森の貴人
前編
1
清水を求めて入り込んだ山の中。
一陣の風に揺られてさわさわと森が鳴く。鳥達が木々から飛び立ち、また戻り、数匹がローシェルの元へとやって来た。愛らしい彼らは、ローシェルの膝にちょこんと立ち歌う。ローシェルは荷物からビスケットを取り出し、左右大きさを変えて二つに割り、大きなほうを口に含み、小さな方を手のひらに乗せてもう一方の手で叩き潰す。粉々になってこれを彼らの前に差し出すと、彼らは個性的な歌を奏でながらローシェルの手に群がった。
「こらこら。そんなに集まるなって」
ローシェルはビスケットを近くにあった大きな葉をちぎりその上に置く。すると彼らは感謝しながらそれに群がる。
懐いてくるものは可愛い。懐いてこなくとも可愛いものもある。彼女は懐いてくれているのかどうかは分からないが。
川の側で、カエルがぴょこりと飛んだ。
ごぉごぉと鳴き、彼女が近付くとまた跳んで逃げる。大きく丸々と太ったカエルだ。醜いはずのそれも、美しい少女がそばにいるだけで愛らしさすら感じる気がした。その美醜の差は、まるで絵本の中から抜き取ったような世界を、幻術によって見せられている気がしてくる。
それを見つめるイーシェラは、程よい厚みの桃色の唇から呟きを漏らした。
「おいしそう」
「イーシェ!?」
てっきり観察しているだけだと思っていたローシェルは、イーシェラを抱き上げて早急にカエルから離した。
年の頃は十代前半。幼く愛らしい人形と、フリルのドレスが似合う可憐な美少女の口から、そのようなおぞましい言葉が漏れ出た事にローシェルは狼狽した。
「どうしたの、いきなり抱きかかえて」
「イーシェ、あんな汚らしいもの食べちゃだめ!」
「……汚らしい?」
彼女は首をかしげた。
自然に生息するものは、彼女にとっては汚らしくもなんともないのだ。食物連鎖の頂点に立つイーシェラは、自分以外は所詮食べ物でしかない。人間に育てられていなければ、まず間違いなく、人を食べるのにも罪悪感を覚えなかっただろう。種族の壁とはそういうものである。
色で表される竜は草食。そして属性で現される竜は、好んで肉を食べる。よって水竜である彼女は肉が好みだった。もちろん人間などよりも、カエルの方が美味しいのは明らかである。だからよほど腹がすかない限りは人間など食べようとも思いはしないだろう。しかし、腹がすいて他になければ、おそらくは……。
「イーシェ。自然の動物は毒を持っていることも多いから」
「あれに毒はないわ。おいしいのよ」
「それでも、イーシェラはもう少し人間の食べる物に慣れた方がいいよ」
「私、嫌いなものはないわ。お肉が好きだけど、草も食べるわ」
野菜でないところが、なんとも彼女らしい発言だ。そんなところまで可愛いと感じてしまうローシェルは、最早完全に追い詰められていた。
その時背後でかさりと音がした。
「イーシェ、見てくれ」
背後から声がかかり、ローシェルは振り返る。
幼い地狼、フィロがそこにいた。手足を甲羅の中に引っ込めた『亀』らしきモノをくわえて。なかなか派手な亀である。赤い模様がとても綺麗な亀だった。
「わあ、おいしそう」
ローシェルの頬が引きつる。いかにも観賞用として好まれそうなそれですら、彼女にとっては食欲の対象なのだ。
「イーシェラが好きそうだから取ってきた」
「三人で食べましょう」
「いや、イーシェだけで食べろ。オイラはオイラの好きな物を取ってくる。ローシェルは……多分食べないし」
──食べません。そんな正体不明の、亀形の魔物。
ローシェルは心の中で呟き、明らかに普通ではない亀を眺めた。頭が二つあるのだ。
「じゃあ、私が食べるね」
イーシェラはまるで砂糖菓子でも与えられた少女のような微笑ましい反応をし、亀を持ち上げ素手で甲羅を割る。
──ああ、イーシェは人間じゃないんだなぁ。
ローシェルは当たり前の事を思った。素手で亀の甲羅を割り、中身を引きずり出す彼女を見て目を閉じた。
「そ……そういうもの、よく食べていたのかい?」
「ええ。おいしいのよ。本当にいらないの? 生がいやなら、火を通してもいいわよ」
「ああ。僕は野菜の方が好きだから」
もちろん嘘である。ローシェルは鶏肉が好きだった。鳥にえさをやった直後に何だが、鶏肉が好きなのだ。
「……そうなの。なら仕方ないわね」
言って彼女はまだ動いている亀を……。
──弱肉強食か……。
ローシェルはそのあまりにも心臓に悪い光景から目を逸らした。
見た目がどれほど清らかでも、その食生活も清らかであるという保障など、あるはずもないのに。
ないのに。
ローシェルは悲しくて涙を拭いながら、肉に食らいつく音を聞き、種族の壁というものを痛感した。
フィロが食事を終えて帰ってくると、ローシェルが足を清流にさらし、ぽけーっと空を眺めて何かを歌っていた。その歌はえらく投げやりで、ひどく寂しい歌だった。
──な……何があったんだ?
