言葉の意味が理解できたからだ。
「夜依をおとりに……」
「ああ、危険はないだろ。ケイちゃんが側にいる。あいつはまだ誰も食っていないし、人型だからな。お前も親近感が湧くだろ。明様も是非手に入れたがっている」
 人を殺して食ったことはないが、人を食ったことがないわけではない。死体は食べたことがあるし、夜依には血をもらっている。そうしなければ、生きていけない。だから彼の評価は正確ではない。
「なぜ」
「別にいいけどけどな。俺がダメだったとき、お前には説得を頼もうと思っていたけど」
「なぜ私が」
 関係のない傍観者を貫いてきた黒衣が手を貸すなど、彼は本当に思っているのだろうか。夜依とその友人達さえ無事なら、彼はそれでいいと思っているのだ。
「だから、夜依ちゃんに頼もうと思う。きっと快く引き受けてくれるな、うん」
 その言葉に、黒衣は歯噛みする。夜依は断らない。頼まれれば、どうしてだめなの? と言って不思議そうに黒衣を見上げるだろう。
「やればいいんだろう! やれば!」
 おびき寄せる餌、そして人質の意味が夜依にはある。もしもの時も、彼女なら手懐けてしまう可能性があるのだ。彼女は力の強い鬼に対してこそ、その力を発揮してくれる。
 初めはキツネだったらしい。次はカメ。次はヘビだったらしい。彼女の親が、今度はようやく普通の動物を拾ってきたと喜んで、黒を可愛がっている。
 引っ越したことにより今は生きている二匹も姿が見えなくなっているが、そういうのに守られていたのは本当だ。これでまた、新しいのが増えるのは遠慮願いたい。黒衣は自分でも意外なほど独占欲が強いのだと、最近自覚したところなのだ。
「……あ、安心しろよ。お前と夜依ちゃんの生活に水を差したりしないから」
「これが十分に水を差されている!」
「まあまあ。楽しい未来のために」
「変質者の姿をした男に謀られて楽しい未来などない!」
「まあまあ、ほら、フィオちゃんも喜んでいることだし」
 と、そこで彼は眼鏡の表面を磨き、目を凝らす。
「……なんで虫取り網?」
「カブトムシを捕りたいそうだ」
 大樹は沈黙し、くしゃみを一つしてから、朝から浮かれるフィオの肩を叩いた。
「フィオちゃん、カブトムシはまだいないんだ」
「ええ!? なぜ!?」
「だって、夏だよ、カブトムシが採取できるのは」
 フィオは虫取り網を取り落とし、慶子の所に泣いて帰る。そこまでショックを受けるとは思いもしなかった。よほど楽しみにしていたのだろう。
「ケイちゃんももっと早く教えてあげればいいのに」
「いいのよ。あたしは虫なんて嫌いだから。嫌いって言ってるのに、欲しがるんだもの」
 彼女がほっておけと言うので言わなかったが、やはり胸が痛い。
「虫、嫌いなんですか?」
 昭人の言葉に、慶子は頷く。
「虫、嫌いだそうだ」
 と、昭人は誰に向かって言うでもなく言う。虫が、近くにいるのだろう。黒衣の知り合いにもいる。
 女性の虫嫌いだけは、どうしようもないだろう。昔からそれは変わらない。
「そんなことよりも、温泉は? 山菜は?」
 慶子はフィオの頭を撫でながら、満面の笑みを浮かべて言う。
「真緒、案内してやってくれ。黒衣もあいつなら安心だろ?」
 真緒を見て、黒衣は迷う。
 まだ若い鬼だ。夜依と同年代の鬼の女。
「さあさあ二人とも! とりあえずお風呂に入ろうよ!」
 了解を待つことなく、真緒は二人を案内した。噂にだけは聞いている、少し変わった女。
「温泉に入るのか? 楽しみだな」
 カブトムシのことは忘れたのか、第二の目的食欲を満たす事を思いだしたフィオは、機嫌を直して慶子に問う。
「フィオはディノさん達といなさい」
「え!?」
「フィオは人とお風呂に入れないでしょ。ちょっと我慢なしてなさい」
 フィオは目を潤ませ、黒衣は夜依に手を振り、大樹は自分で差し出しておいて憎々しげに真緒を睨む。花粉症の彼は部屋の中にいたいのだろうが、現実は春休みに最悪の場所での仕事なのだ。


 慶子が真っ先に風呂に走っていってしまったため、大樹はフィオを連れて登山道に入った。ディノと手をつなぎ、初めての山にも興奮せず、大人しい。よほど拒否されたのがショックだったのだろう。
