28話 あたしと天界
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「あははははっ死ねっ!」
やたらと高い声で笑いながら蟲を殺しては武器を取り替えて進む少女を、天使達はさすがは鬼と褒め称えていた。誰もあれが人間──しかも一般人だとは思っていないようだ。
ヴィーゼは苦笑し慶子につかず離れずついていく。彼は回りに天使がいる限り自分が襲われないことを知っているため、天使を上手く使いながら進んでいる。天使達の魔力が強いため、ヴィーゼなど目に入らないのだ。
そして天使達から見れば、ヴィーゼは空気のように周囲にとけ込んでいて誰も咎めない。吸血族とはそういうものだ。
「次よこしなっ!」
近場の天使の武器を脅し取り、がに股気味に進む慶子。
普段淑やかな彼女は、恐怖を通り越すとがさつになるようだ。なかなかの愉快な結果に、個人的には満足している。露払いまでしてくれて愉快。実にいい人材だ。それに可愛らしい。魔力も無効化してくれるから、使い方によってはかなり優秀な手駒となる。彼女と他数人いれば、最強の存在である魔王を叩きのめすのも簡単だろう。
アリシアが珍しく女の子を狙っていると聞いたが、これなら理解できる。
生命力が強そうで、血も美味しそうだ。
「慶子さん、右へ」
「はい」
ヴィーゼに出来るのは、次の獲物を求める慶子にそれを差し出すこと。疑いもせずに突き進む彼女の後を追うのは疲れるが、彼女はこれを槍を振り回してしているのだ。棒術を習った事があるらしく、槍の使い方とは少し違うが槍として使おうとするよりも効率はいい。
天使の武器に使われる鉱物は、人間界の鉄よりも軽い。ただしその分脆いので、使い捨てになっている。慶子は蟲に触れた武器を持ち歩くのが嫌だからそうしているようだが、それで正解だ。
「そこを左」
「はい。
あの思ったんですけど、今どこに向かってるんですか? っていうか、なんでこんなにいっぱいいるんですか? あんなのこれだけ通ったら普通気付くのにっ」
「さあ。世の中には不思議なことがあるんですよ」
「腑に落ちないわねぇ。天使が自分で自分も危険になるようなことはしないだろうし、妖精だって自分も危険だし……」
他にゲートがあるのは人間界からだけだが、人間界の蟲は少し風変わりで、これとはまた違う。
誰が得をするのか、彼女は考えているのだろう。
「あ、だれか襲われてる」
慶子は再び槍をただの棒のようにして構え突撃する。
「うらぁっ!」
花も恥じらう年頃の少女にあるまじき雄叫びを上げて慶子は蟲を殴り倒す。
「ンどりぁ!」
槍を突き刺してすぐに手を離して跳び退り、襲われていた天使から剣を奪い取る。蟲は暴れて別の天使をはじき飛ばし、慶子は剣の確認もせずに逆手に握りしめると再び前に出る。自分の方を向かない蟲の頭部に、慶子は渾身の力を込めて剣を突き立てる。
慶子は人にしては運動能力は高く、武術の心得もあるようだ。しかし彼女は人間の女で、本来ならバケモノを相手には出来ない。
それが出来るのは、剣を無理に剣と認識せず、大きな刃物と認識して、道具を道具として使いそれなりの身の丈にあった方法で闘っているからだ。
下手に剣の腕に覚えがあれば、剣にこだわって自滅していただろう。
これは戦いではなく、少し難しい単純作業なのだ。だからこだわる必要はない
慶子は一息つくと周囲を見渡す。
「なかなか騒ぎが聞こえなくなったわね。だいぶ減ったのかしら」
慶子はちらとまだ少し動く虫を見て、突き刺した剣の柄に足を乗せてぐりぐりとより深く沈める。完全に動かないのを確認すると、襲われていた一団を見た。
護衛の天使が三人に、老人が一人。
「おじいちゃん、大丈夫?」
慶子は腰を抜かした老人に尋ねた。
「何だ、小娘。鬼がなぜこのような場所にっ」
慶子は護衛の言葉にむっとした表情を作った。ヴィーゼは微笑みを浮かべて老人に向かう。
「閣下、ご無事で何よりです」
この老人が何者であるのか、ヴィーゼははっきりとは知らない。
しかし、条件には合う。
だから賭けた。
「そなたは誰だ。見覚えがない」
「はい。まだ宮に上がったばかりの若輩者にございます。魔力の強い閣下のこと、きっと狙われていらっしゃると蟲が集まる方へと向かって参りました」
