26話 山へ行こう

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 しくしくと泣き続けるフィオ。
 うううっと泣き続ける沢樹。
 それぞれ女の置いてきぼりをくらい、そうと知ったとたんに泣き始めたのだ。
「フィオちゃんはいいけど、沢樹ウザっ」
 見た目は女の子で、性別も半分は女の子のフィオが泣くのは可愛らしいし、同情心も湧く。しかし上背もある大人の男が泣いているなど、見ているだけで殴りたくなる。現在、機嫌の悪さ最高潮の大樹である。殴りかからないだけ立派だと自分自身で思っていた。
「ひどいです。こちらは胸を痛めているのに!」
「つーか、自分の女の前で他の女のことで浮かれるお前が悪い!」
「そんなぁ」
 本当にうじうじとうっとうしい。真緒が呆れて出て行くのも理解できる。
「どうしましょう。真緒さんが本当に女性に走ってしまったら……。私は真緒さん無しでは生きられません!」
「お前を見てると、我が身を振り返れるよ」
「愛の深さを分かってくれましたか。では、探しに行きましょう! 捜索隊になど任せられません!」
 こぶしを握り締めて、沢樹は吠えた。これが犬の忠誠心であろうか。その言葉に、落ち込んでいたフィオも立ち上がる。
「そうだ。自分で動かねば! 今時は動かないでただ待っているだけなど、流行らないとアヴィが言っていたぞ!」
 フィオは真っ当だが、あまり聞きたくない名を叫んだ。内容はいいことなのだが、絶望的な言葉に思える。
「ディノ! 私は慶子を探すぞ! 愛とはつかみ取る物だ!」
 どこで覚えたのか、フィオは雄々しく叫んだ。慶子からつかみ取るのは愛玩だろうが、微笑ましい姿にディノは嘆いた。彼もまだまだふっ切れていないらしい。
「まあ、ケイちゃんは別に探さなくても問題ないけどなぁ」
「いいんだ、探すんだ!」
 フィオは言い捨て涙を吹きながら駆け出した。
「ま、待って!」
 さすがに大樹も慌てて止めた。ディノがフィオを追いかけ、その首根っこを掴む。
 最近はディノもフィオに対して多少乱暴なことをするようになってきたのは、気のせいではないだろう。
「ディノ、離せ。私は慶子を探しに行く」
「フィオ様だけでは、遭難するだけです。ここは、鼻のきく人に任せるのが一番ですよ」
 フィオは納得したのか、うむと頷く。そして、黒衣を見た。
「クロ」
 フィオは純粋無垢な星すら浮かんだ瞳を黒衣に向けた。潤んでいるから、本当にキラキラしている。いつもなら怒りそうなところだが、さすがの黒衣もあの純粋さには負けたのか、力なく言う。
「私は犬ではない。犬はこっちだ」
 と、沢樹を指さす。
「そうか。沢樹は明の息子だったな。だから犬なのか。頑張れ沢樹!」
 沢樹は一見美少女に応援されて、こくこくと頷いた。
 以前からまさかと思っていたのだが、彼は幼めの少女が好みなのだろうか。それとも、扁平な胸の女が好みなのだろうか。
 どちらにしても、真緒は怒り出すだろう。
「そうですね。探しましょう! 真緒さんに許し請うために。そのためなら、何だってします」
「そうだぞ。アヴィだって、妻に許しを請うためになら、一週間ゲーム断ちだってするんだぞ。私だって慶子を探し出して、仲間に入れて貰えるように何をしてでも請うのだ」
 フィオは胸を張って言う。情けない理由だなと思いながら、大樹はそれもいいだろうと苦笑する。
 今の彼を悩ませるのはただ一つ、憎き花粉だけである。


 十分ほど山道を登ったころ、突然視界が開けて大きなログハウスが目の前に現れた。
 ほとんど獣道に近いハイキングコースのような道を来たのだが、こんな立派な家があるとは驚いた。下の屋敷はいかにも別荘という面持ちだが、山ならやはりログハウスの方が風情があっていい。
「素敵ね。でも、こんなに近いのに、どうしてこんなもの建てたんだろ」
 慶子は右肩にかけたDバックを持ち直しながら呟く。
「こっちの方が後に出来たんだよ。明神の土地は、敵対しない限りは自由に使っていいって風習があるから」
「…………そーなの?」