「フィオちゃん。蝶々ぐらいはいるから元気出して」
「蝶々か? 弱そうだからそれほど好きではないぞ」
 この子のこの手の趣味は、本当に男の子のようだ。
 そして大樹は知っている。慶子が大の虫嫌いで、小学校で飼っていたコオロギや鈴虫にすら敵意を見せ、蝉が飛んではこの世から消えればいいと言い、蛾が飛んできてはたたき落とし、蛍ですらゴキブリにそっくりと逃げまどう。ゴキブリなど出たら、家を飛び出し明神家にやって来て、大樹に退治するようにと命令する。お願いではなく命令。業者に頼んで害虫駆除をしてもらい、それでも慶子は数日間脅えて家に帰れなかったので、大樹と真樹が東堂家に泊まり込んで確認したほどだ。
 そんな慶子がかろうじて可愛いというのは、蝶々と蜂なのだが、和解の道は閉ざされた。残念だ。
「では、山菜でもとりますか?」
 昭人は予定が狂ってしまったフィオに、もう一つの趣味、食べることに関する提案をする。
「慶子が喜ぶか?」
 フィオはこくりと首をかしげた。
「ええ。本当はまだ時期が早くてほとんど出てませんけど、こっちには野生児達がいますからね。ある程度見つけられると思いますよ」
「こら待て! 野生はてめぇもだろ!」
 突如空から男が降ってくる。最近では真人間のように見える昭人と違い、まるで不良少年のような出で立ちだ。若者文化を身につけているらしく、実にだらしのない格好をしている。
「すごい。突然現れたぞ! 木の上から降ってきたぞ! 忍者みたいだ!」
 自分が空を飛べることは既に忘れたのか、フィオが手を叩いて喜んだ。それを見て、ディノが遠くを眺めながら力なく頷く。
「今朝から姿を見なかったけど、どこに行ってたんだ?」
 大樹は彼の顔に、なぜだかアザがあるのが気になった。
「真緒に夜這いをかけたら、沢樹達に袋にされました」
「ああ、それはお前が悪い」
 大樹は呆れた男を鼻で笑う。沢樹達はさぞ怒り心頭で袋だたきにしただろう。真緒は彼らのアイドルでお姫様だ。
「なあなあ大樹。カブトがいないなら、何ならいるんだ?」
 フィオはくいくいと大樹のコートを引っ張った。
「そうだなぁ。可愛い野ウサギとか、狸とか」
「ほうほう」
「熊とか」
「熊! 熊が欲しいぞ!」
 大樹は目を輝かせるフィオを見つめて押し黙る。フィオが熊と遭遇したらどうなるだろう。
 おそらく、生き残るのはフィオだろう。彼はこれでも偏ってはいるが高度な教育を受けている。力の使い方も本当は上手いらしい。しかも首にはクルスがいる。慶子の側にいるからただの天然に見えるだけで、本当は強い。熊などは相手にならないはずだ。訓練を積めば、アヴィシオルやルフトに劣らない戦闘力を身につけるだろう。
 訓練すれば。
「フィオちゃん。熊って、テディベアとか想像してない?」
「違うぞ。それはぬいぐるみだろ。正しいのは、柔道家が格闘して勝つと伝説になる生き物だろ」
「フィオちゃん、何を読まされたのかすげぇ気になる」
「大樹も読むか?」
「いや、いい」
 大樹は空を見上げ、相変わらず花粉が飛んでいるのを感じながらため息をつく。肌の露出している部分がかゆい。早く帰って風呂に入り空気清浄機二つ置いた部屋で慶子とごろごろしたい。
 彼がいるところからは、ちょうど別荘が見える。慶子が入っているだろう風呂場の囲いも見える。覗き防止の囲いだけ。
 切なさを覚える大樹の目の視界の隅を、何やら小さな生物が通りすぎたような気がした。
「大樹、今変な生き物がいたぞ」
「変な生き物って?」
「ああ。鳥でもないのに空を飛んでいたぞ。すごいな」
 報告では、人型の時は幼い子供だが、獣の姿は鳥ではないが飛ぶ生物だと言っていた。
 その言葉に大樹は目を凝らす。
 何も見えない。何も見えないのだが──不安になってきた。
「ちょっと予定変更して戻ろうか」
 大樹は坂道を駆け下りた。


 駄犬。
 イノシシ。
 かに。
 イタチ。
 鼻水だらりに目が兎さん男。
 その他大勢の男達。
 そんなのに囲まれ、一部を除く男達に口説かれていた彼女は、突如やってきた美少女達を見て跳び上がって喜んだ。
「まさしく掃き溜めに鶴!」
