28話 あたしと天界

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「たぁすぅけぇてぇぇえ」
 どこから声を出しているのかと思うほど、今まで聞いた声とは違う砂糖菓子のように甘い声を出し続けて走る真緒。走りながらこれだけ声を出し、通りすがりの鬼を使う彼女は、まさに女の鏡。
 鬼達は、情けないことに彼女の甘い助けを求める声に騙される。さながら甘い香りに誘われて、食虫植物の餌食になる虫のようだ。
「がんばってぇ。強い男ってだぁい好き」
 言葉だけなのか特殊なフェロモンでもまき散らしているのか、とにかく男達はよく釣れた。妖精や天使よりも『戦闘力』は高いらしく、彼女に言われたとおりに頑張っている。そして彼女は男達を見捨てて先に進む。魔力を使う間もなく殴り倒される彼らは少し哀れだった。
「真緒、すごいな」
 フィオがホロムの腕の中で、瞳をキラキラさせて感動していた。
「私が何年この世で生きてると思ってるの」
「慶子でも出来ないな。すごいな。私にも出来るか?」
「君は天使だからねぇ。まあ、これは出来なくても、笑顔で落とす事なら可能だと思うよ。可愛いからね」
「そうか、笑顔だな。慶子も似たようなことを言っていたぞ」
 無邪気に微笑むフィオを見て、ホロムは思わず笑みをこぼした。笑っている場合ではないが、どこまでも無垢な反応は、彼にとっては救いだった。
 フィオを見ていると、セダもきっと大丈夫だと思える。
「とうっ」
 真緒が鬼に愛想を振りまく時とは別人のような声を出して、目の前に現れた妖精を蹴り飛ばす。力のない妖精はあっさりと気を失い倒れてしまう。
「真緒、大丈夫か!」
 背後から、一番始めに出会った青年が追いかけてくる。
「だいじょーぶ」
「他の奴らは真緒のことで争うのに忙しくて肝心の真緒を忘れてるから安心しろ。妖精は弱いし」
「なんって、頼りない。これだからのほほんとして生きている奴らはっ!」
 いすぎても困るが、いなくても困る。真緒に目が向く可能性があるのだ。
 しかし、動物の雄は雌を巡って争い、勝った方が求愛権を手に入れる。このまましばらく仲間内で争っていそうなので助かった。追ってきているのは、野生が薄いこの青年だけのようだ。
「人間の女の子がさらわれてるはずよ。私の大切なお友達なの。どこにいるか知っている?」
「さあ。あ、でも、首謀者の場所なら分かる。そいつらに聞けばいい」
「そんなことしていいの?」
 仮にも手を貸した相手だ。それなりの益があってしていたのだろう。それとも、女一人と親しくなる方がよほど大切な程度の益なのか。
「いいんじゃないか? みんな暴れてるし。
 あいつら、明神の術を封じる術を教えるとか言って、ただ俺達を利用しているだけだからな。本当にそんな手段があるかどうか疑わしいだろ」
「そんなことにつられたの? 妖精らしい嘘かも知れないのに」
「でも、俺達にとっては大切なことだろ。どうせ暇だし、たまにはいいかってことになったんだ。ほら、明神のくそ生意気な若頭をぶっ飛ばしてみたいだろ」
 それで揃いも揃ってこんな所に来ているのだ。
「樹をひれ伏させてみたいってのは分かるね。
 でも大樹はちゃんと封じられていたよ。彼を封じるには、視界を閉ざしてしまえばいい。ただそれだけのことだからね。樹を封じるには、毒でも盛って喉を潰してしまえばいいんだよ。
 妖精の魔法なんて使えないから、一から学ぶよりも自分達で創意工夫する方が簡単でしょ?」
 魔法を倣うよりは、その方が手っ取り早いだろう。
「真緒はあいつらが死んでもいいのか? 仲良くしてたのに」