「うん。私達はね」
 真緒はそれだけ言うと、バルコニーへの階段を上り、その上にあった玄関のドアを開き、中へ入る。
「大丈夫」
 夜依は真緒が連れてきた、大きな服を着た可愛らしい少女に微笑んだ。幼稚園に入るか入らないかという、小さな女の子だ。夜依は勝手に「さっちゃん」と呼び始めたのだが、誰も否定しない。そのさっちゃんは、言葉を話せないのか、人前では話すことも出来ないほど恥ずかしがり屋なのかは分からないが、夜依にひっついて離れない。夜依が進むからさっちゃんも進む。その光景はなかなか微笑ましい。
 夜依の意味不明なことについては、考えるだけ無駄だと覚っている。
 慶子もログハウスの中に入ると、玄関で靴を脱いで真緒が用意してくれたスリッパを履き、廊下を少しばかり歩いてリビングに出た。広々とした部屋の中には、女性が一人、揺り椅子に座ってくつろいでいた。
「よぉ、真緒。捕まえたか」
 女性は手をあげて「さっちゃん」を見ていた。
「いえーす。さっちゃんです」
「……………………それでいいの?」
 慶子も、あまりよくないと思う。そう頷く彼女の隣で、夜依が何を考えているのか分からない笑顔を浮かべた。
「本当はラッキーにしようと思ったけど、女の子だから幸ちゃんにしたの」
「じゃあ正式には幸ちゃんで。私の妹〜」
 真緒が幸を抱き上げ、頬ずりをする。少女は抵抗せずに、どこか嬉しそうにその抱擁を受け止めたことから、嫌ではないようだ。本当に可愛い女の子だ。
「いいけどねぇ、別に。ところで、その二人は?」
「温泉に入りに来たの。こっちが夜依さんでこっちが慶子さん」
「この匂い……ああ、黒衣の。私はクレハ。よろしくな」
「クロちゃんのお友達ですか? よろしくおねがいします」
 夜依はぺこりと頭を下げた。黒衣は大樹と同様に変な方向に知人が多いようだ。それでも夜依が満足しているし、彼はお馬鹿なことを言い出すフィオを可愛がってくれる優しい男だ。探偵などしていれば、明神のような変な知り合いも出来てしまうのだろう。そう納得することにした。
「温泉なら、好きなだけ入るといい。幸はこっちにおいで。服を用意するよ」
 幸はきょとんとして夜依を見上げる。夜依も似たような表情でクレハを見た。
「黒衣の服を作ったのは私だよ」
「ああ、あなたが」
 夜依は納得した様子で、幸の背中をぐいと押す。幸は振り返り夜依の笑顔を見て安心して、恐る恐るクレハの手を取った。脅える小さな少女は、本当に可愛らしい。
 真緒は二人に手を振ると、こっちこっちと慶子達の手を引いて外に出る。
「こっから二分ぐらい歩いたところにあるんだ。露天風呂だけど、男達は絶対に入れないから、安心していいよ。クレハ姉さんは大の男嫌いだから、その点は徹底してるんだ」
 彼らも色々と忙しそうだから、覗きに来る暇なんてないだろう。大樹には悪いが、楽しむだけ楽しませてもらう。温泉は最高である。今日はフィオもいないし、ゆったりのんびりとしよう。
 きっとフィオも、蝶々を追いかけて遊んでいるに違いない。


「何をしているだらしのない! それでも貴様は犬か!?」
 フィオは迷う沢樹を罵った。
 フィオは元々、人に命令し手足のように使う生活をしていたのだ。その上アヴィシオルやルフトに染まっているので、これぐらいの事を言っても仕方がない。
「でも、ここら辺から匂いがするんです」
「何もないではないか、犬のくせに役立たず!」
「ああ、真緒さんにしか言われたことがないのに!」
 真緒には言われているのだ。情けない男である。
 フィオは憤慨しながら、周囲を見回す。フィオは意外と短気なところがあるのだ。慶子が関わる事に関して。
「オーリン、お前はわからないか?」
 犬の形をしたオーリンに、フィオはすがるように尋ね、犬の形をしているだけで、探査能力は低いと返された。オーリンの主な能力は擬態であり、ある程度の動きをコピーすることは出来ても、中身の能力までは真似できない。
「フラグが立ったのに、クリアできないではないか」
「フィオちゃん、そんな言葉を教えたのはアヴィ?」