いや、考えるまでもない。町にいれば人間のようにお行儀よくするイーシェラが、目の前で亀の丸かじりをしたのが原因だろう。
彼はイーシェラに気があるようだ。それ故に、幻滅したのだろう。
「よぉ、ローシェル。元気ないな」
「……フィロ」
「どうした?」
理解していながらフィロは問うた。現実を押し付けてやれば、はっきりと自覚するかもしれない。
「……イーシェは」
「おう」
「イーシェは、もう少し行儀よくすべきだと思って」
「…………」
──合わなければ変えればいいか。
人とはなんて傲慢なのだろう。
「せめて、服が汚れないように気をつけるとか」
言われてみれば、近くの木の枝にイーシェラの服が干してあった。今日は淡い緑の可愛らしいワンピースだ。なんとか血は落ちたらしい。
「……普通、水妖は物質的な服を着ないからなぁ」
「君は着ているね」
「オイラ達はそんな技術は持ってねぇんだ」
「そっか。君の場合は見るからに田舎者だからいいけど、イーシェラはどこからどう見てもいいところのお嬢様だからね。困るんだ」
確かに、彼女は行儀がいいとは言えない。人間としては普通だが、明らかにローシェルの方が品のある食べ方をする。彼も育ちがいいのだろう。
「田舎もの臭くてわるかったな」
「子供はそれぐらいの方が可愛くていいよ」
「オイラ、少なくてもローシェルよりは長く生きてるんだけどね」
ローシェルはくすりと笑い、川辺へと目をやる。
彼女の髪が、日の光を乱反射させる。光のまぶしさに目を細めると、彼女はこちらを見て手を振った。水の服は時折ふわりとゆれる。水の中なので、あまり安定させることに気をかけていない。あまり人には見せたくない光景である。
「ローシェ、ちょっと泳いできてもいい?」
「いいよ。ただし気をつけてね。誰がいるとも知れないから、裸にはなってはいけないよ」
「しないわよそんな恥ずかしいこと」
イーシェラは川に潜り、顔を水面から出すことなく泳いでいく。
「……なんだ、裸になることは恥ずかしいんだ」
「当たり前だろ。女の子なんだから」
「だって、平気で肌見せるから」
「露出が多いのと、裸になるのは別だって。人間だって泳ぐときは水着になるだろ」
ローシェルは唸る。フィロは立ち上がり川へと飛び込んだ。基本的に泳ぐのは好きだ。そして、匂い消しにもなる。さすがに食事の後はいろいろと匂いが付くので、こうして水場が近くにあるとありがたい。
イーシェラの知らない魚が泳いでいた。好奇心から一匹捕まえ、頭から口に含む。亀の方が美味しかったが、まあまあだ。エビも見かけたが、そちらは我慢した。あまり食べてばかりいると、ローシェルに叱られる。命を頂くのだから、必要な分最低限でいいのだ。乱食は生態系を乱すこともある。イーシェラはいくらでも食べることが出来るから、食べ続けていれば際限がない。今は小さくなっている分、必要な栄養も少なくてすむ。多少の魔力はいるが、人の姿になるのは慣れればとても簡単だ。魔力もほとんどいらない。大きなときよりも、ずっと楽である。
水の中には生物がたくさんいる。彼らはすべてイーシェラよりも弱い存在。しかし、集団になれば強い。彼らがいないと他の動物は生きていけない。彼らがいないと飢えて死んでしまう。それらを食べるイーシェラとて。だから彼らは大切な存在。
水の中、イーシェラは考えた。
自分は何か。自分は卵から生まれた。始祖と呼ばれる、特殊な存在。その卵は気がつくと誰もいない木の股にあるらしい。それを知能の低い動物や魔物が守るという。その時のみに限り、彼らは互いを食い合うことを忘れる。イーシェラはセウルに拾われるまでは一人だった。魔女であった彼女に拾われ、その影響で孵った。
──だから私に産みの親はいない。
家族はいない。誰もいない。彼女を彼女であると確立させる何かは何もない。ここにいること理由が曖昧だ。自分はどこから生まれてどこから出てきたのか。なぜ堅い殻の中にいたのか。
答えられる者はいない。誰もいない。神ですらそれを知らないという。この世で一番謎に満ちた存在が彼らだという。見た目はどこにでもいる種族だ。ただ、比較的数の少ない種族の場合が多い。だから母なる神が、種が途絶えぬようにと遣わしているのだと言われている。しかし、ではなぜ同属のいない場所に投げ出されるのか。
どれもこれも説得力がない。曖昧。
ローシェルはそれを言うと笑って肩を抱く。
その温もりに、いつも安堵させられる。
これは現実。自分は確かにいる。ただ、少し生まれ方が違うだけ。
目を伏せて。
流れに身を任せる。
あまり離れすぎないように気をつけ、しかし流れるがままに身を任せる。
この世は光に満ちている。水の中、まぶたを通してなお輝く水面。