 温泉にはしゃぐ二人の美少女に、真緒は感激していた。
 しかも温泉に一緒に入るなど最高だ。二人の後を追うとき、大樹が物言いたげにこちらを見ていたが、彼女たちはこちらは皆女。何の問題もない。脱衣所に入るとき、何人かの男が淀んだ目でこちらを見ていたが、きっと沢樹が退治しているだろう。
「真緒さん、突然叫んでどうしたの?」
「きはだみつるさんって、どういう人だろう?」
「さあ。聞いたことないけど、新人の歌手?」
 ああ少しずれた、湯船に浸かり肌をほんのり朱に染めた彼女たちが愛おしい。これでこそ、温泉に来たかいがあるというものだ。
「ここの温泉は、お肌にいいんだよ」
「そうねぇ。ぬるぬる感が、お肌に効きそうだものね」
 東堂慶子は腕を指でこすり、前に手を出す仕草のせいで、胸が寄せられダイナマイツな光景が目に入る。
 大樹もこれが見たかったのだろう。いい目の保養だ。大きいのに形良い胸、腰はくびれ、尻は大きいと、西洋人のような体格をしている。
 そして夜依の方はといえば、慶子とは正反対の細く折れそうな手足をしている。その割に胸は立派に平均よりは育っているのが素晴らしい。
 女で良かったと、こういう瞬間に思うのだ。
「明日の朝は、温泉で便秘に効くおかゆを作ってくれるらしいから、楽しみにしてね」
「この温泉、便秘に効くの!?」
「うん。綺麗なお湯は飲んでもいいよ。後で誰かに用意させようか? お持ち帰り用とか」
「本当? 嬉しいわ」
 慶子は心の底から嬉しそうに、目をぎらつかせて言った。よほど悩んでいるのだろう。思い出してみれば、大樹がテレビでやっている便秘解消法を真剣に見ていたことがあった。彼女のためだったのだ。
 意外に健気な男である。
「ところで真緒さん。この集まりは一体何なの? 見たことあるような人がうろうろってしてたけど」
「ああ、これ? 簡単に言うと、逃げたペットにする予定だった子を捕まえてこいって」
「逃げたって……山に?」
 慶子は窓の外の山を見て呟いた。もっと開放的な露天風呂もあるのだが、間違いなく男達が覗きに来るため、安全な室内風呂を選んだのだ。今朝、真緒の飼い犬である沢樹が、問答無用で夜這い男を一人、覗き男を二人ほど、使い物にならなくしてしまったため、大樹が嘆いたりくしゃみしていたりしたが、不埒な男が悪いのだ。振られているのだから、大人しく女王様と崇め奉り言いなりになっていればいいものを、襲ってくるなど問題外。沢樹の屍を乗り越えて来るのなら、沢樹をペットから下僕に降格し、ペットの座を与えてやると言っているのに、それでは不満らしいのだ。
 鬼の雌が圧倒的に少なく、雄が奪い合いをするのが昔からだそうだが、最近では求愛の方法すら知らない駄目な男が多い。これなら人間のナンパ男の方が遙かにマシというものだ。真緒は外見と年齢が一致するまだ若い鬼である。こんな男達ばかり見ていると、もういっそ、大好きな女の子に走ってしまうのも手とすら考える。
 そんなことになったら、沢樹が鬱陶しいほど泣くだろうが。
 憂鬱に思いながら、まだ若い鬼は、ちゃんと紳士に育てなければと肩に力を入れる。
「そのペットって、また犬?」
「いいや。違うらしいよ。何なのか聞いてないけど」
「って、完全に温泉目当て?」
 探すのは鬼と分かっているのだから、知る必要もないという立派な理由があるのだが、言えるわけがない。もしも犬だったりしたら、明神家総出で、しかも教主の樹まで来て『わんちゃんーん、怖がらなくていいから出ておいでぇ』などと山狩りを始めていただろう。
 あの一族の犬好きは異様である。
「でも、やっぱり温泉はいいね。クロちゃんも入れさせてもらえばいいのに」
「あ、それはしばらく無理だね。黒衣は大樹に働かされてるから」
 戦力としてはかなり大きい。殺さず無力化出来るほど強い鬼は、光の宮にも滅多にいない。最近ではまだ若い昭人がめきめきと伸びているが、黒衣に比べれば彼など赤子に等しい。
 そんな大物を、クロちゃんと呼んで胸に抱き、一緒に寝ているこの夜依という少女は、光の宮でも注目されている存在だ。ただし、守護が強すぎて手出しが出来ない。嫁に欲しいと思っている男もいるようだが、無駄な考えだ。黒は彼女にとって、真緒にとっての沢樹のようなものだ。ただし、沢樹の場合は油断をすると刃向かってくるのに不満を感じている。黒衣のように食事が一番の喜びという無欲な男ではないのだ。