「なぜ分かるんだ?」
「いやだって、シミュレーションゲーム好きなのはアヴィの方だから」
 ルフトは格闘やシューティングなど、技術が必要なゲームを好むのだ。ゲームセンターに現れる謎の美少年外人として目撃者はかなり多いだろう。
 山の中、大樹はため息をついて空を仰ぎ、花粉ガードの眼鏡越しによく晴れた青空を見た。相変わらずよく晴れた花粉日和だ。腰に手を当てたとき、そのわずか下のポケットの中身が震えて、太股に何とも言えぬ振動を伝えた。
「……を」
 大樹は携帯電話を取り出して、ディスプレイを見る。明だ。
「……そういえば明様、携帯もってたっけ」
 確か、始めは浮かれて何度も電話をかけてきたが、すぐに飽きて使わなくなっていたような気がする。見た目は可愛い犬だが、中身は立派に老人なのである。
「はい」
『ああ、大樹。かかったかかった』
 電波が届いているのだから、掛かって当然である。機械オンチの明からすれば、それだけで十分すごいことなのかも知れない。
「何か?」
『いや、携帯を新しいのにしてもらったんだ。最新の機種で、何とかという少年達が宣伝に出ているやつだ。見た目が格好良くてね』
「はあ」
『で、保護は出来たかい?』
「いや……あの……保護はされたんですが、真緒にケイちゃん達共々どこかに連れて行かれて行方不明です」
 女の真緒だから心配はしていないが、見つけ出さないと数日は引きこもられそうな予感がある。
『そういえば、前にその当たりに別荘を造っていいかとクレハに聞かれたよ』
「く……クレハが?」
 思い出すのは幼い頃、男のくせに女に逆らうなと踏みつけられた記憶。慶子に殴られるのは愛情がこもっていて嫌いではないが、知らない相手にただ少し子供らしい抵抗を見せただけで虐げられたあの時から、クレハという女に対する苦手意識がすり込まれていた。
 男に対しては非情だが、女に対してはどこまでも寛容という女傑である。それも、鬼達の女に対する態度があまりにもひどかったためにそうなったのだろう。数少ない彼女に受け入れられている男の一人が、黒衣だ。女を見ても襲わないという、ただそれだけの理由である。それが鬼の女達にとっては、一番重要なのだ。
 真緒が沢樹を側に置くのも、口説き落とそうという意志が沢樹の方にあるからだ。力づくで制圧しようという男なら、とっとと明神を見限って一人で暮らしているだろう。
「うう……」
『相変わらず苦手みたいだね。たぶん、クレハの力で隠れているんだよ。ほころびを見つけて広げないと、素通りするだけだからね。大樹ならきっと大丈夫だ。頑張るといいよ』
 さらりと言ってのけるが、あの黒衣並み知名度を持つクレハが相手である。正面から一対一での戦闘なら今の大樹なら恐ろしくもないが、隠れられるとどうしようもない。罠を張り、絡め取るのが彼女のやり方である。
「うう……」
 大樹にとって、姿を隠してというのが、一番苦手なタイプである。
 別に敵対しているわけではないので、命のやりとりの心配はないが、女を庇うためとあれば、彼女は死ぬような罠も仕掛けていないとは限らない。なにせ大樹は人間だ。無駄に頑丈な鬼達とは違う。
「クレハさんですか。あの人苦手です」
 気の強い女が好みの沢樹も、彼女の前では子供同然だ。そのクレハに、真緒が懐いているものだから複雑な気持ちだろう。
「結局、どうすればいいのだ?」
 腕にチワワを抱くフィオは、早く早くとせかしてくれる。
「糸の切れ目を見つけないと」
「どうやって?」
「勘」
 フィオが唇をとがらせ、しかし文句を言わずに探し出す。口では説明できないのだ。そうと思った瞬間、それは掴むことが出来る。
 大樹は目を使い、沢樹は鼻をくんくんと鳴らして探す。
 他の男達も、女がたくさんいると知り、張り切って突破しようと試みた。
 そしてこれが、一時間以上続いた。


 温泉から上がると、真緒はスキップでログハウスに戻った。そのころには、幸は可愛らしいワンピースを身につけていた。おそらく、どこかの子供服のブランドのデザインを拝借したのだろう。クレハはその力で形も色も好きに変える布を作り出すことが出来る。そのせいか、世間の流行には敏感だ。子供服の雑誌を持っていてもおかしくはない。