──私はここにいる。
食べて、飲んで、泳いで、歩いて、ローシェルとフィロと一緒にいる。そして今こうして無駄な考えにふけっている。その証明が嬉しいのだ。
そのとき、ざぱりと音がした。
「え?」
イーシェラは気がつけば、水面を割り空気に身を晒した。エラ呼吸をしていたので、一瞬呼吸困難に陥る。すぐに口で息を吸い、肺へと空気を流し込む。エラを消し、ふうふうと息をする。
それから彼女は自分の状態を認識した。
どうやら、網に絡み取られているようだった。
「……えと」
網を切ろうとしたが、切れない。魔力を吸収するものらしい。
「こりゃ……」
人の声が聞こえ地上を見ると、人間の男が二人と女が一人いた。
彼らに捕まってしまったらしい。
「妖魔族だな。水妖か……」
「上玉だな」
イーシェラはむっとして彼らを睨んだ。
「可愛い顔で睨んでも無駄だ。その網は特殊で力では決して切れない。魔力も、腕力でも。暴れてその可愛い顔に傷なんてつけないでくれよ。値が下がる」
男の一人はくつりと笑う。
──この間といい、人間っていうのは……。
一瞬元の姿に戻ろうかと考え、しかしやめる。
どうせなら、また捕まっている魔物を助けたほうがいい。彼らのような人間は不快極まりない。
イーシェラは大人しく彼らを睨みつけるに留めた。人には聞こえない音で威嚇するように鳴く。それは精霊たちに対するメッセージだった。ローシェルに心配しないようにと。
「ほら、あんたたちさっさと下ろしなよ」
女が男二人に言い、先ほどイーシェラに声を掛けた男へと笑みを向ける。
この男が頭のようだ。
ローシェルはぽーっと空を見ていた。
やがて、空が赤くなってきたことに気付き、はたと我に返る。
「ふぁ……もうこんな時間か。よく寝た」
「目開けたまま寝てたのか!?」
突然傍らに寝そべっていたフィロは、あまりにも唐突な言葉に叫んでしまった。
てっきりイーシェラの帰りを待ち続けてぽーっとしているのだと思い込んでいた。せっかちが多い人間にしては、意外と健気な男だと感心していた矢先にこれである。
「あぁ……時々目を開けたまま寝る不気味な奴だって言われる」
フィロは呆れつつも立ち上がる。不気味というか、信じられないというほうが大きい。船すらこがなかったのだ。背筋を伸ばし、爽やかに微笑んでいた。これが愛しい者を待つ顔かと、一つ物を知った気分になっていた自らを内心で罵る。
「そろそろイーシェを連れ戻さないと」
「……そうだな。もうこんな時間だもんな。今夜は野宿か?」
フィロとイーシェラは野宿でも構わない。気にするのは人間のローシェルだけだ。
ローシェルは立ち上がり荷物を持った。川を下り、しばらく行くと水精達がこちらを見て笑っていた。
「君達、どうかした?」
ローシェルが微笑みながら訊ねると、彼女達はきゃあきゃあと騒ぐ。彼女達も女。ハンサムな男が好きなのだろう。
「ここら辺で、水竜の女の子を見なかったかな?」
「お会いいたしましたわ。言伝も頼まれました」
内の一人がころころと笑いながら言った。
「なんて?」
「ではそのままをお伝えいたします。『ちょっと魔物売買の組織を潰してくるから、心配しないでね』とのことですわ」
にこにこと笑いながらその水精は言った。
ローシェルといえば、ぽかんと口を開け放ち、しばらくの後に叫んだ。
「な、なんだってぇぇぇぇえ!!?」
予想通りの反応をするローシェル。まったく困ったお姫様である。フィロはあたりに残った匂いをかぎ始めた。彼が落ち着いたら案内してやればいい。
イーシェラは自らの水で、その気配をうっすらと、点々と残してくれていたから場所の特定は簡単である。
絡まった網から抜け出ると、イーシェラは闇の中目を細める。檻を、さらに木箱に入れているようだ。立つことが出来ず、窮屈でならない。
自らを閉じ込める檻に触れた。以前見た粗悪な檻とは違い、かなりしっかりとした檻であった。イーシェラの力でもひん曲げることは出来なかった。気付かれないように色々と試してみたが、どれも無駄だった。魔力をほとんど封じられているのだ。イーシェラの膨大な魔力をすべては封じることは不可能だが、ある程度の制限は出来るらしい。
「……本気を出せば大丈夫そうね」
竜になるのは変身ではない。魔力を封じたとしても、元に戻る行為に魔力は要らない。
ローシェルには竜の姿にはなるなと言われている。彼は構わないそうだが、人は怯えるのだ。悪人を怯えさせても罪悪感はないが、ローシェルとの約束があるからよほどのことが起こったときだけにしよう。
イーシェラは目を伏せ外の気配を探る。徐々に人里に近付いている。あまり大きな規模ではない
──……え?
