28話 あたしと天界

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 目が覚めて、一番始めに気付いたのは、口が布テープで塞がれていることだった。布テープだ。クラフトテープではなく、粘着性の高い布テープ。同じような素材で、後ろ手にぐるぐる巻きにされている。
 目隠しもされていた。さすがにこれは布のようで、少し安堵した。服は家にいたときと変わらない。靴下をはいた足で周囲を探ると、床は冷たく堅い事に気付いた。背後には壁がある。塩の匂いがすることから、港に近いことが分かった。
「んー」
 舌を出して布テープを外そうと試みるが、なかなか外れそうにない。壁が背後にあることを思い出し、そこに頬を押し当てた。それで、それが壁というよりも、木材の何か──大きな木箱であることに気付いた。
(倉庫かしらね)
 慶子はそんなことを考えながら、口元の布テープを外すために頬を木箱にすりつける。めくれた布テープの端が木箱にひっつき、そのままゆっくりと木箱に押しつける。一度木箱から外れたが、何度もする内に口は解放された。頬が赤くなっていそうだ。
 同じ要領で、目隠しも外す。
 目隠しがあっても、外が薄暗いことぐらいは分かったので、それらを最小限の動きで、しかし安心して行った。
 目隠しが少しずれると、素早く周囲を確認する。
 ここはやはり倉庫だ。木箱の山があって彼女のいる空間は狭くて目立たない。見張りはいるが、こちらは見ていない。雑誌に夢中で、まさか気付いた直後にこのような行動を起こしているとは思っていないようだ。
 頭を動かして目隠しを元に戻し、口元を隠すように髪で隠して寝転がる。次は手首を拘束するテープだ。
 これを引きちぎるなどとても無理だが、外すことは時間さえあれば無理ではない。角度を変えて木箱手首をすりつける。こうしていれば、いつか少しぐらいはめくれるだろう。どこに断面があるのか分からないので、地道な作業となるが、時間さえあれば不可能ではない。
 縄で縛らなかったのは、縄抜けされるのを恐れたのか、縄がなかったのか知らないが、それは正しい判断だ。慶子には縄の方が抜けやすい。方法を師に教わっている。女の子だから、いつか役に立つときがあるだろうと、教えてくれたのだ。
 こんな日が来るとは思わなかったが、おかげで冷静に対処できている。さすがに人に取り囲まれていたら焦っただろうが、女一人と侮られているようで、その侮りに彼女は感謝した。
(眠らされるなんて、あたしもまだまだねぇ)
 口を押さえられたのは覚えている。そこから記憶がないと言うことは、薬で眠らされたのだ。
 誘拐したのは、はたして異界人だろうか。薬で眠らせるとは実に人間的である。見えたのも人間の日本人に見えた。少なくとも東洋人で、そんな外見の異界人はまだ見たことがない。
 どちらにしても、今は動けるようになることが大切だ。腕さえどうにかすれば、あとはどうにかなるものだ。
 気取られぬよう慎重に、じりじりと腕を動かすと、わずかに木箱に布テープがひっついた。テープを巻かれて時間がたっていないため、女と侮っているため、テープはあまりしっかりと引っ付いていなかったらしく、意外と簡単に外すことが出来た。
 問題はここからだ。
 雑誌を見ている男との距離はかなりある。走っている間に気付かれれば、人を呼ばれる可能性がある。のろのろと移動して見つかっても元の木阿弥だ。
ならば、ここは堂々としているのが一番だろう。
 巻いてあったテープを適度な長さに切って同じ位置に巻く。ただし、粘着性が無くなる程度に汚れを付けて、かろうじて引っ付いている程度に。
 それからむくっと立ち上がり、足音を立てないように歩く。裸足のため、どうしてもぺたぺたと音が出てしまう。
「ん?」
 雑誌を読んでいた男が振り返った。
「ちょっと、ここどこよ」
「ああ、起きたのか。足も縛っておくべきだったな」
 やはり余裕を見せて、慶子から視線をそらして雑誌を脇に捨てる。