「可愛い!」
 可愛い物には目がない慶子が幸に飛びついた。勝手に名前を決めてしまったが、鬼の名前などそんなものである。クレハの名前も、漢字にすれば「呉服」だ。つまりは彼女の名前を呼ぶのは、呉服屋と呼んでいるに近い。それで慣れてしまったクレハは、それを我が物としている。元々人でなかった彼らには、そうして出来た名前が彼らの名なのだ。黒衣や真緒のように、生まれたときから名を与えられた鬼は少ない。人として生まれるか、生まれたときから誰かに飼われている必要があるからだ。
「さっちゃん、可愛い!」
「か……わ……いい」
 言葉を理解せぬのは、動物故に仕方がない。皆、始めはそうだ。人と暮らしていた者はともかく、そうでない者はそこから学習が始まる。人の姿になったり、生来のすがたになったりと繰り返しながら、人と接触し言葉を覚える。生まれたばかりの時は、人の姿の時よりも、生来の姿の方が多い。いや、下位の鬼であれば、人としては不完全な姿しかとれないので、捕食するとき以外は生来の姿をとる。彼女のように生まれながらに人の姿をとる人鬼の方が珍しい。将来性が高い証拠だ。
 姉として誇らしい。
「そうだ。可愛いぞ」
「可愛い」
 上手く発音できて、幸は嬉しそうに笑う。
 鬼が言葉を覚えるのは速い。一ヶ月もあれば日常生活で疑われない程度には話すことが出来るようになるらしい。育っていく姿を見るのは初めてなので、本当にそうなるのか今から楽しみだ。
「さすがは姉さん。センスがいい」
「無論じゃ」
 口にして、彼女ははたと気付いて唇に指を当てる。その土地、その時代に違和感がないように口調を気にしているらしいが、時折意味の分からない言葉を使うときがある。今は日本中どこに行っても、標準語を使えば怪しまれないため昔に比べるとずいぶんと楽になったらしい。
「今夜はどうする? 泊まっていくか?」
 クレハはソファに腰掛け、足を組みながら問う。
「そうだね。無粋な男達など、一晩頭を冷やせばいいんだよ。ねぇ、慶子さん」
「そうねぇ。フィオにはディノさんもいるし、一晩一人にしておいてもいいわよね」
 慶子は抱きしめていた幸を解放し、考えるように視線を巡らせる。立ち姿が綺麗な彼女に、真緒はついうっとりと見つめた。クレハも肉感的な女性だが、慶子はそれと違った清楚さがある。こう、ぐっと来るモノがあるのだ。大樹と樹は実に趣味がいい。彼女は将来もっといい女になるに違いない。
「食事はどうしましょうか。材料があれば作りますけど。クレハさんは昼食食べました?」
「冷蔵庫の中を適当に探してくれ。ほとんど日持ちするものか冷凍だけど」
 山奥じゃ仕方がないかと呟きながら、慶子は冷蔵庫へと向かう。リビングとキッチンにはしきりがあるが、壁をくりぬいたようなデザインで、扉がないためほとんど一つの部屋といった雰囲気だ。
 慶子は雰囲気を気に入ったのか、楽しげにキッチンを探った。
「あら、いいワインがいっぱい。日本酒もいっぱい。ウイスキーもいっぱい」
「ああ、好きなだけ使ってくれ」
「ええ、好きなだけ飲んでいいんですか!? 嬉しい」
 過大解釈した大酒飲みの慶子は、るんるんと冷蔵庫を開いて中を確認する。野菜が冷凍しかないとぼやいているが、ここは山奥だ。栽培しているわけでもないので、そんなものがあるはずもない。いつもここにいるクレハは、野菜はあまり食べない。元々肉食なのだから、当然である。冷凍とはいえ、野菜があったことに驚かねばならない。おそらく、他に通う女達のためだろう。
「ブロッコリーにほうれん草に枝豆にキノコにアスパラか。肉はあるし、何とかなるでしょう。あ、缶詰いっぱいある。おつまみにいいわね。昼食はパスタでいいですか?」
 慶子は大容量のパスタの袋を振って問う。クレハがそれでいいと言ったので、慶子は調理を始めた。
 慶子は鍋を取りしだして蛇口をひねる。
「うーん。トマトベースと和風キノコとどっちがいいですか?」