ローシェルは言っていた。少し離れた所に小さくはない町があると。昼を過ぎたら夜につくけどいいよね、と。
──近すぎるわね。そして大きくもない。
ローシェルの言っていた町ではありえない。
「まあ、小さな町が地図から抜けているということはよくあることだわ」
国の正式な地図でそれはまずいだろうが、市販のものは小さな村や町は書かれていない場合が多いのだ。街道沿いの主要な町さえ載っていれば問題はないのだから。
イーシェラは馬車が止まるのを待った。
うたた寝をする程の時が流れ、イーシェラは自らの入れられた箱が浮き上がるのを感じた。運ばれた先は、室内らしかった。運ぶのは複数の男。近くには人間でないのも混じっている。
──私以外にもいるのね。
予想通りとはいえ、情けない。なぜ種族が違うからと、このような扱いをするのだろうか。
「暴れるのはまだ早いわね」
竜という種族の恐ろしさを教えてやりたいが、もう少し探る必要はある。取引先など、大きな組織があれば潰したほうがいいだろう。魔物、妖魔種は概して何かに突出している場合がある。スライムならばその形状と生命力。可憐な妖精ですら、その魔力は侮れない。竜に関しては魔力体力すべてにおいて最も優れた生物といわれている。イーシェラは火が苦手であるが、成体になれば人間のように火であぶられたからといって死なない。幼体のうちでも、やすやすと死ぬことはない。幼体であろうとも、竜を殺すのは至難の業である。
だからこそ、イーシェラは落ち着いている。傲慢であるが、それは認めざるを得ないことである。
がたりと音がした。
牢屋を覆っていた木箱が崩され、イーシェラは明かりを見た。光に慣れぬ目は、光を拒み瞼を閉じる。やがて光に慣れ、イーシェラの視界は開けた。
「……へぇ」
男がいた。人ではない。エルフ族の男。
「水妖か。その中にいても化け続ける力はあるか……」
エルフは目を細めて笑う。エルフにしてはやや不恰好なおとこである。その容貌は人に近い。日の光を直接浴び続けて焼けた肌など、一瞬ダークエルフかと思うほど、エルフらしくなかった。エルフとはほぼ例外なく容姿端麗の種族である。しかし彼は人に近い。
「ハーフエルフ?」
「残念ながら、俺は純血のエルフだ」
彼は言った。その姿をどう見ても、何か別の血が入っているように見えた。しかし、竜でも平均から突出する容貌の者もいるらしい。エルフらしくないエルフがいてもおかしくはないだろう。イーシェラの知ることはあくまでもセウルと共に学んだ知識であり、現実ではない。
自分の方が遥かにその種族としておかしいのだから。
「……そう。純血なの。ごめんなさい」
彼はイーシェラを一瞬睨んだ。排他的なエルフ族の中にいてこの容姿では、おそらくひどい虐めにあっているだろう。容姿のことには触れていけないことだったのだ。
その容姿以外に、追求しなければならないことがある。
捕らえられている者は多かった。大半は人間の女子供であった。中には魔物もいる。彼と同じ妖精族もいる。そう、エルフもいる。彼らは皆拘束されている。しかし、この男はただ一人拘束されていない人でない者。
「あの人間達の仲間なの?」
その問いに、彼は首を横に振る。エルフらしくない軽薄な笑みを浮かべて。
「いいや。あいつらは俺の部下だ」
イーシェラの眉根にしわができる。
「……どうしてそんなことをするの?」
「金になるからだ」
「お金? そんな物のために?」
もちろん金銭は大切だと知っているが、人を無理矢理捕らえてきてまで欲しがる物ではないはずだ。しかも、人の金銭とは無縁の生活をしているはずのエルフがだ。
「水妖なんかには分からないだろうな。自然の中にあり、何も不自由しないお前達……その……髪飾り」
イーシェラは頭に触れる。毎日ローシェルが色々な髪飾りをつけては人の頭で遊ぶ。今日はリボンだ。