目が合う。老人の目が見開かれ、一瞬だけひどく虚ろになった。しかしすぐに正気は戻り、誰も怪しむことはない。
この男は要人だ。しかも中心になるほど魔力が高い。護衛は何匹か虫を殺していた。安全な方へと誘導されていた。被害が多い方へと向かった結果に出会った。そして蟲もほとんど引き寄せて、中心まで来ると騒ぎが途絶えた。
名は知らぬが、この男だ。
「ヴィーゼと申します。お見知りおきを」
跪き、長い袖を手に取り口付ける。
「その者は一人で蟲を?」
「はい。閣下の許可無く人界の者を招くなど、私ごときの独断ではならないことですが時が時でしたので致し方なく」
「それはよい。しかし鬼とは本当に蟲の意識に入らぬのだな」
「鬼は身体に蟲を飼う生き物です。蟲により力を得て、蟲を養うために生をむさぼる。天界や妖精界の蟲とは違い、魔力ばかりに固執しません」
人界の蟲は変わっている。生物に寄生して、魔力の代わりに生命力を食らう。寄生された生物の大半は狂気に身を染めて死ぬか、生き残っても狩られてしまう。しかし正気のまま乗り越えれば強い力を与える。
増えやすい妖精界の蟲とは違い、増えにくく少ないことで自らを守る。魔力が無くとも人のような高度な生物の生命に値する物、血肉を食らうことにより生きられるように進化した。
実に愉快な世界だ。
慶子の場合は人間だからなのだが、この天使が本当の意味でそれを知ることはないだろう。
「どんな生物とでも、共存することは可能なのです、閣下」
人間はそれを成している。
天使も妖精も悪魔も蟲も。
だから天使にも出来るはずだ。魔界は乱暴者の住まう世界だから嫌うのも理解できる。しかし嫌うのと敵視するのはまた別だ。
「私は周囲をもう少し見回ったら彼女を送って参ります。さすがに疲れたでしょうから」
「このような時に帰すというのか」
「はい。気配は今のところ消えました。
それに彼女は『虫』嫌いですから、平気な者を呼んで参ります。女性にこれ以上続けさせるのは酷ですから」
「蟲を飼っているのに蟲嫌いとは奇なことだ」
「蟲の外観はグロテスクです。見える物と見えない物はまた違います」
見えなければ、外は可愛らしい動物であったりするのだ。人にも化ける。だから慶子も触れることが出来る。
「念のため、上階も見回りたいのですが」
「……まさか上階までは侵入していないだろうが……。
よい。許可を与えよう。腕を出せ」
ヴィーゼが腕を差し出すと、手の平に円を描く。慶子も同じようにされ、不思議そうに何も変わらぬ手の甲を見つめていた。
「それ半日もすれば消える。消えてなお中にいた場合は兵が押し寄せることになるから、安全を確認したらすぐに帰れ」
「感謝いたします。それでは、早急に」
一礼し、ヴィーゼはきょとんとしている慶子の肩を抱いてその場を去る。
「あれ、誰?」
「おそらく、今回の黒幕ですよ」
「おそらく……って?」
「両性具有の者以外で一番魔力が強い者でしたから。実力を見分ける能力には長けているんですよ」
目的は道を通すことだった。だが、運良く見つけてしまった。その賭けに勝ったのだ。
「ヴィーゼさん、異様にタイミング良くこいつら現れたんですけど……まさか」
「まさか。繁殖力が異様に高い魔力を食らう生き物をなぜ解き放つんですか。私も多少は魔力を持っているので少しは危険だったんですよ。死人が出なかったのが奇跡的なんですから」
「それはそうだけど……」
慶子は腑に落ちないとばかりに腕を組む。
考えるだけ無駄なことが世の中にはある。
少なくとも、ヴィーゼがしたのはまだ道をつなげたことだけなのだから。
「彼女たちはあちらに向かわれました」
「ありがとう」
いちいち教えてくれる天使達に一応感謝しながら、聞かなくても分かると内心呟いた。
蟲の死体がぽつんぽつんと転がっている。天使はほとんど避難したらしく、進んでいるとたまに負傷者とそれを介護する天使と出会うだけだ。
混乱ばかりは大きいが、人的、物的損害はないらしい。話を聞けば、慶子が我慢して虫を殺して回っているらしい。
あとが恐い。絶対に酒を飲む。限界を超えて飲む。延々と一晩説教されるのは大樹だ。慶子の説教は心当たりがありすぎてそれはもうぐさぐさと胸に突き刺さる。