「ここどこよ。何の用であたしなんか連れ去ってるわけ?」
「黙れ。大人しく座っていろ」
 見た目日本人の若者だが、気配が全く異なる。
「何よ。何の用かぐらい言えばいいのに」
「お前には関係のないことだ。誘拐された女は、それらしく脅えて震えていろ。大人しくしていれば無傷で帰してやる」
 人の目を見て言って欲しいものだ。
 しぶしぶと慶子はテープを外して男の側頭部に回し蹴りを食らわせた。倒れたところを蹴り転がして、顎を砕くつもりで蹴る。一人で見張りをしている方が悪いのだ。
 自信満々だった割にはあっさりと昏倒してくれた。すぐに気付くだろうから、近くに落ちていた慶子を縛り付けていた布テープを拾うと、足から膝まで、腕から肘までぐるぐるにして、さらに胴体ごと腕をぐるぐる巻きにして、口回りを髪の毛が引っ付くのも気にせず頭を何周もさせ、目も同様にする。
 ここまでして、ようやく安心して人を拘束できるのだと、彼らは知っておいた方がよかっただろう。彼のはいている靴下を口に詰められなかっただけ、天使のような慈悲を与えられたと感謝して欲しいものだ。
「結局、この人は何だったのかしら」
 教えてくれなかったから仕方がないが、知っておきたかった。
 自分の頬をぴしゃりと叩いて気合いを入れ、そっと倉庫の入り口に近づく。
 耳を澄ますと、その瞬間目の前にあったドアが開いた。
「うげっ」
 目の前に、知らぬ男が立っていた。
「ああ、ご自分で抜け出されたのですね。さすがは東堂慶子さん」
 フィオが男らしく色っぽく成長したらこうなるんじゃないかと思うような、場違いなのについ見惚れてしまう程度に必殺笑顔の甘い顔立ちフェロモン男が目の前にいた。友人にいる白人好きなら一目で骨抜きになるようなハンサムだ。
「できれば今すぐにでも囚われの美女をお救いしたいところですが、どうか今はお待ちを」
「あんた誰?」
「ヴィーゼ」
 腰抜けになりそうなほどの色気に慶子はため息をついた。声もまた色っぽいのだ。こんな男にこう言われたら、つい信じて待ってしまいそうになる。顔のいい男は周囲に小山が出来るほどいるが、これほどの色気のある男は初めてだ。もしもアヴィシオルが本気で口説いたら、このレベルになるのかも知れないが、彼は慶子にとってはただのはた迷惑なオタクだ。
「何の用なの? あんた天使?」
「あまり多くは語れませんが、一言で言うなら潜入捜査です。天使の振りをして、ね」
 イタズラっぽく笑っても、彼の色気は増すばかりだ。口説かれているわけでもないのに、普通に話しているだけなのにこれとは、本気で口説かれて落ちない女はいないのではないだろうか。世の中不公平に出来ている。
「天使のふり?」
「ええ。私は魔王陛下の配下です」
「はぁ。天使の皮を被った悪魔って奴ね」
「まったくもってその通り。どうぞこの悪魔を信じてください可憐なお嬢さん」
 思わずはいと答えたくなるのを乗り越えて、慶子は気にもしないそぶりで斜に構えた。女は大きな生物には、簡単にここを動かされたりしない。これで子供ならころりと信じてしまっただろうが、幸い彼は大人である。
「どうするつもりなの?」
「今回のこと、天使とこちらの鬼だけが関与していることではありません。それを見極めるためのスパイです。ですから、今から見極めに参ります」
 片目をつぶるヴィーゼを見て、気障ったらしい仕草がこれほど似合う男は他にいないに違いないと思った。これに比べると、大樹のなんと子供っぽいことか。慶子に対しては子供っぽさを見せるからではなく、真剣なときも平常に彼には勝てない。
「あら面白そうなことをするのね。一人でずるい」
「おやおや。囚われの姫君は実に活発でいらっしゃる。貴方が望むなら、一緒に来ますか? 簡単に縛られていただくことになりますが」
「どこに行くつもりなの?」
「もちろん、潜入捜査ですよ」
「フィオの敵を探るの?」
「ええ。同時に、魔界の敵でもあります」
「じゃあ、行ってみたいわ。出来るの?」
