28話 あたしと天界
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「そーなんだ。セダ君はここから出たことがないんだ。退屈じゃなぁい?」
慶子はまるで幼児相手にするような口調で尋ねる。幼児ではないが、なぜかついそんな口調になってしまう。
それほど純粋で可愛い子なのだ。
「退屈?」
「いつもここにいたら、ひまじゃない?」
「そんなことはありませんよ。時間があれば勉強やお祈りをしますから」
「そーなんだ。えらいわねぇ」
手をつないだまま、槍を脇に挟んでセダの頭を撫でる。この子も現実を知ればフィオのように極端に走るのだろうか。あれはフィオ独特の反応だろうから、普通にショックを受けるだけだろうか。
肉ぐらい食べさせてあげたいし、普通の生活も知って欲しい。知らずに押し込められるのは間違っている。せめて外を知って、選んで欲しい。覚悟があってするのなら、それはそれで正しいのだ。そうでなければ間違っている。もちろん他人を傷つけないことが前提だ。
「あ、こちらです。この部屋にフロウ様がいらっしゃいます」
あっさりと妨害もなく、障害と言えば気色悪いだけで強くもない蟲が相手であり、恐ろしいほど簡単に事が進んでいる。
何かあるのではと緊張しながら、セダが衛兵に説明するのを眺めた。
やはりあっさり納得されて、ドアが開かれる。
印があるおかげだろうが、この程度のことで表の最高権力者と面会できていいのだろうか。
そして、まああっさりと、対面かなった。簡素な装飾の部屋の中央。ロッキングチェアに座っていた。
「どうしましたか」
慶子はきょとんとしてその天使を見た。
神様のような人という印象があったので、老人を思い浮かべていた。
しかし現実はやせ細った顔色の悪い中年男性。
体調は徹底管理されているのだと思っていたが、彼はどう見ても不健康のように見える。
「……ひょっとして、何か患ってらっしゃるの?」
「最近、お体が優れないようです。皆が心配しています。その上、一位のフィオが行方不明になってしまったので」
それは混乱もするだろう。押し上げられるセダも戸惑う。そのことに関しては、少し悪いことをしたかと反省した。もちろん、知っていても現状では帰そうなどとは思わないが。
「どうしましたセダ」
「どうぞそのままでお聞き下さい。
下で蟲が出たそうです」
「そのことですか。聞いていますよ。その女性が人間界からいらっしゃった方ですね。
お手数をおかけしました。ありがとうございます」
まともな人だ。
慶子は少しばかり衝撃を受けたが、なんとか笑顔で取り繕う。
「いえ、大したことじゃないですから」
やはりフィオは特殊な思考回路の持ち主なのだろうか。知ってはじけてしまったのだろうか。育て方が悪かったのかも知れないが、初対面の時は失礼極まりない子であったため、まともになってきたと思っているが、気のせいなのだろうか。
「人間界には、本当にお世話になっています」
「そうなんですか?」
「ご存じかも知れませんが、うちの子が一人迷い込んでしまいまして」
そういう意味でなら、とてもお世話している。二人分の食費は馬鹿にならない。また保が海外に遠征したら、切りつめる生活が始まるのだ。最悪の場合、毎日大樹にたかりに行かなくてはならない。
「慶子さん、これ見てくださいよ。素晴らしいですよ」
いつの間にやら慶子の側から離れたヴィーゼは、壁のレリーフを指さして手招きしていた。
「何してるんですか」
尋ねるが、ヴィーゼは人差し指を唇に当てて手招きする。何があるのかと訝しがりながら、慶子はそおっと近づいた。レリーフは見たことのないモチーフで、金に近い色をした何かで出来ていた。装飾なのだろうが、何か意味があるようにも見えた。
ヴィーゼは慶子の手を取ると、
「あぁっ」
と言って、慶子の手をレリーフに手に押しつける。