「容赦なく頭を狙ってますね。しかも武器はそのまま使い捨て」
「ケイちゃん、虫嫌いだから再利用するのが嫌なんだろ」
「あはは、武器ぐらいリサイクルしましょうよ」
ケラケラ笑うルフト。天使達がリサイクルしてくれるだろうが、慶子は二度と手にしまい。
虫はほとんど慶子が始末したらしく悲鳴の一つも聞こえない。
「でもなんで蟲なんて都合良く出てきたんだ? 鬼がいる場所に近づくはずがないのに」
理由は分からないが、他界の蟲は鬼が嫌いらしい。研究をしたいらしいが、ルフトは蟲に弱いし、アヴィシオルも竜の血を引いているから魔力を奪われても死ぬことはないが、近づきたくはないらしい。そのため蟲のことはほとんど分かっていない。
「でもおかしいな、この蟲」
「言われてみればそうですね」
ルフトは虫の死骸を足で蹴った。
「俺には同じにしか見えないけど?」
「だからおかしいんですよ。蟲の姿は虫っぽいですが千差万別です。これほどよく似た虫ばかりの群れを見たことがありません。普通は親子でも姿が違うんですから」
「え、そーなん?」
大樹は改めて蟲を見る。幸い慶子が最も取り乱す黒光りした昆虫形ではなく、ムカデのような形をしている。慶子から見ればどちらも虫で嫌いらしいが、前後が見えないほど取り乱す事はないだろう。
しかし女の子だ。これだけの気色悪い生物を殺し続ければ、どうなるか……。
「こんな現象は一度も見たことがない。意図的な物を感じる」
「意図的と言っても、誰が? 吸血族でも、こんな事をするのは無理でしょう?」
「それはそ……」
アヴィシオルの言葉が止まり、突然姿を消した。
「え、アヴィ? 何? どうしたんですかっ!?」
ルフトは消えたアヴィシオルを探して首を振り、一度目を伏せてから走り出す。彼らはお互いの位置が分かるように、互いに魔法をかけあっている。互いのプライバシーのため滅多に使うことはないし、相手が拒否をすれば位置を特定できない術だが、アヴィシオルは何かを見つけて消えたのだ。誘導するために拒否はしない。
大樹もフィオの手を引いて彼が転んだりしない程度の速さで走る。さすがに半分男なだけあり、足は遅くない。
「アヴィ、どうしたんですか?」
ルフトの足が止まる。
大気もそれを見て呆れてぽかんと口を開いてそれを眺めた。
ナンパしていた。
黒髪の女性を、それはもう熱心にナンパしていた。男連れだが、なかなかの美少女で──と、そこで大気は思い出す。
「お義姉さん!?」
あれは確かに淳の妻、闇の精霊のリノだ。アヴィシオルに手を掴まれ、困惑している。
「なんでここに?」
真緒が男の方を見て呟いた。
帽子をかぶって顔はよく見えないが、髪質と体格からして淳ではない。しかし知っている。
真緒が人の目から見れば瞬間移動に近い速度で男に迫り、首を絞めた。
「てめぇは妹に無断でいなくなってこんな所で美少女と一緒たぁどういう了見だ!? ええっ!?」
あれはまさしく真緒の兄の翔吾だ。知り合いでもないし、ほとんど顔も見たことはないが、真緒に印象が少し似た、背の高いハンサムな青年。これが兄でなくて何なのだろう。
「沢樹に懐いてきたし、保護の必要が無くなったかなと」
「あんな色情犬に可愛い妹を預けるなっ!」
「こいつら面白いけど、真緒を連れて世話になるには危なくてなぁ」
「せめて置き手紙の一つも残してけっ!」
拳で一発殴り飛ばし、真緒はすっきりした様子で戻ってきた。
「お前、殴るのが目的で探していたのか?」
腹違いとはいえ久しぶりの再会で殴り飛ばすとは思わなかった。
「いや、元気そうだったから。それにムカツクし。預けるなら綺麗なお姉さんに預けてくれればいいと思わない? 男に預けるなんて最悪だよ」
真緒はもう一度翔吾を睨み付け、つんとそっぽを向いた。
翔吾の方はリノが心配して指先で突かれている。その仕草にアヴィシオルが悶えた。
「ああ、なんて愛らしいんだ。人妻なんてもったいないっ」
「お前奥さんに愛人までいるだろ。
あとその人ケイちゃんの兄貴の奥さんだから、命が惜しかったら下手に触るな。あと妊婦だから」
アヴィシオルが壁際まで後退し、壁沿いにこちらまで来るとルフトに泣きついた。
