月夜の晩に


「人間って、変よね」
「そうだな。ほんとうにそうだ」
 イーシェラの言葉に、大きな檻の中の彼は頷く。
 狼の地妖──地狼だった。額に角があるのが特徴だ。この地狼はまだ幼いらしく、普通の犬程度のサイズしかない。イーシェラよりも幼いだろう。彼女の感じた気配は、この幼い地狼だったのだ。
 そして他にも、大小様々な魔物が小さな檻に閉じ込められてた。
 ──こんな小さな子を閉じ込めるなんて……。
 ここまで来るのは本当に簡単だった。警備員に案内させていたので、疑う者はいなかった。疑った人間は魅了すればいい。途中、偉いらしい人間に引き止められ、それをさらに魅了してここまでやってきた。今もその男はこの部屋にいる。イーシェラとて、人の世界には慣れないが、この程度なら造作もない。
「他の子は……普通の魔物ね」
 妖魔と魔物は違う。妖魔種は高度な種族だ。人などよりもよほど優れている。例を上げるならエルフやドワーフ。彼らは人よりも優れた種族だ。ただ、数が少ないのだ。だからこの世界は人間が仕切っている。
 多少優れていても、数には敵わないのだ。
「ああ。珍しい魔物だ。愛玩用に飼われたり……身体の一部が高価だったりするんだ」
「身体の一部……つまり、殺そうとしているのね」
 知っている。人間が魔物の角や、皮を高値で売買していることぐらい、森の奥で暮らしていても知っていた。よく、そういう人間が来たから。中でも一番珍しいイーシェラを捕まえに来た者もいた。でもそれは、誰かを助けたいからという者もいた。だが、ここは大切な気持ちよりも、金銭への目的が強いのは明らかである。
「貴方はどうしてつかまったの?」
「オイラ、群れとはぐれたんだ。間違って人の里の側まで来て、ハンターにとっ捕まっち待った。なさけねぇ」
 彼は檻を叩いた。地狼でも破れない素材で出来ているのだ。
「あんたも人間じゃないだろ? いや、人間でもそんなにキレイなら危ない。帰んな」
 イーシェラは檻に触れた。鉄の中に、変なものが混じっている。妖魔の嫌うようなものが、いくつか。無茶苦茶だが、檻の素材として使えるならいいだろう。武器にするには威力が足りないが、閉じ込めるのならこれで十分。
「大丈夫」
 イーシェラは笑って、彼を元気付けた。彼は黒いつぶらな瞳でイーシェラを見た。
「私なら、何とかできるわ。皆で逃げましょ」
「いいのか?」
「いいわ」
 もう、ここに留まる気はない。こんな汚いものが平気でまかり通る町。
 イーシェラは腰をかがめ、檻の鉄格子に手を掛けた。
 そして……
「ふんっ……しょ」
 鉄格子を左右に開き、地狼が一匹通れる隙間を作り上げた。
「ふぅ」
 手が鉄臭くなってしまった。
「……ねぇさん、すげぇな」
 イーシェラは恥ずかしくて俯いた。
 竜は力が強い。人化していても、その力だけを引き出すことはできる。
「じゃあ、あの子達の檻もあけてあげなきゃ」
 三十匹ほどの魔物が閉じ込められていた。比較的大人しい種族は同じ檻に詰め込まれているので、なんとかなりそうだ。
「手伝う。あいつらの檻なら、オイラでもどうにかできるや。お前ら、助かりたかったらオイラ達の言うことちゃんと聞くんだぞっ」
 地狼は魔物達に言うと、角で檻に触れた。その部分が、檻の鉄格子が見る見るうちに溶けていく。いや、角を避けているのかもしれない。
 イーシェラも見習って、素手で檻を開いていく。
「まだ出て行ってはだめよ。一緒に行きましょう。私が守ってあげるから」
 イーシェラがそう言うと、魔物達は檻から出ると大人しくちょこんと座った。
 ──可愛い。
 イーシェラは作業を続けた。


 ローシェルは閑静な夜の住宅街で頭を抱えた。
「いないぃい!」
「うるさいぞ、近所迷惑だ。ほら、カルが泣いた、どうしてくれる」