「別に。簡単に殺されるなら、私は離れるだけ。傘を差してくれる相手は他にもいるから。
 でも、明神ほど丈夫な傘はなかなかないね。彼らがいるから私も兄さんを探し行くのに、色々と誤魔化さなきゃいけなくなる」
 彼女の兄は行方をくらましているようだ。家族に会えない辛さは彼も知っている。ホロムもセダに仕えてからは、家族には会っていない。そういう決まりだ。
 家族が暮らしていくために、ホロムは自ら禁欲的で危険も伴うこの役に志願した。ディノだって同じはずだ。だからこそ、自分が仕える主が愛おしくなる。
「じゃあ連れていって。元を潰さないと意味がないから」
 即断即決。こちらの意見も聞きやしない。しかしその強さにフィオは心打たれるらしく、潤んだ瞳で真緒を見つめている。彼女の強さは素晴らしいが、見習って欲しくはない手の強さだ。
「こっちだ」
 男は真緒の望むがままに道を示す。
 何とも風変わりな求愛方法だと、ホロムは少しおかしくなった。今度、セダに聞かせてやれると、喜ばしい。


 遠くから聞こえる喧噪が、この場だけにある静寂を強めた。
 音はあるのに物寂しい。
 音のただ中に向かわなければならないのに、自分達は逆の方向に向かっている。
「この先に何があるんですか?」
「君は聡いね。聡い女性はとても好ましいよ」
 分からないはずがない。この騒動で人がいない今、騒動から離れるとしたら逃げるか目的があるかだ。逃げるはずがない今、選択肢は一つしかない。
「扉があるんだよ」
「とびら?」
 慶子は首をかしげた。どこへ続く扉なのだろうか。
 ヴィーゼは答えずに微笑みだけを返し、黙って歩いていく。
 扉。
 部屋へ入るための扉なら、こんなことは言わない。心当たりがあるすれば、異界への扉。
「……天界に?」
「そうです」
「どうしてですか?」
「三秒」
 ヴィーゼは指を三つ立てる。
「それで十分だそうです」
「何をするのに十分なんですか」
「座標を記録することですよ」
 座標と言われても、さすがに意味が分からない。彼は何を目的として天界に行くつもりなのだろうか。いくら何でも危険すぎる。天使のふりがもしもバレてしまったらと思うとぞっとする。
「頼まれています。無謀な行いをした者がいたせいで、抜け穴が使えなくなってしまったので」
 彼は一瞬だけ足を止め、すぐに歩き出す。
 天使がいた。
 木の枠に水を張ったような姿をしている何かを守るように立っていた。ガラスの間を水が流れ落ちる飾りはあるが、これは何かに支えられることなく不思議な物体が浮いているように見えた。
「騒がしいようだが、何があった?」
「蟲が迷い込んだようですよ。まあ鬼の方々が始末してしまうでしょう。
 こちらには来ませんでしたか? あの蟲は天使にとっても厄介な生物です。もしも小さな虫の一匹でも迷い込んでは大変だと彼女を連れてきました。
 皆さんが見張っていたのでまさかあり得ないとは思いますが、少し様子を見に行ってきます。私達には万が一のことも許されませんからね」
 またまたよく分からない会話だが、ヴィーゼが舌先三寸で言いくるめようとしていることだけは理解できた。真っ赤な嘘だが、天使達は深刻な顔つきになった。彼らにとってはよほど大きな問題のようだ。イナゴでも繁殖しているのだろうか。
「知らぬ間に小さな蟲を見逃すのはあるかもしれないな。見てきてくれ。以後はそのつもりで警戒する」
「そうしてください。では行きましょう」
 あっさりと通され、ヴィーゼは先に行く。慶子はその後に続き色水が張ったような扉をくぐる。
 不思議な空間から、普通の空間へと出た。
「あ、普通」
 普通に白い壁の部屋。綺麗だが、幻想的ではない。これなら人間界にもある。
