27話 天使が来た
「大変だよ、慶子ちゃん!」
近所の買い物カゴを手にした中年女性が、慌ただしく駆け寄ってきた。
「おば様、こんにちは」
「こんにちは、慶子ちゃん。それよりも大変なんだよ!」
「何があったんですか?」
この女性は慶子が小さな頃から世話になっている酒屋のおばさんだ。いつもは兄が飲むからと言っていい酒を優先して売ってもらっている、気さくな人だ。明るい人だが、このように大げさに騒ぎ立てる人ではない。
「近所に変な男が出没してるんだよ」
「チカンですか?」
この周辺は富裕層が多く住む地域である。そういう類のはあまり近づかないのだが、空気が読めなければ現れることもあるだろう。
「それがね、金髪碧眼の天使のように可愛らしい女の子は見なかったかって、みんなに聞いて回ってるんだよ」
慶子は目を見開き硬直した。
近所でそれに当てはまるのはあまりいない。他の候補者は幼女であり、フィオと考えていいだろう。
つまり、フィオを変な男が狙っている。
「ど、どんな男でした!?」
「それが、サングラスをした金髪の若い外人の男だよ」
「え……」
外人。つまりは日本人ではない
「慶子ちゃん言ってたでしょ。フィオちゃんは遺産トラブルで命を狙われてるって」
「は……はい」
そんなこと言ったような気がする。
「だから誰も答えていないから安心していいよ」
今の時間外に出ているのは、子供を連れた主婦層が多い。フィオを知るのはその層であり、噂の伝達が早い彼女たちは、フィオがなぜ東堂家にいるかという噂も知っていたというわけだ。
「あと、大林さんがその男を警察に突き出したらしいから」
大林の奥さんは、国籍は分からないが外国人でまさに金髪碧眼だ。子供達もまさに天使のようであり、危機感を覚えるのは当然である。どちらが狙われているにしても、そんな怪しい男は警察に突き出すのが一番だ。
「子供達にも口止めをしているけど、しばらくは外に出ない方がいいわよ。まだ何もしていないから、すぐに解放されるだろうからね」
「恐いですね……。
分かりました。フィオは家の中から出ないように言い聞かせておきます。おば様、教えてくださってありがとうございます」
慶子は丁寧に頭を下げて、笑顔を向けた。
「本当に気をつけないと、引っ越す先を手配してあげなきゃいけなくなっちゃう」
「桁が違うお金持ちは本当に大変ねぇ。あんな若い子がお金だけ持っていても、不幸なだけね……」
「ええ。ほとんど手つかずですから、意味ないんですよね。普段は質素倹約がうちのモットーですし。贅沢していいのは、自分の身体で稼いでいる兄さんです」
父親もいたような気がしたが、あれは帰ってこないのでどうでもいい。子が結婚するとしても、連絡が付かないので帰ってきて孫が出来ていましたというオチがありそうだ。
「そういえば、いいお酒が手に入ったんだよ。とっとくから、今度おいで。最近は保さんも家にいるんでしょう」
「はい、ありがとうございます。きっと兄も喜びます。
じゃあ、私はフィオの確認に行くのでこれで失礼します」
「気をつけてね!」
手を振って見送ってくれる酒屋の奥さんにもう一度頭を下げて、慶子は我が家へと急いだ。
ついに来てしまったようだ。大樹は追い返したと言っていたのに、頼りにならない連中である。フィオはアヴィシオルの家に遊びに行っている。まだそこにいるだろうから、外に出ないように注意しなければならない。
と、その時──
「お嬢さん。そこの道行くお嬢さん」
慶子は振り返り、いつの間にか背後に男がいることに気付いた。金髪の長身痩躯の男。サングラスをかけているので目の色は分からない。
「……お嬢さん、この辺りに金髪碧眼の天使のように可愛い女の子が住んでいませんか?」