 泣き始めたカルを背負うユーリィは、ローシェルを睨み付けた。
 だいたいがこの男は大げさなのだ。そこまで焦る必要はない。家出をしたのは仮にも竜だ。彼女の身の安全については間違いはないだろう。そして、彼女が暴れる場合、それは相手が悪い事になる。彼女は思慮深い子供だ。むやみやたらと暴れたりはしないはずだ。町を破壊さえしなければ、何の問題もない。
「よしよし、カル。いい子だから泣き止め」
 揺らすとカルはすぐに泣き止んだ。
「しかし、いないな。近場はほとんど探したぞ。ひょっとしたら本当に隠れているんじゃないのか?」
「……まさか、やっぱり誘拐!?」
「そんなわけがないだろう。どこの世界に竜を相手に誘拐できる誘拐犯がいる? お前できるのか? たった数人で、そんなことができる人間がいるのか? 子供といえども竜は強い。その上、水竜なのだろう? 他の竜とは比べ物にならないぞ。それをお前は誘拐できるのか?」
「できない……」
 ローシェルは大人しく答えた。
 イーシェラは見た目がか弱い少女だ。それを捉えるの事を、誘拐犯はまず間違いなく侮るだろう。そして当然返り討ちにあう。
 竜は殺すことでも難しいのだ。そうでなければ竜殺しなど何の名誉もない。それを生け捕りにできる実力を持っているなら、勇者と崇められることも可能だろう。それほどの腕があるなら、ケチな商売などせずに真面目に働いた方がはるかにいい。
「たーた」
「ん、どうした、カル」
「たぁ」
 カルは訴えるように、一方向を拳で示す。
「どうした?」
「ばぁうぅ」
 カルはしつこく北を指し示す。
 ──あっちは繁華街……。
「分かった分かった。ローシェルこっちだ」
「は!?」
「この子の母親は勘がいい女だった。この子も俺に似ず勘がいい」
 ユーリィは迷うことなく北へと進む。当てのないローシェルは渋々と彼に続いた。
「何を根拠に」
「この子は彼女に歌を歌ってもらった。覚えているのかもしれない」
「そんな赤ん坊が?」
 呑気に調子っぱずれなリズムの歌とも言えぬ歌を歌うカルに、疑いの眼差しを向けてローシェルは言った。
「カルを馬鹿にするな。この子に選ばすとクジが必ず当たるんだぞ」
「それ、運がいいだけだろ」
「運でも何でも、何もないよりはマシだろう。この前は、豪邸が買えるほどの大金をカジノで当てたぞ」
「……じゃあ、なぜこんな仕事を」
「目標があるから」
 ユーシェルは走る。近くなるほどカルは喜んだ。
 間違いない。
 親馬鹿だと言われようが、ユーリィは子の能力を信じた。
「……あっ」
 突然、ローシェルが声を上げた。
「どうした?」
「今一瞬、イーシェの気配がした。こっちだ」
 ローシェルはユーリィを追い抜かし、進行方向へと走る。
 ユーリィは確信していた。カルには、きっと才能がある。それを伸ばしてやるのが、親の勤めだ。金など、いくらあっても足りない。


 イーシェラは周囲を見回した。
「これで全部かしら?」
「いや。一人もう連れてかれちまった。フェアリーの女の子だ」
 地狼の言葉に、イーシェラは耳を疑った。
「なんですって!? いつ?」
「あんたが来る少し前だ」
「なんてことなの……」
 助けに行かなければ。
 誰も、売られるために存在しているのではない。食べるために捕らえられ、殺されるなら理解できる。だが、見るため、側に置くためだけに捕らえるなど信じられない。それは生き地獄ではないか。
「オイラが行くよ。オイラは匂いを追えるし。ねぇさんは目立ちすぎる」
「いえ。皆で行きましょう。どうせみんなでぞろぞろと歩かなければならないのよ。私が出会う人間すべてを眠らせれば問題ないでしょう? 騒ぎを大きくしないために魅了して誤魔化していたけど、皆逃がすなら、どうやっても騒ぎになるもの」
