10話 あたしと異界人

 朝。
 いつもなら再放送のアニメ目当てにリビングへと軽い足音が向かってくる時間をわずかにすぎていた。
 そろそろコマーシャルも終わり、アニメが始まってしまう。
「フィオ様、めずらしく寝坊されたのでしょうか」
 いつもこの時間になると、アニメに夢中になるフィオへと暖かな目を向けるディノが言う。フィオの子供らしい姿を見ると彼は幸せらしい。近所の子供と砂場で戯れるなど、天界に帰ればありえない、あってはいけないことである。だからこそ『異界に遭難中』という名目がある今を大切にしているようだ。
 彼は仲間に見つかったら、そう言い訳するらしい。それが当たり障りがなくていいだろう。その後引き渡すかどうかは別として。
「でも、あの子が今まで寝坊した事なんてないし……。教育にも悪いし、起こしてきて。ついでにうちの兄さんも。あの人、有名になってからずいぶんと堕落的な生活してるもの。そろそろ現実を教えてあげなきゃ」
 夜遊び禁止、早寝早起き、健康第一、無駄遣い厳禁、贅沢禁止。自分の力を過信しない。
 他色々。
 彼は強い。世界一の男、無敵の男などと言われるほど強い。実際に彼は負け知らずの天才だ。だからといって油断していればさらなる天才が現れる。世の中そういうものだ。
 ディノはリビングを出て行き二階へと向かう。初め下の兄の部屋に住み着いていたフィオは、現在空き部屋だった部屋を使っている。その部屋は階段から一番遠く、すぐに足音は聞こえなくなった。
 慶子は気にせず朝食の準備をしていると、あり得ないほど騒がしい足音が聞こえた。保を先に起こしてきたのだろうかと思うと、部屋に入ってきたのはディノだった。
「慶子殿!」
「何? 騒がしいわね」
「ふぃふぃふぃ、フィオ様がっ」
 慶子はガスを止め、手を洗いながら目で続きを促した。
「フィオ様が、高熱を出されています」
「なにっ!?」
 慶子はディノを押しのけてフィオの部屋へと向かった。


 朝。
 スズメがちゅんちゅんうるさくて、目覚まし時計と手で起こすのも面倒なのか、足でけりを入れてくる鏡華がうるさくて。そろそろ起きないと朝食が食べられなくなるのも気になって。
 仕方なく起きようともがいていた時だった。
 携帯電話が景気よく鳴る。やかましいクラッシックの音楽を入れているのだが、その音はまさに早くしろ早くしろという気分にさせてくれた。
「んだよ…………」
 大樹が枕元の携帯を手に取ると、慶子の名前がディスプレイに表示されていた。
「ケイちゃん?」
「珍しいですね。あの方が大樹様に電話など」
「ほっとけ」
 鏡華の言葉に大樹はややむっとしながらも、咳を一つし携帯を操作する。
「なんだいケイちゃん。朝っぱらから俺に電話なんて。そんなに寂しかったのかい? なかなか可愛いところが……って、いつつっこんでくれるの?」
『ばか』
 慶子は一言だけ言った。
「ケイちゃん……何かあったの?」
 いつもならキレてもっととげとげしい嫌みを言っているところである。何かある。大樹はそう確信した。
『あのさぁ、実はフィオが熱出してさ』
「フィオちゃんが? まあ、ぼんぼんだからねぇ。寒い中あれだけ外で遊び回ってうがいもしなけりゃ病気にもなるでしょ」
『うがいはさせてるって。元々潔癖な生活してたらしくて、免疫ないのは確かだけど』
「熱ってどれぐらい?」
『人間の体温計じゃ振り切れるからよく分からないけど』
「それで生きてるのか!?」
『でも生きてるし。ディノさんに聞いても天使がどれぐらいの体温になったら死ぬかなんて知らないって言うし。とりあえず死にはしにはと思うけど……』
 慶子はふぅとため息をついた。
『熱があるからって、普通の病院に連れて行くわけにもいかないでしょ。こんな高熱出てる時点で人間じゃありませんって言ってるようなものだし』
「たしかにねぇ」
『で、あんたなら人外魔境の知り合いいそうだから、それ専門の医者とか知らない?』
「ケイちゃんはうちをなんだと思ってるんだ……」
『人外魔境専門一家』
 決して否定できない自分の家系が憎らしかった。実際に天使を見たことはあるし、慶子の言う人外魔境の面々を知っている。