「…………」
慶子は携帯電話を取り出し、登録してある警察署へと電話をかけた。
「あの、さっきお巡りさんに捕まえてもらったはずの幼女誘拐を企むロリコンの変態がいるんですけど……って、何をするの!?」
携帯電話を取り上げられて、慶子は相手を睨み付ける。
天使なのだから、さすがに乱暴はしないだろう。ただ変質者扱いをしただけである。しかもこれは本人が悪いのだ。自覚がないのならこの男がおかしい。
「お嬢さん、私はこの近所でこの短期間にどんな噂が流れているんですか」
「大林さんの所の双子の金髪美少女達は、確かに拐かしたくなるほど可愛いけど、それは人としてどうなのっ!? 警察署に一晩お世話になって諭されてきなさいっ!」
「いやいやいや、ただ本当に人捜ししているだけだから」
「嘘よ。全身から獲物を定めたヘビのような、変質者のオーラを放っているわっ」
「意味が分かりませんよ、お嬢さん」
分からなくてけっこう。こんな軽い男がフィオを探しに来るとは思いもしていなかった。ディノのような堅苦しい男が来るのだと思い込んでいた。
慶子は携帯電話を奪い返し、指を突きつけた。
「いい。貴方はもうご近所では変質者として名が通っているの。本格的に警察のお世話になる前に、とっとと帰りなさい」
あまり長く関わるのも何だと、慶子はさっさと立ち去ろうとした。その時だ。
「おい、あんたうちの妹に何の用だ」
振り向けば、慶子は十字路から姿を見せた保と、その腕にぶら下がるアリシアを発見した。
「兄さん!? なんでアリシア連れてるの!?」
「いや、買い物に行きたいって言うから」
言われてみれば、アリシアの服は今までと少し雰囲気が違う上に、上から下まで真新しい。ティーン向けのブランド品なのだろう。鞄は有名ブランドだ。
「子供に何を買い与えてるの!?」
「露出度高い格好させておくよりいいだろ。大人としては、ああいう腹やら腰やら出ている格好を見過ごすのは良くないし、子供らしい格好してくれるなら好きな物を買ってやるぐらいいいだろ」
「そりゃそうだけどね」
と、いつもよりも少し長いスカートをはいたアリシアを見る。彼女は足が長いので、それでもかなりミニスカートをはいているように見えた。
そんなことに関心していたとき、天使と悪魔は互いを指さし合う。
「あ……悪魔!」
「天使!?」
人外というのは、相手を見ただけでその種族を言い当てられるのだと、慶子は妙なところで感心した。
アリシアの方は、彼女が人間離れした容貌なのでそれが理由かも知れない。
「なぜこのような場所に悪魔が……」
「はん。正規ルートが封印されても、方法はいくらでもあるのよ。引きこもりの天使達じゃあ、思いつかないかも知れないけどね」
アリシアはふんと鼻を鳴らした。彼女は賢いので事情は察しただろう。兄もさすがに、馬鹿なことは言わないだろう。
アリシアに挑発されて、天使はむっとしたように彼女を睨んだ。
「慶子、帰るぞ。近所で変質者が現れたらしいからな」
ああこいつ等も聞いたのか、と納得する。それでアリシアは相手を天使だと見抜いたのだ。
「ちょ……本当にそんな風に広まってるんですか? この清廉潔白な私に対して、なんて失礼な!」
「ナンパに声かけてくる男のどこが清廉潔白よ」
「そりゃあ、よく育った女性に対してのみです。頭がお花畑の子供になど興味はありません」
保が無言で慶子の肩を抱き、家路についた。馬鹿はほっとけということだろう。
「お待ち下さい」
天使がなおも声をかけてくる。
「行かれるのはけっこうですが、そちらのお嬢さんを譲り渡していただけないでしょうか」
「やっぱりロリコン!?」
「さっ、帰るぞ。変なのがうろついてるから、うちに泊まれ」