「……そか。わかった。なら一緒に行こう」
 イーシェラは魔物達へと視線を向けた。
「みんな、静かにね」
 その言葉に、魔物達は各々の方法で答えた。
 地狼は廊下へと出た。イーシェラも続こうとしたが、その前に案内をしてくれた人間を眠らせた。
「ありがとう」
 イーシェラは廊下へと出る。そこにもまた、イーシェラに魅了され骨抜きになった男が二人。それも眠らせ、地狼を先頭にその一行は進む。イーシェラは意識を研ぎ澄まし、人間が近付いて来ないかを探った。ほんの少し、人間には分からない程度に霧を放ち、その水の動きである程度の範囲内なら、その一挙一動が分かるのだ。
「誰もいないわ」
「おうよ、ねぇさん」
 軽い調子で答える地狼。
「イーシェラよ」
「イーシェラか。オイラはフィロってんだ。よろしく」
 少し遅い自己紹介。
 イーシェラは昔セウルが飼っていた犬を思い出し微笑む。
 守ってあげなければならない。彼らにすべての人を嫌って欲しくないから。人は醜い。だが、美しい部分もある。だから、嫌って欲しくない。
 どんなに裏切られても、それだけは変わらないだろう。一部の人間を恨むことはあるが、すべてを恨んだりは出来ない。育ててくれたのは人間。愛情をくれたのも人間。
「ところでイーシェラはどうしてここへ?」
「……人間と一緒にいるの。私は海を見たことがないから、海に連れて行ってくれって」
「人間と?」
「いい人よ」
 田舎者の自分に色々と教えてくれた。ここまで連れてきてくれた。だけど、
「行きましょ」
 その優しさに甘えているわけにはいかない。海に行くのは、自分の足で行こう。無力な小娘ではないのだ。むしろ、人間の足に合わせている方がはかどらない。
 だがその前に、この魔物達を故郷に帰してやらなければならない。
「ねぇ、みんなはどこから来たの?」
 イーシェラは近付いた人間をすべて眠らせながら皆に問う。
「こいつらはみんな深淵の森だよ」
「深淵の森?」
「そう。珍しい魔物ばかりがいる森だ」
「あなたも?」
「オイラは違う」
「どこ?」
「群れは移動するんだ。はぐれたら、また会える可能性は低い。気を失ってたから、ここがどこかもよくわかんねぇ」
 イーシェラは霧の操作を一瞬忘れる。人間の姿が見えて、慌てて眠らせる。
「帰れないの?」
「ああ。人間臭くなっちまったオイラの事を、群れが受け入れるとも思えねぇしな」
「……人間が嫌い?」
「オイラはそうでもなかったけど、さすがにこんな目にあっちゃな」
「そうね……」
 少し悲しいが、仕方がない。
「でも、見張りのにぃさん達の中には、いい奴もいた。みんなに狭いところに閉じ込めてごめんなって。
 ま、群れにもいい奴といや奴がいた。どこでもいっしょさ」
「そうね」
 ほんの少し、安心した。
 あとはフェアリーを助け出し、皆をその森へと帰してやればいい。どこにあるのかは知らないが。


 そこにきて、二人は目を丸くした。
 やけに意識散漫な警備員の目を盗み忍び込み、階段を駆け上がって五階まで来たとき、その後継を目にした。
「……何なんだ?」
「寝ているな」
 ユーリィは倒れている男を見てそう判断を下した。
 警備員たちが揃いも揃って寝ているのだ。一瞬死屍累々たる状況かと焦ったが、のんきにいびきをかく大柄な男がいてすぐにそうと知れた。
「これは……イーシェラの仕業か?」
「たぶん」
 答えてローシェルは人を避けながら再び走り出した。
「いったいどうしてイーシェはこんな事を……。誰かを傷つけるのを嫌う彼女らしいやり方だといえばそうなんだけどねぇ」
 ため息をつき、ローシェルはまた寝転がる警備員を飛び越した。
「霧がでているね」
「霧?」
 ローシェルの言葉にユーリィは目を凝らす。
 霧?
