28話 あたしと天界
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「ケイちゃん! 愛してるよぉ!」
退屈しているだろう愛しい人のため、浮かれた声を掛けてドアを開いた大樹は、ソファの上で膝を抱えて酒を飲む沈んだ彼女の姿に言葉を失う。
いつも酒は楽しく飲むものだと言う彼女は、薄暗い部屋で一人いじけて酒を飲んでいる。
「ケイちゃん、何沈んでるの」
「だって……」
くすんと鼻をすすり、ちびりと酒を飲む。実に寂しい酒で見ていられない。
大樹は土産のシュークリームをテーブルに置き、隣に腰掛け肩を抱いた。
「落ち着きなよ」
「落ち着いてるわよ。相手は一人なんでしょ?」
「そうだね。こちらに接触してきたのは一人だった。でも、一人で来るとは思えない」
油断はならない。子飼いの鬼達に、全力で人間に擬態した天使を探させている。
「落ち込ませてどうするの」
「手は打ってある。ケイちゃんが心配する必要なんて無いんだ。彼らが向かっているのは、フィオちゃんに危害を加える気がない、フィオとディノさんを心配して行動している純真な天使なんだし」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「心を読むってのは難しいけど、本心かどうか見抜くのはそれほど難しい事じゃないんだよ」
彼は鏡華と接触している。彼女の鏡はわずかではあるが心すら映し、真実を暴く。もちろん色々と制限はあるが、ホテルには鏡がある。仕込むことは簡単だった。
大樹はシュークリームを取り出し慶子の前に差し出す。
「ケイちゃんの好きな店のシュークリーム」
「ありがとう」
慶子はシュークリームをチマチマと食べて、食べ終えると酒をまた一口飲んだ。酒は飲むようだが、先ほどの暗い印象が消えた。
慶子は時に穏やかに時に激しく感情を表してこそ慶子だ。
「明日には会えるようにセッティングするよ」
「本当に?」
「本当に。お泊まりセットを準備しておいてね。心配だから今夜は泊まっていくよ。もちろん誓って何もしないよ」
慶子は目を細めて横目で睨んできたが、拒否はしなかった。一尾差に一人になると、さすがの慶子も寂しいのだ。騒がしかったからこそ余計に孤独は身に染みるだろう。
「フィオちゃんが帰ったら、本当にうちに来ない?」
「いやよ」
「結婚しようよ」
「いやよ」
「婚約でもいいや」
「いやよ」
「浮気しないから」
「いやよ」
拒否されても、嫌な気分にはならない。彼女が本気で否定するときは、もっと冷たい。これは嫌よ嫌よも好きの内と言える程度の拒否だ。
「好きだよ、ケイちゃん」
「あっそう」
「ケイちゃんのためなら何でもするから」
「好きにすれば」
「好きにする」
大樹もシュークリームにかぶりつき、甘さ控えめのそれを堪能する。二層のクリームの中にはバニラビーンズか入っており、それがたまらなく美味しい。
ほんのりと幸せでぬるい時に浸かっていると、インターホンが鳴らされた。慶子は立ち上がりリビングにあるテレビドアホンで相手の姿を確認してから玄関へと向かう。
画面に一瞬見えた姿は宅急業者の制服で、親戚から何か送られてきたのだろうと予測した。父方の祖父が定年後に農業を初めて、それからよく野菜が送られてくるのだ。それで一人で食べきれずに料理を作ったと大樹を招いたり、お裾分けしてくる。
野菜ならば運ぶのを手伝うべきだと思い、ソファから重い腰を上げた。
「ケイちゃん、何が届い……」
玄関へと視線を向けると、そこに慶子はいなかった。彼女のはいていた、可愛らしいキャラクターのスリッパが一足は玄関マットの上に、もう一足は玄関にひっくり返って落ちていた。
今、慶子を狙う可能性があるのは天使だ。
天使が宅配便を装って誘拐をしたという現実に驚きながら大樹はスリッパのまま外に走る。しかしその時にはすでに人影はなく、玄関脇に置いてあった可愛らしい陶器の傘立てが転がり落ちて割れていた。