 慶子が視線を巡らせると天使と目が合った。
 魔女のような鼻をした、少しユニークな顔立ちの天使。天使らしくなくて、ある意味ほっとした。
「何かありましたか」
「向こう側で蟲が出たので念のために見回りに来ました。小さな蟲でも見逃すと厄介ですからね。一人食らえば……」
 遠くない場所で悲鳴が聞こえた。ヴィーゼと天使の頬が引きつった。
「まさか本当に蟲が!? 早く行ってください! 運良く魔力の弱い者がいるとは限りません! ああ、せめてこれを」
 槍を渡された。
 ムシ。
 慶子は首をひねる。
 彼ら独特の言葉なのだろう。きっとそうだ。ムシ。きっと見たこともない姿をした小さな恐ろしい生物に違いない。槍で刺すのは難しいのではないだろうか。新聞紙とかスリッパとか──そう考えて慶子は首を横に振る。
 考えるなと、自分に言い聞かせた。
 悲鳴が聞こえる。再び喧噪が近くにある。それに近づくと、悲鳴が止まり、別の悲鳴が上がる。
「食われたっ」
 ヴィーゼが舌打ちする。
「すまないけれど先に行っていただきたい。君は鬼や人の狩人以上にあいつらにとっては不都合な相手です。迷わず貫いてください」
 慶子は顔を引きつらせ、しかし悲鳴が聞こえので全力で走った。
 初めて持つ槍は思ったよりは軽くて何とかなりそうだ。ただこれを持って走るのは不安である。足に絡んで転んだら悲惨だ。
「助けてっ」
 くだらない思考が吹き飛んだ。初めて触れる槍を棒のようにして持ち、そこに飛び出た。
「虫!?」
 幸い『ゴキ』とは似ていなかったが、ムカデに似ていた。大きさは人間の子供ほどはある。それが天使に覆い被さっていた。
 慶子の心臓が凍り付く。しかし人が襲われているので身体の方は勝手に動いた。
 槍の柄で打撃を与え、蹴り上げて天使の上からどける。下にいた天使は蒼白になって意識がなかった。生きているのか死んでいるのかも分からない。
「あなたは大丈夫です!」
 ヴィーゼが近づくことなく声をかける。
 ムカデモドキは慶子には目もくれず別の天使へと向かった。慶子はその無防備な背中におっかなびっくり思い切り槍を突き立てた。ムカデモドキは突然のことに暴れ、狂ったように騒動で集まった天使へと飛びかかる。しかしその前に槍の柄に飛びついてそれを後ろへと引く。ムカデモドキは引っ張られ、しかし途中で槍は胴体からすっぽ抜ける。尻もちをついて倒れてしまった慶子は、それがすぐ目の前に転がったのに恐怖した。しかしムカデモドキはやはり慶子には目を向けず、天使に向かって突撃しようとする。
「誰か、彼女に武器を! あれに彼女は見えない!」
 お前はどこのゾンビで自分は息を止めた人間かと思いながら、床を滑ってきた剣を手にして立ち上がる。刀身を振って鞘を投げ捨て再びムカデモドキの背に剣を叩き付けた。なんとなく、先ほどよりも大きくなっているような気がした。
 日本刀とは勝手が違う剣に戸惑いながらも、横手に回り両手で構えて単純に振り下ろす。ほとんど斧のように使ってそれの胴へと叩き付け、暴れるのを避けながら再び振り上げ叩き付ける。二つになったムカデモドキは、しぶとく上半身と下半身で暴れる。こちらが見えなくとも暴れられると嫌悪感から足が震えた。
 しかしどうにかしないとどうしようもないのだと、慶子は上半身──頭部目がけて剣を突き立てた。ぴくぴくと痙攣して瞬く間に動かなくなる。本当に死んでいるかどうか突き立てた剣を蹴って確認し、死んでいると判断すると慶子は壁際まで跳び退り、しくしくと泣き始めた。
「慶子さん!? どこか怪我でも!?」
 ヴィーゼが慌てた様子で慶子の元まで飛んできた。震える手で彼の胸にしがみついた慶子は、しゃくりあげながらようやく言うことが出来た。