「間違いないな。イーシェがこれをやっているんだ。人体に害はない辺り、本当にイーシェらしいけどな。少し呪的なものを感じるから、何かあるとは思うけど」
 カルは喜んでいる。喜んでいるので害はないだろう。少し意識がぼんやりとする。頭が働かないだけで、眠くはない。この程度なら何の問題もない。頬を叩いて意識をはっきりとさせる。
「ここは何なんだ? なぜこれほどの数の警備員がいるんだ?」
 この建物を外から見たことはあった。ただのカジノだろうと思い、用もないので入ったことはなかった。
「ここは総合アミューズメントパークって奴だよ。遊技場、レストラン、カジノ。上の階に行くほど高級志向になっていく。あと有名なのが、オークション。珍品名品が揃っているらしい。話しで聞いただけだけどね。君はここに住んでいて知らなかったのか?」
 ユーリィは頷いた。今は子育てに忙しいのだ。子供に悪影響を与える場所に行くつもりはさらさらなかった。仕事でないときは、できるだけ自分で面倒をみたいと思っているのだ。前に行ったカジノは、別のもう少し小さな都市のものだ。
「親が遊び歩いては、子供に悪い影響を与える。
 お前もイーシェラに心配させるような事をするな」
「……反省してるよ」
「だいたい、なぜ一緒に寝る必要があるんだ?」
「可愛いから」
 ローシェルはしれっと答えた。なんて恐ろしい男なのだろう。
「…………お前……よくもそんなことが言えたものだな」
「始めに寂しがって一緒に寝たがったのは、イーシェラだったよ。寝顔も可愛いんだ。もう、どうしようもないぐらい可愛いんだ」
 ローシェルはへらりと笑う。
 ──だめだ、この男。
「なら、なぜあんな事を言った?」
「夜中、ふと起きると部屋に人がいたりするんだ。イーシェラを見て、さらおうとした連中がね」
「……なるほど」
「だから下手に一人には出来ない。側にいないと不安なんだよ。だから、ろくに夜遊びもできない。待つっていうのは、切ないよ」
「生きているだけマシだろう」
 カルの首には、指輪がついた紐をかけてある。
「私の元に残ったのは、カルとあいつの右腕だけだった」
「……ごめん」
 それでも、一人ではない。一人だったら、生きる意味もない。きっと、命を捨てていただろう。
 一人は辛い。
 あの少女にも、独りになって欲しくない。大切な人は多い方がいい。
「ちゃんと許してもらうんだぞ」
「もちろん」
 その前に、この無茶をしている少女を捕まえて、この場を離れなければならないのだが……。
 それは、この男が苦労すればいい。


 イーシェラは扉の前に立ち、首をかしげた。
 人がいる。それも何人もいる。
 そして、大きな声が聞こえた。
「どうですか、この愛らしい妖精は」
 人間の男の声。歳は、若くない。年寄りでもない。
「素晴らしいでしょう?」
 ここに、フェアリーがいる。イーシェラは皆を振り返り、微笑んだ。
 ここに、まだいる。連れていかれていなければ、助けることは難しくない。脆弱な人間は、一匹の魔物ですら、何人、何十人もで囲んで捕らえるのだ。その逆をされて、生き残れる人間などいない。もちろん殺す気はない。ただ、反省してもらわなければならない。
 イーシェラは皆を下がらせて扉を開けた。
「こんばんは」
 思い出したのは、人を殺していたあの頃。
 無理矢理笑って、人を殺していたあの頃。
「なんだ、君は」
 イーシェラの登場に人間たちは驚きはしたが、誰も慌てることはなかった。