門を出て見回すが、姿は見えない。空でも飛んでいったのかも知れない。そうなれば一人での捜索は不可能。大樹は携帯電話を取り出して、リダイヤルの一覧から兄の番号を選択する。
『どうした。問題があるか』
「ももも、問題っていうか宅急便屋が、天使が宅急便で、いや天使じゃないかも知れないけど宅急便がケイちゃんを」
『どうしたんだ。理解できない。落ち着いて結論だけ言え』
珍しい正論に、大樹はツバを飲み居ても立ってもいられない身体をぴしゃりと叩き、なんとかその結論だけを口にした。
「ケイちゃんが誘拐されたっ!」
ようやく要点を口にすると、電話の向こう側で今度は樹が混乱のあまりわけの分からぬ事を叫びだした。普段は何があっても冷静なのに、慶子が本当に誘拐されるという珍事には、さすがの彼も驚いたらしい。前回はフィオがいたのでなんとなく誘拐されただけであり、一人の時の彼女ならそんなことにはならないはずだ。
「俺は周辺探すから、放っている鬼達にもこっちに回るよう要請し──」
と、ここで電話が切れた。聞いてはいなかっただろうが、指示は出しているはずだ。大樹は荷物を持ち靴に履き替え玄関のドアの鍵をかけて、万が一慶子が自力で逃げでしてきたときのため、鉢植えに鍵を隠した。昔、よくこうして隠していたのだ。
慶子が誘拐されたとしても、とりあえず身の危険はないだろう。人質であり、何かしてしまっては遅い。天使妖精悪魔のトップクラスの三人に、人間界の権力者を必要以上刺激しては後がない。慶子を誘拐するなら、それ相応のことは調べているだろう。
だから彼女は安全だ。
安全のはずだ。
問題は、大人しくしているヒロインが似合わない、慶子自身である。
大樹はバイクのキーをポケットから取り出し、落ち着くためにもう一度息を吸って空を見上げた。憎らしいほど晴れ渡り、暢気に雀が飛んでいた。慶子と一緒なら、いい天気だとよりよい合ったりしたら楽しい、そんないい天気だった。
アリシアはぐっと握り拳を作った。
「そうよ。これよ。これが正常なのよ。ねぇ天使」
アリシアは強がって視線を合わせないが、すっかり抵抗する気を無くした天使を見下ろした。本気になればどんな男でも跪く。それが吸血族の誇りである。
魔界の男は山のように跪かせたが、天使は初めてだ。知り合いの天使があれとそのお供であり、魅了する気にもならなかったのが原因だが、どの世界の男も同じであったことは、彼女に自信を与えた。
「変なのは保と慶子なのよ」
「まだ根に持ってるのか。アリシアは美人なんだから、もう少しすればそんな力が無くても十分男を跪かせられるだろ」
保はアリシアを子供扱いしたまま、余裕の表情で持ち上げる。可愛いなあと、慶子のようなことを思っているのが透けて見える。
「ずいぶん余裕ね。いつか防御を破ってやるわ」
大人の天使を魅了して腑抜けにしてしまっても子供扱いをする男の手を払い、天使ホロムの顎を指で持ち上げた。
「お前をこちらにやったのは誰?」
「……」
「誰?」
「……宗主様です」
宗主というと、フィオの未来、統治者と言っている立場の者だろう。性別の定まらぬ清く魔力ばかりの傀儡の王。
「そいつにそれを示唆した奴は?」
「示唆? そんなことはされていない。かの方は心優しきお方。フィオ様が行方不明になり、心を痛めていらっしゃる」
「そう。知らない。じゃあ仕方がないわ。用無しね」
「っ!?」
強がっているせに、切り捨てられようとすると顔色が変わる。真面目な男はからかいがいがあって愉快だ。
見上げてくる様々な感情が浮かんでは消えるその目が、吸血族としての彼女に愉悦をもたらす。
「ああ、そうだ。これも聞かなくちゃ」
じらすように今思い出したとばかりに頬に手を当て呟いた。
「黒幕になりそうな──統治者を操れそうな権力者は? ディノですら何人か心当たりがあるんだから、あなたも意見を言いなさい」
見下して言い放つと、ホロムは真剣に考え始めた。
「ところで、どういう理由で突然こんな事を?」