保は早足で歩き出し、突然足を止めた。前を見ると、あの天使が立ち塞がっていた。空を飛べるのだから目を離していればそれもあるだろう。
「喧嘩売ってるのか?」
保が目を細めた。世間的に見れば、少女を拉致しようという男と、子供好きで有名なヒーローである。ここで喧嘩をしても褒められることはあれど、マイナスになることはないだろう。
「そうではありませんが……もしもそれが悪魔と知って、自分から関与しているのであれば……」
「別にいいだろ。こいつは向こうじゃ外にも出られない体質なんだ。こっち来て太陽の下を歩くぐらい」
保は心の狭い天使を睨み、慶子に荷物を手渡して拳を握る。慶子はアリシアを保から引っぺがし、後ろに下がらせた。まさか彼女まで保護対象とは思わなかった。
「馬鹿な天使ね」
アリシアはくすくすと笑い、危機感も何もなく腕を組んで保の後ろ姿を眺めていた。
どうやら悪魔から見ても、保は十分に強いようだ。強い男に対する彼女の目は肥えているので、信じていいだろう。
「だろう。でな、慶子がな」
「フィオ、待て」
熱心に話すフィオに向かって、アヴィシオルは制止をかけた。
「だんだん慶子自慢になっている気がするんだが」
「そんな姿も愛らしいですフィオさん」
呆れたアヴィシオルと、フィオの一挙一動に見惚れるルフト。
大樹に言われて相談してみたが、この二人に相談したのが馬鹿だった気が時々する。もちろんためにはなっている。
話し合った内容は、ほとんどディノの推測をが元である。それを彼らの知恵を借りて発展させた。
両性具有の者は性別がある天使よりも寿命が短かく、女性の天使は男性よりも長く生きる。その中でも個人差があり、他人の倍以上を生きてもけろりとしている場合がある。大人になるまでの成長は、人間とほぼ同じ速さで、それ以降はほとんど停滞し、しかしそこも個人差があり、幼い姿のままでディノよりも年上という場合があり得るのだ。
つまり黒幕は女性、もしくは長寿の家系の者と考えるべき、と結論づけた。何代にも渡る支配という可能性がないわけではないが、可能性としては一番下だ。代替わりがあれば、今まで何らかの動きがあったはずである。
そこで手詰まりとなり、次第にフィオの慶子自慢が始まったのだ。
今まで口を挟むことなく控えていた、アヴィシオルの妻はきょとんとするフィオを見て、にこりと笑う。彼女は妊娠しているらしく、フィオに腹を何度も触れられ、逆に礼を言うような女性だ。アヴィシオルの妻ともなると、寛大になる必要があるのだろう。
「とにかく、フィオも天界のことをどうにかする気になったのは喜ばしいことだ。成長したな」
「ええ。まったくです。僕らがひとまずそれぞれの界のトップに立つために、一番のネックはフィオさんでしたからね」
二人は問題なく上に立つだろう。邪魔者は排除する狡猾さを秘めているし、実力も地位もある。それはフィオにはない能力だ。
「なぜだ?」
「話していただろう。天界を仕切ってる奴が分からないからだ。引っ張り出して始末しないと話が進まない。それにはおまえの協力がいる」
「なるほど。私が将来も自由に慶子に会いに行くには、そいつが邪魔なのだな」
清良がついに声を出してくすくすと笑い出す。アヴィシオルが妻にするだけあり、癖のない漆黒の髪が特徴のきつめの美人だが、笑うと少女のような愛らしさが生まれる。
「アヴィも、その時は通ってくれるのかしら?」
「……こっちも色々と体制変えないと無理だな。それとも、魔界に来るか? そうすれば一日中一緒にいてやる」
「遠慮するわ」
清良が茶を飲もうと湯飲みを手にしたとき、彼女の背後のふすまが開かれた。
「お義兄さま、東堂慶子様よりお電話です」