「トマトで」
「ニンニクとタマネギってないですかね」
「外に干してあるよ。ニンニクは魔よけになるって言うからね」
 その言葉に、夜依が玄関に向かう。
 言うと慶子は缶切りを取り出したので、真緒は彼女の元へ駆け寄ると、そっと缶切りを取り上げた。
「手伝うよ」
「ありがとう。缶詰は……あら、蜘蛛」
 慶子がトマトのホール缶を手にして呟いた。
 彼女は、大の虫嫌いである。そして──
「やぁね。ゴキブリでもいるのかしら」
 慶子は窓を開けて、トマトの缶を振る。ぶらんと缶に糸一本で繋がり揺れる蜘蛛。缶についた糸を切り、指に下がる蜘蛛をそっと窓枠に乗せて窓を閉めた。
「……虫、苦手な割には冷静だね」
 フィオに対する態度から、そうとうな虫嫌いだと感じたのだが、嫌いでも冷静でいられるタイプなのだろうか。普通はこの年の女の子は、蜘蛛など見たらきゃーきゃー叫びながら逃げまどうものと思っていただけに、真緒は呆気にとられた。
「蜘蛛はいいのよ。ゴキブリを食べてくれる益虫だもの。それに、見た目も格好いいと思うし」
 その言葉に、今まで大して興味を示していなかったクレハが膝を手で打ち立ち上がった。
「えらいっ!」
 普段は静かに不気味に笑っているクレハが、今はとてつもなく嬉しそうに笑っている。嬉しいのだろう。蜘蛛に生まれ、恐れられてきたのだ。
「そう、蜘蛛は益虫だ。ただ恐いだけでも、格好いいだけでもない。分かっているじゃないか!」
「蜘蛛、好きなんですか?」
「そうでもないが、若いのにあんたはえらいねぇ。気に入った」
「はあ……」
 蜘蛛の事で気に入られてしまった慶子は、理解できずに戸惑った様子で曖昧に頷いた。まさか、目の前にいる人の本性は蜘蛛なんです、とは言えない。
 しかし二人が一方的にとはいえうち解けたのは幸いだ。
「よし、今夜はとっておきの酒を出そうか」
「本当ですか。楽し……」
 その時だった。雷が落ちたような轟音が響いたのは。


 フィオは、以前から時々大胆な主であった。悪魔にそそのかされて天界を出て行く程度には、大胆な主である。
 先ほど、空に鳥が飛んでいたのだ。それが、あるところを境に突然消えてしまったのだ。そこは偶然にも結界の継ぎ目で、クレハに拒まれていないから、入ることが出来たのだと大樹が言う。
 あれほど高い場所では手の施しようがないと言って、あっさり諦めようとしたところ、フィオは腕を上げてその空間を指さした。
「ほころびを、攻撃すればいいのだな」
「は? 攻撃?」
「衝撃を与えるには、攻撃が一番だ」
 フィオには翼があり、空を飛ぶことが出来る。そこまで行って、力を発すればいいのだろう。もちろんフィオにそんなことをさせるわけにもいかないので、服を脱いで翼を出すのはディノの役目だ。この服には背中に翼を通す穴がないため、上半身だけ見れば女性のフィオには脱がせることなど出来ない。
「大体の位置が分かっても、見分け方は分からないだろ。まあ、任せておけって」
「そうは言うが、もう一時間たったぞ。腹も空いた。いつもなら昼食の時間は過ぎているのに」
 フィオは昔慶子が使っていたという、可愛らしいキャラクタの時計を見て、もう一度空を睨む。腹が減ると誰しも短気になる。
 その時のフィオは、慶子の不在と空腹で、より一層短気になっていた。
「こうなれば強硬手段だ」
 フィオの口から、そんな言葉が出た。
 何をする気だと思った瞬間、フィオは全身に魔力をみなぎらせた。彼の髪は浮き上がり、空が急に曇ってきた。
「な……なんか雲がおかしいっ」
「何なんだ!? 天変地異か!?」
「大樹様、危険です。戻りましょう」
 離れたところで騒ぐ男達には目もくれず、フィオは背筋が凍るほどの力を発しながら、空を睨み続けていた。
 大樹が呆気にとられてフィオを凝視している。
「ふぃ、フィオちゃん?」
「大樹殿、伏せてください」
 ディノはとばっちりを恐れて既に伏せていた。
「フィオ様は両性具有だからと有力視されていたわけではありません。天界における両性具有とは、強大な魔力を有するという意味があります。つまりは、フィオ様はある意味でアヴィシオル殿と近い理由で、候補者になっていたのです」