「よしよし。あの女の身内はヤバイからやめようね。兄ってのもきっとバケモノ並の何かを持ってるに違いないし、諦めなよ」
「うう……しかしなぜ慶子の身内がこんなところに」
アヴィシオルはちらとリノを横目で見る。
妊婦がこんな危険な場所にいるのは大きな問題だ。
「お義姉さん、どうしてこんなところに?」
「ああ、ご主人様の妹さんの彼氏さん。こんな所で会うなんて偶然ですね」
知り合いと知ってリノは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「本当に偶然ですねぇ。で、なんでここに?」
「ご主人様に誰も殺さない程度に騒ぎを起こしてこいって言われたんです」
脳天気に恐ろしいことを躊躇無く告白するリノ。お義姉さんと言ったため、警戒心が解けたのだと信じたい。
「あ、この蟲は繁殖しないように遺伝子操作されていますから安心してくださいね。力も弱いですし、寿命も短いんです」
「淳さん……命を弄びまくって」
「天才に不要なのは良心だってご主人様が言ってました。でも本当は言葉と違ってとっても優しいんです」
あの慶子の兄だ。言っていることとやっていることが微妙にずれるのは仕方がない。
「でもなんでこんな騒動を起こしてるんだよ。あの人の利益になるようなことあるか?」
「邪魔なんだそうです」
「邪魔?」
「天使の張った結界のせいで、狙った場所に行けないそうです。だから、とっとと天使の現体制を崩壊させるんです」
かなり自己中心的な理由で他所の世界に混乱を起こしているように聞こえるのだが、気のせいだろうか。
「狙った場所に行けないって……」
「ご主人様は異界への移動装置を発明されてるんです」
「それは知ってるけど、どこに出る分からないってのは、天界の結界のせいなのか?」
「はい。戻るときは正確に出られるので、ご主人様はそう結論づけられました」
「で、これでトップを暗殺しようと?」
リノはきょとんとして首をかしげ、言葉を噛みしめ意味を理解し首を横に振る。アヴィシオルがその様子をうっとりと眺めていた。
「暗殺じゃありません。洗脳と脅迫です!」
淳が何を企もうと、死者が出なければ問題ないだろう。問題があっても、彼なら簡単に雲隠れして別のパトロンを見つけるだろう。他国に行ってやられるよりは、明神の手の内でやってもらえているだけありがたい。
知らされていなくとも。
「なんで翔吾が噛んでるんだ」
「もしもの時は始末する必要があるだろ。制御が聞かなくなったり、奇跡的な偶然が起こって繁殖しちゃったりしたときのために」
あの天才にも、ほんの少し不安はあるようだ。
肩をすくめる翔吾の脇を、駆け寄ってきたフィオがぐいと引く。
「天界の結界がなければ、もっと自由に行き来が出来るようになるのか?」
「……まあ、そうだな。あの結界のせいで天使も異界に行くのに座標を明確に定められないらしいから」
「どうすればいいのだ?」
「どうって、外して貰うしかないだろ。だから権力者を操ろうとしてるんだ」
フィオは俯き、やがて振り返り大樹を見上げた。
「大樹はどうすればいいと思う?」
「そりゃ、フィオちゃんが実権もろもろ握ってくれるとありがたいね」
そうすれば、未熟な統治者に人間が口を出すことも出来る。人間にしてみればフィオが上に立つのはとても美味しい。今の統治者よりも、その方が人間にとっては有利だ。
「この子は?」
「今天界で行方不明扱いになっている、次期統治者候補」
隠しても仕方がない。淳の手先なら、慶子の味方。慶子はフィオの味方で、淳は必然的にフィオを気にしなくてはならなくなる。昔から彼も妹には弱い。
「なんて美味しいもの飼ってるんだ! 何で言わないんだ!?」
「そっちが勝手に動いてるんだろ。っていうか、知らなかったのか? てっきり知ってるから動いてたと思ってたぞ。人質予定のケイちゃん助けたり」
知っていなければできない行動のはずだ。そうでなければ慶子を連れてなど行かないだろう。。
「さてはヴィーゼの奴……。
リノ状況が変わった。淳に報告に行ってこい。ヴィーゼが何かする気だ」
翔吾が苦虫を噛みつぶしたような顔をして舌打ちする。
「それってご主人様が困ります?」
「だからさっさと行け」
「はぁい」