「それぞれの種族によって色々違うんだから、無茶を言わないでくれよ」
『でも風邪薬のませて別な症状が、とかなったら困るでしょ』
「確かにねぇ……」
 未知の生物であることだけは確かなのだ。そのことも考えずに飼っていた彼女も軽率だが、見た目が人に近いので、人と同じようなものだと思っていた彼女に罪はないだろう。大樹も少し驚いた。
「仕方ない。フィオちゃんに近そうなのを召喚してもらうよ」
『召喚!?』
「ああ、うちの兄さんを連れてくからね。召喚できる人材が兄さん含めて二人しかいないから。あの人も別に暇じゃないけど、たぶん喜んでついてくるから。じゃあね」
『ちょ……』
 大樹は言葉を待たずに携帯を切る。
「鏡華。学校に休むって届けてくれないか。ついでにケイちゃんも休むって伝えてくれ。理由は身内の不幸」
「はい。ところで、あの方を呼ぶのですか?」
「そうだ」
「私はあの方嫌いです」
「じゃあ、お前は来なくていいよ」
「そうですね」
 送り迎えは樹の専属運転手で十分だ。彼女もたまには休めばいい。


「ほう。確かに熱い」
 フィオのほほに触れて言う樹。慶子はのんきな男を殴り倒したくなったが、ぐっとこらえてフィオの汗をぬぐってやる。
「んで、どうするの?」
「そうだな。そろそろ召喚しよう」
「何を?」
「見れば分かる」
 言って彼は荷物の中から奇妙なセットを取りだした。
 奇妙な魔法陣の書かれた何かの皮。変なろうそく。変な三脚。
 ………………。
「悪魔召喚でもするつもり?」
「察しがいいじゃないか珍しく」
 真顔で言う樹。慶子が呆然としていると、大樹がその肩に手を置いた。
 樹は魔法陣を敷き、意味不明な言葉を唱える。
(こいつらの宗教って何!?)
 ただの犬好き宗教ではなかったのだろうか。犬好き教に政治家が出入りして、信者が山のようにお布施を出すのも問題だと思うが、変な悪魔進行よりはマシだと思う。
「大樹殿……樹殿は何を?」
 フィオのためとはいえ、いきなり怪しい儀式を始められ、こちらのことにうといディノは混乱した。これがこちらでは普通だとは思ってくれていないことを願う。
「はは……見てりゃわかるって」
 大樹は半ばやけくそになって言う。
「でも、悪魔召喚ってえろいむえっさいむとか、あぶどるたむなるとかじゃないの?」
「ケイちゃん……漫画の読み過ぎ。あと、ダムラル」
「あんたの方が詳しいじゃないの」
「いや、詳しくはないけど、そうならざるをえない人材が……」
 慶子はふんと鼻を鳴らして樹の奇行を見た。彼の背後には、めずらしくついてきた犬の明が座っている。教祖とその生き神が他人の家で揃うなど、なかなかないことだろう。
 怪しいその儀式を眺めていると、やがて樹は魔法陣に自分の携帯電話を放り込む。
「おい、お前なぜ来ない?」
『今取り込み中』
 携帯からあり得ない音量で声が聞こえた。
(ホラー映画見てるみたいな気になってきたわよ……)
「とっとと来い」
『今、ルフトを連れ込んで原稿を書いてたんだけどな、それをうちの双子の弟達にみつかっちまって裏切り者呼ばわりされて攻撃されてる』
「そんなのほっといてこい」
『何を言う。締め切りが近いこの時期に』
「襲われてこれないのか、趣味の時間が割かれるのが嫌で来たくないのかはっきりとしろ」
『両方』
 樹は振り返りなぜか慶子を見つめた。
「お前、手先は器用だな?」
「まあ……ほどほど」
「美術の成績は?」
「は?」
 慶子が呆然として立ちつくすと、大樹が勝手に答える。
「ケイちゃん、絵も上手いよ。可愛いキャラのイラストは自分で書いちゃうし、絵も色々と賞取ってるし」
「なるほど。私がこういうのも何だが、お前も少しは見習え」
 破滅的に不器用というか、芸術とは縁遠い大樹は、音楽よりは美術の方がマシというレベルだ。そのくせ字は上手いかのが納得がいかない。
「アヴィシオル。ここに服は自分で作り、手先は器用、絵は上手い女がいるんだが。手を貸してくれたら貸すぞ?」
『女? 美人か?』
「中の上?」
『行く』
 慶子は沈黙する。
(あたし……売られた?)