「もちろん」
 なぜだか分からないが、この男に好感を持った。美形だからとか、色気があるとか、そういう理由ではなく、なんとなく彼自身に好感を持つ何かがあった。よく分からないが、それを信じてつまずいたことはないので、気楽に頷いていた。
 女は度胸である。


 フィオは拳を作り魔力が漏れないように強く意識をした。慶子の側だと暴走しなくてすんだが、離れているときに意識が高ぶると、どうしても電流が周囲に漏れそうになる。
 保が頭を撫でてくれているので、漏れても問題ないだろうが、これは彼自身の心の問題だ。
 慶子がいないと何も出来ないでは、慶子だっていつまでも半人前扱いだろう。これからは、自立した大人にならなければならないのだ。天界を正常にして、皆と仲良くできる世界にしなければ、心おきなく慶子と一緒にいられないのだ。
 それには、フィオが強くあらねばならない。上辺だけでもいい。アヴィシオルのように堂々として、ルフトのように人を上手く使えるようにならなければならない。
「アリシア様。ここからは徒歩でお願いいたします」
 運転手の男は車を止めてドアを開いた。フィオは降りて周囲を見回す。大きな湖が見えて、匂いが変だ。
「くさい」
「潮の香りだ。海は初めてか?」
 フィオははっとして湖──海を見た。
 これが海なのだ。
「……汚い」
「そりゃ、このへんはなぁ。テレビに出てくるのは綺麗な海ばっかりだけど、こういうところもあるんだ。フィオが立派な王様になってゆとりが出来たら、綺麗な海に連れて行ってやろうな」
 血筋ではないので王様とは少し違うがフィオは頷いた。国を動かす者を皆で選ぶこの国に生まれた彼には、違いなど大きな問題ではないのだ。
「アリシア様、こちらに」
 アリシアは倉庫ではない建物に案内されて、フィオはその後に続く。建物の中の一室には、アリシアのための椅子とテーブルとお菓子と飲み物が用意されていた。フィオは美味しそうなケーキを見て、慶子と一緒に食べたいなと思った。
「で、沢渡。ここに慶子がいるの?」
「私が所有している貸倉庫に、怪しい男達が出入りしているんですよ」
 アリシアの正面の革張りのソファにに腰を下ろす中年男性は、穏やかに微笑みながら言う。慶子が言う『ナイスミドル』的な男だ。大人の余裕がにじみ出てている。
「で、従業員が先ほど、借りている倉庫の内の一つに気を失った女の子を連れ込んだのを見ましてね。もちろん、お嬢さんのことはご心配なく。見回りをさせていますので、中で少しでもおかしな事があればすぐに連絡が来ます」
「あら、こんな倉庫の怪しい人物の出入りまで把握しているの?」
「日本人で無ければ、私の元まで話は来ませんよ。ただ、アリシア様の安全のために、おかしな事があれば連絡を寄越すように手配しています」
「そう。どこ?」
「ここから見えますよ」
 横になった薄っぺらい白いものが並んでいるカーテンのような物を操作し、見やすいようにして倉庫を指さした。
「あちらの倉庫二つです。内の一つにお嬢さんが監禁されていて、もう一つに人が出入りしているようです」
 さすがはアリシアの下僕だ。キビキビと自信に満ちた態度はいかにも出来る男だ。フィオももっと色々なタイプの部下が欲しくなってきた。
「……なに、あそこ」
 アリシアがじっと倉庫を見つめていた。
「あの奥の倉庫は?」
「あれが奴らの出入りしている方の倉庫ですよ」
「歪んでいるわね。何か細工をしているわよ。誰が借りているの?」
「ずいぶんとの前からごく普通の企業が借りている物です。彼らが出没し始めるよりも前ですから、何かあるのかも知れませんね。さすがにそこまで調べるには、数日が必要になります」
「別にいいわ。ようはあそこが拠点で、慶子がいるって事でしょ。ついでに叩きつぶさせて、お兄さまへの手土産に首を持ち帰るのがいいわ」
「誰がするんだ」
「もちろんフィオ、あんたよ」
 今この中で純粋な破壊力が大きいのはフィオだ。保も強いが、フィオのように魔力があるわけではない。壊滅させるのには時間が掛かって逃がしてしまう。