レリーフに触れている。
「よしっ!」
「何が良しなんですか?」
ヴィーゼはしてやったりとばかりに含んだ笑みを浮かべた。
「無事に無効化できましたよ。本当にあなたは便利ですね」
「何が無効化されたんですか!?」
「盗聴ですよ」
盗聴器があってもおかしくはない。監視されていて当然だ。しかしそれがなぜ慶子が触れて壊れるのだろうか。慶子は機械とは相性が悪くよく壊すが、触れただけで壊れるようなことはないはずである。
「猊下。監視は無くなりました」
事の疑問など知ったことではないらしく、ヴィーゼはフロウの前に出ると跪く。
「この部屋にある盗聴器は一つ。下は混乱の渦の中にあります。今の行動は外に漏れません」
これを狙って、騒ぎを起こしたというのだろうか。だとしたら、どこまでも利用されたことになる。しかし不快な利用のされ方ではない。
「君は……」
「私はヴィーゼ。魔王陛下の命を受け参りました」
「悪魔」
身元を自らばらしたヴィーゼは、天使の仮面を殴り捨て、悪魔の笑みを浮かべた。
「なぜ悪魔がわざわざここに?」
フロウは統治者と呼ばれるだけあり、驚きもせずにどっしりと構えていた。見た目は貧弱この上ないのに、ずいぶんと立派な天使である。
「解放を」
「私達の解放ですか」
「左様でございます、猊下」
「なぜ悪魔がそのようなことを」
「悪魔、という言葉が出るためです。私達に対する偏見を植え付け、敵とみなし排除することにより、人界を保護するという名目で人間から搾取している現状など、理由は様々ありますが」
天使に何を搾取されているのだろうか。裏で政府と繋がっているのは間違いないことだが、日本にも天使が欲しがるようなものがあるとは思えなかった。
世の中、ゲームやアニメを有り難たがる妖精や悪魔もいるのだから、何かあるのだろうきっと。
そう納得した瞬間、突如背後に気配が生まれ、
「慶子!」
可愛い声とともに腰に来る衝撃。
前のめりに倒れかけたところを、横から支えられる。
見れば慶子を抱える大樹と、背中にしがみつくフィオ。
さらによく見ると、実兄に義姉に悪魔に妖精に天使。そしてなぜか真緒までいる。
まあ見事に揃った物だと感心する。
「……なんで兄さんが」
「そいつ、今ウチに入り浸ってるから」
そいつと指さしたのは、ヴィーゼ。
「アリル、人の妹巻き込んで、勝手にこんな所まで突撃するな」
「お前に付き合っていたら子供も大人になる」
淳の言葉にヴィーゼは答える。
アリル。
どうやらヴィーゼは女性のようだ。女にもなれるだろうし、男にしては出来すぎているとは思っていた。素敵な男性を見ているというよりも、女性が思う理想の男性を見ているようだと思っていた。
半分男でもあるので、この点に関してはヴィーゼに騙されていたとは思わない。
「ホロム、帰ってきたんですね。フィオも見つけたんですね」
セダがホロムを見上げてほわほわと笑う。フィオのように突撃しないのは、俗世に染まっていないからだろう。しかしこの、うれしさを全身で表す少年を見て少しも心を動かされない者は、青い血でも流れているに違いない。
「ただいま戻りました、セダ様」
「この方達は友人ですか」
「…………まあ、色々とあったんですよ」
決して否定もしないが認めることもない。子供に汚い物を見せたくないという思いが伝わってくる。
「フィオもご無事のようで安心しました」
「セダは元気そうだな。ここはフロウ様の部屋か。
あ……フロウ様こんにちは」
教育した成果か、目上のフロウにぺこりと頭を下げて挨拶する。
「お帰り、フィオ。元気そうで良かった。少し逞しくなったようですね」
「本当か? 慶子、逞しくなったか?」
「はいはい」
いらない方向に逞しくなってしまったのは、悲しむべき所だ。全ては悪魔と天使のせいである。
「あんた達、なんでフィオをこんな所に連れてくるのよ」