 何かを手伝う程度なら別にいいのだが。来てもらってフィオを診てもらえるなら。
 ただ、樹の知り合いというのが不安である。
「け……こ」
 周囲の怪しさのためか、眠っていたフィオが薄目をあけてこちらを見た。熱に浮かされ、大粒の汗をかき、息も絶え絶え慶子の名を呼ぶ。
「フィオ、少し待っててね」
 再び汗を拭きながら慶子は言う。フィオは意味も分かっていないのに、うんと頷き慶子の手に頬をすり寄せた。
(ああ、我ながらなんていい子に育ててるの)
 苦しいとも言わないし、ちゃんとお礼も言うし、可愛いこともしてくれる。
 樹が背後で再び呪文らしき言葉を口にする。
 そういえば保がいない気がしたが、きっとまだ寝ているのだろう。
 しばらくの後。
「どこだ」
 浮かれた調子の男の声。
 見ると、背の高い黒髪の男が立っていた。赤い目をした、樹とはまた違ったタイプのハンサム。樹が冷血系なら、こっちは電波系。
 奇妙なバンドマンのような服を着ている。奇妙なかっこつけ。頭には変な角があるし、背中には黒い羽根がある。電波と以外どう表現しろと言うのだろうという男。
 そしてその横に、フィオ並みに愛らしい顔立ちをした、銀髪の美少年が立っていた。薄手の白い服を着ている。背中には昆虫のような綺麗な羽根が生えている。綺麗で可愛い。こちらはまるでおとぎ話の中の妖精そのものである。
「あ、可愛い」
「好きだなぁ、ケイちゃんああいうの」
 少年は慶子を見てにこりと笑った。
「悪魔っ」
 ディノが驚愕して一歩後ずさる。
 どうやら、本当に悪魔のようである。
 慶子は悪魔の方は無視して、綺麗な妖精の方に意識を向けるようにした。
「おい、樹」
 悪魔のような姿の男がつぶやいた。
「何だアヴィシオル」
「想像と違う」
 慶子を指さし男は言う。
「お前の趣味など誰が知るか」
「日本の女と言えば、黒髪でストレートだろう!」
「だからお前の趣味は知らん」
 何ヶ月ぶりかと指折り数えれば、片手では足りないほどの月日を外で生活していたのだと実感する。
「俺が黒髪好きなのはお前も知っているだろう!」
「だから、少し癖があるだけだろう」
「ストレートでなければ何の価値もない」
「手先が器用なだけの女という前振りを忘れたか?」
 それでも不満げに慶子を見る彼に、妖精の彼が言った。
「まあまあ。可愛らしいお嬢さんに失礼ですよ。それに、三つ編みというのもけっこう萌えませんか?」
「まあ、他の者にはウケはいいのだろうな」
 何の話だろうか? 今、変な単語が混じらなかっただろうか?