「あたし、虫だけはダメなのっ!」
 ヴィーゼが目を丸くした。
「そうでしたかすみません。立てますか?」
「だいじょーぶ」
 あまり大丈夫ではないがここで腰を抜かしては女が廃る。帰ったらやけ酒でも飲んで忘れよう。
「とりあえず、他にもいる可能性がありますから、援軍を呼びにいきましょう」
「ええ」
 ヴィーゼの目標はこの世界に来た瞬間に達成している。他人に任せてしまっても問題はない。
 慶子はさっさと帰ろうときびすを返した。その瞬間、それほど離れていない場所で再び悲鳴が聞こえた。いや、もっと離れた場所からも聞こえる。
「なんで!?」
「天界にも時々出る害虫ですが、妖精界のはタチが悪いと聞いています。どう厄介なのかは知りません」
 ヴィーゼはくつりと笑う。企んでいることを隠さぬ、嫌な笑み。
「どうしますか? 帰りますか?」
「帰れないでしょ……」
「では参りましょう」
 ヴィーゼにはめられたような気がする。しかしここで帰れるほど、慶子の心は強固に出来ていない。
 何を考えているのかは知らないが、虫が次々と出てくると考えたら恐ろしくてならない。我慢すれば慶子は一番安全に事を進められる。
 彼にとっては虫がダメという事の方が誤算だったのだろう。
 利用されるのは嫌だが、天界に来られて良かったという思いもある。だから大人しく利用されてやることにした。
 ここはフィオが生まれ育った世界だから。


「ずいぶんとまあ……大惨事だな」
 死屍累々という言葉が思い浮かぶ。
 廊下に転がる可憐な妖精達は血まみれだが、とりあえずは死んでいない。肉体的に弱いが、生命力は馬鹿に出来ない。大きな傷を負っても、簡単に復活するものだ。
「鬼が妖精と天使やっちまったのか。きっと真緒に騙されたな」
「あの女は、少しアリシアに似ているからなぁ」
 大樹の言葉に妹の名を出すアヴィシオル。男を利用して生きるのが吸血族。真緒の生き方や力は彼女たちに似ている。彼女達よりははるかに強いが、狙う者達はより強くしぶとい。
「なんでこんなところに明神がっ」
「まさか俺の真緒を」
「何を言う。真緒は一番強い男を望んでいるんだぞ。私に決まっている」
「てめぇが俺より強いってのか!? ええっ!」
 大樹は騒ぐ鬼達を無視して進んでいく。この調子で、同士討ちしていってくれるのでとても楽だ。共通の敵が消えた以上、あとは強き者が生き残る弱肉強食の世界である。
 女のことになると思考が吹き飛ぶところが鬼の短所で、愛すべき美点だ。もちろん、人間から見て。
「ここはエリーナの屋敷ですね。趣味で丸わかり」
「え、妖精界ってこんなもんじゃないのか?」
「まさか。こんな乙女チックで自然の光を排除した不自然な屋敷、あの馬鹿姉ぐらいしか作りませんよ」
「姉なのか……」
 大樹は小さくため息をつく。
「慶子さんは、好きそうですね」
「好きだろうけど、野原で戯れる可愛い妖精の方が好きだろ。ケイちゃん、綺麗な物よりも可愛い物の方が好きだから。これで綺麗な庭が見えてたら定住したがるだろうけど」
 しかしここには庭は見えない。窓がないからだ。闇がほとんどを支配し、住人の持つ明かりで輝く歪んだ屋敷。
「窓嫌いなのか?」
「日に当たるのを嫌うんだよ。日に焼けるからって」
「妖精でも肌は気になるのか」
「女性は種族に関係なく気にしますよ。エリーナは行きすぎているだけですが。
 外に出ている僕と色があまり変わらないのが気に入らないみたいですよ」
「え、そんな理由で嫌われてるのかお前」
 兄弟の人数が多いと血がつながってもこうなのだ。大樹も上下関係にある家族の中で育ったが、目が行き届かないほど家族は多くないので愛情はあった。愛情があるからこそ辛い場合もあるのだが、だからといってそれがない方がいいとは思わない。