 それを聞き、大樹はさっとしゃがみ込んだ。
「フィオ様にかかれば、天候を一瞬のうちに操作するなど、たやすいことです」
「んな馬鹿なことが……」
 大樹がディノへと言いつのろうとしたまさにその瞬間、ついに雷が落ちた。
 男達が騒ぎ立て、混乱する様子を見ると、人ではないらしいくせにずいぶんと気が小さい。あの黒衣ですら、驚いた様子で木にすがって縮こまっていた。彼らは意外と自然の驚異に敏感なのかもしれない。
 ディノはちらと空を見ると、雲が散っていくのが見えて立ち上がる。雨が降らなくてよかった。
「よし! 開いたぞ!」
 フィオは上げていた腕をおろし、振り返ってしゃがみ込んだ大樹を見下ろした。大樹は乾いた笑い声を絞り出し、立ち上がる。
「何もここまでしなくてもよかったんだけどね」
「そうなのか? こういうときは、大きな力をぶつけるのが常套だぞ」
「いや下手すると、山火事になるから」
 雷に打たれて木が裂けている。男達が燃えている部分を消火しているので、山火事になりそうな様子はない。
「フィオちゃん、そんなことも出来たんだね」
「色々と出来るが、慶子が駄目だと言うからしていないだけだ。一般人に見られたら、大変なことになるのだろう。天界の者にも見つかる。アヴィは、天界の者が私を探しに来ていると言っていた」
 そして、この国にはまだ目を付けていないとも言っていた。
 地球儀という物を見たが、この国はとてつもなく小さな島国である。しかも明神は情報を出さず、握りつぶしてくれているらしい。それ故に探し出すなど、不可能ではないかとすら思われる。
 目立たなければ。
「フィオ様は力をひけらかす方ではありませんが、時々発散させないとストレスを溜めるタイプです。不安に思っていたのですが、こういう場所に来て放電したりするのは、いいですね。室内だといつ火災になるか不安ですから」
「ああ、そうなんだ。じゃあ対策を考えておくよ。
 じゃあ行くか。一部もうフライングしてるし。下手にあいつ等が先に到着すると、クレハの機嫌が悪くなる」
 大樹は言って、ゆっくりと歩き出す。
 途中、奇妙な格好で固まっている男がぽつりぽつりと立っていた。よく見れば、何やら極細の糸に絡まれている。
「蜘蛛の巣に掛かった虫のようですね」
 とはいっても、蜘蛛の巣のようにはっきりとは見えない。前に一度見た、手品に使用する見えにくい糸のようである。
「まさしくその通り。あの女郎蜘蛛が張り巡らせた陰湿な罠だ。罠に掛からないためには、先に突っ走った馬鹿達の様子を見て、慎重に進むことだ」
 大樹の言葉からは憎悪や悪意よりも、どちらかというと恐怖に近い物を感じた。彼は普通に歩いているように見えるが、やや腰が低く、瞬きの回数も減り、実はかなり慎重に歩いていることが伺える。
「待てフィオちゃん。まっすぐ行くと危険だ。右に迂回しろ」
 先に行くフィオに声をかけ、獣道から外れた所を通させる。他の男達は、野性に帰ってとんでもない道とも呼べぬ場所を行き、木の間や、木の上で引っかかっている。
「むぅ。これは試練か。負けぬぞ。私は慶子と遊ぶんだ」
 彼はよほど慶子との旅行が嬉しかったのだろう。風呂から出れば慶子と一緒に行動しようと思っていたのに、その慶子が連れさらわれてしまったのだ。
「フィオちゃん、生き生きとしてるな」
「フィオ様にとって、慶子殿は生まれて初めて得た家族ですから。戯れるのが生き甲斐なのでしょう」
 ディノは配下に過ぎない。慶子とは違うのだ。
「さあ、慶子殿と遊びに参りましょう」
 フィオが慶子のために動く姿を見ることは、ディノにとっては楽しみの一つである。


「真緒さん!」
 底抜けに馬鹿っぽい自分を呼ぶ声に、真緒は思わずフォークを握りしめた。
 雷が鳴ったので、家の中でじっとしていようと話し合い、とりあえず慶子が作った昼食を食べていた。キノコとアスパラとベーコンのトマトソースパスタと冷凍野菜で作ったコンソメスープだ。