「いや、俺達が来たときにはもう来ていたぞ。人の思惑なんて無視しまくって」
「もう、しっかりしてよね。邪魔しに来たんなら帰りなさい」
「邪魔しに来たわけじゃない。ただ、母さんに任せると自分のいいようにするから口を出しに来た」
母。
吸血族。女。母。
「……ヴィーゼさん、ひょっとしてこの変態の生みの親ですか!?」
「驚くことはそこなんですか。男になりきって楽しんでいたのに」
「吸血族って聞いたときから半分は女性なの分かってましたから。それよりもヴィーゼさんがこの変態の遺伝子の元だったなんて……」
「悲しいことに、その通りですよ。父親が変態でしてね。
それでも人間界に来るまでは、ただの黒髪フェチだったんですけど……。
まあ、能力はずば抜けていますし、こう見えて正義感も強いですからね。趣味のことは大目に見てやってください」
魔界ではこれを正義感が強いと言うらしい。懐いたフィオを気にかけているところから薄情だとは思わないが、愛人が当たり前のようにいる男に正義があるのかは微妙だ。
「アヴィ、お前の方こそ人が説得しているときに邪魔にはいるな」
「仕方がないだろ。闇の精霊が慶子を目印に飛んだだけなんだから」
「リノが移動したのか。妊婦を酷使するな」
「身体は置いてきているそうだ」
また意味の分からない会話を繰り広げているが、異界人の言葉を全て理解しようとしていたらきりがない。
その間、フロウはじっと待ってくれていた。そのお付き達も待っている。いや、じっとヴィーゼを見つめている。
目と目が合った瞬間から、彼らはヴィーゼの下僕なのだ。
「話を再開しましょう。
結論を言いますが、天界の改革をおすすめします」
「改革ですか。確かに必要かも知れませんね。この子達まで処分されてしまうのはつらい」
「分かっているなら、なぜ実行しようとしないのです。あなたが国民に訴えれば、簡単に反乱が起こるでしょう」
「反乱は、このまま進む以上に死者が出ます」
死人が出るのを恐れれば動けない。慶子だって、自分の発言で内乱が起こると考えるとぞっとする。どうしようもなくて固まってしまうだろう。
「じゃあ邪魔者だけ全員殺すか?」
「淳、物騒な発言は控えてください」
「自浄されないのなら手を出すのは当然だろう。元よりそのつもりでいた。邪魔者は誰に何と言われようとも排除する」
昔からなのだが、淳は目的のためなら手段も過程も選ばない。容赦はないが、口で言うほど非道いことはしないので、威圧的な態度で脅しているつもりなのだろう。そんな淳を素敵と言ってうっとり見つめるリオは、かなり趣味が悪いと思った。
「淳。出来れば、私達は多くを関与したくない。
手を出してしまえば今までと変わりはない。影の支配者が変わるだけ。それでは意味がないだろう。
少なくとも、表立って動くのは彼らでなければならない。もしくは……」
ヴィーゼはちらとフィオ達天使を見た。状況が分かっていない二人はきょとんとしている。しかしフィオの方は何かを思いついたらしく、ぽんと手を打った。
「慶子、『じゃんだるく』になればいいんだな」
「意味わかんない。なにそれ」
フィオは何を間違えたのかという顔をして腕を組んで考え込む。
「フィオちゃん。つまりはやっぱりお前等が世界を変えろって事だよ。
早くしないと逆らう者は淳さんに皆殺しにされちゃうよ。暗殺は闇の精霊にとってとっても簡単だからね。光がない場所はあっても、闇がない場所なんてないから」
慶子の変わりに大樹が彼の前で腰を落とし、視線を合わせて言う。
「皆殺し!? それはダメだ」
「だったら、頑張れってこと」
「そうしたら、いつ慶子の家に戻れるんだ?」
「動かない王は排斥される。そうしないと意味がない。今は強く正しい王を立てることに意味がある。先導とかはアヴィの母さんとかがやってくれるし、相談はアヴィ達にすればいい。
必要なのは、実権を握れる王」
「……元の生活に戻るのか?」