 慶子は不安になりながら樹を待っていると、突然ディノが動いた。
「き、貴様! なぜ悪魔のくせに妖精と!?」
 どうやら、ディノから見てもこの組み合わせは異様なようだ。連れ込んで襲われていると言っていた気もする。
「ふん。俺達の友情は種族も界も超えたモノ。天使ごときにとやかく言われる筋合いは…………なんだ、このゴツイ天使は」
 今更ながら彼はディノと、うつろな目で彼を見つめるフィオに気づく。
「…………な、なんて可憐な方!」
 ぽーっとしているフィオを発見し、妖精は目を輝かせた。
「どうされたのです? なんと、すごい熱ではありませんか!」
 彼はフィオの手を握り、きりりとした面持ちで、まるでおとぎ話の王子様のように言った。さしずめフィオはお姫様か。
 気のせいだ。さっきのは気のせいに決まっている。美貌の二人に、慶子は胸ときめかせて見入った。
「ようは、それに熱が出て困っているから呼んだ。私たちよりもお前の方が天使については詳しいだろう。下手に解熱剤を入れて死んでも困るからお前達を呼んだ」
 悪魔──アヴィシオルは息も絶え絶え苦しむフィオと、それに恋したように見える種族を超えた友人を見つめた。
「なんてことでしょう。可哀想に美しい人。偶然にも、僕は万能薬を持っています。種族は関係なく効きますから、ご安心ください」
 彼は懐から小瓶を取り出すと、自らそれを口に含み、口移しでフィオに飲ませた。
 さすがに、我に返ったフィオは少しじたばたした。
 慶子はあまりのことに呆然とその成り行きを見つめた。
「……な、ななななななにを!?」
 こちらも混乱したディノが顔をわずかに離したばかりの妖精をフィオから引き離した。
 二人は顔を見合わせ睨み合う。しばらくするとフィオは我に返り、半泣きしながら慶子に抱きついてきた。
 驚きながらも、先ほどのことを考えると、慶子はいたたまれなくなり抱きしめた。
「け、慶子。キスされた」
「よしよし、可哀想に。なにもあんなことすことないのにね」
「慶子、私はあの者と結婚しなければならないのか?」
 慶子は目を点にした。
 フィオは本気で言っている。こんな時に冗談を言えるほど、フィオは俗世に染まってはいない。思い詰めた表情の愛らしいこと。
「は?」
「永遠の愛を誓う儀式をしてしまった……」
「…………何それ」
 慶子は思わず首をかしげた。そんな慶子に、ディノが慌てた様子で言う。
「変な本をフィオ様が発見した時に言いましたっ」
「……言った……ああ、言ったや」
 そうやって脅した記憶がある。
 慶子はしばし考えると、にっこりと笑っていった。
「フィオ、選ぶ権利は女にあるの。無理矢理されても結婚なんてしないのよ」
「そうなのか。よかった。私はずっと慶子といた……でも私、半分は男だぞ?」
「いいのよ。あたしが言うんだから信じなさい」
「うん」
 ぎゅっと抱きつかれると、可愛くて仕方がない。安心したのか、フィオはやがてぐったりとちからなく慶子へと身体を預けた。
 ディノの手を借り、フィオをベッドに優しく横たわらせた。
「キスして結婚? ……天使にそのような習慣はあったか?」
「さあ。しかし、なんて純情な方なんでしょうか」
「言っておくが、あれは半分男だぞ」
「へ?」
「あれは天界の次期統治者候補だ」
「……どうりで身も心も美しいはず! ああ、このような場所でこうして出会えるなどまさに運命!」
「顔だけかお前が見るのは」
「髪だけ見る人に言われたくありません」
 程度の低い好みの押し付け合いはともかく、なぜフィオを知っているのか。そう思った時だった。
「あ……あの時の?」
 フィオが身を起こし、アヴィシオルと呼ばれていた悪魔を見た。
「もう起きても大丈夫?」
「ああ。急に身体が楽になった」
 どうやら、万能薬というのは伊達ではなかったようだ。さすがは妖精。謎アイテムを持っている。見た目が少し似ている程度の悪魔などよりもよほど役に立った。
「なんだ。俺のことを覚えていたのか」
「忘れない。お前のような者は見たことがなかったから」
 ふと、慶子は思い出した。フィオが家出した原因を。そして、ディノの存在を。
「貴様かっ! フィオ様をたぶらかした悪魔は!」
 そう。フィオに穢れを教えた者。
 ディノは視線で殺してしまいそうなほど、強く憎しみを込めて彼を睨んだ。
 フィオの前では決して暴力に訴えないのは彼のよいところだ。
「なぜフィオ様をたぶらかした!?」
「ふん。真綿に包まれて育つ天使が気にくわなかったからだ。
 穢れを知ればいいと思っていたが……まさか樹の知り合いの元にいたとは。