以前、家に謝罪に来た真澄だった。アヴィシオルは受話器を受け取り、保留ボタンを押した。
「どうした?」
アヴィシオルはしばし慶子の話を聞き、顔を顰めて声を上げた。
「はぁ、アリシアのことでフィオを連れ戻しに来た天使と保が本気バトルしてる!?」
湯飲みに口を付けていた清良が、茶を吹き出しむせて咳をした。フィオが側にかけつけ、その背をさすってやる。
「あ、ありがとうございます。
それよりもアヴィ、どういうこと!?」
フィオは不安げにアヴィシオルを見上げた。
まだまだ先の話と言っていたばかりなのに、なぜそのようなことになったのだろう。何か大きなミスをしたのだろうか。
「えぇと……フィオ、サングラスをしたナンパ男に心当たりはないか?」
「ホロムだ!」
「確かに、サングラスをかけたナンパ男のホロムという男はいますが」
アヴィシオルの顔が引きつる。
天界の恥部を晒すのも何ではあるが、隠しても仕方がない。
「私と同じ護衛の一人ですよ。確か、次位の候補者の護衛です。感知能力に長けていて、城全体のことを把握しています。サングラスをかけているのは、光に弱いからです。
ナンパなのをフィオ様まで知っているのは、本当に女性に声をかけてばかりいました。おかげで次位のゼダ様は、フェミニストに成長されています。もちろん、フィオ様のような純粋さで」
いやらしい気持ちはないが、女性には丁寧に接する。そのせいか、フィオと違って他人に触れる機会が多かったはずだ。
「言えることは一つ。とても、優秀です。
もしも彼が日本にいたのだとしたら、フィオ様が力を使われれば場所をかなり特定できてしまったでしょう。そこからこの周辺にたどり着くことは、不可能ではありません」
アヴィシオルは電話の子機を持ったまま、携帯電話を取り出した。
「樹か。今、天使が保と交戦中だ。や、まあまて。慶子もいるから問題ない。問題は、なぜ天使にバレた? 日本から追い出したんだろう? は、最近また日本に標準が合った? フィオが来てからそれほど時間はたっていないぞ」
どうやら、偶然にゲートの標準が日本に合ったらしい。本来ならもっと広大な大地、大陸規模の中心付近に標準は合う。偶然にしては出来すぎている。
「フィオの魔力に引かれたのかもしれないな」
「ああ、確かに。フィオさん、最近魔力を使っていますからね。アリシアの時とか」
力を発散することで、そのようなリスクが発生するなど知らなかった。もっと考えておくべきだったが、考えても無駄なことはある。考えて思いつくことではない。
「慶子には穏便に済ますように言うから、後始末は頼む。アリシアのことがばれているからな」
と、ここでアヴィシオルは電話の子機に耳をつける。
「慶子、穏便に解決しろ。大丈夫だ。お前なら雷が放たれていても近づける。背後から一撃で殴り倒しておけ。大丈夫だ。俺を信じてやってみろ。どうせ保も平気だろ?」
自覚のない慶子に対して、ずいぶんと無茶苦茶なことを言う。しばし言い合いをしているが、フィオとアリシアのためと言って、慶子を納得させてしまった。
「真澄、しばらくは大事を取ってフィオ達を預かることにした。部屋と着替えの用意を」
「かしこまりました」
真澄は一礼して下がり、ふすまを閉めて静かに去っていく。
これから、どうなるのだろうか。せめて話し合いが終わってから来てくれればいいのにと、ディノは肩を落とした。
手を出しあぐねている感じだった。
近づこうとすると雷を放つので、近づけないでいる。
放たれた雷を手で払うのはさすが保だが、しかしさすがに全身で浴びる気はないらしい。試していないが、実戦で試すのも馬鹿である。
そのうち誰が来るのではないかと、常識を持ち合わせているアリシアは気が気でない。