「人の作ったものだな」
「そうよ。装飾品の売られた店へ行って買ってもらったのよ」
「人里に行く水妖か。珍しい奴だな。ここらの水妖じゃないな。ここらで一番価値のある妖魔は、赤石亀だからな」
赤。亀……。イーシェラは昼ごはんの食べ後の残骸を思い出す。
「……ひょっとして、甲羅に赤い石みたいに見えるのがついた亀かしら?」
「ほう、見たのか。美しかっただろう」
確かにきれいだと思った。が、食欲の前に美など存在しないに等しい。
「食べたわ」
「あの美しい亀を食べたのかっ!?」
「美味しかったわ」
また食べたいと思うほどには。
「水妖は美しいモノを好むのだと思っていたのだが……」
「偏見よ。私は食べるのが好き」
イーシェラは言ってふんと鼻を鳴らす。
「あなた、どうしてこんな事をしているの?」
「金のためだ。捕らわれているくせに、ずいぶんと余裕だな。自分に何かしようと思ったら、この檻を開けなければならないから平気とでも思っているのか?」
イーシェラはくつりと笑う。
「馬鹿ね」
歳若い少女に嘲笑されて、彼は不機嫌を顔に表した。
しかしおそらくは、イーシェラの方が長い年月を生きている。エルフもある程度の歳を取れば見た目上の時は止まるが、気配からまだかなり若いと判断した。少なくとも、イーシェラよりは。エルフといえども、竜よりは成長が早い。竜が成体になるには、早くとも百年かかる。オスよりもメスの方が早く成体になるとはいえ、それでもイーシェラが成体になるにはどう早く見積もってもあと十年から二十年はかかるだろう。
「どうせ容姿を気にしてグレたってところでしょう。エルフは排他的な生き物だから。だからって、こんなことに手を出すなんて恥ずかしくないの?
あえて偏見を持つとすれば、仮にも『森の貴人』と呼ばれる種族でありながら」
ここにはエルフの少女もいる。つまり彼にとっては同族。それを彼は売ろうとしているのだ。
彼の姿を見れば、彼がこのような事をしている理由は理解できる。ハーフエルフは半端者として嫌われる。しかし彼は純血だと言った。事実かどうかは分からないが、純血だと言い張るハーフエルフがいたとすれば、純血種たちはそうとう怒るだろう。そして迫害する。
彼はイーシェラの言葉を受け顔色を変えた。
「お前にっ……何が分かる!?」
目を吊り上げて怒鳴りつけた。くすんだ黄金色の髪が魔力でわずかに揺らぐ。
「異分子の気持ちは理解できるわ。私は人に育てられたもの。私は皆に受け入れられない。だからって、復讐するなら関わった者だけにすればいいのじゃないかしら? どうして犯罪に手を出すの? エルフの魔力があれば、傭兵にだってなれるでしょう? 今の傭兵ギルドは身の上については寛容だと聞いたわ」
焦げた匂い。
中に混じる、人の焼けた異臭。
今でもそれを思い出すことが出来る。許したわけではない。忘れない。ローシェルが知れば執念深い女だと嫌われるかもしれないから言わないが、決して許さない。それでも、手を出さなかったのは裁かれるから。
それがありえないのであれば、何をしようとも復讐していただろう。
復讐は空しい。しかし理解している。復讐は支えになる。
だからといって、関わりのないものに手を出すのは信じられない逆恨みだ。
「そんなの、表向きだ」
「努力が足りないんじゃないの? 貴方は努力を放棄して、何を得たいの?」
「金だ」
悲しい人だ。
彼には救いがないのだろう。救いを教えてくれる相手がいなかった。
「貴方の名は?」
「……ファルス」
「私はイーシェラ」
始祖の水竜。魔女の娘。それがイーシェラ。
「悔い改めるなら今のうちよ」
まず間違いなく、乗り込んできたローシェルは彼を裁きにかけてくれるから。
それが信頼。イーシェラの救い。