 ここでもお前は過保護にされているようだな。つまらない。せっかく欲望と快楽を教えてやったのに」
 慶子はフィオを見下しながら言う男を睨んだ。
 フィオは自由を知らなかった。それと同時につらいことも知らなかった。世界にはフィオのようなすべてが周囲によって決められる生活を望む者もいるだろう。フィオは決して不幸ではなかった。不憫ではあるが、決して最悪のものではなかった。世の中にはもっと不幸な子供がいる。
 それでもだ。
 本人が望み、手を貸せる立場にいるのなら、そうしないでいる理由などない。
「あんた何様? 人の教育方針にケチつけないでくれる?」
 フィオが今、必死に生きているのは確かだ。
 そりゃあ、アニメを見せたり、時には贅沢なものを食べたりもする。それでも規則正しく生き、最近は下手ながら家事を手伝うようになった。風呂を洗ったり、茶碗を洗ったり。そんな当たり前のことだが、フィオにとっては初めての労働であった。
「教育方針? どう見ても何不自由のない生活を送らせているように見えるがな。お前、住んでいるこのいえといい、服といい、裕福だろう?」
 確かに、この部屋は慶子の趣味で少女趣味かつ高価な家具が置かれている。
「こいつも肌つやが前よりもよくなっている」
「そう言えば、最近健康的よね。今日は熱出したけど。健康はいい事じゃない」
 フィオは不安げに身をすくめる。なぜ責められているのかが分からないようだ。本気で誰かに責められたことがないから。せいぜい、慶子がフィオをしかる程度であり、その後もトラウマにならないようにしっかりとフォローしていたので、フィオは誰かにこのように悪意を向けられたことは今まで一度もないのだ。
「お前、せっかく穢れ方を教えてやったのになぜ穢れない?」
「穢れたぞ。私は肉も食べたし、楽しいことも覚えた。人に触れたし、女にも触れた。慶子は肉をつかむと怒るし、私が抱きついても怒るが、時々抱きしめてくれて嬉しい。酒も美味しいし、つまみも美味いし。あと、一人ではいる風呂はのんびりできて気持ちいいぞ。泡も出るし。
 それに、最近はトイレ掃除もするようになったぞ」
 アヴィシオルは程度の低い穢れ方を胸を張って語られ、遠い目をして窓の外を見た。
 悪意すら萎えさせるフィオの純粋さ。これは育てている者としては喜ぶべきかあきれるべきか。
「そうだ。お前には感謝している。お前がいなければ、慶子に会えなかったから。ディノもこんなに優しくしてくれなかったと思う。だから、ここに来る方法を教えてくれてありがとう」
 素直すぎる彼の言葉に、アヴィシオルは舌打ちする。
 毒気を抜かれ、ベッドの隅に腰を下ろした。ただ、一つ問題があった。彼の尻の下に、ちょうど慶子の編んだショールが置いてあった。
「ちょっと、そういうじゃらじゃらした格好で人んちのベッドに座らないで。しかも人のショールに尻乗せるなんていい度胸ね」
 しっしっと手を振りながら言うと、彼は再びむっとして慶子を睨んだ。
「気が強いのは嫌いではないが……命知らずはただの愚行だと言うことを知っているか?」
「何が命知らずよ。あんたが尻に敷いてるそれはね、あたしが編んだものなんだからね? 人の傑作を踏みつけにしないでくれる? あとね、この家は確かに広いし売ったら高いだろうけど、この服は自分で作ったのよ。費用は原価だけ。好き放題言わないでくれない?」
「………………」
 彼は慶子の編んだショールを眺めた。黒の細い毛糸で編んだものだ。細かな模様が気に入っている。服はどうしても欲しかったが、サイズがなかったので自分でデザインを必死に覚えて一から作ったものだ。
「合格だ」
「何が?」
「そう言えば、原稿を書いている途中だった」
 そう言えば、こちらに来る前に変なことを言って、変な手伝いをさせられる予定だった。実際にフィオが一瞬で起きあがれるほど元気になったので、手伝わないわけにはいかないのだが……。
「…………何が?」
 問題は中身だ。
「今度イベントで発行する同人誌の」
「…………何!? その聞き慣れないようで知っている気もしなくもない言葉は何!?」
 混乱をきたす慶子に、大樹が笑顔で言った。
「こいつら、オタクだから」
「はぁ?」
「だから、無類の漫画、アニメ好き」
「悪魔と妖精が?」
「そう。どうしてそうなったかの過程は知らないんだけどね。あいつらと初めてコンタクトを取ったのは、俺達じゃないから」
「ふざけるなっ!」
 天界、魔界、妖精界。そんなアホな世界を認知するだけでも苦痛なのに、その上オタクとは何なのだ。どうやったらそうなる?