 慶子はアリシアと遠くで離れて見ているのがいいだろう。慶子が近づくとフィオの力まで削いでしまうし、アリシアは魅了の力だけで、乱闘になれば役に立たない。
「首を、ですか。チェーンソーが必要でしょうか」
「何それ」
 沢渡の口にした耳慣れぬ言葉にアリシアとフィオは顔を顰めた。天界にない、もしくは自分の中のイメージとかけ離れている物は理解しにくいのだ。彼が触れる蓄積された知識の固まりは万能ではない。レコードと呼ばれるそれらに触れることで、フィオもアリシアも元来知らぬ言葉を理解し、意思疎通を図ることが出来るのだが、界交が絶えて久しいため、最近の独特の単語が、理解できない場合が多々あるとアヴィシオルが言っていた。
「おいおい。物の例えだろ。生かして帰らなきゃ意味がない」
「…………もちろん、冗談ですよ。東堂保さん」
 沢渡は保に対して敵意をむき出しの笑みを向けた。保は敵と判断されたようだ。保はアリシアの獲物でもあることを、肌で感じたに違いない。
 これは男と男の戦いだ。
 しかし今はそれどころではない。
「居場所が分かったんだから俺は行くぞ。せめて慶子を助けてやらないと可哀想だ。いつも自分でどうにかしちまうから、たまにはちゃんと助けてやらないと……ん」
 保は窓の外をじっと睨んだ。彼の隣に立って外をのぞくと、二人組が倉庫へと近づいている。大樹と真緒だ。
「どうやって嗅ぎつけたのかしらあの人間」
「だが、乗り込んでいくぞ」
 二人が向かったのは、慶子が捕らえられている倉庫ではなく、もう一つの、もっと怪しい倉庫だった。アリシアはにんまりと笑い、窓を離れて出入り口に向かった。
「騒ぎを起こしている間に、慶子を助けましょうか。フィオ、ホロム、あんた達はあの……大樹とか言ったかしら。人間達を追いなさい。保、行くわよ」
「はいはいお姫様」
 保がいればアリシアは安全だ。フィオは胸元のクルスを握りしめる。彼はとくに何も答えることなく、せせら笑うような気配を発した。クルスにとってはいい見物のようだ。彼は自分で自由に動けないから、持ち主の騒乱を好むのだ。


 金髪の美青年にエスコートされるようにして歩く慶子は、少しばかり夢心地だった。大樹も日本人にしては男として気を使うべき部分は気を使う男だが、所詮は日本人の気遣い。父について海外に行くと、女と言うだけで何でもしてくれるというのが当たり前な男性が多く生息することを知り驚いたことがあるが、彼はまさしくその中でも一番の完璧なフェミニストだ。
 腕は縛られているが、引っ張ればほどけるようにやんわりと結ってあるだけで、それをしてくれたのも彼である。縛る前に、きちんと縛り方の説明をしてくれて、縛られる際もゆっくりその通りに行ってくれた。彼女を安心させるために、彼は出来る限りのことをしてくれた。
「ここは、どうなっているんですか?」
 不思議な空間だった。半透明の壁は、光に触れると一瞬虹色にきらきらと輝き、光が終わるときに再びきらきらと輝いて去っていく。光った場所にずっと光を当てても光らず、遠ざける瞬間に光り、再び寄せると瞬間光る。そんな壁が続いている。
 通りすがる者も天使だか何だか分からない外国人ばかりだ。
「ここは妖精界ですよ」
「よ……天界じゃなくて?」
「ええ。妖精も絡んでいます。天界と妖精界はわずかですが交流がありますし、彼らにとっての邪魔者が一緒にいる」
「フィオとルフト? 二人は邪魔者なの」
 ヴィーゼは笑顔で肯定した。ルフトも実は狙われていたのだ。妖精までもが欲得ずくめで、人を陥れるために天使と結託していると思うと涙が出てきそうになる。妖精が大好きな乙女の夢を返して欲しい。天使も妖精も大好きだったのだ。
「命を狙われています」
「命を? フィオを連れ帰るために探していたんじゃないの?」
「もちろん、表向きは。近衛の一人も連れてきていましたし。