 せっかくの楽しいランチタイムを、無粋にも邪魔をするなど男の風上にも置けない。
 何よりも他の女に尻尾を振る犬など、何の意味があるだろう。自分にのみ尻尾を振るからいいのであって、忠誠心に欠ける犬などただの見せ物にしかならない。愛玩用としては、あの男は鬱陶しい。
「迎えに来ました!」
 真緒は無視してスープのブロッコリーを食べる。
「許していただけるまで、ここで座ってます」
 根負けするまで外にいるつもりのようだ。強引に中に入らないだけ、他の男よりはいいのだろう。
「情熱的ねぇ」
「ウザいよ」
「気持ちは分かるかも」
 沢樹と大樹はほとんど兄弟のように生活していたらしい。似通っているところもあるだろう。
「慶子、慶子っ! 慶子遊ぼう!」
 ママを求めるだだっ子のような、見た目はもう中学生ぐらいにはなっている天使の声が聞こえた。それにはさすがに慶子も動く。
「フィオ」
 晴れやかな笑みを浮かべ、慶子は窓へと駆け寄った。
「慶子、私をのけ者にしてこんな所に来るなんてひどいっ!」
「ごめんなさいねフィオ。温泉に入りに来たのよ。フィオは連れて行けないでしょ?」
「風呂に入りに来たのか?」
「そうよ」
「そうか……なら仕方がないな」
 なんて素直ないい子なのだろうか。最近稀に見るいい子ぶりに、真緒の目頭が熱くなる。あんなに無邪気で可愛い犬ならいいのに、そう思わずにはいられない。そう思い立ち上がったとき、窓の外、上からひょこりと顔が出た。
「クレハっ! それに新しい子!」
 さすがに沢樹に喧嘩を売る気はないのか、真緒には目もくれずに他の女達を見る。あんな幼女まで守備範囲とは恐ろしい。そしてふと、沢木と出会ったのはまだ小学校に通っていた時代だと思い出す。あの時、彼に一目惚れをしたと付きまとい始めた。以前から思っていたが、あれも変態だ。
「邪魔!」
 フィオの甲高い声と共に、名も知らぬ男がどさりと地面に落ちた。
「あらあら。フィオ、知らない人をいきなり感電させるんじゃないの」
「でも、ヘンシツシャだぞ」
「そうね。でも、極力そんな力は使わないの。今のはあたしが一発殴ればよかったんだから」
「慶子の手が汚れるぞ」
「もう、可愛いんだから」
 似たようなことになるのが分かっているから、沢樹は外で座っているのかもしれない。窓から顔を覗かせれば、次々と来る馬鹿な男達が、笑顔の慶子と窓の下で痙攣している男を見て、対応に困って立ち往生している。彼らは慶子のことはよく知っているのだろう。幼い頃から明神家に出入りしているのだ。
 男達の合間を縫って、モデルのように気取った足取りでその明神の次男坊はやってくる。
「あとでシェフと食材付きでまた来るけど、あがってもいいか? 今夜食べようと思っていた、いい肉が仕入れてあるんだ」
 クレハは『いい肉』で反応をした。彼女は植物も食べられるが、肉が好きなのだ。
「そこの嬢ちゃんと、黒衣と明神の坊やは好きにするといい。何せここは明神の土地だ。
 その他は、帰れ。さもないと取って食うぞ」
 かなり本気で言うクレハを見て、彼らはびくりと震えた。ちなみに、彼女は本気である。敵対していないが、味方でもない。それが彼女たちだ。鬼の女は強くなくては生きていけない。
「異人の嬢ちゃん達と黒衣はおいで。明神は肉を持ってきたら入れてやる」
「へいへい」
「大樹、野菜も! 夜はバーベキューね」
「はいはーい」
 クレハにはおざなりに、慶子には愛想よく返すと、大樹は来た道を戻っていく。そしてフィオは階段を駆け上がってきた。
「慶子、寂しかった!」
 慶子は玄関まで迎えに行き、可愛い忠犬を抱きしめた。
 真緒はちらと沢樹を横目で見ると、彼はない尻尾を振っていそうな風に笑っていた。そのまま、真緒は窓を閉めて昼食に戻る。
 本当に夜まで動かなければ、夕食ぐらいは一緒にとってやってもいい。あまり長く放置すると、拗ねてしまう。自分よりも大きな犬を飼うというのは、人が思う以上に大変なのだ。

 

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