「大樹、黒衣さんを呼び出して何をする気かしら」
「さあ。でもクロちゃん、フィオちゃんを連れて、昆虫の代わりに山菜採りに行ってくるって言ってたような気がしたけど」
 そんなことをしに行っていたのかと、微笑ましく思う。大樹が外に出たがらず、空気清浄機を二つも用意した部屋に引きこもっているので、好き放題だ。彼の大切な夜依は、真緒とその犬である沢樹が守っている。少なくとも、成り立ての鬼が沢樹に敵うはずもない。
「あ、ここ窓開くんだ。ちょっと開けてもいい? のぼせちゃう」
 慶子が湯船から上がり、テラスへと続く窓を開く。全て開くと、露天風呂気分が味わえる。
 そんな些末なことよりも、彼女の引き締まったヒップを眺める方が楽しい。羨ましいほどの色気だ。日本人らしい体つきをしている真緒は、思わず神の不公平を呪った。神と言えば明。明にぶちぶちと文句を言い続ける嫌がらせなどどうだろうか。
「あ、うお、何っ!?」
 慶子はばっと振り返り、突然飛び込んできたそれを見つめる。
 それは慶子の頭に一回着地してから、夜依の頭の上に飛び移り、無邪気でつぶらな瞳を真緒に向けた。
「む、ムササビだ」
 慶子が叫び、夜依が立ち上がってそのムササビを抱きかかえる。
 ムササビに見えるのだが、どう見ても同族──鬼である。
 ──ああ、餌の威力ってすごいんだな。
 確かに彼女を見ていると幸せな気分になり、常に横にいたくなるが黒衣が睨むので恐くてできないというのが現状だが、もう風呂に入って窓を開けるだけで虜にしてしまうほど、彼女独自のフェロモンは強烈らしいようである。
「可愛い!」
 夜依はムササビを抱きしめ、頬ずりをする。
「やーん、あたしも抱かせて! 可愛い! 大人しい! すごーい」
 夜依に抱かれて、慶子に撫でられ、赤子同然とはいえ羨ましい奴だ。
 真緒は、あまりに突然の出来事に、どうしていいのか迷う。捕獲がこんなに簡単に成功してしまっては、大樹が苦しむ姿を眺めるのももう終わりではないか。
 肩を落とす彼女の背後──脱衣所に気配が生まれる。
「真緒さん! 覗き野郎入ってきませんでしたか!?」
 曇りガラスの向こうから、沢樹の険しい声が聞こえた。
「あ、開けたら捨てるからね。覗きって言うより、捕獲成功」
「ええ!? もう!?」
 さすがの沢樹も驚き声を上げる。見た目よりも長く生きている彼が驚くのだから、やはり異常な事態なのだ。
「え、ペットってこの子? だから人に馴れてるのね」
「可愛い。でも、明神君のところの子なんだ」
 夜依は残念そうに肩を落とす。野生のムササビだったら、持って帰っていたのだろうか。黒衣あたりがよだれを垂らしそうなものだが、どうなるか見てみたい気もする。
「真緒さん! ちょっと!」
 沢樹が真緒を呼びつける。渋々と湯船から上がり、タオル片手に曇りガラスに近づいた。
「何?」
「真緒さん……」
「ん?」
「その鬼、雄ですか?」
 真緒は振り返り尋ねる。
「その子雄?」
 夜依は抱きかかえていたムササビを持ち上げ、じっとその股間を見つめた。
「何もついてないから雌じゃないかな?」
 その瞬間、沢樹は曇りガラスの向こう側で跳び上がり、走って出て行く。真緒はそろりとガラス戸を開けて、開け放たれている脱衣所の戸を閉め、鍵をかけた。
「なによあれ」
 男など、若い女が現れれば、すぐにそちらに気がそれるのだ。貴方に全てを捧げますと言って、本当に捧げる男などいるはずがない。
「そうだ! 二人とも、これからもっといい温泉に行かない?」
 真緒は再び浴室に戻り、こちらを見ている二人と一匹に問う。
「もっといい温泉?」
 二人は首をかしげ顔を見合わせた。
「うん。少し山の上に、こことは違う幻の秘湯って言われてる天然の温泉があるの。行きたいなら用意して」
 その言葉に、二人は迷わず立ち上がった。

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