 しかし見つけたら殺すつもりだったようですよ。天界にも、黒い組織があるんです。フィオのように色々と知ってしまった者は、傀儡になりませんから。罪は私達に着せればいい。そうすることで人間を保護するという名目で、人間達に深く介入してくることになります」
「人間に介入して、何か得になるの?」
「いろいろとありますが、人間には魔力を操れる者がほとんどいないので、魔力に溢れているんですよ。それを全て吸い取り、天界で使用しているんです。つまりは目に見えないし、原住民が見向きもしないエネルギーほしさに、他の界の者を追い出したんですよ」
 慶子はもう神様なんて信じないと心に誓う。
 不思議な廊下を歩きながら、せめてとこの雰囲気を楽しむことにした。
「不思議なところねぇ」
「貴方ほどじゃないと思いますよ」
「どういう意味?」
「もちろん、貴方のとらえ所のない魅力は、この程度のありきたりな幻想では到底かなわない」
 とらえ所がないのは彼の方だ。一体どうして慶子をここまで連れてきたのか理解できない。フェミニストだからという理由ではないはずだ。強そうにも見えない。もちろん見た目で判断など出来ることではないが、戦場に自ら赴くタイプではないだろう。
「あなたみたいな人がどうしてここに?」
「理由ですか。まいりましたね。大した理由なら胸も張れますが、一度、天使やら妖精が見たかったから、というのはなかなかいいにくいものですよ」
「見たかった?」
「ええ。あとは成り行きです。せっかく忍び込んだのですから、陛下のための露払いぐらいはしないと、ね」
 彼はまたウインクをした。これを毎日されていたら、よほどの女もころりと転んでしまうだろう。慶子は可愛いフィオを思い出して、彼のための露払いと考え頷いた。
「目的は一緒ってことですか」
「そうです。陛下にとって、問題の天使が天界を治めるのは益となります。堂々と人間界にも行けますし、妖精界にも天界にも行ける。どちらも魔界にはない資材が豊富で、人間界は技術が豊富です」
「技術?」
「力が全ての魔界では、誰にでも扱える兵器というものがないんですよ。良くも悪くも軍事は国の技術を発展させる足がかりとなる。それがないから魔界の道具は原始的で、人間界のようにボタン一つで釜が適温を保ってくれるなどという事はありません。人間の発想と実現力というのは、他の界にない力です。私は洗濯乾燥機の存在を知り感動したものですよ。魔界は専門職の者が魔法で洗濯している。庶民は手で洗っている」
 それはかなりのカルチャーショックであっただろう。慶子が魔法を見て喜ぶのとは、また違った衝撃に違いない。
 人間界の技術がかなり発達していると言うのは少し意外であった。映画では技術の発達した謎の生物たちに世界を乗っ取られそうになったりしているが、現実ではそうでもないらしい。
「人間って、意外と自分達を卑下しているのねぇ」
 侵略者は肉体的にも知能的にも技術的にも自分達を上回っているのがほとんどだ。悲しいほど小さく弱いのが人間である。
「魔界のシステムに科学は必要がありませんからね。見直したのは、あなたの兄君と出会ってからです」
「兄……淳兄さん?」
 保ではない。そんな頭のいい展開の中に彼がいたとしたら、慶子は生まれてからずっと兄に騙されて生きている事なる。保は判断を誤ることは少ないが、人に役立つ技術とは無縁の存在である。
「淳は素晴らしい頭の持ち主です。召喚の儀式も必要なく、界を渡ってしまえるシステムを作り出してしまったんです。ゲートを使用しないから、結界に引っかかることもなく、召喚される必要もなく、誰にでも行える。誰にでも出来るというのは、魔界にはない考えです」
 魔界というのは、いかにも弱者に厳しそうなイメージがある。福祉などという考えはなく、弱い者は死ぬと言われそうな所だ。アリシアも弱いからこそ特殊能力を持っていないと生きていけないと言っていた。
 彼もそういう場所で暮らしているのだ。
 本当に人間は甘えた環境にいる。
「しっ」