「オタク仲間に参加しないかって誘われたらしいんだ。浮かれてさぁ、困ってんだぁ、俺達も。
 明様は好きにさせろっていうし、兄さんは馬鹿は捨て置けって言うし、真樹は他人の振りしてるしさ」
 慶子は頭を抱えたくなった。そういうのにフィオのような可憐な美少女を近づけてはいけない。そう思い手を伸ばした時、フィオが唐突に訪ねてきた。
「あっ、慶子。今何時だ?」
「え? 八時半だけど?」
「テレビつけて。魔女っ娘ララがやる」
 子供らしい要求に、悪魔と妖精が過剰に反応した。
「そういえば、最近ララの再放送がやっていると聞いていたが……やるなお前」
「さすがは僕の女神。なんて素晴らしい趣味」
「お前達もララ好きなのか? 面白いな、ララ」
 二人とフィオの間には、高く厚い壁があるのだが、三人はまったく気にせず会話を続けた。
「…………」
「よかったじゃん。仲良くなった」
「よくないわよ! なんでこんなのつれてくるの!? フィオが変な道に走ったらどうしてくれるのよ!?」
「大丈夫だって。フィオちゃんを下手なところに連れてくのは危険だって、二人とも分かるだろうし。ちゃんと見張ってるから」
「本当に? 絶対に? フィオが変なこと言い出したらあんたのせいだからね?」
「ああ……気をつける。うん」
 それから、異界の三人は仲良くテレビを見た。
 樹はいつの間にか保を起こしに行っていた。


 翌日。学校から帰ってリビングにはいると。
「わぁ、読める」
「だろう。こいつら妖精ってのは、こういう技術が最高なんだ」
「いやぁ。読めない字を読めるようにするのは、元々こちらの異界への道を造るため、古文書を読みあさる時に解読が面倒だったから作っただけで……」
 と、言っていることはすごいのだが、見ているのはただのマンガという異界の三人が仲良く談義していた。
 その隣では、保と樹がディノをこき使いながら優雅にお茶を飲んでいた。
「ああ、慶子殿! 待っていました! 待っていました心からっ!!」
 よほど追いつめられていたのか、ディノが慶子を見て泣きついてきた。
「あんたら、何してるの」
「ここはよけいな使用人もいなくて落ち着く。友人宅に遊びに来ることの何が問題だというのだ?」
 樹は、まあいい。よくあることだ。
 しかしオタク二人は何なのだ。
「何でそいつらがいるの!?」
「お前のおかげで予定よりも早く原稿があがった」
 それはそうだ。二人のせいで、トーンというものに初めて触れ、削るモノだということも覚えた。妙な技術も手に入れた。それを見て、二人は嫉妬混じりの賞賛を向けたのも覚えている。なぜか背景まで書かされた。ペンは慣れていないと言っても、少し練習させられて書かされた。おかげでマンガの背景っぽくないモノになったが、仕方がないだろう。一つだけ言えるのは、もう二度とやるものかと心に誓ったことだ。
「製本の方は友に任せている。他に私がすることがあるといえば、衣装を作る程度だ。というわけで、こういう衣装が作りたいのだが」
 と、マンガの表紙を見せた。
「知るか!」
「まあそう言うな。あの薬は本来なら草民が十年死ぬもの狂いで働いても手に入らない高価なモノだ。一度飲めば、なかなか病気にかかりにくくなるからな」
 慶子は言葉につまる。
 それを言われるとつらい。逆らえない。
「はいはい。作ればいいんでしょ!? 材料費は自分で出しなさいよ?」
「だそうだ、樹」
 樹は顔をしかめ、しかし財布をぽんと差し出した。当然ブランド物の数十万はする財布だ。
「こういう財布がいるなら、プロに頼めばいいじゃない」
「甘いな。知り合いに頼めば、作っている間ずっと監視して文句を言いやすいだろう」
「文句つける気!?」
「国が大変な中、せっかく弟たちをボコって来てやったというのに、冷たい女だ」
「じゃあ国に帰りなさいよ」
 慶子はそのうち血管が切れるのではないかというほど苛立った。
 フィオは慶子を見て不安げにし、妖精のルフトに慰められていた。
「だいたい、何なのよこの悪魔と妖精は」
「ああ、魔界の王子と妖精界の王子」
 慶子は鈍器で頭を殴られたような気分になった。
「よりによって何でうちにそういうのが集まるわけ!?」
「そりゃあ、そういう星の元に生まれたんだろ」
 今日は、大樹の笑顔がとても憎くて、つい首を絞めてしまった。
 今夜は、こいつらの食事も作らなくてはいけないのだろうか? 憂鬱である。
 
 

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