隣では、慶子がアヴィシオルと携帯電話で連絡を取り、無理無理と言って抵抗している。しかしやがて肩を落とし、
「仕方ないわね」
と言って、電話を切った。
「どうするつもり?」
アリシアが尋ねるが、慶子は言葉を返さず荷物を道路に置き、背を向ける天使に忍び寄る。保がそれを見て、前に踏み込み拳を突き出した。彼は全身で力を拒否する慶子と違い、拳などに一点集中集中させて力を散らすらしい。弱いから一点に集中させるのか、力が勝手に集まってしまうのか。本人は無意識なのだろうから、他人では判断しようもない。
保に意識を向けている天使は、まさか背後から一番厄介な人間が近づいてきているとは思っていないだろう。慶子は足を持ち上げて回し蹴りを放つ。
「うをっ!?」
背後から放たれた蹴りを、天使は片手でガードした。
「ふぅん」
慶子は感心したように声を漏らした。
しかし防いだとしても、女性の力とはいえ全力の蹴りである。天使は情けなくもバランスを崩してたたらを踏んだ。これが保なら防いだ瞬間に返している。体術をおろそかにするとこうなるのだ。
それを好機と見て慶子は足を下ろすとそのまま踏み込んだ。
何だか一瞬スパークしたが、慶子は問答無用で蹴散らし今度こそ正拳突きを天使の鳩尾に叩き込む。
天使は身体をくの字にして、そのまま足から崩れて地に倒れ伏す。
慶子は完全に伸びたことを確認し、肩をすくめて見せた。
「ビリビリ来るかと思ったけど全然ね。肩こり治るかなぁとか期待してみたのに」
それは慶子だからである。普通は気絶しているだろう。さすがに死ぬような暴挙はしないであろうし、それだけを考えると安全といえば安全だった。もちろん、相手が全力を出せば保も全力を持ってして叩きつぶしていただろう。天使のような魔力重視に闘う種族には、東堂一家は天敵と言える。まさしくそのタイプの兄も含まれてしまうのだが、こういう天敵の一人や二人、いた方が兄も天狗にならなくてちょうどいい。
「ディノさんなら、あんなの受けても痛がるだけなのに、情けないわねこの天使。さ、こんなのほっといて行きましょう」
慶子は気絶した天使を捨て置き、とっとと行ってしまおうとする。
「いいのか、これ。近所の人に迷惑だと思うんだけど」
「アヴィが樹さんに手配を頼んだから、すぐに回収してくれるわ」
「ああ、なら安心だ。いっちゃんは仕事が速いからな」
保は納得してアリシアに手を差し出した。当然だと内心呟きながら、彼女はその手を取る。格闘家なだけあり、今まで好んで侍らせていた、魔力の高い男達の手よりもごつごつとしているのが、嫌いではない。
「私と手をつなげるなんて、感謝なさいよ。他の男達が知ったら、嫉妬で気が狂わんばかりになるわよ」
「はいはいお姫様」
保は子供をあやすような笑みを向け、慶子から荷物を受け取った。扱いはフィオと大して変わらない。
いつか必ず、愛を請うようにしてみせる。
転がっていた男を車内に引きずり込むと、昭人は運転席に戻り発進させた。
「おーい。お兄さん、起きて起きて」
真樹は天使の頬をぱんぱんとはたき、それでは起きないと悟ると指先を彼の額に乗せた。指輪の石がほのかに輝き、その瞬間男の目がぱちりと開く。
「な……ここは」
「ああ、起きましたか。僕は明神真樹です。『まさき』です。この国の異界担当の一族ですよ」
皆は正式の場ですらあだ名の「マキ」の音で呼ぶが、戸籍上の読みは「まさき」である。ささやかな抵抗ではあるが、他人が吹き込む前の相手には、こうして主張しておくことにしている。
慶子のような好みの女性に呼ばれるならともかく、男に女の子のような名前で呼ばれるなど寒気がする。
「明神……いたた」
ドアにもたれかかっていた彼は、起きあがろうとして腹を押さえた。あそこを殴られたらしい。