 大樹は妖精も人間もくだらないことで敵対し合うのだと再認識して視線を前に向けた。
 ドアが開け放たれた部屋が見える。
 見える範囲は狭いが、慶子が好きそうなタイプの可愛いらしさと美しさを金揃えた内装だ。フィオが見える。他の面々もいるだろう。
「あーあ、最悪」
 大騒動になっている上、本人達はちゃんと目的地にたどり着いている。
 大樹がしたことは真緒を送ることのみ。やって来たアヴィシオルとルフトに指を差されて笑われ、助けられてここに至るというのも、空しい。
「私の顔に、本当に見覚えがないんだね?」
 真緒の声が聞こえる。その言葉で、真緒がなぜ無理矢理ついてきたのか理解できた。
 大樹は部屋の前まで瞬時に移動し、慶子の姿を探して視線を巡らせる。
「いない……」
 三人の姿はあっても、慶子の姿が見えない。ルフトの姉とやらは美人だが、いかにも妖精といった現実感のない冷たさを身に纏っている。ただし、今は真緒と対峙してその顔を強張らせている。
 部下達は皆意識を手放し、残るのは彼女だけだ。その上にルフトまでもが来てしまった。
「ケイちゃんは?」
「いないって。天使といっしょに私達捜しに行って戻ってこないんだって」
 真緒の返答に大樹は渋面になる。
 天使が慶子を連れていった。どういう過程でそうなったのか考えると恐ろしい。
「ヴィーゼ殿は屋敷に来て間もない方。迷われておいでなのじゃ」
 強がるようにそっぽを向くエリーナ。彼女にしてみれば、天使に要請されて逃げ出したフィオを捕獲する手伝いをしただけと言い逃れが出来る状況だ。
「今お前、ヴィーゼって言ったか?」
 傍観を決め込むつもり満々で壁にもたれかかっていたアヴィシオルが問う。
「なぜ悪魔ごときがなぜあのお方の名を知っている」
「少し、な。慶子は利用されていそうだな」
 楽しげに笑うところを見ると、危険はないのだろう。
「それ、ケイちゃん怒らないのか?」
「さあな。力が通じないから、どうだろうなぁ。あいつの考えは分からん」
「厄介な相手なのか?」
「ヴィーゼには触れるな、触れたらもう諦めろって言われてるな」
「どういう意味だ?」
 アヴィシオルはにぃっと笑い、耳元で囁いた。
「ヴィーゼってのは魔界では吸血族そのものを意味することもある」
 ああ、アリシアの同類かと納得する。それなら慶子が怒るか怒らないか分からない。有用と思った相手を捨て駒にすることもない。慶子はかなり希少価値が高いため、使われても危険はないはずだ。彼女たちは自分の駒の実力を見極める能力に長けている。アリシアはまだ子供だから慶子の実力を見誤ったが、大人なら彼女の使い方が分かるだろう。
「そうだ……天使とつながっていると言うことは、つまり妖精界に入り口があるんじゃないか?」
 アヴィシオルはエリーナに向けて問う。彼女はつんと横を向き、しかし否定はしなかった。
「天界への?」
「そうだ。妖精と天使は険悪ではない。どちらかというと、昔は魔界と争っていたからな。俺のじいさんの時だ。人間界のゲートは天界で監視されているし、俺が使った方法は警戒されまくっててもう出来ない」
 フィオをたぶらかしたときのことを言っているのだろう。うかつにも痕跡を発見されたようだ。
「なんで天界に用があるんだ?」
「さあな。何を考えているかは知らないが、興味は持っていた。慶子が無事なら別にいいだろ」
「無事ならいいけど」
「医者だから手当は上手いぞ。少しぐらい平気だ」
「ケイちゃんどこ!?」