 人間が一人、小さなフェアリーの入ったかごを持っていた。そして弧を描いて並べられた椅子に、十人以上の人間が座っていた。
「誰が手配したんだ?」
 かごを持つ、先ほどの声の主が側に控えていた男に問う。
「さあ。私は聞いておりません」
「誰かは知らんが粋な事をする」
 どうやら、勝手に誰かの使いだと思いこんだらしい。イーシェラはその思い込みを利用して男に近付いた。
 フェアリーは大きな目を見開いてイーシェラを見た。それを安心させるように、かの自余に微笑を向ける。
 ──大丈夫よ。
 強い念を送る。敏感な妖精族の彼女はそれを感じて微笑みを返した。人とは違い、それだけで意思が伝わる。感覚的なものを否定し、目に見える、耳で聞こえるものだけを信じる人間には不可能な交流だ。
「あの。お嬢さん……あなたは?」
 問うのはローシェルと同じ年頃の人間。大柄で、ローシェルのようにキレイではないが、悪い感じはしない。
「ジェンダーさん。私はそんな小さな妖精よりも、そちらの美しいお嬢さんに魅力を感じるよ」
 人間達がイーシェラを見た。この視線。人間の男は、なぜかイーシェラをこのくすんだ目で見るのだ。まだ何もしていないのに。
「そちらのお嬢さんは、いかほどで?」
「そうですね……」
 かごを持った中年男はイーシェラを見た。
「私は売り物ではないわ」
 汚らわしい人間どもである。ただ部屋に入ってきただけの、部外者のイーシェラですら売り物にしようとするとは。
 ──本当に生かしておいていいのかしら?
 多少怖がらせても、生きていればまた同じ事をする可能性がある。
 それはなんとしても阻止しなければならない。多少痛めつけるではなく、永遠続く恐怖を植えつけねばならない。
「フェアリー」
 イーシェラはフェアリーのかごに触れ、指先で小さな彼女が通れるほどの穴を作った。次の瞬間には瞬間、フェアリーはイーシェラの肩の上にいた。
「貴様っ」
 ようやく、イーシェラの異常さに気付き騒ぐ男。護衛の男がイーシェラへと手を伸ばす。
「気安く障るな、人間」
 わざと声を低くして、きつく言う。霧を集めて水と化し、護衛達の歩を阻み、床に押さえつけた。
「私に触れる者は容赦しない」
 イーシェラは髪の色を元に戻す。瞳も元に戻す。光を虹色にする髪と爬虫類のような瞳孔。これだけ見せれば、彼女が人でないのは一目瞭然。
「なぜ、この子を売り買いする?」
「ひぃ」
 ジェンダーとかいう男が後ずさった。客たちも立ち上がり、別な出口へと走る。だがしかしそこを開けると、回り込んでいてくれたらしいフィロと他数匹の魔物がいた。
「この子達は、好き好んでここに来たわけではないわ。生まれ育った深淵の森から無理やりここに連れて来られた。この子達を売る権利なんて、誰にもないわ」
 イーシェラは床に沿わせて霧を放つ。徐々に、徐々に膝の高さ、腰の高さまで目に見える程度の霧で埋める。
「私達は、お前たちのような人間が──」
 イーシェラの背後で、突然魔物達が騒いだ。
「どうしたの?」
「イーシェ! そこにいるのか!?」
 ローシェルの、声。
 魔物達は、道を開けた。イーシェラは何も言っていない。魔物達の意思で道を作った。
「イーシェ!」
 ローシェルが、飛び込んできた。イーシェラはその笑顔に警戒心が緩む。大好きな人が笑うととても嬉しい。
 ローシェルはイーシェラを見て、その背後を見て、歯をむき出しにて叫んだ。
「危ないっ」
 ローシェルが突然イーシェラを抱きしめた。
 ぱん!