「元の生活じゃないよ。もう少しだけ自由がある。望めばケイちゃんとも会えるよ。天界と人間界の行き来は魔界に比べれば簡単にできるからね」
フィオは俯いた。離れることが前提であり、彼にとっては自由を失うことを意味する。
「慶子の家では、暮らせないのか」
「泊まることは出来るよ。お仕事をちゃんとすればね。生活はまた少し変わるけど、君だって永遠に続くとは思っていなかっただろ?」
こくりと頷き、それから慶子を見上げた。
寂しげな捨てられた子犬のような目で見つめられると、ついうっかりずっとうちにいていいのよと言いたくなる。言ってもフィオを苦しませるだけで、無責任だろう。
「やるなら、今しかないものね。混乱を城下に広めて、民衆を味方につけるにはちゃんとここにいないとね」
話の流れからして、そうなるだろう。
「終わったら、お祝いにケーキを焼いて持ってきてあげようか」
「本当か?」
「もちろんよ。フィオは偉い人だから動けないけど、私は暇な学生だから、土日はこっちに来られるでしょ」
フィオは涙で潤んだ目を服の袖でこすり、うんうんと頷いて笑う。聞き分けのいい子だ。
「うん。いい子。大好きよ。たくさんフィオの好きな物作って持ってくるわ。みんなに分けられるぐらい」
セダも、他の子達も、美味しいものを知らない子達に美味しい物を持ってくるわ。
フィオに餌付けをしていた頃を思い出し、たっぷりケーキを焼こうと決めた。生クリームを添えたシフォンケーキ。
「そちらは話がまとまりましたね。では猊下。こちらも話をまとめましょう」
ヴィーゼは弱々しい統治者へと向かい、慇懃に微笑む。
「私に何かできることが?」
「ええ。ぜひしていただかないといけないことがあります。もちろん犠牲は最小限に留めます」
犠牲は必ず出る。国の争いとはそういうものだ。
きれい事は、安全な場所に立っていてこそ言えることだ。犠牲を出すなんて、などと言えた立場ではない。天界のことなど何も知らないし、何が起こっているのかも分からない。
「慶子さん、手を」
ヴィーゼに手を差し出された。
意味が分からないまま近づき手を差し出す。その手をしっかりと握りしめられ、笑う。
「犠牲は一人で十分ですから」
その言葉を終えた時には、ヴィーゼの腕がフロウの胸を貫いていた。
「……っ」
「吸血族だからと、甘く見たな」
ヴィーゼは貫いた腕を引き抜き、血が飛び散る。
慶子はその大量に溢れる血を見て気が遠くなる。
一瞬遠のいた意識も、大樹に支えられてなんとか持ちこたえた。
悲鳴を上げる余裕もない。手はまだ強く握られたまま。
「ケイちゃん、しっかり」
大樹が頬を叩く。
「手はそのままで」
「なんで!?」
「離したらアヴィのお母さんが危ないからだよ」
意味が分からないまま、大樹の指示に従う。こういうとき、彼の指示に従って間違ったことはない。
「ででで、でも、死んで……殺しちゃって……こ、こく、国際問題……国? 国の問題じゃない。界際? 問題になるんじゃ」
「まあ、落ち着いて。とりあえず話を聞いてみないとね」
大樹は慶子の背中を叩いて落ち着かせた。ヴィーゼは手を握ったまま、フロウの腹を貫いた側の手を振って血を払っている。
「痛いな。さすがに無茶をしたか。薬が切れたら痛そうだ」
薬に頼って出来たことのようだ。そこまでして素手でフロウを殺す理由が理解できない。天使達は腰を抜かしているが、騒いだりヴィーゼを責めたりもしていない。むしろ押し黙ろうと努力しているように見えた。
「母さん、何だそれ」
アヴィシオルに言われてヴィーゼが手をあげると、血にまみれたなにかうねる物を持っていた。
「これか? 寄生生物」
「は?」
「前にお前がこれに寄生されそうになった形跡があったから調べたんだ。よほど隙がないかぎり取り憑かれないが、一度寄生されると助からないかわりに、魔界ではもう絶滅しているからどうしても欲しかった。