 大樹は慶子を探しに行こうと部屋の外に出て、慌てて駆け寄ってくる天使を見た。フィオを隠すために気絶させようと睨み付けると、その様子が尋常で無いことに気付く。
「大変だ! 天界にまで蟲が入り込んだ! 鬼は応援に来てくれ!」
 鬼ではない。鬼ではないが、力を使うのをやめて大樹は走った。
「お、女の子を知らないか!? 巨乳で三つ編みの!」
「よかった、あんたは正気か。その子が先に行って始末してくれている。あれだけいると一人じゃ無理だ。
 なんでこんな肝心なときに他の鬼はみんな喧嘩しているんだ!?」
「あいつらにも色々とあるんだ。案内してくれ」
「わかった」
 部屋からルフトとアヴィシオルも出てくる。元々人間の振りをしているアヴィシオルは素知らぬ顔でついてきた。エリーナが彼を悪魔と見破ったのは、元々知り合いなのだろう。
「ルフトは待ってろ。あいつのお守りしてな。妖精や天使は蟲には弱いからな」
「え……あ、うん。分かった。気をつけて」
 ルフトは手を振って戻り、アヴィシオルは大樹を促す。
「嫌だアヴィ、私も行く!」
 フィオの声が聞こえ、大樹は慌てて振り返る。ここには天使がいるのに、フィオが顔を出すのはとにかくまずい。
「連れていけ!」
 そう言って出てきたフィオは、フードを目深にかぶっていた。こんなマントは持っていなかったはずだと思い彼の頭部に触れる。
『私がフィオ様を覆っています。フードが外れることはありませんし、短時間なら覆い被さり別人のように化けられます』
 オーリンの声ならぬ声が頭に響く。彼は本当に何にでも化けられるようだ。
「危険だぞ」
「慶子がいるなら行く。私はすぐにでも慶子に会いたいんだ」
 アヴィの言葉に小さく叫ぶフィオ。ここで大声を出さない分別は身につけた。経験豊かなクルスもあるし、便利なオーリンもいる。
「では大樹と手をつないでおけ。ルフトはどうする?」
「行きますよ。一人で残るのもなんですから」
「私も行くぅ。ここにいても役に立たない悪趣味なおねーさんしかいないし、慶子ちゃん心配だしぃ」
 真緒は運動神経皆無の女の子がするように可愛らしく走って寄ってくる。ホロムも実家に帰れるとあってついてくる。
 結局こうなるのだ。
 ホロムはいいとして、フィオはしっかりと手を握っていないと危ない。
 そしてもう一つ気になることがあった。
「なぁ、アヴィ」
「何だ」
「蟲ってさ、つまり虫みたいなんだろ」
「そうだな。だからお前達にはムシって聞こえるんだ」
「お前は違うのか」
「違う。魔界に似たようなのがいるから、それの名前で聞こえる。ここで名前を出してもお前には蟲って聞こえるかだろうけどな」
 大樹はため息をついた。彼らの力は便利だが、時に厄介なことも生み出す。
「ケイちゃん、虫を見ると人が変わるんだけど……」
「嫌いなのか?」
「嫌い……だから脅えるけど……何というか、限界を超えると……人格が変わるというか」
「あの時の日本刀みたいに?」
「前に頭にゴキブリが止まったときは、どこにあったか知らないけどガスマスクして殺虫剤百本ぐらい一日中まいてた。俺、ちゃんと叩きつぶして後始末した後だったのに」
「……天界に迷惑が掛かる前に行くか」
「そうした方がいいかもな。ケイちゃんは理性が途切れたときが一番恐いから」
 慶子が心配と言うより、慶子で心配になるというのは、やはり少し異常だなと思いながらも大樹は首を回した。
 大樹の力は魔力とは違う。だから蟲にも食われない。
 しかし慶子の力は魔力にも何にでも働く。ひょっとしたら、蟲も何か影響を受けるかも知れない。
 そう思うと、もう心配でたまらなくなるのだ。色々と。

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