のんびりとリノが答えると、その足下から闇がわき出て沈んでいく。これを見ると、ああ人間ではないのだなと痛感した。
「ちょっくらヴィーゼのところに行くか」
「慶子の所に行くのだな。私も行くぞ」
「もちろん嫌でも連れてくからな。せっかくいるんだから、一気に攻めるか?」
「うむ。どうするつもりだ?」
「それは今からうちの頭が考えるんだよ」
人任せで突っ走るつもりのようだ。今頃、頭を痛める淳の姿が頭に浮かんだ。
「アヴィ、どうする?」
「なるようになるだろ。どうせもう魅了はすんだだろうからどうにでもなる」
大樹ももうどうすべきか考えるのも馬鹿らしくなってきた。
詐欺師になった気分だった。
見上げた先に、空に浮いた宮殿がある。あそこでフィオが育った場所らしい。今から、あそこに行くのだ。
「皆様ご無事ですか? 蟲の中には空を飛ぶモノもいますので、万一のために上の見回りを閣下に命じられました。魔力を食らうあれらなら、結界ぐらい破ってしまうかも知れませんから」
「そんなことがあるのか!? 早く行ってくれ!」
「下はそろそろ応援が来ると思いますから、彼らに任せてください」
「ああ、分かった。気をつけてくれ。純真な候補者様達に、あのようなバケモノをお目に触れさせるわけにはいかない」
門番のような者達なのだろう。蟲が出ようとも場を離れなかった勇敢な彼らは、慶子がまだ残っていた一匹を仕留めるのを見て道を空けてくれた。
慶子はヴィーゼに手を引かれ、天界に来るときに通った入り口に似た枠を通り、別の場所に移動した。
窓からは空しか見えない。近づいて見下ろせば下が見えるのだろう。やってみたいが、緊急時にそんな不審な行動をとっていては今度こそ怪しまれるかも知れない。
出来るだけ堂々と、槍を肩に抱えて前に進む。
時々、フィオぐらいの子供とすれ違い、心和んだ。
彼らのまあ可愛らしいこと。愛らしいこと。その目の澄んでいること。崇拝したくなる気持ちはよく分かる。
「ヴィーゼさん、いいの? こんな所まで」
「いいんですよ。この世界の統治者に会いに行きます」
彼は思ったよりも先のことを見ているようだ。
「前から思ってたんだけど、なんで統治者とか、宗主なんて言い方してるの? 変な団体とかみたいよ。
神様とかなんとかの方がまだ合っている気もするけど」
「ああ、簡単ですよ。神を神と呼ぶことは禁じられています。ですから主と呼んでいるそうです。
あと、次期統治者を次期主と呼ぶのもおかしいでしょう。候補者を神と呼ぶのはもっとまずい。そこで次の神候補を次期統治者候補と呼ぶようになり、統治者が神を差す一般的な言葉になっていたんですよ。
主と呼ぶのは、直接面識のある場合だそうです。宮仕えしている場合はともかく、一般では統治者と呼んでいるそうです」
人間にも神の名をみだりに呼んではいけないという宗派もある。偶像を拝すことを禁じ、神の名を口にすることも禁じられていた。神よと願うのも本来ならばよくない。
「たかが呼び名ですが、多くの天使達にとって彼は完璧な存在であり、まさに神なんですよ」
フィオが頭に思い浮かび、どうにもそんな感情は持てなかった。可愛らしい天使であり、神様のような存在になると言われても、想像できない。
「で、その神様に会ってどうするの?」
「傀儡と言えども、動かぬだけで信頼はあります。動かすことが出来たら、どうでしょう?」
「なるほど」
フィオをトップに置くよりも話が手っ取り早くすむ。今のフィオに実権を握れなど無理な話で、そうなると繰り手が替わるだけで傀儡には違いない。
「どうして貴方がそんなことまで?」
「悪いことを企んでいるわけではありませんよ。正直なところ、天界のトップに誰が立とうと関係ありません。どうせたらし込むなら、人間の政治家の方がよほど有益です」
「え? なんで?」
アリシアを見ていると、とにかく様々な強い男を手に入れることに生き甲斐を感じているように見える。だから天使の強者を手に入れるために行動していると思っていた。
「天界に取り入る大きなメリットがないんですよ。突出した者の能力は高いんですが、魔道に関することなら妖精界の方が上ですし、戦闘能力で選ぶなら魔界の方が上です。人間界は魔力がないのを補ってあまりある他の界にはない技術があります」