寄生主を見つけるのはけっこう簡単だった。リノを囮にしたからな」
先ほど、妊婦がどうこうと言っていた人物の言葉とは思えない。
「そういえば初めてここに来たとき、出くわした天使を何人か眠らせて記憶を消したな」
アヴィシオルのこう言うところは、母親似なのかも知れない。
「おそらく、けっこう長く天界にいたんじゃないか。力は強いが、天使には隙が多いから都合がいい。その上神ともなれば命の危険もないし、スペアは山のようにある」
スペアとは、無邪気で隙だらけのフィオ達のこと。
「ひょっとしたら、天界はもうずっと支配されていたのかもな。この生物に」
恐ろしいことを口にしながら、ヴィーゼはそれを瓶に詰める。
それが本当だとしたら、フィオがアヴィシオルと出会っていなかったら、ヴィーゼに殺されていたのは彼だったのかも知れない。
「もう手、離していいですよ」
「あ、はい」
手を離し、死体から少しでも遠ざかろうとすると足がもつれた。大樹が変わらず支えてくれていなければ、きっとその場に尻もちをついていただろう。
「リノ、蟲を」
「はぁい」
リノが手をあげると闇の霧が生まれ、先ほど虐殺しまくった蟲が現れた。
「まだ魔力はあるでしょ。食べて」
リノがフロウを指さすと、蟲はフロウにしがみついて食べ始める。肉をではなく、他の何かを。
フロウの身体は見る見る間に干からびていき、最後にはミイラのようになり、ヴィーゼの蹴りで崩れた。
そうしないと、胴体の穴で殺されたことが明白だ。隠蔽のために、これは必要。
そしてフィオのためにも、天界の統治者が害虫に殺されたことにした方が好都合。
「なんなのよ……。もう、頭痛くなる」
「ごめんねケイちゃん」
「なんであんたが謝るの。それに、フィオのためなら我慢もするわよ」
混乱しているし、腰を抜かしたいし、ショックも受けたい。
死体を見たのだ。それが崩れる様も。
それでも、通り過ぎてしまうと冷静だ。恐くなるのは、夜になってからだろう。
人間というのは、だれしも案外図太いもである。
「さすがはご主人様の妹君。心が強くていらっしゃるんですね。クールですぅ」
「慶子がクールだったら、世の中の大半は冷血だぞ」
淳は、暖かい娘なんだと言いたいのだろうか。
むっとなるいい方に、慶子は肩を振るわせながらも耐える。
「リノ、今はおしゃべりしている間はないようだ。
おい、そこの天使二人。今すぐ下に報告しろ。この天使が蟲に殺されて死んだ。蟲は……」
淳が護衛の天使から剣を奪い取り、
「お戻りになったフィオ様が退治された、と」
蟲を突き刺した。
自分で放って、自分で殺す。ペットとすら思っていないようだ。彼も虫は嫌いだから。
「慶子は帰るぞ。天界と関わるのは以上。以降は安定してからだ。こちらに誰か向かってきている」
淳が大樹から慶子を奪い取り、肩を抱いた。
あの黒い靄が身体を包む。
「慶子っ」
慶子へと手を伸ばすフィオを、ヴィーゼが止めた。
「大丈夫。怖がらなくてもすぐにすみますよ」
不安げにヴィーゼを見上げ、そして慶子へと視線を戻した。
「慶子……」
潤む瞳を見ていると、いいのよと言って抱きしめたくなる。過保護も過ぎると彼のためにはならないと分かっていても、そうしたくなる。
「さきイカも欲しい」
「さ……さきイカ。
分かったわよ。持ってきてあげるわよ」
他に何を言ったら彼が喜ぶだろうか。少しでも楽しみがあれば彼の支えになるだろう。
「しかたないから、フィオの好きな物全部持ってきてあげるから」
「ビーフジャーキーもほし……」
淳が強く抱きしめてきた。そのとたん、避けるようにして上昇してきた黒い靄が周囲をすっかり覆い、何も聞こえなくなり──
「あれ?」
見慣れたソファにテーブル。フィオが好きだった見慣れたテレビ。
我が家だ。
慶子は頭を抱えた。
帰りたい者は皆引っ付いてきたようで、振り返ると互いを掴み合い連なっている。