 間の抜けた、変な音。
「ぐっ」
 ローシェルの呻き、血の匂い。そして、覚えのあるあの匂い。
 あの、ライフルとかいう武器と同じ匂いがした。
 イーシェラは振り返る。ジェンダーが黒い筒を彼女たちに向けていた。
「お前っ」
 イーシェラは水を操ろうとした。しかしそれよりも早く、黒い筒は宙を舞っていた。イーシェラに声をかけてきた大柄な青年が、ジェンダーの手を蹴ったのだ。青年はすぐさまジェンダーの腕を後ろにひねり上げ、組み伏せる。
「ダリさん!」
 客の中の一人が、黒い筒を拾い上げ、客たちへと向けた。
 イーシェラは呆然とその光景を見た。
「よくやったな、アーバン」
「それよりも彼を」
 イーシェラはローシェルを見た。肩の部分から血が流れている。
「ローシェ!?」
「僕は大丈夫。イーシェは怪我はない?」
 ローシェルはイーシェラの頬に触れ、微笑みながら問う。
 痛くないはずないのに。傷を塞ぎたいが、弾が中に残っている。イーシェラはにそれを取り出す方法が分からない。
「どうして……」
「イーシェ、だめだろう。女の子が一人で夜歩きしたら。
だいたい、これはどうなっているんだ?」
 イーシェラは魔物達を見る。ローシェルの回りにちょこんとお行儀よく座っている。
「こいつら、深淵の森の魔物じゃないか」
 ローシェルは彼によく懐いている魔物達を見た。
 ──え?
 イーシェラが呆けているとしていると、全員を縛り終えた青年がこちらへやってきた。
「やはり、深淵の森の関係者でしたか」
 イーシェラは首を傾げる。
「君は?」
 ローシェルは青年を見上げた。
「私は警察の者です」
 ローシェルの問いに青年が答えた。
 警察。
 イーシェラはそれが何であるか、おぼろげ程度にしかわからなかった。犯罪を取り締まるという程度の知識しかない。
「潜入捜査の最中でした。まさか関係者の方が来るとは思いもせず……申し訳ない。お嬢さんも怪我がなくてよかった」
 青年はイーシェラを見て笑う。なぜか顔が少し赤い。
「つまり、密売ってわけだ」
 ローシェルは魔物達を見て言う。
 ──密売?
「え……じゃあ、あの人たちは本当に悪い人だったの?」
「そうなるね。どうせ君のことだから、閉じ込められてて可哀想だと思ったんだろ?」
 恥ずかしかったが、イーシェラは頷いた。
「人間は、人間同士でも売り買いするから、魔物なんて平気で売り買いするんだと思ってた」
「そうだね。そういうことはあるよ。大半が合法だ。だけど今回は違う。
 イーシェ、うちの子たちを助けてくれてありがとう」
「うちの子たち?」
「あ、深淵の森っていうとこ、僕の育った土地なんだ。保護指定区で珍しい魔物とかがけっこういるんだ。時々密猟者が来て、こういう大人しい奴らを捕まえて、売りさばこうとするんだ。だから安心していいよ」
 ローシェルは肩を押さえながら言う。
 ローシェルは、いい人。魔物達もこんなに懐いている。だから彼は、イーシェラを受け入れたのだ。
「大好き」
 甘えるのはやめよう。そう決めたにも関わらず、もうしばらくこの人と一緒にいたいと思う自分は、いいかげんなのだろうか?