「決まってるでしょう。表面上だけ綺麗な振りした天界を崩壊させるためよ。じゃないと、自分の好きにこっちに来られないもの。わざわざ召喚してもらうのは面倒だわ。それに聖人君子制度も虫酸が走るし、お兄さまの益にもなる。天界の益にもなるわよ。優秀な子供を馬鹿に育てて、その後処分するなんてことはなくなるもの」
「処分? そんなことがあるはずがないじゃないですか」
「じゃあ、歴代の両性具有の者はどうしているの? 魔力による突然変異で、遺伝はほとんどしないでしょう。それを全員城に留めているの? 世に送り出しているの? もしもそうだとしたら、反乱ぐらい起きているでしょう。でも起きていない。じゃあ、理由は?」
少なくとも、生きていれば幽閉もしくは種床にされているわよ。でも、全員生きているとは思えないわ。フィオだってひどい人間に拾われていたら、もっと性格が歪んで天界への復讐を考えてもおかしくないもの。そんなのをため込み続けるよりは、いらなくなったら最低限を残して処分した方が早いわ」
笑いながら現実を突きつけてやると、ホロムはうつむいた。天界を信じて考えてもいなかったのだ。
そして考えていなかった内の一人、フィオはガタガタと震えている。知識を身につけていなければ、それがどういう意味かも理解できなかっただろう事を思うと、これでも成長しているのだ。
「さあ、あんたの主も処分されたくなかったら、さっさと吐きなさい」
「吐きなさいと言われても、状況がよく分かりません。それに私はディノと同じほどの地位ですから、知っていることもたかが知れています」
「それでも、この堅物よりは知ってるでしょう」
隣でアヴィシオルの携帯電話が鳴った。アリシアはそれを気にせず続けようとしたが、兄の口から漏れた言葉を聞いて目を見開いた。
「え、慶子が誘拐された?」
アヴィシオルの携帯は、全てを言い終える前に保に奪われていた。
「どういうことだ!? え? 宅配便を装った天使!? 何なんだそれは!」
本当に何なんだそれはという保の言葉に、アリシアは固まりそうになる頭を回転させる。
はたして、妙なぐあいに気位が高い天使がそのようなことをするのだろうか。
「天使にも何でもする隠密みたいなのはいるの?」
「いま……す。今回も何人か来ているはずです。すぐに姿を消しましたが」
「それのトップと親しいお偉いさんは?」
「スリン様という方です。我々近衛も統括者はスリン様だ」
怪しすぎる。その背後にまた誰かいる可能性はあるが、その男は間違いなく一枚噛んでいる。これは決定事項だ。
「スリンは悪代官だったのか!」
「否定はしませんが……」
フィオが叫び、ディノが少し困りながらも肯定する。意味は分からないが、どうせテレビで学んだ言葉なのだろう。ただしアヴィシオルが首をかしげているので、アニメではない可能性が高い。
道は少し見えた。慶子が誘拐されたのなら、芋づる式に大本まで行くのは簡単だろう。聞き出せばいいのだから。
思ったよりも冷静な顔をしているフィオは、電話を保から奪い返したアヴィシオルに問う。
「犯人は何を要求しているんだ?」
「要求?」
フィオの言葉にアリシアは馬鹿にして笑おうとしたが、それをやめる。
天使がそんなことをするはずがないというのは、思いこみに過ぎない。誘拐などしないと思っていたぐらいだ。ならば不当な要求を突きつけてくるぐらいはあるだろう。
「そうね。ここで慶子を誘拐しても、フィオを捕獲するための人質にしかならないと思っていたけど、そこまでする必要なんてないものね。人質を取るよりは、普通に捕獲された方がフィオも敵意を持たないわね」
こんな事をすれば反発を招くどころか、決別への道を作るだけである。
何が目的かはっきりしない。しかしそれも慶子を捕らえた隠密を捕らえればいい。問題はどこにいるかだ。
アリシアは自分の小さな鞄から携帯電話を取り出した。
いつでも連絡をくれと誰かに渡されたものだ。アドレスの有用グループに所属する、その中でも今回のような場合にとくに使える男に連絡を入れる。
当たり前のように用件だけを伝え、当たり前のように納得する男を快く思いながら、アリシアはホロムを見下ろした。