「あれ、真緒達は?」
大樹に言われてみれば、真緒ともう一人いた青年がいない。
「アリルと一緒に向こうに残った。鬼の女の子が一人いないとまずいし、何かあったら翔吾がいればリノが行ける。兄妹喧嘩には巻き込まれたくない」
「そか。そうだよな」
大樹は何か大いに納得した様子で頷く。
慶子は淳と喧嘩なんてほとんどしない。するとしても、口で言うだけだ。
「でも淳さん、どうやってケイちゃんに力を使ったの?」
大樹が窓辺に近づき、伸びをしながら尋ねる。
外はもう暗くなりかけていた。
「同じ体質だぞ。保では色々と試した。密着すればなんとか相殺できる」
「気色悪い実験してたんすね」
「実験対象があれしかいないからだ。ところで、保は?」
大樹は携帯電話を取り出した。
「あ、保さん。戻ったんだけど今どこ? へ? 鬼に見つかってサイン書いてる? ってか、なんで鬼がそんなミーハーなんだ!?」
よく分からないが、助けに来ていたくせにファンに囲まれてサインを書いているということだ。妹が誘拐されたのに暢気な兄である。
「淳兄さん、もう少しお話しさせてくれてもよかったと思うけど」
「人が来てたんだよ。影の動きでだいたい分かるから」
慶子はむくれて待て兄を睨む。
暫しの別れと言えども心細いに決まっているのに、もっと慰めたかった。もっともっと──
「あのぉ、慶子殿」
慶子はディノに呼ばれて顔を上げる。
エプロンをつけて、取り込んだ洗濯物を持っていた。
「ご無事で何よりですが、フィオ様は?」
ディノが、言った。
ここに、いる。
ディノがいる。
「…………」
皆何も言わない。
兄も大樹も魔王も妖精王も。大物が揃いも揃って黙っている。
慶子は仕方が無く、重い口を開いた。
「ごめん、ディノさんのこと忘れてた」
「へ?」
その夜、慌てふためくディノを送るついでに、慶子は変装をしてからその場にあるお菓子を抱えてもう一度天界に戻った。
翌朝、本当の暫しの別れを終えた慶子は、なぜか泊まり込んでいる皆に朝食を作っていた。
「一つ、分からないことがあるのよねぇ」
「何が?」
手伝おうかどうしようか悩んでおろおろしていた大樹が、ぱっと顔を上げて聞き返す。
「ヴィーゼさん……アリルさんだっけ?」
「ヴィーゼは母さんが仕事をするときの名だ。間違いじゃない」
当たり前のようにいて、当たり前のように朝からアニメを見ている未来の魔王と名乗る男が答えた。
「アリルさんの方が彼女らしいじゃない。
アリルさんって、自分の益にならないことで動くタイプなの?」
とてもそうは見えなかった。これはただの確認である。
「何か企んでいるのは明白で、魔王陛下の御為にってガラじゃないのよねぇ。少ししか一緒にいなかったから、お見通しってつもりはないけど」
息子のためにというようにも見えなかった。
「たぶんだけどな」
「ん」
「本当にあの寄生生物が欲しかったんだ」
「なんで!?」
確かに興味を持っていたし、しまっていた。危ないけど稀少動物だからだと思っていた。
「あんなような寄生する生物の話を見たことあるんだ。
媚薬の本で」
慶子は媚薬の意味を考える。慶子はその意味を一つしか知らない。
「媚薬にするの!? 意味わかんない!」
自分で飲むとしたら信じられないし、あれだけもてるのに男に飲ますのも信じられない。
「魔王に使うんだよ。母さんは魔王専属の医者だ。しかも、子を産ませるための効率を上げるな」
「はぁ?」
「オヤジは毎日だと疲れる効率が下がるって言い訳して、週に一度母さんの所に来てるんだけど、母さんの方はかなり鬱陶しがってる」
「…………」
「で、強力な強精剤を飲ませては叩き出している」
アリシアを思い浮かべる。本命がいても、ストックはいっぱいいた。飽きたら容赦なかった。
魔王という男に、なぜだか哀れみを覚えた。
アヴィシオルは、きっと変態な所以外母親似だ。