 それでも、もうしばらく一緒にいたい。


 ローシェルは犬と赤ん坊と戯れる愛しい少女を見て微笑む。
 今は昼。小さくなった彼女は、一匹だけ身元不明の地狼フィロと一緒にカルの面倒を見ていた。
「……地狼は狂犬病などの心配はないのか?」
「ぷっ……はははは。な、ないない。普通の動物じゃないんだよ。はは」
 ふと思いついた様子で、兼の手入れを中断し呟いたユーリィに、ローシェルは噴出しながらも答えた。
「カルはおりこうね」
 イーシェラはカルを抱きかかえ、頬にキスをした。
「イーシェラ、一ついいか?」
「何、ユーリィ」
 ユーリィは剣を鞘に収めながら言う。
「石とは何だ?」
「石……ああ、歌?」
「そうだ」
「これよ」
 イーシェラはローシェルの選んだ可愛らしいワンピースのポケットから、小さな布の袋を取り出し、その中から、一粒の石を摘み上げる。
「月長石よ。悪夢を払う石。私が生まれた地方の特産品なのよ。よかったらカルにあげるわ。カルはとても繊細みたいだから、こういう魔除けを持っていたほうがいいと思うの。私が本当に小さな頃から持っている石の一つだから、力が染み付いて効果は確かよ」
 イーシェラは袋に石を戻し、カルに握らせた。カルはその袋を握り締めきゃっきゃと笑う。
「よかったなぁ、赤ん坊」
 フィロはカルを見上げて言った。それを見て、ローシェルはふと気付いた。
「そういえば、フィロは捕まる前どんな所に住んでいたの?」
「森だ」
「どんな?」
「木がある」
「どんな?」
「大きな」
「国は?」
「さぁ」
 埒の明かない。
 他の魔物達は身元もしっかりしているので、近くの専門組織に委託しておいた。彼らに任せておけば、皆無事に帰ることができるだろう。問題はこの地狼だが、本人が諦めてけろりとしているので、大きな問題はない。旅をするのだから、途中群れに出会える可能性もあるのだ。彼のことは心配ないだろう。
 今回の騒ぎで唯一負傷したローシェルも、警察持ちで治療を受け、イーシェラに心配され、見舞金などをもらい、苦労せずに仲直りが出来たので、彼は今とても寛容だった。その上、イーシェラの口からあんな言葉が出るとは。
 ──ああ、生きててよかった。
 傷口はイーシェラが痕一つ残さず癒してくれた。ローシェルはしばらく痛い思いをしただけで、それ以外はすべてが得になった。魔物達を送り返した事により、不特定多数に感謝されているだろう。
「なあ、ローシェル。さっきから思っていたのだが、あの犬には帰省本能というものがないのか?」
 ユーリィがローシェルに耳打ちをする。
「ないんだろ」
「犬!?」
 フィロはなぜかローシェルを睨んだ。ユーリィは犬の聴力を侮っていたため、ぎくりと肩を震わせ硬直した。
「オイラは犬じゃねぇ! 狼だ!」
 フィロはお決まりの台詞を、なぜかローシェルにぶつける。
 ──嫌われてる?
 魔物には好かれる自信があったのだが。
 ──地狼だからな。
 ローシェルの属性は、風。正反対の属性だ。この組み合わせは仲がいいか、徹底的に仲が悪いかのどちらかだ。
「フィロちゃん。服持ってきたわよ」
 とたとたと、騒がしくやってきたのはエレナ。その手には、確かに服がある。
「ありがとう、ねぇさん。ちょっくら貸してくれ」
 言って尻尾を振って彼女の前に立つ。エレナはその口に服をくわえさせた。フィロは厨房へと入って行き、しばらくたつと外に出てきた。人の姿となって。
「げっ」
 見た目、年の頃はイーシェラと同じか少し下。活発そうな可愛い男の子だった。
「フィロ、どうしたの?」
 イーシェラが首を傾げる。
「街中で地狼なんて目立つだろ。本当は窮屈で嫌なんだけどな」
「それもそうね。私の場合大きいと疲れるし、建物の中にも入れないからこうしているんだけど」
 水と地属性は相性がいい。とても。そして、子供同士……。
「……イーシェラは海に行くんだろ? オイラも行く。オイラも海が見たいから」
 イーシェラが振り返り、ローシェルを見た。フィロがローシェルを睨む。
「も、もちろんいいよ」
 内心は気が気ではないが。
「フィロも、群れを探さなきゃな。大丈夫。僕が説得するから、戻れるよ」
「お前なんて、オイラの群れに会ったとたんに食い殺されるのがオチだ」
「大丈夫だよ、僕は顔が広いから。妖魔は僕には逆らわないよ。君みたいな物知らずの子供以外はね」
 ローシェルはくつくつと笑ってフィロを見下ろす。大人げないだの、子供相手にだのという囁き合いが聞こえたが、ローシェルは無視した。

 こうして一人、旅の連れというか保護対象が増えた。
 二人きりでない分、自制心も効いていいだろう。そう思う事にして、とりあえず地狼の群れのある地域を調べてもらうよう手配した。

 

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