「ついてきたければいらっしゃい」
アリシアが歩き出すと、拘束もされていない彼は迷った後に立ち上がりうつむいたままついてくる。
「ゼダ様の身に何かある可能性があるとしたら、私も協力します」
相手は悪魔という考えがあるとしたら、これは彼なりの譲歩なのだろう。プライドを打ち砕くのも楽しいが、使えそうな相手にすることではない。
「あれもツンデレですよフィオさん」
「あれもツンデレか。慶子とアリシアと一緒なのだな」
意味の分からぬことを言いながら人を見て囁き合うフィオとルフトを横目で眺め、アリシアはその建物の外に出た。ここは鬼の住み処だという家で、いるのは女ばかりでつまらない。男ばかりであれば全員連れ帰るのも悪くなかったが、女である以上用はない。
外に出ると、もう早迎えが来ていた。どんな連絡網があるのか自分のものなのに驚いたが、偶然近くにいた者がいたのだろう。
「お兄さまはそちらでどうぞ。私は私で探すわ」
「私も行く!」
フィオも走り寄ってきて、車の後部座席に乗り込む。
「じゃあ、俺もそっちで行くよ」
保も車に乗り込み、ディノが来る頃には定員オーバーになっていた。戸惑う彼は無視して、アリシアは無慈悲に出発を命じる。
どこに向かっているのかは知らないが、連絡を取った沢渡という男の指示を受けているのは確かなので、問題ない。
大樹は宅配業者の姿は、モニター越しにちらと見た。それで業者の特定を出来た。そこから、服を剥がれて車の中で気を失った本当の宅配業者の男を発見し、振り出しに戻る。
奴らは服だけ拝借して、一瞬の信用を得られればよかったのだ。
気を失ったままの男は可哀想だが、本社に連絡を入れてからバイクに戻り、ため息一つつく。
「理解不能」
「理解する必要なんてないんじゃないかな」
空から振ってきた言葉に見上げると、屋根の上から顔を出す真緒と目があった。猫でもあるまいし、何というところにいるんだろうか。彼女は周囲を見回すと、屋根を蹴って大樹のバイクの横に降り立つと、当然とばかりに後ろに乗った。もちろんヘルメットなどない。慶子を外に連れ出す予定など無かったからだ。
「心当たりでもあるのか」
「さあ」
「あるんだろ」
「北に向かうと吉」
「北だな」
大樹は真緒に言われたとおり北へと向かう。彼女の何となくというのは、信用できる。戦闘能力は高くない分、突出した勘の良さで生きているのだ。沢樹の側にいるのも、それが一番だと感じたから。時々感情に流されて力を見失うときがあるが、冷静ならば彼女の言葉ほど当てになるものはない。
ギャンブルをさせたら、彼女は一晩で億万長者になることも可能である。
「慶子ちゃんのことは私も心配」
ヘルメットをしているのだが、真緒の声は不思議と耳に届く。そして鬼である真緒は聴力に優れていて大樹の小さな呟きも漏らさず聞き取る。
「ケイちゃんのことだから、心配するのも馬鹿らしいことになっているような気がするけど」
「一種の能力だよね、あれ。乗り込むの楽しみだな。今度は天使に説教かましていたりして」
人間に説教されて改心する天使など見たくもないが、彼女は人を食らう鬼を改心させるという前例がいくつかあるのだ。天使ぐらい改心させるかも知れない。
以前の時も、一番に乗り込んでいたのは真緒だ。嬉々として立ちふさがる男を蹴り倒していた。慶子の方より、頭に血が上ったときの彼女の方がよほど心配だ。
「相手は天使かも知れないんだぞ」
「いいよ。天使ぐらいなら恐くない。腕力ないから、魔術に気をつけてればいいだけだもん。悪魔は多種多様で見た目に寄らないから近寄りたくないけど」
華奢な見た目で、豪腕自慢という悪魔もいるらしい。獣人族はとくにその傾向が強いらしく、犬耳で怪力という少女も珍しくないそうだ。樹に見せたら、きっとフリスビーを投げたがるだろう。相手の神経を逆なでしているとも気付かずに、うきうきわくわく。
「でも慶子さんはいいなぁ。私もたまにはヒロインしてみたいわぁ」