 ヴィーゼは人差し指を立て短く息を吐くようにして慶子に警告した。前方から足音が聞こえる。何度かすれ違っているが、縛られているので怪しまれることはなかった。周囲がおかしいだけで、慶子はたたのハンサムに連れられてちょっとドキドキの女子高生でしかないのだ。怪しまれるはずもない。
「おい、その女をどこに連れて行く気だ」
 前方から二人の男がやってくる。一人は人間。一人は妖精。
「エリーナ様の元へお連れしています」
「聞いてないぞ」
「さあ。連れてこいと言われただけですから」
「なぜ天使のお前なんかに……」
 慶子はじっと彼らを見つめ、人間の方が慶子を誘拐したニセ宅配便業者だと気づき顔を顰めた。妖精は妖精で、妖精のくせにがっしりとした体格で、力がありそうだった。あまり相手をしたくない。
「君らのような男では、女性のエスコートは無理だろう。その点、私は女性に嫌われた事がない」
 この容姿でこの態度なら、嫌う女性が稀だろう。妖精の彼も白人マッチョが好きな日本人女性にはもてるだろうが、この場で安心感を与えられるかと言えば否だ。ヴィーゼがかなり特殊なのである。
「行きましょうか」
「ええ」
 これからどうするつもりなのかは知らないが、久々に好奇心が刺激されて、こんな状況であるにもかかわらず楽しい。冒険をしているような、わくわく感がある。自分は意外に父の血を濃く引いているのかも知れない。彼は母が亡くなると束縛する物が無くなり世界中を飛び回るようになった。
「その女はただの交渉道具だろう」
「皆がそう思っているなら、平和ですね」
 ヴィーゼの艶やかな笑みに妖精は悔しげに頬を朱に染める。
 利用価値はあるかも知れないが、明神兄弟が騒ぐ程度で平和を覆す程のことではないだろう。
 慶子は後ろ度に縛られているのし少し疲れ、身動ぎして歩き出したヴィーゼの後を静かに行く。振り返り、誰もいなくなったのを確かめて慶子は小さく囁いた。
「誤魔化せるものね。いつからこんな事をしているんですか?」
「二週間前から」
「…………どうやって忍び込むんですか、そんな短期間で」
「洗脳は得意なんですよ。記憶を作り替えるのは、意外と簡単です」
「どうやって……?」
「薬を使うんですよ。一所に集まっていれば、香をたいて洗脳します。一度親近感を植え付ければ、よほどのことがなければ誰も気付きません」
 例え知らない相手でも、声をかけられると知っている人間だと勘違いをする。そして相手の名前を言ってしまえばそれは確信となり、思い込む。薬を使えば彼ほどの美形でもそれをなす事が出来るらしい。
「便利な薬があるんですね」
「力なき者の創意工夫ですよ。それで強い者に引っ付いて生きるしかないんですよ」
「弱いの?」
「さぁ。しかし貴方がいれば問題ありません。天使も妖精も、先ほどの彼みたいな例外を除けば、魔法重視の貧弱な種族ですからね。鬼も多少はいますが、多くはいません。
 敵対して一番対応に困るのは、魔族だと覚えていてください。彼らは強者こそが全てです」
「わかったわ」
 この人は、どのように対応しにくいのだろうか。自信満々だし、魔法に強いようだし、計り知れない。
 この先にお偉いさんがいるなら、証拠を集めるのがいいだろう。慶子のジーンズのポケットには、運良く携帯電話が入っている。トイレに行くときに持っていき、帰るときに入れっぱなしにしていたのだ。ボイスレコーダー機能付きなので、何か役に立つこともあるかも知れない。
 そう言えば携帯を持っているのに、誰も連絡を寄越さないのはどういうことだろうか。いつものように自力で帰ってくると楽観視されているのではと、少し呆れて天井を仰ぎ見る。天井もキラキラと輝き綺麗だ。
 再び前を向くと、また妖精とすれ違った。人が増え、慶子は口を閉ざし歩く。長く思えてほんの少しの距離を行くと、ヴィーゼは前方を差して囁いた。
「あそこです」
 慶子は頷き、覚悟を決めた。


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