「お兄さんも、手を出しちゃいけない人に手を出しちゃったね。あの兄妹有名だよ。鬼も恐れて避けて通る、力が──魔力が無効化される家系の人達だから。下手に関わるとヒドイ目に……もうあったみたいですね」
天使はゆっくりと起きあがりながら、真樹をに視線を向ける。サングラスでその目がどうなっているのか分からないが、視線を感じる。
「そんな危険人物をなぜ放置しているんですか」
「自然災害と思って諦めてください。彼らは一般人からしたら、何の害もないんですから」
「だが、悪魔とつるんでいました。由々しきことです」
「こちらにとっては、天使も悪魔も関係ありません。害がなければ拒む必要がないし、把握はしています。彼女たちと一緒なら悪さも出来ませんから、これ以上の干渉の予定はありません」
「しかし……」
「下手に手を出しても、友好的なムードが破壊されるだけです。その責任、天界が取ってくださるのですか? 動かない──動けない天界が」
こちらは鬼だけで手一杯だというのに、鬱陶しいというのが本音である。ただ命令されているだけの者になど、付き合っていられない。
はっきり言って、どう思われようと結構だ。彼らに頼まれているのはフィオの捜索。思い切り匿っているのだが、発覚しても問題はない。
悪しき習慣を打ち崩すため、立ち上がった救世主がフィオになるのだ。
天界はこちらを自分たちの属界だとでも思っているのだろう。あちらが勝手に身動きとれないようにしてくれたから、他は創意工夫を重ねているというのに、その努力に関して他人にとやかく言われる筋合いはない。
「誘拐された方なら、世界中で捜索中です」
もちろん、真剣になど探していないだろう。金髪碧眼など、世界的に見ればどれだけいるか分からないのだ。
「しかし、この付近にいるのは間違いないんです」
「なぜそのようなことが?」
「南にある山の方で、天使の魔力の跡がありました。周囲に聞き込みをすると、この付近に住んでいると本人達が話したそうです」
それはずいぶんと具体的だ。直接の所有権は明神にはないので、そんな情報で明神までたどり着くことは出来ないが、油断ならない。
「でも、あまり目立った事をされると、こちらはフォロー出来ませんよ。現に変質者として彼女たちに退治されてしまったようですし。噂が流れるのは早いですからね」
「…………」
さすがにぐうの音も出ないらしく、彼は黙った。
「しばらくほとぼりが冷めるまで、外に出ない方がいいですよ。こちらでホテルと護衛を手配しています」
「それは結構です」
「いえ、近所で変質者として有名になりつつあるあなたを一人にしては、近所のお子さんが脅えます。貴方は目立ちますから」
再び沈黙する天使。
さすがに子供に脅えられると言われては、無理に一人になりたいとも言えないだろう。
しばらくはこれで時間が稼げる。近所の奥様方に感謝しつつ、慶子には後で連絡を入れよう。護衛という名の見張りは、電撃に強い者が選ばれているだろうから、脱出も不可能だ。監禁している間に、アヴィシオル達には急速に手を打ってもらおう。フィオも外出しなければ見つかる事はない。
(面倒な役回りな気もするけど、まあいいか)
慶子の事は好きだし、フィオのことも嫌いではない。今はこちらも大切なときだ。世界がどう動くのか、どう動かせるのか、分からない。
「何、しばらくの辛抱ですよ。噂が流れているのはこの周辺だけですから、もっと人の多いところなら大丈夫です。人が多い場所で見張っていれば、たまたまやってくる事もあるかもしれませんよ」
ここまで言えば大丈夫だろう。
真樹は後ろに流れる閑静な住宅街を眺めながら、心の内で気合いを入れた。
慶子のためと思うと、やる気が出るのだ。