「すればいいだろ。さらってくれる男は掃いて捨てるほどいるし、助けに来てくれる男だってそれ以上にいる」
「前提がおかしいよ。私はさらわれるような可愛らしさなんてどこを探してもない。自分だけは逃れてしまうから。ロマンがないよまったく」
自分だけが安全でも、家族は安全ではない。それで彼女は母親を失っている。自分が家を空けて、その間に母親は死んでいた。
そしてその血に触れて、鬼になった。
復讐はまだ成されていない。
「大樹軌道修正。も少し東な気がする」
「はいよっ」
適当な道を見つけ東に向かう。この方角は港だ。港だとしたら、倉庫の可能性もある。だとしたら事はそれほどややこしくない。
ただし、貸倉庫が大量に並ぶ中、探し出すのは骨が折れそうだ。天使が貸倉庫を借りているというのも考えにくく、ここは人間の協力者がいると考えた方がいいだろう。明神に敵対する組織は皆無というわけではない。
「真緒、携帯で港に来るよう指示を」
「その先港なんだ」
地理に疎い真緒はそう言うと携帯電話を取り出して誰かにそれを伝える。樹か沢樹のどちらかだろう。
大樹のバイクの後ろに乗るのはほとんど慶子で、去年からほとんど鏡華という足を持ったために乗っていなかったから、親しくもない真緒とこうしているのは実に奇妙な感覚だ。
「大樹」
「なんだ」
「慶子ちゃんってね、少し私のお母さんに似てるの。男好きだったけど。
だからすっごく心配になるんだよね」
「…………」
彼女の母親なら、奇抜な母親だったのだろう。色々な意味で。人生が、ではなく、存在が。
「本当に、変なのを引きつけるところが似てるんだよね。私みたいなの生んじゃうし。兄さんだって母さん目当てだったし。
あの男に目をつけられなきゃ、普通でなくてもいい男と結婚して幸せぐらい手にしてたかも知れないのに」
鬼の子を産んで生きている女は珍しい。鬼の子だからと鬼になるのも珍しい。実に珍しい上に、数が少ない女の鬼である真緒は、明神にとってもいい研究対象なのだ。監視と研究と、彼女を預かるのには大きなメリットがある。もしも本気で逃げるのなら、彼女だけは絶対に捕まらない。捕まえられるとしたら、慶子や保のような特殊な人間だ。
もちろん、実験と言っても人間が受ける健康診断程度だけで、本人が拒否するようなことは一切していない。身体を調べるのも女性医師限定で、人間よりも優遇された健康診断だ。
「真緒、さっさと沢樹と結婚したら? 兄貴がいなくて寂しいんだろ。家族ならいくらでも作れるんだぞ」
「寂しいけどそれとこれとは別。あいつ、すぐに他の女に尻尾を振るんだもん」
「カクテルを美味しいって言ってくれたお客さんに懐くことは多々あるけど、浮気はしないだろ」
「相手がいないからだよ。ああ、夜依ちゃんが羨ましいなぁ」
浮気しない一途な男世界一と言っても過言出来ない黒衣を思い出し、大樹は小さく吹き出した。あれはあれで息苦しくなりそうだが、女にとっては、理想なのかも知れない。
「颯爽と助け出しても、ケイちゃんが惚れ直すなんてことないからなぁ。黒衣みたいなのは得だよなぁ」
「惚れ直すんじゃなくて、見直すの間違いじゃないの?」
「昔はらぶらぶだったの。アヴィがいなけりゃ十八歳になったらその日に婚姻届出す予定だったの」
「…………案外夢見る乙女みたいな思考なんだね。別にいいけど」
真緒はぱしりと大樹の背を叩き、早くしろと言ってのける。ただでさえヘルメットを被っていない真緒が背後にいるのに、爆走しては躍起になって警察が追いかけてくるだろう。
「大樹、君はこの先に何を想像している?」
「想像つかないけど、天使の隠密と、こっち側の反明神グループが手を組んでいるんじゃないかと。想像つかないけど」
真緒はふぅんと、小馬鹿にしたように笑う。何か知っているわけではないので問いつめるだけ無駄だ。彼女がそうでない気がする、というだけだ。危険に対する精度は高いが、それ以外はあまり感度がよくない。しかし他の可能性も視野に入れるのは、忘れないでおく。
足下をすくわれるのは冗談ではない。慶子の命が関わるのだから。