「じゃあ、なんでこんなこと?」
「……強いて言えば、嫌がらせですよ」
「嫌がらせ?」
「吸血族は、同族をからかうのが存外好きなんですよ。抵抗を乗り越えてこそ大物になれると、年長者が罠を仕掛けるのは日常茶飯事です」
「アヴィとそんなに年齢違うんですか?」
「あれはああ見えて、それほど長く生きていませんよ。吸血族は肉体の成長が早いんです。そして美しいまま年を取りません。老衰して死ぬ場合も見た目はせいぜい三十代前半です」
「ムカツク種族ですねそれ」
「女性にはそう言われます」
彼には彼なりの苦労もあるのだろうが、若いままというのは羨ましい。
人間という力なき存在に生まれてしまったのだから仕方がないが、二十年したらまた同じ事をもっと強く思うのだろう。
ため息をついて顔を上げる。ちらほらと可愛い天使を見かける。無邪気な彼らは、見慣れぬ慶子を見て好奇心満々といった目を向けてくる。それが小さな子ばかりならいいのだが、慶子よりも年上に見える青年まで混じっているのだ。時折ディノが初めて出会ったときに着ていた鎧を身につけた男の天使もいる。彼らは伺うようにこちらを見ていた。しかし彼らも疑っても止めることはしないようだ。この辺りは人間と変わらない。
「本当にフィオが大量生産されてるのねぇ」
ディノなら迷わず声をかけてくるだろうから、ディノが量産されているわけではないようだ。
「無知ではありますが、全てが純粋無垢ではありません。能力の優劣によってひいきが生まれ、派閥も出来ます。貴方の可愛い天使は、一番上であるために奔放であったそうです」
子供などそんなものだろう。無垢と無知は紙一重だ。しかも全員が平等ではない。口先だけでも平等を唱える人間達と違って、トップを生み出すために彼らはいるのだ。
「あの、失礼ですがお嬢さん」
少年の、良く通る澄んだ声が響く。
ここは音と足音が響きやすい。だから堂々と正面から来るしか手がないために、彼女たちは怪しまれながら止められなかった。止めるとすれば位の高い天使だろうと思っていただけに、候補者であることに驚いていた。
「何かしら?」
慶子の笑みを見て少年天使は爽やかに微笑む。フィオの隣に並べて写真を撮りたい美少年天使で、慶子の頬もゆるむ。しかしゆるみすぎてはいけない。
「ようこそ天界へ、人間界の可憐なお嬢さん」
慶子は少年の爽やかさに胸のときめきすら覚えた。可愛くて礼儀正しい。なんて素晴らしい少年だろうか。ただ、少し尻が軽そうだ。
「よく人間界から来たって分かったわねぇ」
「私の知人が今人間界に行っているので調べました」
ものすごく心当たりがあるのだが、それを顔に出してはおしまいである。
「しかしなぜ人間界の方がここに? 下も騒がしいですし、何かあったのですか?」
「蟲って化け物が出たのよ。天使は力を取られちゃうからあたしが来たの」
「……ムシ? バケモノ?」
「恐い生き物よ。けが人がいっぱい出たわ」
「そ、そんなことが!?」
少年は青ざめて震えた。こんな所もフィオと同じだ。保護欲をかき立てるこの愛らしさは犯罪的である。
「み、皆は!?」
「大丈夫よ。向こうにいたのは全部やっつけたから。それよりも統治者って方はどちらにいるの? 万が一のことがあるから、安全を確認したいの。蟲は空も飛んで結界も破るかも知れないから」
慶子の言葉に少年はこくこくと頷いた。青ざめ方などフィオにそっくりで可愛い。
「君のお名前は?」
「セダと申します」
「私は慶子よ。よろしくね」
フィオと同じほどの背丈のセダの頭を撫でて慶子はとびきりの笑顔を向けた。セダは目を見開いて固まり、やがて嬉しそうに微笑む。その反応を見て、フィオも初めのうちは、触れられるだけで喜んでいた事を思い出す。
「セダ君、少しだけ心配だから案内してくれるかな? さっき偉いおじいちゃんには許可をとったから大丈夫よ」
「フロウ様でしょうか?」
「たぶんそれ」
きっとそれに違いない。迷わず真っ先に出てくる名なら覚えておいて損はない。別人だったとしても人間と下っ端コンビなのだ。
「案内してくれるかな」
「は、はい」
慶子は騙していることに罪悪感を覚えながらも、セダの背に手を添えて再び歩いた。
これはセダのためでもある。